天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

俳句を書く妻が怖い

2016-01-31 07:08:07 | 身辺雑記


1週間ほど前、妻が食事のときにこにこして「わたし俳句書いたのよ」という。
一瞬耳を疑うも妻はそそくさとノートを出してひらくではないか。
「み、みたくない…」と言葉がもれると「どうして?」とやさしく依然にこにこしている。
妻の書いた俳句なるものに何か言うことでこの笑顔がギャッと引きつり家が凍土と化すことをぼくは極度に恐れたのであった。

ひらいたノートには
千年樹今年も若葉そこにあり
とあった。
う、う、うっ…なんといえばいいの、神様……試練である。
4年前添削をはじめたときある作品にひとこと「陳腐」と書いたところすぐさま教育的指導を受けた悪夢がよみがえる。
妻はぼくが逡巡していると、「あんなに古い木からあんなにいきいきした緑の葉っぱが出てくることって奇跡じゃない! すごいことだと思わない?」と興奮している。興奮した妻ほど怖いものはない。
そりゃそうなんだが、俳句は感覚を言葉に乗せるものゆえ……
おそるおそる、「気持ちはわかるんだけどなんだか<標語>みたいな気がしない?」
妻は怒らず「そういわれてみればそうね、標語かあ」と第一関門は乗り越えてくれた感じ。
そこで言葉を継いで、やわらかな口調で、
俳句は実感をストレートに出すことが大事であると説き、
自分自身をその木の近くに立たせてこの景に参加させられないかな、
と展開した。職業柄このへんはうまく運べるようになったかな。
千年樹といってもほんとうは何年たっているかわらないわけだからもっと自分で感じたほうがいいのでは、たとえば、
わが腕の回らぬ樟の若葉かな
とかすればまさに実感が乗るでしょう。

妻ははっとした表情になり、ここまで持ってくるのが俳句ですかあ、という顔をする。
「よく短時間でこういった切り口を思いつくわね」と添削に感動している。
ほっとした。木の種類を名状したほうがいいことにも気づいてくれた。
ああよかった、仏さま。
妻はまだ樟にこだわっていて、古ぼけた折れそうな枝にどうして若葉が出るのか不思議がっている。そこで、
樟の折れさうな枝も芽吹くなり
と提案してみた。
夫婦生活もサービス業感覚で持っていることを再認識した。

これで試練が終ったと思いきや夕べも妻は「俳句を書いてみた」というではないか。
またか! 気乗りはしないが避けて通れない。
駅おりてすってんころりん雪明り
前よりよくなっている。標語ではなくなって俳句に近づいた、というと喜んでいる。
ただし、「駅おりて」でなくて「電車おり」でしょう。
素直に聞いている。
ぼくのいうことを素直に聞く妻なんてもう何十年も見ていない。うれしいというか怖いのである。
とにかく俳句問答はしたくない。それより夕食に一品多くつけてほしいというのが本音。

予想できない妻が怖い。
夜、「ねえ、そっちへ行っていい?」などといってぼくの蒲団に入ってきたらなどと思うとぞくぞくして怖くなる。
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ヒトでなしは教祖になれる

2016-01-30 04:30:52 | 

京極夏彦『ヒトでなし』(2015/新潮社)のテーマをひとことでいえば、ヒトでなしは教祖になれる、ということである。

さる図書館の新刊書の棚にあった本書の表紙の絵にひかれ1ページ目を開くと、
前妻――というと、まるで次がいるかのようだし、別れた妻というのも違う気がする。……妻だった人、か。
という男ならではのもって回った言い方が気に入った。もって回った言い方に哲学する気配が濃厚で「ヒトでなし」にしても表面的な俗な匂いを取り払った真の言葉の指すものを求めようとしているところがおもしろい。

主人公尾田慎吾は家庭があった。
娘を見ていてちょっと目を離したすきに見失って……気づいたとき溺死体となっていた。あとで誘拐殺人事件と判明するのだが、このとき娘を見て泣いて悲しむことができなかった。
半狂乱になった妻はそんな夫を冷酷無比とみて「ヒトでなし」の烙印を押し離婚に至る。同時に職もなくし慎吾自身もヒトでなしと考えるようになった。

このヒトでなしを中心に、
高校時代の友人でバブル経済で財をなすも破産して借金まみれになった男と、
その借金の取りたて最中に兄貴分をひょんなことで殺してしまったチンピラと、
国家規模の莫大な遺産を引き継いだため群がる人々の汚さをみて人への信頼を失って死のうとする女、
の4人が旅をすることになる。

