天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』2月下旬の句

2024-02-29 06:04:17 | 俳句



藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の2月下旬の作品を鑑賞する。

2月21日
回想をつねさそふ沖梅真白
湘子の生まれた小田原の海であろうか。海をはるかに眺めれば幼少のころを思い出すのか。まだ寒い時期に開く梅の花がいきいきしている。

2月22日
すこし憂く春の牛蒡を削ぎてより
春愁か。牛蒡の皮を削ぐのとはればれしない気持ちとは引き合う。が、「憂く」とここを連用形にしたことがわからない。「憂し」と言い切るのがこの感情に対して思いきりがよすぎるのは理解できるがさっぱりしない。
浅瀬には浅瀬の春の機嫌あり
こういうふうに書けるようになるまでどのくらいの修練が必要なのか。写生ではなく擬人法である。この句が成功としているとするなら「浅瀬」を二度使ったことであろう。巧さでなした1句である。

2月23日
坂東の血が酢海鼠を嫌ふなり
言いたいことは、俺は酢海鼠は嫌いだから食わない、ということ。それだけのことを「坂東の血が」を持ってきたことでえらくおもしろくしている。
鳥雲に数珠買ふこともメモの中
買い物をするために外出した。買うべきものを書いたメモを手に。「数珠」が効いている。「鳥雲に入る」を略した「鳥雲に」は俳人好みの季語で安易に使われがちだが、さすがに類型的でない場面で使っている。
抽斗の奥は手つかず鳥雲に
よくわからない。ひとつの抽斗が「奥は手つかず」というほど奥行があるのか。「抽斗の中は手つかず」ではやや浅いが……。こちらの「鳥雲に」は前の句より安易に置いている。
老班(しみ)ふゆるかなしみにをり百千鳥
老班と百千鳥との取り合せはいい。ここで「かなしみにをり」をいうのが湘子か。甘いのではないか。

2月24日
妻の息かゝり古雛よみがへる
人の息がかかって雛が目覚めるというのは納得できる。
障子開けて三日月見せし古雛
「三日月見せし」が新鮮。こういう切り口に初心者は気づかない。

2月25日
往き還りして末黒野に歳減る
野焼して黒々している。そこを行って帰って年が減った、というのである。若返った気分であるという。籔が消えてさっぱりした風情でそう思うのか。「歳減る」という言葉を思いつく人は少ないだろう。作者がしかといる句である。
水温む茨の棘を感じつつ
読みがむつかしい句。水辺に茨があるのはわかるが、「感じつつ」は実際に棘に触れたのかそれとも棘を見ただけなのか。

2月26日
鞦韆に優柔の人捨てたるや
ぶらんこという遊具は、腰かけて漕がないとき優柔不断の匂いがする。煮え切らない奴はここへ捨ててしまえ、というのである。季語の本意に叶っていておもしろい。

2月27日
黄沙いまかの楼蘭を発つらんか
大陸の奥の楼蘭から黄沙はやってくるのか。そこはシルクロードの町である。眼前に見えていないものを扱う想像力に感嘆する。壮大なスケールの句。
沖雲の崩れんむとして実朝忌
陰暦1月27日は陽暦3月7日ころ。早春である。「沖雲の崩れんむとして」は雄大でいかにも実朝を感じる。

2月28日
あきらめや海蘊(もづく)が喉を通るとき
海蘊が喉を通るときあきらめを感じるのか。やや大仰であるがわかる。
実朝忌怒濤と闇を同じうす
夜の海である。波は若干見えるかもしれないが海の音と暗闇ばかりである。「怒濤と闇を同じうす」が熟達した表現であり恰幅を感じる。実朝忌らしい恰幅である。
降りつのる雪に居給ふ雛かな
あたかも雪を浴びて雛がそこにあるような玄妙な味わい。「雪に居給ふ」は微妙な表現である。
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鷹3月号小川軽舟を読む

2024-02-28 07:44:44 | 俳句
 


鷹小川軽舟主宰が鷹3月号に「光悦展」と題して発表した12句。これを天地わたると山野月読が合評する。天地が●、山野が〇。

初暦光悦展の待ち遠し 
●「本阿弥光悦の大宇宙」は東京国立博物館において1月16日から開催されています。3月10日までです。 
○初日に並ぶタイプですかね、この「待ち遠し」さは。 
●そのように思わせます。「初暦」と「光悦展」との響き合いがこの句のすべてでしょう。  

