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天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

札幌は涼し凉しと歩くなり◇その2

2025-08-28 23:54:24 | 紀行




8月27日6時半開始と同時にホテルの朝食をとりそそくさと札幌駅へ。学園都市線に乗って「あいの里公園駅」をめざす。札幌からいちばんスムーズに海へ行くのはここを基点にするのがいいと判断した。石狩川と石狩湾あたりに身を置きたい。あいの里公園駅で下車しタクシー運転手に料金の概算を訊くと5000円という。散財である。財布の中を確かめてタクシーに乗ると決める。左右は農地が広がりこれぞ絵に描いたような牧歌的北海道である。タクシーはやがて茫洋とした荒蕪地へ来て止まる。左に海の音がする。1時間20分後の9時10分に来てくれるよう頼み、タクシーを降りる。

飛行機を降りて広いと感じた北海道。関東平野も広いが何か違う。それは植生であろう。繁華街の札幌も新宿も人工物が密集する。そういうところでは空の広さを感じない。地べたに人工物がないところは広さを感じその点で関東平野も北海道も同様に広さを思う。違うのは植生の荒々しさ。大和が蝦夷を畏れた気持ち、それが今も東京の人間に空間の大きさを突き付ける。

大地広し空また広し鳥渡る
広さにゆったりした気分。渡り鳥はいないが「大地広し空また広し」と言ってしまうとこれを受け止める重みのある季語が見当たらない。仕方なく3カ月先の風景を想像した。今はない景色を夢想しても誰も文句は言うまい。






草の絮無辺の空へ飛び立ちぬ
草は何のために絮を飛ばすのか。人知の及ばぬ植物の営みをつらつら眺めて空の広さを感じる。得難い時間である。


濁流に突き出て朽ち木秋の風
空も広いが石狩川も広い。毛沢東が泳いだ揚子江に突起物はなかったであろうか。






濁流の波止にごめ鳴く晩夏かな
石狩川の岸にかくも船着場があるとは思わなかった。また、ごめの集まる場所であることも。現地に来て見てわかることの多いこと。俳句は出会いがしらに賭ける詩である。


霧荒びごめの鳴き声ちりぢりに
「石狩挽歌」の「ごめが鳴くから鰊が来ると……」を思う。ごめの声は哀愁に満ちていてメロドラマでは女が来て泣いて絵になる。霧のなかでごめが鳴くといたたまれない。














大河いま大地の色やはたた神
水が土を削って流れる。川は土を運び続ける。深海はどうなっているのか。雷は大地と川を囃す。


最果てや花野なだれて海に絶ゆ
公園でない勝手に生える花が好きだ。彼らはしぶとい。












新涼やさざなみ立ちし水溜り
海のそばの雨水は不思議な存在である。激浪のそばで静かにゆらぐ。


秋晴や雨流れたる砂の綾
雨を吸い込んだ海砂を歩く心地よさ。しっとりと足を受け止める。砂が吸い込みきれない水の作る模様に見とれる。







玫瑰の実の色遊子止めたる
不愛想な海岸風景の中で草叢に赤や黄が点在している。何の実か知らなかったが場所柄、ハマナスだと感じた。一つ取って食べる。えぐみの無い鈍い甘さ。そう水分がないがナツメほどぱさついていない。

烈風に立つ玫瑰の実を噛みて
雨と風を容赦なく受ける過酷な環境にハマナスが根を張る。人が絶えてもハマナスが生きていそうである。


天に謝す玫瑰の実に遭ひしこと
知らないものに出くわすのは最大の楽しみである。名前の知らないものでもいい。未知の物に感覚が喜ぶ。それが嬉しい。



北辺の芒小振りや風の中

芒は風圧で成長できないのか。風に四六時中、嬲られている。



 このあたりには珍しい稲



稲妻や雲の湧き立つ地平線
北海道は大地を感じるところ。そこに立つ自分を強く意識する。立ち続けたいと思う。


白々と葉の吹かれをり涼新た
何の木か知らないが裏が白い葉である。葉が揉まれて秋の到来をまざまざ見せてくれる。













海から同じ路線で札幌へ戻り、南の藻岩山(標高530.9m)をめざす。東京の高尾山みたいな存在かと思ったが、風情はそうとう違う。原生林である。大学生のころ小屋番で滞在して仙丈ヶ岳中腹の原生林を思い出す。
俳句を考えたが茫洋としていてポイントを見出せない。滞在して何かに出会はないと言葉は出てきそうにない。

