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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

雑草という名の草はない

2023-03-26 06:29:56 | 言葉
黒鐘公園


島田駱舟さんから彼が主宰している印象吟句会「銀河」という小冊子が毎月届く。すべて題詠で句を作ていてその2023年3月号の題の一つが俳人も無視できないものであった。
すなわち、

雑草という名の草はない

というもの。これは植物学者・牧野富太郎の言葉らしい。いつか句会で「雑草」という句が出されたとき誰かが「雑草という名の草はない」といってたしなめた記憶がある。
この言葉をヒントにしてどんな句を作ったか。伊藤こうか選から小生の気に入った句を探した。

親分は鉄砲玉の名も知らず 菊地良雄
鉄砲玉は、鉄砲の弾丸というほかに、行ったきりで戻ってこない人間、 転じて、そのような役割を果たす者という意味がある。最下位のヤクザであろう。親分の言うなりに手足のように働き刃傷沙汰もやる。題の平等という概念の反対を句で展開しておもしろい。

以下同文誉めているのかいないのか 島田駱舟
賞状授与の場面。最初の入賞者は全文を読むがあとは面倒ゆえどこでも省略される。平等じゃないじゃないか、とかみついている。

下っ端は戦争なんかしたくない 菊地良雄
そうなのだ。戦争を仕掛けるのは政治のトップにいる人たち。下っ端は戦争でどんどん死ぬ。雑草には名前などないじゃいかと戦争で死んだ者の怨嗟の声が聞こえる。

牧野先生をイヌフグリが訴える 佐藤孔亮
あのかわいらしい花を「犬の睾丸」と名付けたのはなにゆえか。名前をもらったのはいいがもうすこし何とかして欲しかったよ、とイヌフグリが言っています。

異論多々承知五類へ一括り 金子千枝子
これは新型コロナウイルスのこと。それにしても「雑草という名の草はない」からここまで飛躍するのは凄い。

いくつかの偽名で詐欺師荒稼ぎ 堀江加代
どの偽名でも成功してどの偽名も気に入っているという詐欺師の心理。偽名で詐欺師という展開は見事。

番号の点呼にも慣れ塀の中 土方かつ子
どの草も平等という表題の意図をもっとも忠実にこなした句。人の場合、名前が消えて番号になって囚人という発想がいい。

少年Aと呼ばれた彼は今どこに 瀬田明子
未成年で凶悪事件を起こした場合マスコミがよくこう呼ぶ。行く先をわからぬようにどこかに住まわせる。ここまで題を飛躍させられるのはこの会の川柳の魅力。

我が辞書に雑魚などないとさかなクン 秋山了三
ほかの作品から見てやや飛躍が足りない印象だが、まさにさかなクンの内面を見てきたように描いた。

千鳥ヶ淵無名戦士の花筏 古川大晴
花びらのひとつひとつが戦死した人という擬人化。俳句でこの擬人化はどうしようもないが川柳だともつ。これが川柳と俳句の大いなる違い。

あだ名しか覚えていない友はるか 藤井美沙子
同級生だろう。あだ名だけれどしかとイメージがあるとその人への思慕。悪くない。

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いろいろな「雑草という名の草はない」を見てきて、小生にその意識の句があることに気づいた。去年の今ごろ書いた句。着想した場所も覚えている。結を遊ばせたプレイステーション。地面が掘られて凸凹でありいい遊び場である。