かいつぶり古墳の緑こんもりと 
●かいつぶりは池や堀にいます。古墳で堀といえばすぐ仁徳天皇陵古墳を思います。前方後円墳ということを学校で習ったあれを。 
○堀を構えた「古墳」となると、大規模なものをイメージしますよね、わたるさんの言う仁徳天皇陵とか。以前、堺市役所上層階の展望スペースから仁徳天皇陵を見たときは、ちょっと感激しました。教科書で見知ったそのままだったので。「こんもり」という表現が、「古墳」の丸みを帯びた膨らみを捉えて絶妙です。 
●そうですね、「こんもり」が当を得ています。古墳はそう言われないとちょっとした山と思いますから。  

うどん屋も十日戎の人出なり 
○「十日戎」で賑わう神社の参道周辺の「うどん屋」でしょうか。俳句で助詞「も」の使用は難しいと感じているのですが、本句の「も」は、そこもかしこの「人出」を示すために必須ですね。商売繁盛で目出たいことです。 
●うどん屋の周辺も賑わっているということでしょう。「十日戎」という季語を軽くこなしていて肩の凝らない句です。  

四方に散る撞球の玉冬深し 
●むつかしいことを言っていませんねえ。わかりやすさがこの作者の持ち味です。 
○一時期流行ったプールバーも昔ながらのビリヤード場も、照明は暗めで、ひとつひとつのビリヤード台だけを射程に入れたような照明・ランプが下がっている感じで、そうした雰囲気の中で軽快なファーストショットで「玉」を「四方に散」らす快感は何とも言えず好きです。
●音とともにぱっと散る快感がビリヤードです。
この句からは場末にありそうな昔ながらのビリヤード場の雰囲気を感じましたし、暗めの空間の人工的な光の中で、ショット音が軽快に響く様に「冬深し」はとてもマッチするなあと。
 ●おしゃるとおり、季語決まっていますね。

悴みて足踏みに待つパパラッチ 
○時節柄、文春砲を思いました。「パパラッチ」ですから、スキャンダル、ゴシップ的なネタを狙っているのでしょうね。秘かに獲物を狙うはずの「パパラッチ」そのものが観察されている面白さ。 
●「パパラッチ」はイタリア語で「うるさい虫」という意味だそうです。こういう素材を見逃さない俳句根性には脱帽です。俳句が扱える領域を常に広げようとしています。  

少女にも突く拳あり寒稽古 
○「にも」が肝になっている句ですね。これによって、突き出された「拳」の小ささ、さらには「少女」の幼さが感じられます。 
●空手の稽古でしょうか。女性ということを念押しした有名な句に「海女とても陸こそよけれ桃の花 虚子」があります。 
○こうした句にもいろいろと性差別的観点から批判する風潮がありますね。 
●社会的に女性が男性より下位に置かれてきた歴史がありますからいたしかたないでしょう。これをあまり責めると読む幅がぐっと狭くなります。小生にも「少女にも大志泰山木の花」というのがありますし。  

深海を知る鱈の目に雪降れり 
●店頭に並んでいる鱈です。「深海を知る」と「雪降れり」でそれが端的にわかります。 
○「鱈」という漢字のつくりとも符合して面白いですね。上五「深海を」と下五「雪降れり」を与えられて、これで1句を成しなさいと言われたとしたら、本句に勝るものはないのでは。それくらいにアクロバティックというかイリュージョナルというか。そういう意味で、私には上五と下五をつなぐ中七「知る鱈の目に」が魔法の杖のように思えます。  
●見せつけない巧さです。

馬小屋の静まりにけり雪女 
●巧い句だと思いました。ただ馬小屋が静かになったということを言っているだけですがここに「雪女」を置くとなんとも厳粛な気分になる。季語の効き目に賭けところが絶妙です。 
○いいですねえ。中七で「静まりにけり」と切って、静寂なる間をおいての「雪女」がえらく効果的です。  

ページ繰る指の明るし雪の朝 
●小生の句会で幹事が「明」という題を出しました。困っているのでこれを見てこの明快さにはっとしました。 
確かに明解なんですが、この明快さを得るのは難しいですね(笑)。この措辞に「雪の朝」はなかなか配合できそうにないです。  