 山頂から見る札幌の町





昼寝覚窓いつぱいに雲光る

27日午後3:05発の飛行機は遅延した。北日本が荒れていて気流が乱れているという。30分ほど遅れて飛んだが窓の外の雲がおもしろい。

早口の機長の英語休暇果つ
耳が遠いので人の声がふがふが聞こえる。英語はよけい風のように聞こえる。早口でな機長をい機長を探すのはむつかしい。

紙コップ転げ晩夏の飛行場
風に飛びやすい紙コップ。それが転がる音は何か失う音である。夏が行く。さらば、サチ。12月、元気で横浜へ帰れ!





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札幌は涼し凉しと歩くなり◇その1

2025-08-28 01:40:32 | 紀行




 羽田で昼飯 蕎麦が美味い


8月26日、念願の札幌へ飛び立った。盟友にして名医の山田幸子の慰問である。3月体調不良が心配になって顔を見るべく航空券を予約した。その後事態が急変し白血病と診断が下った。感染症が怖いので人と接してはいけないと主治医の通達が出た。彼女はそれを厳格に守って小生とは会わないと言う。やけに固いのである。ならば行ってもしようないかといったんは思ったが、サチは籠の鳥で自分のいま住む町をほとんど見たことがない。ならばこのブログで札幌を見せてやろう、それも慰問であると思い直した。小生が見た札幌をあいつに伝えよう。

札幌といふ響きよしビール酌む
札幌いえば1958年、「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー」というキャッチコピーが日本を席巻しビール時代が到来した。羽田でほろ酔いとなって搭乗した。
飛行機の中で「札幌の気温は25度、東京より8度低い」のアナウンスがあった。降り立った新千歳は涼しかった。広い大地に雲がかかり雨が降ったようだ。千歳線から眺める風景に感動した。





時計台仰ぎ秋風諾へり
札幌いえばすぐ時計台を思う。そこをまず訪ねたが、近いと思うがなかなか到達しない。西洋の教会の尖塔を想像しており空に時計があると思っていた。何人かに道を訊いて辿り着いた時計台は小さかった。高い樹木の木々に隠れてときに針が見えないアングルさえある。

涼新た時計台まで出て来いよ
サチがここまで来ることができればなあと思った。来ないので彼女の居る札幌医科大付属病院へ向かった。ここからそう遠くなくタクシーで1070円。


 札幌医科大学附属病院

病院はどこも似たようなもの。病院と教会は静か。休んで水を飲む。
病院に人を待ちをる秋思かな

病窓に道を見てゐる秋の暮
病院にたくさん窓がある。病院から当分出られない患者の気分でそれを仰いだ。

 病院の玄関にあるのカプセルは何?


 札幌医科大学


勉学をする大学の建物と治療をする病院の建物が道一本ではっきり分かれている。サチの住む寮はどこか気になって聞いた。大学生2人はまったく知らない。彼らの歳のころサチがはわき目も振らず勉学に励んでいたのか、慶應義塾大学、そしてボストン大学で。ガリ勉で恋もしなかったんだろうな……。教授とおぼしき人に声をかけたが知らない。病院の受付の女性は「雇われ者で知らない」という。それでメルヘンふうになった。
姫の住処誰も知らない月夜茸
後でサチのこの件を電話で話した。「隠れ家みたいなところ。よほどの人でないと知らないかも」と笑う。サチは「やんしゅ」渡り漁夫である。みんなから隔絶して生活している。





病院から北へ歩くと有名な「大通公園」があると思い歩く。すると鬱葱とした森があり、「知事公館」とある。入ってもよさそう。朱の色の効いた立派な洋館である。
下闇や蝦夷の名残の太き蕗
実家にも太い蕗があってよく食べたがそれとは違う。もっと野趣に富んでいて作家・河﨑秋子が書く北海道、いや蝦夷と蔑視されていたころを濃厚に感じた。

