天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

アルツハイマー病になったのか

2016-09-30 12:11:50 | 

映画「明日の記憶」(2006)。監督:堤幸彦、主人公:渡辺謙、妻:樋口可南子。

荻原浩『明日の記憶』の文庫本の裏表紙に内容を以下のようにまとめた文章がある。
広告代理店営業部長の佐伯は、齢五十にして若年性アルツハイマーと診断された。仕事では重要な案件を抱え、一人娘は結婚を間近に控えていた。銀婚式をすませた妻との穏やかな思い出さえも、病は残酷に奪い去っていく。けれども彼を取り巻くいくつもの深い愛は、失われた記憶を、はるか明日に甦らせるだろう! 山本周五郎賞受賞の感動長篇、待望の文庫化。

これ以上書くとネタバレになる。ぼくに強い印象を与えた二つについて書く。
ひとつは文庫本80ページで主人公が妻とはじめて病院で診察を受けるシーン。
医師が「あさがお、飛行機、いぬ」の三つを覚えてくださいと佐伯にいう。腹が立った佐伯が復唱する。
医師は次の質問をする。
このとき「あさがお、飛行機、いぬ」は後でまた出るのだと読者は予想する。だから忘れてはならないと…。
案の定、2ページ後に医師が、「では、さっきの三つの言葉を思い出して、言ってみてください」と問う。
佐伯はまったく記憶にない。
そしてぼくもまったく覚えていなかった。ぞっとした。
俺もアルツハイマー病ではないか!
自然の展開ではあるが作者の巧まざる小技の冴えにうなった箇所である。
読者を怖がらせて物語にどんどん引き込んでいく。

佐伯は仕事で行く渋谷駅で違うほうへ下車して自分がどこにいるかわからなくなる。会社へ電話して若い部下にあたりに見えるものを伝えて誘導してもらう。
このときぼくは先日龍ヶ崎へきちんと行けたこと、最初約束した駅を変更されたときそれについていくことができ約束の時刻の少し前にその場所にいたことを喜んだ。
「あさがお、飛行機、いぬ」はまだ物忘れの段階であり脳細胞が壊れているわけではなさそうと安堵したのであった。

佐伯の病状の的確な描写により物語はずっと緊迫して終盤へ進む。
文庫本表紙の「彼を取り巻くいくつもの深い愛は、失われた記憶を、はるか明日に甦らせるだろう」を思わせるのがフィニッシュの、佐伯を妻枝実子が迎えるシーン。
佐伯はかつて奥多摩の山間部にある陶芸教室で老人の先生に陶芸を習った。そこで会った枝実子に惹かれて結婚した。
なけなしの記憶をたどってそこへ行くと昔の先生がいた(幻想かもしれない)。
そこで火遊びをして(ここはスリリング)、覚めて山を下りると、迎えに来ている妻がいる。

吊り橋を渡りはじめると、彼女も歩き出した。ひとりぼっちで誰かを待っていて心細かったのだろう。私の後ろではなく隣をついてくる。彼女に合わせて私が歩調をゆるめると、向こうは私に合わせて少しだけ急ぎ足になる。なんだかずっと昔から一緒に歩いてきたように私たちの息はぴったり合っていた。

すでに佐伯の記憶は完全に失われている。

私はまず自分が名のり、彼女の名前を尋ねた。
…………
「枝実子っていいます。枝に実る子と書いて枝実子」


美しい。美しすぎる。
荻原浩という人は女にとことん夢を見られる幸せな人なのだろう。人生で女に裏切られたことがなかったのではないか。
甘いといってしまえばそれまでだがここまで性善説を貫けるとは…。

もはや一緒に歩くことのないわが妻にこの小説のあらましを話し、最後のシーンを特に念入りに語ると妻は、
「嘘でしょう。そんなことありえない。たいへんな介護がはじまるのよ」という。
「本や映画は終りがあるから救われる。現実はそこから始まる」。
さすがに妻は夢を見ない。ぼくはかえって安堵して現実へ戻ったのである。
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中学生高校生と句会をする