犬ころに石ころに影うららけし わたる

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余震と乱暴と

2021-04-04 06:03:46 | 言葉


3月のひこばえネットでこのような句が出た。

十年を経て余震なほ春の闇

作者の名誉をかんがみ細部は違えたかもしれぬが大筋こういう傾向の句であった。一読して余震と春の闇の取り合せに惹かれた。が、十年経て余震は実感がないのと、「余震なほ」が鬱屈している、「余震」に十分「なほ」の要素を含んでいる、などの理由で採らない方向へ意識が向かった。それに「十年」の意識は東日本大災害をこうむった現地の人の感慨であるべきだがうちの句会に東北の人はいない。この句の背後にニュースが濃厚にある。どんどん評価はマイナスに転じてしまった。
そういう評を書くと作者が猛反発した。自作についてあれこれ言うのはルール違反だが今は言いたい、という彼の熱意に打たれ発言するに任せた。
すると「余震は気象庁でもそう言っている」と作者を援護する意見も出来し小生は劣勢になった。お上がどう言っても「余震の十年は長すぎる」と思う。俳句を書く場合たんに「地震」でいいではないか。
すると、気象庁が「余震」という言葉を引っ込めた。

「東日本大震災の余震」発表取りやめ 明確な判断困難に
朝日新聞社 (2021/04/01 10:06)
気象庁は1日から、東北沖などで地震が起きた時に、「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の余震と考えられます」と発表することをやめた。東北沖などで起きる地震の発生数が、震災前の2001~10年の年平均にかなり近づくまで減り、「余震かどうか明確に判断するのが難しくなってきた」としている。(山岸玲)


やれやれ、やはり言葉は自分自身の感覚を信じるしかない。特に詩歌をやる人間は言葉の原点へ立つ意識が大切と痛感していると、北のほうの新聞社の論説委員という方から突然メールが入った。
彼はぼくのブログ「雨虎は雨に濡れた虎じゃない」(2019-01-30) を読み、ここで取り上げていた

雨虎甘言の世に在りつづく 中尾寿美子


の句の意味を教えて欲しいとのこと。彼がこの句を何に使うかは知らないが、「強姦でなく乱暴と言い替える時代」 という題をつけて返信した。
女性が強姦された事件で新聞はいま、「乱暴」というやわな表現をしますね。 婉曲表現です。「乱暴」は殴る、蹴るといった障害を及ぼす行為をまず思わせます。「強姦」から本来は遠いです。「強姦」には「強姦」という言葉があるわけですが使いにくい時勢となっています。それは甘言の世に通じます。このように世の中全体がまったりとゆるいのを好むようになっています。 そういったことを念頭において書かれた一句ではないでしょうか。
新聞社の偉い人ゆえ、少し意地悪な材料で解説したのだが、言葉というのはいかに世間の思惑を帯びているかということである。俳句で「手垢がついている」という言い方もこれに通じるだろう。言葉が流通するのに万人の了解は必要であるが、それが個人の意識に食い込んで個人の自由をゆがめることにもなる。
言葉と付き合うのは世間、社会と付き合うことである。しかし付き合ってばかりいると自分がなくなる。たんに新聞やテレビなど向うから来たものを受け入れていていいものではないのである。


撮影地:上野公園
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捨てられぬ聖書

2021-03-22 11:42:03 | 言葉


「日の下に新しきものなし」という言葉をよくつぶやく。俳句をやっているとしゅっちゅう似たような句を目にし、この言葉を思い出す。
類想を嫌えと師匠は言うが類想ゆえに作品は多くの人に理解されるのではないかという反論も生じる。新しいといったところで新しく見えるだけである、とずっと思っている。
「日の下に新しきものなし」という言葉の出典は聖書であると知っていた。

その出所を当たってみたくなって手持ちの『舊新約聖書』の「傳導の書」を開いた。
その第一章に以下のように書かれている。


傳導者言く 空(くう)の空 空の空なる哉 都(すべ)て空なり 日の下に人の勞して為すところの諸々の動作(はたらき)はその身に何の益かあらん 世は去り世は来る 地は永久(とこしなへ)に長存(たもつ)なり 日は出で日は入り またその出し處に喘ぎゆくなり 風は南に行き又轉(まは)りて北にむかひ 旋轉(めぐり)に旋(めぐ)りて行き 風復その旋轉(めぐ)る處へかへる 河はみな海へ流れ入る 海は盈(みつ)ること無し 河はまたその出きたれる處に復還りゆくなり 萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見るに飽くことなく耳は聞くに充ること無し 先に有りし者はまた後にあるべし 先に成りし事はなた後に成るべし 日の下には新しき者あらざるなり
(「傳導之書」第一章から抜粋)