昼暗き森より秋思ついて来し

秋の暮森が戸口にずいと来る


原生林がそのまま宅地にある感じ。北海道の森はなにか不気味である。雨のときや夕方は人を拒絶する感じで圧倒される。河﨑秋子のいう「オヨバヌ領域」である。


 大きな卵はつるつるの石



知事公館から東へすこし歩くと「大通公園」の西端へ出る。午後4時過ぎ、強めの風が吹いて涼しい。
ぬるき雨拭き払ふ風秋来る

にはたづみ色なき風の立ちにけり

札幌は涼し凉しと歩くなり

東京と5度は違う。大通公園は目を止めるものが多く快適な散歩道である。




大通公園がほかの講演と比べてそう珍しいわけではないがともかくいろいろな物があり、歩いていて飽きない。
噴水の時間堂堂巡りかな

予定なき乞食と我と噴水に

噴水の懈怠の音に憑かれたる

噴水は泉のよう健康感が希薄。ずっといるとエネルギーを喪失しそう。闘争心を奪う音である。


       


ここからタクシーに乗って宿舎に入ろうとしてトラブル発生。泊まるホテルの名前や予約番号、住所を記した手帳を持って来ていなかった。西国分寺駅で手帳のないことに気づいたが暑くて戻りたくなかった。
なんとかなるさと思ったが思い出せない。おおよその場所を言いカタカナのフォル○○というような名前のホテルというがダメ。捜していて別のホテルに出会い、同業者なら知っているだろうと助けを請うたが「ホテルは百くらいあって名前がわからないと…」とお手上げ。固有名詞の大切さを痛感した。別のホテルへ飛び込んで空き室があった、バタンキュー。スマホが21750歩をカウントしていた。くだんのホテルの名は「ホテルフォルツア札幌」であった。やれやれ、違約金請求が来るだろう。




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吉祥寺の水を詠む

2025-07-14 01:31:15 | 紀行




「今いちばん涼しい道」を当ブログに載せたあと、吉祥寺の井の頭池周辺も涼しいと思った。そこを見たくなってきのう出かけた。7時10分ころ井の頭池のほとりに着くと、ベンチで寝ている青年がいて驚く。季語「外寝人」はむかしマレーシアを旅したときバナナ園で見たが、よもや2025年の東京に浮浪者でなく存在しているとは。

近寄れば息をしてをり外寝人
息があるから寝ているのだ。爆睡といっていい状態。2時間後ここへ来てみるとまだ寝ていた。もしかして住まいがないのか病気かやや心配になった。




紗に透くる光のような蟬の声
鳴くものがたくさんあって混雑している。蟬のうるさくない声がいい。種類は知らないが蟬である。みんみん蟬や熊蟬ではない。


千々に散る光あめんぼ数知れず
前回、結とここを通ったとき池から流れ出る静かな川が気に入った。そこにあめんぼが快適に撥ねていた。今回もあめんぼが元気。

あめんぼの水輪水輪や日に映えて
樹林の下の静かな川の光。くつろげる場所である。






朝涼や川岸をゆく細き人
トレーニングをする女性であろう。細身で軽快に歩く。川の風情とぴったり合った人。景色をよくしてくれる。

朝涼の木洩れ日を舞ふ羽虫かな
小さな虫も命を謳歌する夏。「一寸の虫にも五分の魂」というが五分ないかもしれぬ小さな命が浮遊する。行く先は知らない。

頭上ゆく列車の音や朝曇
池から100 mくらい行った川の上を京王井の頭線が走る。頭のすぐ上である。こんなに近いところを通る電車は初めて。









半夏生どろどろと水緑なす
半夏生じたいもくたびれている印象。有機物が繁殖しての濃い緑であろう。

青みどろ突いて鴨や夏を越す
番の鴨がいる。青みどろに何かいるのか旺んに突いては泳ぐ。

水面まで水草みつしり油照
池は水が少なく盛り上がっている感じ。水中の水草が異様に繁殖して水を押しのけているように思える。水中は酸欠ではないか。入る水の量が少ないのである。

