藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の9月下旬の作品を鑑賞する。
9月21日
秋の昼人形の首抜いてある
「秋の昼」はやるせない季語である。身の置き所のない所在なさは作者も感じたようだ。「人形の首抜いてある」はどういう背景があるか知らぬがこの季語にどんぴしゃである。
牛小舎の空の月日や帚草
かなり前に牛を飼うことを辞めた農家。小舎はがらんどう。辺りに帚草が繁茂する。これまた、やるせない光景。
庭石も根を張る秋の夕まぐれ
山で遭遇する巌の確かさが「根を張る」であるのはわかる。庭に置いてある石も根を張ると見たのは秋の暮ゆえである。「根を張る」で一句になった。
9月22日
栗焼かむ意(こころ)はあれど面倒臭
たしかに栗は食べるの厄介。なにせ皮が固くて頑丈。誰か剝いてくれたら食う、という代物。
目玉焼夜長の酒の終りかな
目玉焼で飯を食うのか。先生はそれだけ食べるような気がする。目玉焼は先生の酒を終わらせる腹に溜まるものなのである。
9月23日
一葉づつ落して朴も身拵へ
桐一葉を朴に転じた。朴の葉も大きい。落として身拵へ、という文脈がおもしろい。女性の場合、着て身拵へである。
決めてをり月見の芒採るところ
月見はイベントゆ優良な芒が欲しい。穂が出て何日とかいったことを考えている作者が居る。
ひやつくりも出し夜長の子もう寝ねよ
ひやつくりは、しゃっくりのこと。それが出たからもう寝なさい。夜更かしを諫める口実がおもしろい。
9月24日
無花果に水は面を張りにけり
池か沼か水がみなぎっている。湘子は「面(おもて)」という言葉が好き。「桐一葉面をあげて落ちにけり」は、面を使った一物の圧巻ではなかろうか。
疑へば萩散る今もうたがはし
何を疑ったかは知らぬ。この場合何かわからなくてもこの句の瑕瑾ではない。何かの疑いと萩が散ることの引き合いを味わえばよい。
9月25日
長身を永久に羨しみ紅葉晴
長身の誰かがそばにいるのか。背丈に優れた偉丈夫に男は憧れる。そういう男は紅葉も映えるだろう。
紅葉山浮世と音を交し合ふ
浮世の音は人が集まってのお喋り等であろう。さて紅葉山にどんな音があるか知らぬ。そこは曖昧だがこれで紅葉山がくっきりと際立つ。
文弱の胸あるかぎり雁わたる
「文弱の胸」とは作者であろう。それは昔は労咳の胸であった。軟弱の男の象徴である。それに雁を配したのはさすが。
9月26日
栗剝きて敵をつくらぬ志
これを読んで、逆に、何をすれば敵をつくる志かと思った。たしかに栗を剝くのは平和である。
青年の鬱鶏頭の高さまで
漠然とした青年の鬱が「鶏頭の高さまで」で実体を与えられた感じ。鶏頭の入り組んだ構造に鬱を思う人は多いだろう。
9月27日
蚯蚓鳴く異形の耳を持つ老に
「蚯蚓鳴く」という季語は架空である。蚯蚓に声があるわけではない。しかし「異形の耳を持つ老」ならあるいは声が聞こえるかもしれない。無理のないファンタジーである。
ばたばたと昼過ぎ桐の一葉かな
桐一葉に対して、「ばたばたと昼過ぎ」という下世話な文言が生き生きする。これぞ俳諧の味である。
9月28日
待宵の海彦のゐる港かな
海彦を見た者はいるか。いないだろう。架空ということでは季語化しいる「蚯蚓鳴く」より扱いにくい人物(想念)を大胆に使った。海彦が感じられるとすれば季語「待宵」に負うところが大きい。
9月29日
ピザパイのにんにくつよき雨月かな
つまらいなあ、雨で月が見えねえや、という感慨に対して「ピザパイのにんにくつよき」がエネルギッシュでよい。配合の妙であろう。
さやりけり月見の芒つとあるを
い。配合の妙であ
「さやりけり」は「触りけり」である。下五び「つとあるを」と置いたことで上五が生きた。
9月30日
書き残し詠ひのこせし月まつる
「書き残し詠ひのこせし月」とおっしゃるが作者も月に関しては書くことはそう残っていないと感じているのではないか。そこで、すかさず「月まつる」と転じたのは技である。お見事。
もの書くや月見るこころありながら
前の句を受けてのものか。そう書き残されていない月に関して書いているのではあるまい。締切に追われていて月見をゆっくりしてはいられない、という言い訳が可笑しい。