旧字、ないしそれに類する凝った作りの漢字の多い文語体。
格調の高い翻訳でよくもここまで訳したかと努力と言葉のセンスを讃えたい。しかしこの本に翻訳者、発行元、発行年月日など記す奥付がない。
通読すると、鴨長明の『方丈記』の、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
の情趣と似通っていて驚く。西と東、年代もかけ離れていて、人種も異なるのに、無常感は人類に共通するようである。

さて問題の「日の下に新しきものなし」の件であるが、原典は「日の下には新しき者あらざるなり」である。
「者」に驚いた。ぼくは「もの」は「物」と思い込んでいた。者なら人物であり、仮にこの者を預言者と取れば預言者はいつの世にも現れるという解釈も生まれて不思議ではない。
ぼくはキリスト教者でも聖書研究家でもないので興味はあるがこの世界へ入って行かない。
原典に当たってみるとそこにはまるで違う世界が待ち受けているのは理解できる。
この聖書、自分で買った記憶はない。
いま本の大整理にかかっているが、この名調子の文語訳は捨てられない。聖書で日本語の格調を学ぶのは皮肉ではあるが。

コメント (3)
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プロレス好きの女は俳句がうまい

2019-02-13 02:32:47 | 言葉

小川めぐるさんが好きというミル・マスカラス



ブログをやっているといろいろ驚くことに遭遇する。
おととい書いた「アブドーラ・ザ・ブッチャーは切字であった」へ寄せられた小川めぐるさんのコメントもその一つである。
「私もいまだにカラオケでスカイ・ハイ歌ったりするミル・マスカラス世代です。ブッチャーもタイガー・ジェット・シンも覚えてます~~~。熊本だからか、ボボ・ブラジルは男子が大好きで名前よく出してましたね(笑)」というめぐるさんのコメントは何度も読み返した。

ミル・マスカラスが好きでもブッチャーやタイガー・ジェット・シンに惹かれる女性は稀有。悪役でもブッチャーは多少愛嬌があるがタイガー・ジェット・シンは冷酷非情を絵に描いたような男。サーベルを口に銜えて会場を威嚇して歩き回る。こいつは本当に狂人ではないかと何度も思ったほどだ。
小川めぐるさんと面識はなく、夏井いつき門下生ということくらいしか知らなかったが今回のコメントで距離がぐっと縮まった気分である。
カラオケが好きというのも縮まった要素の一つで、ミル・マスカラスの入場テーマ曲「スカイ・ハイ」に歌詞があって歌える曲ということを初めて知った。あのころはハミングしているくらいにしか意識していなかった。
日本で「千の仮面を持つ男」と言われたミル・マスカラスのことはぼくもよく知っている。「スカイ・ハイ」は心身とも浮き立つような軽快な曲であれを聴くたびにこれから起こるミル・マスカラスの十八番のフライング・クロス・チョップを夢想して興奮した。
ミル・マスカラスは軽快・華麗を持ち味とした善玉の代表格で身長180cm、体重105kg(全盛時)。1971年2月、日本プロレスの『ダイナミック・ビッグ・シリーズ』に初来日したから足跡はほぼアブドーラ・ザ・ブッチャーと一緒。

あのころひとかどのプロレスラーに入場の際流すテーマ曲が流行っており、ブッチャーはピンク・フロイドの「吹けよ風呼べよ嵐」であった。そのころの日本のプロレスの両巨頭、G・馬場もA・猪木もむろん持っていた。
ビートルズやロック好きの編集者からプロレスとそのテーマ曲について書いてくれと依頼されて興じたほどプロレスと音楽が結びついた時代であった。

