天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

川上未映子『ヘヴン』

2014-12-31 17:09:39 | 

ヨブに襲い掛かるサタン(ウィリアム・ブレイク)


今年最後の本が川上未映子の『ヘヴン』(2009/講談社)になるとは一週間前まで思わなかった。
近頃これを読みたいと熱望して本を選んでいない。
図書館で「たまたま」手にしたという感じだ。

実は本書で問題にしているテーマは、この世で起こっていることは「たまたま」のことなのか、それともあらかじめ決められていることなのか、といった宗教の領域に踏み込んでいる。

主人公の<僕>は目が斜視であることもあっていじめを受けている(と思っている)。
スポーツも勉強もできて女子すべてが仲良くなりたいと思われている二ノ宮、そしてその手下の百瀬ら数人から殴る蹴るなどの暴行を日常的に受けている。
チョークを食べさせられたり、バレーボールを頭にかぶされて蹴り回されたたりと陰湿きわまりないいじめを受けている。
そんなある日、
<わたしたちは仲間です>という付文が僕に寄せられる。
出したのはコジマという女の子。
コジマは女の子たちからいじめられていて同じ境遇。
離婚して遠ざかった父の汚かった衣服を忘れないため不潔でいようとしていることも原因でみんなから疎んじられている。

コジマは僕にとって救世主のように思えときどき密会するようになる。
コジマはいま私たちがいじめられていることにはきっと意味があるのだと説く。いじめる人たちは今わかっていないだけできっと気づくときがくる、と。だから頑張ろう。
「なにもかもをせんぶ見てくれている神様がちゃんといて、最後にはちゃんと、そういう苦しかったこととか乗り越えてきたものが、ちゃんと理解されるときが来るんじゃないかって、……そう思っているの」

これに対して作家はいじめる側の百瀬をしてこう言わしめる。
「君が苛められてるのは君が斜視であるとか、そういうこととは関係ないって言ってるんだよ」
「たまたまっていうのは、単純に言って、この世の仕組みだからだよ」
「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?」
「もちろんあとから理由はいくらでも見つけることはできるし、説明することだってできる。でもことのはじまりはなんだって、いつだって、たまたまのことだ」


物事に理由がつけられる、事態は説明できるとき人は安心する。
昨今新聞を賑わすさまざまな凶悪事件に関して、精神病理学者というような肩書の人が引っ張り出されて犯人の心理をそれらしい言葉で解説する。
けれど本当のことなどわからない。闇である。
闇であることほど人間にとって怖いことはない。

川上がいう「たまたまは」ヨブ記におけるヨブの忍従を想起させる。
ヨブは自分が悪いことをしていないと思うのに神から次から次へと災難を与えられる。どうして神は私を試すのか、何の意義があるのか、神を疑うようになる。この試練にいったい何の意味があるのか…。
ここで話題になるのは人の運命はあらかじめ神によって決められているのか、それとも神などいなくてまったく偶然なのか、といった問いかけである。

聖書・キリスト教で永遠のテーマである決まっているのか偶然であるのかといった大きなテーマを川上も当然意識している。
最後に僕は斜視を手術して世の中が変わるほどきれに見えるようになる。
このとき斜視こそあなたをあなたらしくしている特徴といって慰めていたコジマの存在が消えてしまっている。

最後にも物事には必ず意味があるという立場のコジマにもう一度登場してほしかった気がするが、川上が存在の深い淵を覗きこんでコクの出た作品である。
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日本人の早期英語教育は疑問

2014-12-30 11:35:17 | 言葉

2020年の東京オリンピックのための関係者の英会話特訓が話題になっている。日本語を使わない空間に受講生を閉じ込めて英語漬けにするようなことをするらしい。
オリンピック関係者で成人ならそれもよかろう。
しかし昨今は早期英語教育をすべきという風潮がこの国を覆ってきて、3歳からの英語スクールなども出てきている。
うちの孫などもどこかで英語を学んでいるとかで、
「じじ、りんごを英語でなんというか知ってる?」と聞く。
「アッ・プル」というと「ちがう、アップーー」と口をこれ見よがし動かす。
こしゃくな口は洗濯バサミではさんでやろか。

はい、sとthの差を完璧に出し切れませんしrとlの区別もできていませんよ、たぶん。
しょうがないんだよ、日本人なんだから。
むかし国連の事務次官をやっていた明石康さんが英語のスピーチをするのを何度かテレビで見たが、お世辞にもうまい英語、完璧な発音とは言い難かった。


しかし彼の英語はあれでよかった。
きちんと中身のあることを確実に伝えていた。
最近ではノーベル賞を受賞したの物理学者の方々もきちんと内容のある話を英語でされた。発音なんて少しくらいおかしくても人は内容を聴いてくれるのだ。