ヒトでなしは人と関わりたくないのだが、雨に濡れ死のうとしている女がぶざまなので、そんなことじゃ死ねない、みたいなことを言ってしまう。「死にたい」という女に「じゃあ死ねよ」と冷たく突き放す。
この冷酷さが女に「私はそれで正気を取り戻せたんです」という効力を発揮することになりこの世の側へ引き戻す。以後、女はヒトでなしを救済者として崇めつきまとう。

京極さんの偽悪系諧謔が随所に冴える。
生きていたくないという気持ちと死にたいという欲求の間は思っているよりずっと広い。生きていたくないといっても死にたいのではないだろう、ということを徹底的に突きつける。
畳みかけるような物言いが繰り返されるがリズムがあってぐいぐい本質に迫っていくのが爽快である。

アフォリズム的言辞も結構散在する。
ホームレスの多くは家をなくすのではなく、家を捨てるのだ。

汲んだところで他人の気持ちなど解るものではない。そもそも、相手の気持ちを汲め、他人の心情を忖度しろなどとことあるごとに余人は謂うが、それは不可能だ。

「一本道が十本百本と枝分かれする。好きな道を歩けるようになる」
「何本道があったって、歩ける道は一本だろう。自分は一人しかいないよ」

小説においてアフォリズムの多い文体をぼくはあまり好まない。教訓を垂れないでもっと描写して見せてよ、と言いたくなるが京極さんのそれはスパイスとして心地いい範囲内にある。

圧巻は4人が身を寄せた寺の住職が、慎吾のヒトでなしぶりは宗教の指導者になれると太鼓判を押し寺を譲るところである。
人を救えるのは人でないものだけである、という真理がいきいきと立ち上がってくる。それは今の宗教界への痛烈な皮肉にもなっているだろう。

寺へは4人のほかに、リストカットを繰り返す少女や、女の子を何人も殺すことしか喜びの得られない少年とかが次々やって来る。
人殺しばかりの寺の中で人殺しが別の人殺しに対してお前より俺はまし、というような線引きを企てるところは非常に人間的で興味深い。これは法律でいう量刑の発想になるがこ作者は徹底的に人の世の法律的発想を排除し、哲学的に切り込んでいる。
ヒトでなしが、人間なんてみんな一緒だ、線など引けないのだと断を下すところが後半の山場であろう。

京極さんの哲学が黒い諧謔の味つけで縦横無尽に展開されて喝采を挙げたくなる。
京極さんはあるインタビューで次のように語っている。
例えばヒドいことをした人を「このケダモノ!」と罵りますけど、獣は大抵そんなことはしないという(笑)。ヒドい行いというのは、概ね極端に「人間らしい」行いだったりするわけです。

人はそう簡単に「真のヒトでなし」になれないことを思い知らされる本である。
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甘利大臣辞任とかけて…

2016-01-28 18:37:50 | 世相

甘利大臣辞任とかけて

4の字固めをかけられたジャイアント馬場と解く

そのこころは

すぐギブアップした


4時40分ころ、甘利明経済再生担当相(66)=衆院神奈川13区=は28日夕、内閣府で記者会見し、週刊文春が報じた金銭授受疑惑の責任を取って辞任すると表明した。

秘書に責任をなすりつければ蜥蜴の尻尾切りで逃げ切れた可能性も十分考えられたので、潔さともに政治家としての生命をつなぐ頭のよさを思った。

それはすなわち必殺技を食らった故ジャイアント馬場の粘りのなさに通じる性質のものであろう。
馬場さんはザ・デストロイヤーの4の字固めを食らったときだいたい5秒未満でギブアップを伝えた。がまんしなかった。
こんなにはやくギブアップする一流レスラーは馬場さんくらいのものであった。
一見なさけないのであるが、しかし、これがあとの展開を有利にした。
ここでダメージを最小限に食い止めることで2本目、3本目(むかしは3本勝負が多かった)を取り返すことをもくろんだのである。