2016-09-29 06:39:45 | 俳句


俳句でもっと遊ぼうと思う。
自分を縛るものを取り除けて遊びたい。ざっと28年結社で俳句をやってきた。学んだことを生かすには学んだ通りにやっていていい時期は過ぎた。
自分を炸裂させたい。
未知の人と俳句をやりたいと思っていて慶応義塾湘南藤沢の瀬戸口優里さんを思い出した。
ブログをきっかけにはがきの行き来がある。
「あなたたちの句会に混ぜてほしい」と告げると優里さんはてきぱき担当教師に話を通し「ではおいでください」ということになった。
きのう電車を乗り継ぎ最後バスに乗り「慶応中高等部前」で降りた。

15:30、授業を終えた瀬戸口優里さんほか女生徒3名と対面した。一人大人の女性がいて藤田銀子さんという。「知音」編集同人。意外に参加する人が少ない。
500メートルほど歩いて小出川へ出た。ここで嘱目詠をして学校へ帰って清記して句会とのこと。
ひやっ、なんと見事な曼珠沙華。
出句は15句。驚くと「開成は20句や30句は作る」と叱咤され挑戦的になった。鷹同人が開成に負けるわけにはいかない。20でも30でも作ってやろうと意気込んだがなにせ25日に一人吟行して28句作っていて作句意欲が落ちている。
七転八倒した。



気に入らないのは女性たち5名がかたまっていること。
ぼくは人が手帳をひらくのを見たくないし見せたくない。取材はこっそりやりたい。また人がまわりにいると物に集中できない。それでずっと彼女たちから遠ざかっていた。
慶応義塾は草木に恵まれた広大な環境を持つがバスを降りたとき異臭を感じた。それは獣臭、いや飼われている豚の匂いである。
歩いても歩いても豚の匂いがついてくる。それで
芋嵐橋わたりても豚匂ふ
と書いたが誰も採らなかった。できていないかなあ。

もう破れかぶれである。
エンジンの屁のやうな音秋暑し
川のまわりは耕作地で農家の人が草刈機を動かしている。それがくたびれていて音がぐずつきぼくは屁をこいた。
こんな句にうら若い生徒が3点も入れてくれた。特選で採った子もいる。

しやがみたるわが影小さし草の花
これはうまく書けたかと思ったらやはり点が入った。

銀子さんはそうとう俳句ができる。句評が細やかで鋭い。
彼女を通じて「知音」代表の行方克己氏の季題の考えをしかと知った。このグループの季題意識はホトトギス並みであり、流行より不易を重んじる傾向であることを感じた。

佳き声に呼ばれて来る花野かな
これは小生の優里さんらへの挨拶句である。
銀子さんのみ採ってくれた。やはり大人は大人の句がわかる。
曼珠沙華が多いがほかの花もあるわけだしひっくるめて花野としてかまわない。なによりも上五中七のフレーズに対して花野という季題が決まっている、というコメントをいただいた。
季題を重んじる俳人から季語の的確さを再三褒められて励みになった。

いちばん若い女の子は中学3年生であった。
ぼくの息子の年齢の半分。孫がすぐこの年齢に到達する。
こんな若い人と言葉が通じるのか、コミュニケーションできるのか、と最初は思ったがぼくは彼女の句を2句採った。
選評をすると言葉が通じているのがわかる。
俳句は年齢を超えて通じ合えるツールなのだ。
若者は表現技術は未熟である。けれど、物をまっすぐ感覚的に見ようとする意識が旺盛。われわれ大人が言葉の技術で丸め込むところを愚直に攻めてくる。
それがすがすがしかった。
ぼくも恥をさらして愚直に物に対しようという素直な気持ちになっていた。

「至福の時間だったよ」というと生徒たちが微笑んだ。
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帆刈夕木 透明の滋養