若いころ何度もヨーロッパを旅した。
その際英語を使うのだがだいたい用足しはカタコトでいい。単語の羅列でも用は足りる。旅を初めて3日もたつとだいぶ英語感覚が身にしみてきて町の人と気軽に会話が弾むようになる。
いつだったかモンゴル空港で飛行機を待っていたときテルアビブから来た人に話しかけられた。
ぼくを日本人とわかったのか、東京へ行くなら季節はいつがいいか、見ものは何か、といった話題であり、ここまではすらすら答えることができた。
そのうち彼の話題はむつかしくなった。
彼は農業関係の学者らしく日本の抱える農業問題とは何か、自給率はどうなっていて日本は今後どういう食糧計画を考えているのか、といったふうに展開した。
もう降参、ギブアップ! 便所へ立つふりをしてその場から逃げた。
そんな深い案件について日本の有数の政治家でもどこまで真剣に悩み熟慮しているのか。

でも外国人が日本人と会って話したいのはこういったレベルのことだろう。
ハワユー、サンキュー、グッバイ、駅はどこ、あなたの名前は、私寿司が好き、あなたチャーミング……のレベルじゃあないだろう。
話す内容のある日本人になるべきだろう。
英語は内容を伝える一つのツールである。
日本人はまず日本語という原初のツールがあるのだからそれを陶冶すべきではないのか。
日本人が日本語で考えるということをしなかったらどうなるのか。
寒くないか。

ぼくは中学校のころから英語のとりこになった。えらく興味を持ち高校生になったときイギリスやアメリカの英語で書く作家のものを手当たり次第読んで高校時代を過ごした。
単語は2万語以上覚えだいたいのものはそのころは辞書なしで読めるように鍛えた。それが受験勉強でもあった。
ただし会話をする機会はなく紙の上での英語であった。
それでも海外へ出かけて行って3日もすれば英語の日常会話くらいはこなせる。

それより大事なことは英語で話す何が自分の中にあるかではないのか。
天候と自分の名前を言ったらもう終わりでは寒くはないか。
この感覚は故郷へ行って村道でおばさんと会って「寒いですねえ」「からだ大切にしてくださいね」といったらもう話題が続かないのに似ている。

『若き数学者のアメリカ』、『国家の品格』などの著者、藤原正彦氏は子どもが英語を早期から学ぶのに反対している。

「小学校はすべての知的活動の基礎となる母国語をしっかりと学ぶべき時期で、母国語が固まる前に外国語を学ばせるのは理解できない。授業時間が週100時間あるなら別だが、現実には二十数時間であり、人間として最も大切な読み、書き、そろばん(算数)だけで手いっぱい。英語を教える余分な時間は全くない」
「英語は手段にすぎないからだ。英語を100万時間勉強しても、話す内容は生まれてこない」
「英語ができれば国際人になると思っている親が多いが、とんでもない。内容のないことを英語でペラペラと話すと必ず軽蔑される。どこに行っても人間として信頼され、尊敬されるのが国際人だ。母国語を身につけ、自ら本に手を伸ばす子供を育て、読書によって教養と大局観を得ることが、国際人を育てる一番のカギとなる」

この見解にぼくも同調する。
海外で向こうの方々と接してみてこれは痛感した。

藤田湘子もそのへんを危ぶみこんな句を作っている。

日本語半端英語カタコト成人す 湘子


日本語で読み、感じ、読み、悩むことがわれわれの発達の基礎であると思う。以下の句の響きと調べのよさ、それに係り結びという古典文法を駆使した技巧のすばらしさはっとしてを感じ取ることのできる日本人でありたい。

春暁や人こそ知らね木々の雨 日野草城
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吹雪く夜のマタギと嬶の情話かな

2014-12-29 14:35:58 | 

舞台の一つ、山形県肘折温泉

熊谷達也著『邂逅の森』を読んだ。
ヨミトモF子から「あなたの感性にぴったり」といわれていた課題図書。2004年直木賞・山本周五郎賞受賞作品。

【主な登場人物】
松橋富治(マタギ、文枝を孕ませたことで地元を去る)
片岡文枝(地主のひとり娘で富治の初めての相手)
慎之介(炭坑労働者、男色を強要され自殺する)
難波小太郎(富治の鉱夫時代の弟分)
難波イク(小太郎の姉、元娼婦で富治の妻となる)
沢田喜三郎(富山の薬売り)
【時代設定】大正~昭和初期 
【場所設定】秋田~山形

北方謙三(芥川賞選考委員)
「骨太だが無器用で、新しさなどはどこにもない。それでも、心を打つ物語の力があった。欠点も未熟も散見するが、私は第一にこの作品を推した。物語の力こそが、いま小説に求められているものだ、と思ったからだ。」
林真理子(芥川賞選考委員)も古さを指摘し、「洗練された初恋の女性の描き方は感心しないが、遊女上がりの女房が魅力的だ。この小説は、素朴な人間ほどリアリティがある。」
という。
「感心しない」という文枝への思いは作者の純朴な面があからさまに出たのだと思う。