三伏や水草犇めき湖水饐ゆ
水草、青みどろ、藻の獰猛さを思う。植物のエネルギーは静かですさまじい。






苔青し黴また青し倒木に
大樹は倒れても頼りになる。ほかの生物のためになる。幹は美しい。

炎昼や芥の中へ亀が浮き
亀は酸欠に強いのか。ときどき頭を水面に出す。

青蘆に寄せ青みどろタールめく
井の頭池の水面はいま、緑のコールタールの印象である。中禅寺湖の透明感っと対極の濁りが見物である。






弧を描く男の子の尿や蒲の花
浅い水底の泥の中の根茎から茎が直立する多年草。横に走る地下茎によって群生する蒲。
不思議な花をつける。まるでソーセージである。秋になると毀れて白い穂絮と化して飛ぶ。2人の少年が腰を付き出しおしっこの飛ばしっこをする。それを受け止めるような愉快な花である。

湧水のきらめき四方へ木下闇
幽界へ誘ふ昏さに噴井あり
井の頭池でいちばん好きなスポット。きれいな水と音を感じる。しばらく座っていると眠くなる。ここで噴水を見たがきのうは止まっていた。残念。


ランナーの光行き交ふ夏木立
下闇へ光を引いて走者来ぬ
湖畔を走る人が多い。走る人は光を散らして元気である。





湖に水落つる音涼しかり
この水がどのようにしてここへ来るか知らない。そばに噴井がある。水の供給はこの二カ所である。清涼感満点の噴水が止まっていた。残念。

ぼろぼろの蕗の葉堅し炎天下
葉は日差しを受けてエネルギーを蓄える装置であるが日差しの力は半端ではない。ここでも食うか食われるかの闘いがある。



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故郷・伊那を詠む◇その2

2025-06-22 00:41:43 | 紀行

 新山

 

18日、村を歩き回っていて八幡様の杜近くでばったり旧友Sと会った。しばし話してからSが実家へクルマで送り届けてくれるという。「実家へ行くより新山(にいやま)を見たい」と小生が言い、そこへドライブとなった。新山は同じ富県だが実家の裏山の向こう側の地域、僻地である。小学生のころ、西ドイツが東ドイツを眺める心情はこの胡散臭さかと思ったものである。新山に親戚が住んでいて行ったことがあるが皆死に絶えて廃墟。伊那市の秘境といっていい。

Sは富県の最高峰は高烏谷山でなく新山の三界山(みつかいさん、1396m)だと誇らしげに言う判官びいき。喜んで小生を助手席に乗せた。レッツ・ゴー!

 

 

 

栗の木も精放ちたり花白く

新山地区に入ると民家はえらく少ない。あってもかたまっていてその集落を過ぎると森や山や原野ばかり。栗の花が唯一の華やぎで生殖の匂いがぷんぷん。ヒトのオスも栗の花も椎の花もみな似たような匂い。猥雑にしてエネルギーに満ちている。

 

木下闇雌伏の胡桃ねちねちと

胡桃もいたるところにあり、触ると手がべたべたする。妻の管理下から脱出してここ新山へ移住しようかというほど野趣に富んでいる。伊那市は新山へ移住者を募集している。モデルハウスを建ててそこに住んでもらい移住できるかの判断をするためのサービスである。「コンビニがなきゃ俺はだめ」というと、Sは「ここへは利便性を求めない人が来る」という。そうだろうなあ。

 

 

 

 

村祭ボンネットバス客寄せに

何十年ぶりかでボンネットバスを見た。むろん使われておらず置物。客寄せにしてイベントをするには格好の代物。コロンビアガールが歌った「東京のバスガール」の一節が浮かぶ。はるか昔のことである。

 

老鶯や山幾重にも緑濃く

いたるところに木々があり草があり山がある。緑は太陽エネルギーを無駄なく取り込んで生きる植物の叡智であると再認識する。太陽が照らしてくれる地球にいることで命があるのか、感謝したい。日光は老いた身にはこたえるが。

 

 

 新山峠

 

 

 

 

暑に耐ふる赤松は日を撥ね返し

国負けし日や脂ぎる松の瘤

松の幹は森にあって異彩を放つ。太陽に向かって存在を主張する。脂でねちねちしていてパワーがある。

 