女性でプロレスが好きというだけでおつきあいしたい。でも、めぐるさんは、女子のプロレスは嫌いであってほしい。女子プロレスはぼくの趣味ではない。女子選手は興奮のあまり自分を忘れて意地や怒りや怨念に身を任せがち。つまりむきになってしまうのである。髪を振り乱し、噛みつき、殴る蹴るの乱暴・狼藉に走る。つまりリンチをしてしまいがち。女子はアマレスはしていいがプロレスはだめ、とぼくは思っている。
プロレスは相手の技を受けてやる、相手を立てるという思いやりの上に自分の技も出すという相互繁栄の精神でないと成り立たない。それが豊かさを生むのである。興奮していると見せる冷静さが常に必要な芸道であろう。

プロレスがわかるというセンスは以上のことを十分わきまえているのである。そういう女子はたぶん俳句という芸道がわかる素質をもっているのである。
小川めぐるさん、一緒に俳句をしましょう。そして聴かせてほしい、スカイハイを。ひこばえ句会は歓迎します。
コメント (7)
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視線が目線に駆逐される

2018-03-22 12:40:15 | 言葉


きのうの讀賣新聞、1面のコラム「四季」において、長谷川櫂が次の短歌を取り上げている。

いつよりか「目線」といふ語使はるる「視線」といふは死語とならむか  米山高仁

この句に対して長谷川櫂が次のように書いている。
「上から目線」「カメラ目線」というふうに使う。視線の乾いた語感に比べ、妙に生々しい言葉である。きっと「め」という大和言葉のゆえだろう。こういう言葉を愛好する現代とはどんな時代なのだろうか。歌集『不死鳥』から。

こういう問題を展開できる短歌の自由さに感嘆するとともに、「目線」が「視線」を駆逐する現状をそらぞらしく感じた。米山高仁さんは文語の言葉遣いも適切であり、ぼくと同じように「視線」支持派のように思えるが、高名な小説家にも悪銭が入りこみ、いまや「目線」と平気で書く率も増している。
いつか小川軽舟鷹主宰がこの問題に触れ、ぼくと同様、望ましくない状況と感じていることを知り、この主宰のもとで俳句を続けられるなあと安堵したことがある。藤田湘子も「目線」を手にうんこがついたほど嫌悪していた。
たしか鷹で「目線」という字を見たことがない。投句者にたしなみがあって書かないのか、主宰が闇に葬っているのかは知らないが、鷹は大丈夫であると思う。

「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則というのがあるが、これは経済のみならず言葉の世界にもかなり当てはまる。
「目線」「視線」はそのさいたるものであろう。
もはや「目線」を憤慨しているわれらが絶滅危惧種であるのかもしれない。

きょうの新聞では、「裏アカウント」略して「裏アカ」という言葉が話題になっていた。SNSで「本名を伏せるなどして、自分だと特定されにくい表現を持つアカウント」ということ。裏アカは犯罪に巻き込まれやすいことを懸念する内容であった。
言葉だけを問題にすると、小生は「アカウント」もいまいちわからない概念だが、新たに出来する道具や機器、または現象に関する新語に関してはどんな言葉で登場しても驚かない。
必要に応じて言葉が生れてその現象をカバーしていくのが世の常でありそれが言葉というものである。

まがまがしく思うのが「目線」が「視線」という立派なものを駆逐していくということ。
長谷川櫂さんは「め」が大和言葉であるからと一定の理解を示しているが、これだけ使われてきて歴史のある「視線」がなぜへんてこな湯桶読みの新語にその座を譲らなければならないのか。
すでに存在したきちんとした言葉に妙な言葉がとりついてそれを変えるのはエイリアン現象であり、乗っ取りである。
ヒトの口を割ってとつぜん怪物が現れるのに似て怖いこと不気味なことこのうえない。知らぬ間にいいものが悪いものに乗っ取られてしまうまがまがしさ。

今度、鷹主宰と懇親会でお会いしたら「目線」「視線」を話柄にし、慰め合おうかと思ったりする。よもや高貴な鷹主宰まで「視線」に乗っ取られてはいまいな……。
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