篠田節子(山本周五郎賞選考委員)
「作品世界の大きさ、卓越したストーリーテリング、汗の匂いや体温の伝わってきそうな実在感と存在感を湛えた人物像。」「中盤、舞台が山から鉱山に移ったとたんに物語は一気に加速していく。」「ラスト近く、こちらに向かい笑ったように見えた熊の描写、自分を襲う熊に抱いた主人公の畏敬の念。」「書き出せばきりがない。いくつもの不満を補ってあまりある、圧倒的な魅力を備えた作品だった。」

多くの選考委員の見解のとおりぐいぐい押してくる迫力がある。
ハードカバー456ページを2日で読めたことからも精度の高い物語であり、歴代の直木賞受賞作品の中でもトップレベルといえる。
血湧き肉躍る興奮は黒岩重吾『天の川の太陽』など古代史ものを思わせ、厳しい山における男女の情念のすさまじさは坂東眞砂子『山妣』を連想させた。

えげつないほどの性ないし性器の描写と山や熊に対する崇高さのコントラストが際立っているのもいい。間違いなく楽しめる逸品である。
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珠をひろう

2014-12-28 07:55:42 | 俳句


鷹1月号がきた。
主宰特選の欄、「推薦30句」にこの句があってほーっと幸福感に浸った。

草の実や裸眼に足りてこの三日 桐野江よし子

この句はぼくが指導する蘖句会に出された。
見た瞬間はっとしていただいたが採ったのはぼく一人であったか。「裸眼に足りてこの三日」はなかなか言えない表現であり、ラガンという音感と漢字がもたらす質感になまみの眼球を感じた。
「季語が水澄む、秋晴などであったらありきたりでそう興奮しないが草の実がじつにいい」と講評したように思う。
ぼくは秋の野原に出て視力がいくぶん回復したのかと読んだ。

よし子さんはこの句を中央例会へ出した。
ここで主宰も採り、目を使う仕事をしなくていい三日というふうな読みをした。
主宰は奨励賞を語るほどは興奮した風情は見なかったのでかくも出世する句とは思わなかった。
主宰もこの句の表現の妙にほれ込んだのだろう。

主宰選に入る句を逃さないというのは小句会を経営する者が肝に銘じていることである。
しかしこれはむつかしい。
小句会でぼくが嫌った句が主宰特選に入ったケースが過去何度かある。
そのときは岩石落としを喰らって脳天から暗闇に落ちるような絶望的な気持ちになる。
その衝撃から立ち直るのに1年はかかりさらに後遺症を引きずる。

主宰と自分は別の人間だから選が違ってもしかたないのだが鷹にいるというのはこういう感情なのだ。
「わたるさんが採らなかった句を出したら主宰採ってくれたわよ」などと言う人がいるが、それはあさはか。
そういうときのその人の句は鷹で2句のことが多い。
主宰は2句採るときそう考えないのではないか。
だいたい句の体裁になっていれば2句は採る。
そのときの句までぼくは責任を持てない。

「珠をひろう」は先師・藤田湘子が寄贈された句集のなかで秀句を取り上げた欄の呼び名であった。

先生にならっていい句を逃さないこと。
自分の句が「推薦30句」に入るのはむろんうれしいがぼくの採った人の句が出世するのを見るのはまた格別。
サッカーでいうと「アシスト」、とにかくいい句は逃さずゴールへ持って行きたいとせつに思うこのごろである。
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自転車屋は寒い商売

2014-12-27 16:14:33 | 身辺雑記

週4回アパートへ乗る自転車の車輪がすべるようになった。
物陰から人や自転車が飛び出てブレーキをかけると横滑りする。見ると表面のギザギザ、凸凹がまったくなくツルツルだ。
こりゃあすべるはず!

今年最後のなすべきことはタイヤ交換。
息子の当り馬券を東京競馬場で換金し自分の馬券(有馬記念)を買って自転車屋へ行く。
玉蘭坂を国立駅へ向かって下ったところに行きつけがあり、顔見知りのおやじがやっている。
言葉数のない誠実な人柄で休まず毎日自転車をいじっている。
ぼくより少し年上と思うがかいがいしく手を動かす姿にひかれている。急がずあわてずよどみなく仕事する姿にいつも好感を持っている。

仕事なんてだいたい花がない。
蝶よ花よの光を受ける仕事や身分は一時的のものでそうは続かない。
世の中の堅気の人はほとんど黙々と自分の居場所をこしらえてこつこつやっている。
その象徴としてここのおやじを感じている。

11時ちょっと前にお願いしたら1時間かかるというので近くの森林公園を1時間歩き回って来たがまだ苦戦していた。
自転車屋の背中ながむる寒さかな
である。

スパナ、ドリル、チェーン、スポーク……金属と油と空っ風。
自転車屋は寒い商売だなあ。中にストーブがあるが彼はいつも店先で風に当りながらスパナを回している。
前輪のタイヤはもう1年持ちそう。
そのとき彼が元気でいてほしい。
彼は自転車を直す人、ぼくは自転車に乗る人。

来年の暮、また元気で会いたいね。
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