一斉に蚯蚓灼くるは神の意か

暑くなるとあるとき蚯蚓が大挙して路上へ出て来て灼けて死ぬ。地中に住む適正の数があって蚯蚓族は調整して種の保存を図っているのか。わからないことだらけ。森羅万象は神秘である。

 

 

 

 

新山のさらに奥に、兄が「山城」について講演をした長谷がある。長谷は実家のある北福地より山が集落に接近している。というか山と山の間のわずかな平らを見つけて人の暮らしがある。東京の便利さからほど遠いところに心浮き立つ野趣が満ちている。

 

窓全部青嶺に対す明け放ち

万緑の山のしかかる校舎かな

長谷中学校と山の距離の近さに感動した。山がこんなに近くにあったら小生は黒板を見ずに山を見てしまう。旅人のほうが住人よりその土地のよさを知るのかもしれない。自然の恩恵より生活の便利を重んじて多くの人は生きる。それが文化であるが人はときに文化から逸脱したくなる。厄介な生き物である。

 

ひめぢよをん歌を歌つて身の軽く

ボンネットバスのところで「東京のバスガール」を思い、長谷中学校付近を歩いていて舟木一夫の「君たちがいて僕がいた」が口をついて出た。万緑が青春歌謡を呼び覚ますのか。

 

夏雲の影しつとりと校庭に

児童はそう多くないだろう。校庭がやけに広く感じる。暑いけれど静かな時間がここにある。

 

 

 三界山

 

青嵐生きとし生けるもの謳へ

人はたまにはエネルギーに満ちた山野に立ち、ほかの生き物たちと命を感じ合うのがいい。

 

湖の水の白濁炎暑なり

美和ダムは深そうに見えていて水深は1mほどしかないと兄が言う。3月ころ水がなく砂が堆積しているのを目撃したそうだ。濁った色に暑さを感じ脇腹を汗が流れる。

 

 

湧きし雲かぶさつてきし青嶺かな

入道雲をはじめ夏の雲はふくらんで広がってかぶさってくる。その部厚さが夏のエネルギーである。

 

 

 

 

伊那市のもっとも奥の長谷から市街へ来る。

逆巻いてときに声上げ夏の川

子どものころ天竜川を見る機会は少なかった。天竜川と飯田線が伊那谷の一番低いところにあってここが文化の中心。繁華街もここにあり、実家はここから6キロ左岸の山際にあった。川といえば家の前のものであった。

 

みんなみへ急く天竜川(てんりゅう)や夏霞

天竜川は、伊那市の北27キロほどの諏訪湖から流れ出す全長213kmの急流。ひたすら南下して浜松あたりで太平洋へ流れ込む。伊那市あたりの天竜川はまだ幼稚園児くらいにしか成長しておらず、右から左からたくさんの支流を集め水量を増してゆく。天竜川の行方は霞む、夏も冬も。

 

遊子あり川瀬をよぎる柳絮見て

我を置き流るる水と夏蝶と

流れる水と飛びゆく柳絮と夏の蝶。自分も歩き回りとどまらぬ者。行雲流水の気分をあらたにする橋の上。

 

氷水日差べたべたして来る

6月は午前は爽快だが午後は真夏の風情。氷水を食いたくなる。

 

 

連山の茫洋とある炎暑かな

夏は大気に水分が充満し雲や霞が発生する。木曽駒ヶ岳、空木岳等の高山を眺めるは夏より冬であろう。夏は登るときである。

 

天竜川から見る中央アルプスは巨大な衝立のように感じられる。そこに湧き上がる雲は雄大で迫力がある。

峰雲のやうに笑おう法螺吹いて

気勢を上げる夏の雲。人間も自分に発破をかけて邁進せよ。

 

大見得を切つてゐるなり雲の峰

さきごろ亡くなった長嶋さんは向日葵というより入道雲の感じであった。気宇壮大を絵に描いたような存在。かたや歌舞伎の千両役者、市川団十郎も素晴らしい。見得を切って嫌味でないのが千両役者である。

 

高らかに己を謳へ雲の峰

飯島晴子は「弱音吐かなくて何吐く雲の峰」と屈折して見せたが、小生に屈折の心理はほとんど無い。歌って自分を鼓舞しまっすぐ生きるのが合っている。そうしよう。

 

