天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

平戸の白い城と青い海

2014-10-31 11:55:17 | 旅行
以前から見たかった平戸城を見にきのう、おととい旅をした。
短歌をやっていた時代に誰かが書いた「平戸の城は海に向く」とかいうフレーズがくすぶっていて平戸へ赴いた。

平戸城天守閣から見た見奏櫓


ホテルへ着くやその前方200メートルほどのところにある小島に大いにひかれた。
黒子島といい1951年に国の天然記念物 「黒子島原始林」に、1955年に西海国立公園 特別保護地区に指定されていて一般の立ち入りはできないとか。

そう聞いてますます行きたくなった。
200メートルだからひと泳ぎすればすぐ。水は青く透き通っていて引き込まれるよう。
島の植生は中央部のタブノキ-ムサシアブミ群落で周囲部分はハマビワ-オニヤブソテツ群落だという。
ホテルの人によればこのへん一帯が水泳禁止というがもったない。海が陸に深く入っていて小島が点在する風景は大好き。遠浅でなく切り立ってすぐ深い海がはじまる風土は美的に優れているし、水泳本能を駆り立てる。
今回水泳は思いとどまったが、海水浴は9月末がいいかもしれない。
海辺の温泉に宿を取って夕方泳いで湯につかる。
夜陰に乗じて海泳げば誰にもわからない忍者だ。うきうきしてきた。

平戸の今の季語は石蕗の花。道端にこの花が散在している。
平戸城のある山も石蕗の花ざかり。


石蕗はいっぱいあるがレストラン、喫茶店のたぐいがきわめて少ない。
街を歩きまわっても飯を食うところコーヒーを飲むところに出くわさない。城から降りて1kmほど歩いて人に聞いて市役所の前に1件ちゃんぽん屋があるという。この飯屋の少なさはイランの田舎街をほっつき歩いている感じ。
そこでやっと昼飯にありついた。
「平戸ちゃんぽん」がうまかった。
油がそうはいっていないのにコクがあり具だくさん。さすがちゃんぽんの本場である。


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田辺聖子を読む当番

2014-10-29 00:03:45 | 

田辺聖子の『姥ときめき』を読んで目から鱗が落ちた気がした。
たった36ページほど処世訓的な色彩がつよい作品であるが、
どんな分厚い人生論の本より気の利いた発想が効いていてほれぼれした。
「目から鱗が落ちる」などは手垢まみれの表現であるがこの作品については臆せずこういっていい。

私は77歳を迎える女性。夫の死後、会社を立て直し長男にゆずりほっとしている。
そこへ「けじめ」をつけることの好きな長男が喜寿の祝いをしようと持ちかけてくる。
長男がこの不景気の時代に会社やってくのはえらいこっちゃ、と思っているのが私はおもしろくなく、
町内会で「掃除当番」があるのと同じように、えらい目に会うのも「えらい目に会う当番」になっているのだ、と説く。
神サン(か何かわからぬ、大いなる存在の絶対者)が、
「死にわかれ当番」も「生き別れ当番」も
「病気当番」も「災難当番」も割り当てる。
たまたま私のようにすべての当番を外されることもあるが、人によればそれでキョトンとして、シューっと昇天しまったりする。
不甲斐ないではないか。
私は恋をしたことがない。
神サンが私の首に「恋に無関係で一生終る当番の札」をおかけになったにちがいない、と思っていて、一人だけ絵に描いたような美男に恋したことを思い出す。
その人と会いたい気持ちがあって私は長男提案の喜寿の会を自分の好きなスタイルでひらくことを決意。

神が与える当番という発想は見事ではないか。
キリスト教、イスラム、親鸞、道元などなどなど、世の中には偉い人の高説が満ち満ちているが、かくも簡素で足に地がついている処世訓はなかろう。
嫌なことはすべて○○当番をしているのだと考えればいい。

田辺聖子はほとんど読んでいなかった。
小川洋子が『私の偏愛短篇箱』に収録した「雪の降るまで」という短篇は極上であった。ここに登場する男女の会話における官能性に驚き、ここまでまったりと会話をこなせる作家は稀であると思った。
しかし総じてお聖さんの書くものは身辺雑記の延長というかエッセイという感じ。小説っぽくない印象があって近寄らなかった。

今はもうちょっと読んでみてもいいと思う。
読書子F子が最近、お聖さんに相当まったようだ。
彼女は「人生の達人」と高く評価する。

府中市の図書館が読書週間に捨てたお聖さんはぼくが「拾って読む当番」にあたったのだ。
しばらくお聖さんを読む当番をしてもいいな。
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グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札

2014-10-28 13:27:28 | 映画
ニコール・キッドマンを見たくて映画館へ行った。
日常にそうそう美人にお目にかからないのでときに美人を見たくなる。秋が深まるといっそう。
こういうとき映画の内容や芸術的なレベルなどどうでもよく、
ニコールが出ていさえすれば、