2016-09-28 06:06:16 | 俳句


鷹の同人、帆刈夕木から処女句集『干潟の時間』(ふらんす堂/本体価格2800円)が届いた。
ほかりゆき……なんと美しく響く俳号だろう。つい夕木と呼捨てにしたくなる。というのはぼくと彼女は鷹の同期生なのだ。
夕木は平成2年藤田湘子がつくった「鷹新人スクール」の第一期生という優等生。ぼくは桂信子の「草苑」を去って鷹へ飛び込んだ雑草であった。
1200名ほどいる鷹の中で顔と名前が一致するのが数十名、その中で同期であり同志と認識しているのは夕木のみである。彼女もぼくをそのように思っており、中央例会で顔が合うと会釈して無事を確かめ合う。

初期の代表作は、
ポケットの焼栗自由にして孤独

であろう。
この句を見たときの藤田湘子の喜びようを小川軽舟が伝える。
すなわち湘子はこの若さを大いに称えるとともに、「焼栗を私はヤキグリと読んでいたがこの作者の年齢であったら、マロンのほうがいいと思う」と述べたという。
これに対して現主宰の見方がふるっている。
しかし、これは私の推測だが、帆刈さんは「ヤキグリ」でいいと思っているのである。「マロン」だなんて、と静かにほほえむ帆刈さんが想像できる。帆刈さんは湘子が褒めた方向へどんどん進んで若手を謳歌することもできたはずである。けれども帆刈さんは、自分の心に好もしく寄り添ってくれる俳句だけを作り続けた。
作者自身もこの言葉を素直に受けとめている。

帆刈夕木は容貌、人となり、句風において端正、清楚、慎ましさの3点セットであるとずっと思っている。
焼栗と同じ20歳代の作品に、

寒林やくちづけの唇つくりたる
降る雪に眼遊ばせさはりあり
裘をんなのにほひ隠したる

があるが、このあたりは湘子がいう若手謳歌の気風が見える。若い女性がやりそうな流行に乗ったきらいがあり昨今の夕木からみてかなり無理が見てとれる。
キスとか、月経だとか、女の匂いだとかいうような情欲・官能系から夕木はほど遠い。夫がいるのだろうと思うほどである。

初期の句でぼくが注目するのは、
たつぷりと地は影を吸ふ鰞鵪

なんで鳥の中でも小さなものを季語に持ってきたのか。ぼくなら影をもっと生かす桐一葉を考えるのだが…。まだ俳句をよくわかっていない時期と思われるが、「たつぷりと地は影を吸ふ」という措辞にこの作者の特徴がしかと出ている。
たつぷりと吸ふのが唇であれば奔放。そういうふうに書く女流をあまた見てきた。しかし影であるところが夕木らしい慎ましさなのである。

このときの影への思いが研ぎ澄まされて、句集最後のほうの、
芝に影落として秋の行きにけり

に結実したのだろう。
言葉の数を徹底的に減らして余分なことはいわない。影は雲かもいれないし鳥かもしれないし木の葉かもしれない。あるいは心象としての影かもしれない。
行秋を象徴化した絶品である。
影といえばこの句も慎ましい。
冬の蜂影のもぢもぢしてゐたり


叫ばない、誇らない、突出しない、という道を夕木は貫く頑固者である。
カナリヤの黄や橙や秋の風
傷癒えて肉やはらかし春の雨
後添になりしと聞きし夏の月
故郷に友は娶りぬ雪間草
運針は右から左さやけしや
行く夏の水族館に漂へり
いそしみて干潟の時間雲移る
むづかしき仏蘭西映画ひこばゆる


フランス映画がむずかしいというのは面倒ということだと思う。つまりフランス映画は男女のどうにもならぬ情念をしつこく描いたりする。それが煩わしいのではないか。
夕木は清楚でさっぱりしている。

青葡萄鎖骨のくぼみはぢらへる

官能といってもこの程度。恥じらうほほえみも慎ましいのである。
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爪痕あとから傷痕へ

2016-09-27 13:34:11 | テレビ

バルカン室内管弦楽団を指揮する柳澤寿男氏(everyより)

