1週間ほど前、妻が食事のときにこにこして「わたし俳句書いたのよ」という。
一瞬耳を疑うも妻はそそくさとノートを出してひらくではないか。
「み、みたくない…」と言葉がもれると「どうして?」とやさしく依然にこにこしている。
妻の書いた俳句なるものに何か言うことでこの笑顔がギャッと引きつり家が凍土と化すことをぼくは極度に恐れたのであった。
ひらいたノートには
千年樹今年も若葉そこにあり
とあった。
う、う、うっ…なんといえばいいの、神様……試練である。
4年前添削をはじめたときある作品にひとこと「陳腐」と書いたところすぐさま教育的指導を受けた悪夢がよみがえる。
妻はぼくが逡巡していると、「あんなに古い木からあんなにいきいきした緑の葉っぱが出てくることって奇跡じゃない! すごいことだと思わない?」と興奮している。興奮した妻ほど怖いものはない。
そりゃそうなんだが、俳句は感覚を言葉に乗せるものゆえ……
おそるおそる、「気持ちはわかるんだけどなんだか<標語>みたいな気がしない?」
妻は怒らず「そういわれてみればそうね、標語かあ」と第一関門は乗り越えてくれた感じ。
そこで言葉を継いで、やわらかな口調で、
俳句は実感をストレートに出すことが大事であると説き、
自分自身をその木の近くに立たせてこの景に参加させられないかな、
と展開した。職業柄このへんはうまく運べるようになったかな。
千年樹といってもほんとうは何年たっているかわらないわけだからもっと自分で感じたほうがいいのでは、たとえば、
わが腕の回らぬ樟の若葉かな
とかすればまさに実感が乗るでしょう。
妻ははっとした表情になり、ここまで持ってくるのが俳句ですかあ、という顔をする。
「よく短時間でこういった切り口を思いつくわね」と添削に感動している。
ほっとした。木の種類を名状したほうがいいことにも気づいてくれた。
ああよかった、仏さま。
妻はまだ樟にこだわっていて、古ぼけた折れそうな枝にどうして若葉が出るのか不思議がっている。そこで、
樟の折れさうな枝も芽吹くなり
と提案してみた。
夫婦生活もサービス業感覚で持っていることを再認識した。
これで試練が終ったと思いきや夕べも妻は「俳句を書いてみた」というではないか。
またか! 気乗りはしないが避けて通れない。
駅おりてすってんころりん雪明り
前よりよくなっている。標語ではなくなって俳句に近づいた、というと喜んでいる。
ただし、「駅おりて」でなくて「電車おり」でしょう。
素直に聞いている。
ぼくのいうことを素直に聞く妻なんてもう何十年も見ていない。うれしいというか怖いのである。
とにかく俳句問答はしたくない。それより夕食に一品多くつけてほしいというのが本音。
予想できない妻が怖い。
夜、「ねえ、そっちへ行っていい?」などといってぼくの蒲団に入ってきたらなどと思うとぞくぞくして怖くなる。