秋深し銀幕の美女われを見る


という至福の時間となる。

ウィキペディアによれば本編は2014年のフランス・アメリカ・ベルギー・イタリア合作の伝記映画。ハリウッド・スターからモナコ公妃となったグレース・ケリーが、存亡の危機に立たされた公国を救うために見せた「一世一代の大芝居」を描いている。

その大芝居とは、国際赤十字のバチョッキ伯爵夫人の協力を取り付け、ド・ゴールを初めとする世界中の著名人・政治家たちを集めて舞踏会を開催。
そこで主催者としてグレースが愛と平和を訴えるスピーチをする。
アメリカのマクナマラ国防長官ら出席者の反応を見たド・ゴールは、世界中がグレースを支持していることを痛感しモナコへの強硬策を撤回、翌1963年にモナコの国境封鎖を解除する。

愛と平和を訴えるスピーチなどふつうそらぞらしいが美人がやれば感動を巻き起こす。それが「公妃の切り札」。
先日、寺島しのぶが「美しい人は美しい役しかできない」といっていた。なるほど女優は顔じゃなくて演技だとそのときは思ったのだが、やはり美しい人はそれけで人を納得させるものがある。やっぱり美人は得である。徳であるかもしれない。

この映画の話は妻にできない。
「ニコール・キッドマンは美人だよなあ」といえば急に機嫌が悪くなり、
「あなたは女を美人かそうじゃないかでしか見られないの」という言葉が予想できる。言葉にはしないが多くの男はそのように見ていることを否定できないのでは…。


左、グレース・パトリシア・ケリー(25歳ころ) 右、ニコール・キッドマン(47歳)

グレースはマリリン・モンローの明るさとセクシーさに対して「クール・ビューティー」と称えられたがニコールもこの系列の美人


モナコは、南フランスの地中海に面したイタリアとの国境に程近い場所にある
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裸足で歩く競馬場

2014-10-27 05:43:24 | 身辺雑記

きのう京都競馬場で第75回菊花賞レースが行われた。
おとといスポーツ新聞で出走馬を見てしまったからいけない。すこし買う気になって東京競馬場まで自転車を駆った。

地下道を抜けてトラック内の遊園地へ行き芝生を歩いて今までにない感触を得た。
靴がやわらかく沈み返してくれる。ふかふか。ふわふわ。
一歩一歩力が要るがいい感じ。
しばらく楽しんでいるうちに裸足のほうがいいかもしれないと思った。

裸足になるとふわふわよりちくちくが多くなり
ふわちくふわちくと足の裏を刺激する。
靴を履いていたときより前へ行くのが鈍い。
危険物がまったくなさそうに整備されているがここを歩いている人は皆無。

芝はほかの草と違って汁がなくて足が汚れない。土もほとんどつかない。
入場料200円で1時間ていど裸足を楽しめるとはすばらしい。
馬券さえ買わなければいいのだが、12番のタガノグランパを単勝と複勝で1000円ずつ買った。
孫がじじ、じじという。それは英語にすればグランパという他愛もない馬選び。

グランパはまあまあの位置にいてレースを運んだが結果4着。
あとひとつ上に行けばいくばくかの配当があったが競馬はこんなもの。
今日ここで芝生に遭遇して裸足になったこと、汗をびっしょりかいたことでよしとしよう。


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身に入むや挑戦的といふ句評

2014-10-26 08:47:05 | 俳句
きのうの鷹中央例会に次の2句を出しておいた。

晩秋は錆びし自転車漕ぐごとし

土砂降りのカンナのやうな妬みかな


投句者251人中、2番目のはやさで出していて時間があったのか、主宰は採る気のないカンナのほうにも言及、
「カンナのやうな妬みとは挑戦的ですね」とほほえみつつ、晩秋と錆びた自転車は引きあうとしてこちらを採った。
ぼくもカンナのほうはナマだと思っていて採られるなら晩秋のほうだろう、切れ味があると思っていた。
や、かな、けりを使ったいかにも俳句という表現にそうとう飽きていて、比喩2句で行ってみた。
落選なら落選でよかった。
主宰は「比喩というのは突きつめると取合せなんです」と比喩の本質に触れる。
そのとおり。真理のわかっている人ゆえ思い切って句を見せられる。
「ごとし」「やうな」というつなぎは直喩にてメビウスの輪のように裏と表を巧妙に入れ替える仕様。

もっと激しい比喩は隠喩。
「寒いなあ君の言葉は男根で」
「切岸に死んだあなたは寒い川」
「妹はぬかるみ吾は空っ風」
といったたぐい。
観念化がどんどん進むがこんな感じで他人にのませるのはそうとう困難。
でもまあ、こんなことでも考えていないと俳句の閉塞感は打破できないのでないか。

俳句は檻。安住して、飽きて、何かしようとして引き戻される……。
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