きのう、日本テレビは報道番組「every」で16:40ころ柳澤寿男氏と彼の率いるバルカン室内管弦楽団のことを伝えた。
旧ユーゴスラヴィアは小さな国に分裂して戦った。人々は憎み合ったがいまセルビア人、アルバニア人、マケドニア人、コソボ人らが柳澤寿男氏のタクトのもとに集まって平和を意図した音楽活動をしている、というものであった。

ぼくが注目したのはこの報道では端っこのことだが、コソボの爆弾等で荒廃した風景に出たテロップであった。
この風景を「傷痕」と記したテロップに感動したのである。
新聞、テレビ、ラジオ等のメディアの言葉つかいでいちばん気になっているのは安易に慣用語に飛びつくことである。

地震、津波、台風、土砂崩れなど災害の報道では当然のように「爪痕」という表現がなされ、ぼくはずうっと我慢できなかった。
爪ではないだろう。地震や津波に爪があるのか。
「倒木に爪痕三筋涅槃雪」は小生の句だが、この場合、爪痕は的確だろう。鳥か獣かは知らぬが爪の痕跡である。
報道なら鳥か獣が爪をひっかけたとこを見たのか、それは鳥か獣か、また鷲が熊かまで問われていいが、詩文芸の場合そこまでの実証性は要求されない。
その爪を転用して災害時の被害の表現に使っているのだが、ニュースは事実を伝えるのが本来であるから言葉の質も怜悧でないといけないのではないか。
こういう場合に「爪痕」なる比喩表現を使うのは事実をしかと見ない姿勢に通じるのではないか。

ほかにも報道において慣用表現は多々ありそれが市井の人々の安易な慣用表現を助長している。
俳句をはじめた人がテレビで見たかっこよさそうな慣用表現にすぐ飛びついて安っぽい句を作ってしまう。
だから慣用表現はやめてほしいということだけでなく、慣用語になれると新しい見方ができなくなるのである。
報道こそ言葉を研ぎ澄まして事実に対していくべきなのだ。

「爪痕」に代る言葉がないか考えていて一字違う「傷痕」ならそうとう実状にマッチすると思った。
それをきのう「every」がやってくれた。拍手したい。
ほかのメディアでも「爪痕」から「傷痕」に変えたところはあるかもしれないが、ぼくの知るはじめてのケースであった。

ささいなことだがこういうところの言葉づかいがしっかりしていると、柳澤寿男氏と彼の率いるバルカン室内管弦楽団もよりすばらしく感じるのである。
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昭和記念公園で句を詠む

2016-09-26 00:07:17 | 俳句
きのう久しぶりに青空が出た。
連日の雨でからだに黴が生えそう、外へ出て俳句を書こうと思い立った。さて、どこへ行こうか。玉川上水はすでに行った。吉祥寺の動物園は混雑するだろう。そうだ、昭和記念公園がいい。

青梅線西立川駅で下車して橋を渡るとき橡並木が目に入った。
橡の若葉は葉脈が整然としていて格別美しいが、秋はこんなにはやく葉が緑を失うのか。早熟は早老に通じる。

橡の葉の錆びてがさつく秋思かな

魁けて橡の葉錆びし秋の風




昭和記念公園入場料はシルバー割引にて210円。これならしばしば来られる。






絵に描いたやうな平和や貸ボート
水は人を誘う。恋人同士は水に近づいて気持ちがしっくり行き交うのを確かめる。一人であっても水に近づいて行く。特に秋は。

ここの池は入る川と出る川があるのか。離れたところに川はあったが水が流れていない。溜まっている水ではなかろうか。
「水澄む」なる季語とはほど遠く緑色に濁っている。水温が高くプランクトンが多すぎるのか。
秋暑し緑青の藻に濁る水