雪投げに駆け回り息燃やすなり 
●「息燃やすなり」に工夫を見ました。季語にして「息白し」は誰でも思い当たります。また「息激し」「息太し」も考えつきます。けれど「息燃やすなり」はなかなか出てきません。 
「息」を生み出す呼吸活動は二酸化炭素を生成するという意味では一種の燃焼ですけど、この句では冒頭の「雪」があってこそ効果的な「燃やすなり」ですね。ラッセル車的な。  

髪結うて明治の裸婦や桐火鉢 
●これは絵でも見ての発想でしょうか。季語が奥ゆかしい。 
○「火鉢」があるとしたら、美術館とかではないでしょうし、個人宅とかでしょうか。火にあたりながら、手持ち無沙汰に眺める一枚の絵。  

声まるき女性車掌よ春隣 
○「声まるき」で、身体もふくよかな印象。 
●「身体もふくよかな」というので女性蔑視とかいう批判が出てしまうんです(笑)。さすがに「女車掌」とは言いませんでしたね。「女性」 と「女」の間に凄い落差がありますから。 
○こういう句で「男性車掌」だとすると、それだけで「男性」は余計だと思ってしまう意識がどこかにあるのですが、本句の「女性」が重要なように、句によっては必ずしも余計ではないと考えるべきかと。 
●「男性車掌」じゃどうしようもありません。性差は男性女性どちらの意識にも深く存在しています。あまり目くじらを立てずに楽しむしかないでしょう。
○そうですね。雪女と雪男を比べても仕方ないですし(笑)。今月の中では「雪女」の句と「雪降れり」の句にとりわけ惹かれました。
●主宰の句はこれ見よがしではなく、どこかが新しいんです。




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書いて死に決着をつける

2024-02-27 13:11:24 | 俳句

故・米倉八潮

長男・米倉八潮が去年11月30日に死んでからほぼ90日が経つ。鷹3月号が来て彼奴の死にまつわる5句が載った。主宰はよく5句採ってくださった。感謝している。葬儀以外で供養した気分である。

享年四十四
冬の暮検死にわが子奪はれし
親に死を曝し馬鹿たれ冷たいぜ
子の最期知る人の無し厚氷
子が死んだ冷たい階段に座る
凩や子を焼いてきて米を研ぐ

おまけに主宰は「秀句の風景」で2句を取り上げてくださった。
小川軽舟***************************************
子の最後知る人の無し厚氷 天地わたる
「享年四十四」と記された今月の連作から。「子の最期知る人の無し」とは誰にも看取られずに死んだということだ。どんな様子で死んだのか、どんな思いで死を迎えたのか。その気持ちを汲んでやりたくても作者の声は死者に届かない。外は厳しく冷え込み、厚い氷が張っている。それが作者の無念の分厚さを思わせる。
凩や子を焼いてきて米を研ぐ わたる
亡骸を荼毘に付して家に帰る。飯を食うために米を研がねばならない。自分が生者であることを突きつけられるその行為が、あらためて死者と自分を遠ざけるに違いない。
*************************************************
主宰のコメントを弔問のように受け取った。弔意に叩頭する思いである。鷹では主宰が5句採るとき(月光集に入るとき)題をつけてくださる。それを無視して自分から「享年四十四」なる前書きをつけたのは、息子の死が早すぎたという気持ちからであったか。投句者のルールから逸脱したと思う。それをすんなり受け入れた主宰に感謝している。
「親に死を曝し馬鹿たれ冷たいぜ」以外の句は、事態に無理せず言葉をあてがっただけである。この句だけは感情のあふれるに任せた。このさい感情的になってもいいじゃないかとやけっぱちな気分であった。感情があふれて俳句としていいかどうかは知らない。あとは主宰に任せようという気分であった。よくぞ採ってくださった。
人は必ず死ぬ。その齢44は一般的にみて早いが、もう、それをうんぬんしたくない。あいつはいなくなってしまった。それだけである。
死は書いて決着をつけないと生きている者が前へ進めない。死んだ者はしようがない。生きている者が大事である。

諦めも祈りも岬冬夕焼
これが息子のことでその後できた句である。死は諦めるしかない。そして生きている者に対しては祈るのみである。何を祈るか。生きていて笑えるようにである。結をみていて彼が毎日何かに感じてわっと騒いだり笑ったりする。そんな時間を持って欲しい。息子が好きだった「ごきげんよう」である。