しかし政権にとって大きな痛手であることはまちがいない。
でも野党には敵失しか攻め手がないのがやはりさびしい。日本の政治全体が脆弱な気がしてならない。


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言葉のほぐし方、川柳VS俳句

2016-01-28 16:17:37 | 俳句

1月14日付の「よみうり時事川柳」の長井好弘選に入った次の句に感心した。

難しい民とメルケルやっと知る  阪本敬彦

これはドイツに受け入れた難民が婦女暴行などの犯罪をおかしたことを詠んでいる句である。「難民」という熟語を「難しい民」とほぐしたことで元の概念がこわれて別の意味を帯びさせたセンスが光る。
「難民」は戦争や政治的混乱などで困難な状況にある人々、あるいは避難する人々という意味だが、「難しい」としたことで彼等の性格、行状などが厄介であるという新たな意味を獲得したのである。
田を耕して土塊を分解する作業に似る。土塊はばらばらになって空気と多く接することで発芽しやすくなる。
短詩系においても我々はお百姓さんのように言葉の分解、言葉をほぐすことで概念をこわすとともに読み手に句意飲ませやすくする作業を行っている。

この川柳の場合、言葉をほぐし元の概念をずらすことでおもしろみを獲得したが、俳句はそういったおもしろみを狙うことはあまりしない。
俳句はもっとまともに状況を描くことが大事であり、川柳に必要なひねりの要素はほぼない、あるいは邪魔といっていい。
次の句は去年ぼくが出会った添削希望の句である。

撮り鉄の雪原に立つラストラン


ぼくはこのとき「撮り鉄」なる流行語を知らず、ウィキペディアのお世話になった。それは、
撮り鉄[とりてつ]とは、「鉄道ファン」の中でも、とりわけ列車の写真撮影(画像・動画記録)行為を趣味とする層の総称である。
と解説する。
時事川柳なら「撮り鉄」で通用するのかもしれぬが俳句では通じない。
俳句に流行語を入れることは本質的にむずかしく、それを使って秀句にする可能性はきわめて低い。
この言葉を含め全体でどういう状況を言おうとしているのかを再構築しなければならない。
俳句は特殊な言葉や新語はできるだけ避けて普遍性あるわかりやすい言葉にほぐすほうが成功する率が高い。
つまり次のようなことを言いたかったのだろうと推察した。

列車撮るカメラ居並ぶ雪野かな


作者はラストランも言いたいことの一つであったかもしれないが、俳句という詩ではそう重要ではないだろう。
俳句は見えることが大事であり、五感の中でも視覚に訴えると句がきりっと立つのである。

川柳より俳句は言葉をほぐしてやわらかくして詩情を獲得するケースが多いといえるだろう。
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歯、魔羅、目、そして雨漏り

2016-01-27 16:14:00 | 身辺雑記

良寛さんの五合庵


きのうわが家の屋根を点検した業者が報告書を持ってきた。CDで屋根の問題個所を撮影してありそれをパソコンの画面に表示した。
「信じられないような映像ですよ」と業者のいう屋根は、前回の塗装の不備やらカビの繁茂しているところやら、浸水しそうな穴やら、つまびらかに見せたのであった。
すわ一大事!すぐさま修繕しなくちゃ。ぼくは修繕費用の見積もりたてることをお願いした。

業者が帰ってから妻が「あなたは向こうが言う前に向こうのペースに乗っていた」と笑う。
「あれじゃ向こうにとって鴨葱だわ。騙されやすい人なんだから」と馬鹿にする。(そもそも君に騙されて現状となっているよ)
妻は屋根のいかれ具合は想定内であったらしく、結構よく調査したこの業者も心から信用はしていない風情である。
この件は妻に任せることにしたが金の工面はどうするのか。
本籍地の貸家を買ってもらうとか考えているようだ。

男の老いを端的に表す三つが俗にいう「歯、魔羅、目」である。目は去年手術したからいちばん先に衰えた。歯と魔羅はまだ頑張っているが、人が住む家もがたが来ている。
「持つ」ということはまことに面倒である。
良寛さんの住んだ五合庵は彼の所有ではなかった。
後援者がときに来て屋根の補修をしてくれたのであろう。
良寛さんの「持たない境地」には到達できぬ凡百の人間は持つことでわが身を縛っている。
家なんて売って夫婦そろって社員寮みたいなとこころへ住み込んだほうが気楽である。

悠々自適などほど遠い。
家族を持ったこと、家を持ったことがそもそもの問題であった。しかし、それを持たないと社会ではたぶん人として認めてもらえないことになる。
「もう魔羅は機能しなくていいけど屋根はあと30年もたないとね」という。
妻というのは屋根を共有する相手のことである。
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