かあと鳴き鴉それきり秋の風
鴉も暑くてものぐさらしい。

中国語放送眠し草の花
中国人環境客が多いのか、庭内のあちこちのスピーカーから中国語の案内が聞こえる。内容はわからなくていい子守唄のリズム。

走者来て折り返す木や爽やかに
走るなどトレーニングに励む若者が多い。箱根駅伝の予選はこの公園がゴール。

秋暑し腕を這ふもの飛びつくもの

雨がやんで日が出てにわかに暑い。虫除けスプレーや「ムヒ」が欲しい。

枯蘆の押し寄せてゐるベンチかな
ここのベンチにアベックがいてもよさそうだがいない。荒々しい情趣が男女を駆り立てる気もするのだが。若いときはもっと情欲に走るべし。

野づかさの一本の木と昼寝人
アベックでない一人者は居眠りをするか俳句を書くかどちらか。





弾けたる赤き実に雨染みて秋
ミツバウツギ科のゴンズイの実という。公園は植物の名を教えてくれるのでうれしい。なぜか人は物の名を知り安心する。撮影にかまけこの実を口に入れて味わなかったことが悔やまれる。食えたかもしれない。ううむ残念。

木陰よりさざなみを見る秋思かな
暗いところから明るいところを見るのは常に落ち着く。明るいこところから暗いところを見るとなぜか不安になる。なぜだろう。





湖を見る老の背中に秋来る
うしろから見て戯言をいう失礼を許したまえ。おかげさまで一句できました。

土に非ず雨に潰へし黒き茸
むかし父と採ったでかい黒茸に「ロウジン」というのがあった。これもそうかと思って蹴るとまったく頼りなく壊れた。匂いも違う。

湖へ急く黒き茸を蹴散らかし
とにかく明るいところへ行きたい。

秋蝶来いやいや人につく犬に
縄文時代から犬は人のよきパートナーだったらしいが犬は必ずしもそう思っていないようだ。

蜻蛉の行く空広し犬吠ゆる
人とつながれて行く犬がときおり吼える。青天やそこを自由に飛ぶ蜻蛉を羨んでいるとは思えぬが。

人を待つ犬の徒鳴き鰯雲



コスモスの花は赤や薄紅色や薄紫やピンクなどが入り混じっているというイメージがあった。しかしここのコスモスは山吹色と黄色の二種類。通りがかりの女性にほんとうにコスモスか聞いてしまう。



コスモスの中をふはふは通りけり
やはらかな羽音と日差コスモスに
秋を代表する花にやはり秋を感じさせる羽あるものたちと日差し。いい時間である。

翅持つはわやわや集り秋桜
蜂、蝶、蛾、羽虫……翅のあるものがあまた花に集う。せっせと蕊の間の蜜を吸っている。



仲の良き男女を照らし秋桜
むかし好きな女とこういうところへ来たいという衝動があったことを懐かしむ。いまは一人がいい。



コスモスを撮る美少女に風立ちぬ
うしろから見ると女性はみな美しい。バックシャンというドイツ語から派生した俗語がある。美はすべて幻想と思い込みにあるのかもしれない。この少女の前へは行かなかった。

木陰よりコスモスながめ死にゆくか
ときおり自分が死ぬときかすれ行く意識の中でどんな光景を見るだろうかと思う。こんな風景ならいうことなし。





五十年前の母ゐる花野かな
若き日の母は高峰秀子に似ていた。本人もそう思ってうぬぼれていた。そんな母を幻想する。花には女をうるわしく回顧させる蜜がある。

鉄錆の行き場なき色身に入むや
オブジェというような役に立たぬ物は何のためにあるのか。そういつも思うがこの鉄錆は気に入った。ぼくは鉄の錆びた色と濁流の色が大好き。これ以上変化しない色は身にしみる。


蛇のごと根の立ち上る秋の暮
大木の根の一部が盛り上がっていて蛇かと身構えた。

百人を容れし一木影涼し
人は水辺に行くか木陰に憩うかである。大木は影を豊かに人を容れてくれる。

昼の虫宙をただよひ鳴きをるか
虫の多くは地上にいると思うが声は木木か中空に聞こえる。地上にはいない感じがして幻想的な昼のひととき。


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