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短冊が死を突きつける

2024-02-26 06:05:07 | アート



先日さる人から重たいものをいただいた。
紙にくるんであったそれは矩形。百科事典1冊が中に入っている硬さ、重さであった。包装を解くと中身は紙は紙でも短冊であった。見た瞬間、「俺はこれを書き切れないで死ぬだろう。俺に残された時間はそう多くない」と思った。膨大な短冊であった。
広告やポスターなどの紙の裏白のものが捨てがたく細く切って短冊に使っていた。「こういう短冊を使うと湘子に怒られそう」と言いながら。それで憐れまれたのかもしれない。根っからの貧乏性である。父も裏白の紙を捨てられない人であった。
落ち着いて見る多量の短冊は美しい。積み木よりよほど繊細。小口がやや青いものがある。手仕事ではなく機械で裁断しであろうが身近にそんなものがあるのか、その仔細を聞いていない。
短冊を使うのは対面句会だけ。8句出しで15枚くらい書いて半分捨ててもこの量は消費できない。今やっているネット句会をぜんぶ対面句会にしたとしても使いきれない。
そこで1度に50枚も短冊を使う句会があったことを思い出した。それは細谷ふみをさんがやっていた、東京の東のほうで。句座の端に大きな甕があり参加者はそれに短冊を入れた。入れる短冊の量に制限がなかった。1回目に30句ほど入れたら100句も入れる人がいて驚き次回は50句入れた。すると甕の中の短冊は500句になる。
500句を手分けして清記するのだがこれが大変。何十枚も書かなければならぬ。小生は書くのは早いからみなさんより多量に書いた。手が痛む。腱鞘炎になりかけた。多作はいいとしてそんなに出したら1句1句の集中力は当然落ちる。それで2回ほど参加して辞めた。今でもあの句会はやっているのだろうか。
この短冊を消費できるのはあの句会のみである。懐かしい。

短冊はいろいろな形になる。積んだり崩したりして楽しんでいる。白い紙に字を書くのはそれだけでうきうきする。

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爺を置き走りだす子や春の雲

2024-02-25 07:24:56 | 身辺雑記



きのうは3連休の中日、結でなくて弟の優希をみることになった。2歳7か月。結と違ってこいつは果敢というか無鉄砲。いつかぶらんこに乗せたら動いているのに飛び降りて顔が地べたに衝突し、泣いた。まさか飛び降りないだろうと思う高さから飛び降りることもしゅっちゅう。付き添い人泣かせの子どもである。
この子は父の遺伝子をしっかり受け継いでしまった。父は成人するまでに自転車に乗って3度自動車に衝突した。小さい道から止まらずに大きな道で飛び出すのだ。父は死なずに妻を得たので優希が今この世にいることになる。
婆が黒鐘公園へよく連れて行くというのでそうした。

春疾風わが手振り切り子が走る
平気で道路へ出るので手を摑もうとするが嫌だという。しかたなくまわりを見ながら道路を歩かせる。人の意向をまるで無視する子である。





犬ふぐり足の短き子が転ける
自分の体力以上のことをしようとする。特に下りが怖い。

金網に列車待つ子や春の風
黒鐘公園には「伝・鎌倉街道」なる古道がある。自転車と人しか通れぬ細道。ここをどんどん登っていく。どこへ行くかと思えば武蔵野線の金網にへばりつく。結と同様、電車を見るのが大好き。電車を見るときだけ動かないので助かる。





春もやうやう逆剝けの指舐しやぶる子よ
活発な子はあちこち傷つく。小生も幼少のころ逆剝けが痛かった。

走る子を追うて喘ぐや囀れり
保護者から逃げるように走る子である。結がこの年齢のときどうだったか。鳩がいてそれを追ったとき結も飽かず鳩を追い回したことを思い出した。





落椿踏まれていよよ猥らなる
椿がいっぱい落ちる季節。椿に生肉を思う。肉の猥らさを感じる花である。植物であるが獣の性的なものを濃厚に感じる。

横抱きにせし子ばたつく春の泥
止めたいときは抱き上げるしかないがかなり重い。きのうは泥の中へ入れたくなかった。遊ぶなら泥より水にして欲しい。

追ひかけて子を下萌に搦め捕る
正午に帰りたいので捕まえる。手は握らないので腕を摑んで搦め捕るしかない。逮捕するぞ、という感じである。やれやれ。結よりけがをする確率が高いので気を抜けない。
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