 

 

 

 

 

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故郷・伊那を詠む◇その1

2025-06-20 23:55:48 | 紀行

 わが出生地:長野県伊那市富県(とみがた)

 

6月18日、翌日の兄の講演を聴くために出身地の長野県伊那市を訪れた。18歳のとき上京し以後56年も東京で暮らすと、もはや、帰省というより訪問という気分であり、少しよそ者の目で故郷を見て歩いた。

 

帰省せり校歌の山の高からず

天竜川の左岸に昔、上伊那郡富県(とみがた)村があった。いま伊那市となったがその富県小学校の校歌は「南に高い高烏谷(たかずや)に続く山並み緑濃く♪」と始まる。その高烏谷山の標高は1331m。里山でありそう高さを感じない。どうということもないが懐かしい山容である。

 

 

 東南に見える高烏谷山

 

 西に見える中央アルプス

 

風涼しツーピーツーピー鳴く鳥も

実家から裏山まで500mほど。山は東になるからその影の道は夏でも涼しい。朝飯前に歩くと鳥が頭上で鳴いてくれる。鳥のことはまるで不案内。雀と鴉と鳶がわかるていど。このツーピーツーピーは好きである。

 

青蘆の覆ひし川の水の音

実家の前の川。水が白濁している。この水は裏山の中に通した隧道を通って向こう(三峰川)からやって来る。三峰川は南アルプス・仙丈ヶ岳の直下から流れ出す。兄の話では途中、石灰岩地帯を通りそこで石灰質が溶けこむという。白濁はミネラルでありこれで作った米は美味いという。川の中の草刈りをする人はいないようだ。

川の縁を歩いていたら前方から猫が来た。よく見るとキツネ系である。貂かもしれぬ、早く来いと思ったら先方が気づき反転して逃げ去った。山にはいろいろいそうで、うきうきする。

 

 

 

一本の百合と我が立つ曠野なり

東京に長く住んでいてここへ来ると緑の絶対量の多さに圧倒される。白い百合はほかの緑から浮き立つ。

 

青山河草木虫魚嬉嬉とあり

「草木虫魚」といういかめしい4文字成語をなぜか思い出す。「青山河」なる季語、小生にはかなり抽象的に感じられ使ったことがなかったが、このように使うのかもしれぬと思った。要するに膨大な緑の世界にはまった気がする。

 

 

 

竹林に風の音聞く涼しさよ

見るだけですがすがしい竹林に入る。風と一緒に入る涼しさは桃源郷。

 

せつかちに飛ぶ蝶遠くへは行かず

蝶が元気でそこらじゅうにいる。彼らはよく動くが伊那の町まで飛んで行かないだろう。

 

蝶二匹音符のやうに飛び跳ねて

この比喩は陳腐かもしれないが音符を連想した。見ていて気分よくなる。

 

 

草深くときには沈み夏の蝶

たまに草に潜ることもある。しばらく出て来ないこともある。

 

双蝶の左右に分かれまた遭はず

蝶と蝶の交尾は知らない。仲良く飛ぶ場面しか見たことがない。2匹の蝶が左右に分かれたままどちらも見えなくなった。はかない。

 

 

 

泉あり白詰草を踏みゆけば

故郷の野の白詰草の多さに驚く。緑の中に点在して美しい。踏んで気持ちいい草である。

 

手を振れば手を振り返す夏野かな

向こうの人が手を振ったので小生も手を振る。親愛の情というほどのものではない。おお君も生きているね、という感じ。

 

翠嵐に気触れさうなり捕虫網

「気触れさう」と書いたが実際、かぶれた。右腕に赤い湿疹状のものが浮いて痒い。人間は草木にも負ける弱い存在。

 

 

山颪畔草よりも早苗揺り

田と田を仕切る畦、ここに繁茂する草も見物である。田の中は稲一色であるが畔は共和国である。田の中の早苗はやわらくて風になびく。そよぐ様をコージュロイのように思うことがある。水も細波となって光る。

 

どこまで土どこから沼か水草生ふ

休耕田のなれの果てか。いちめんに水。生産に関係ない植生に風流がある。長い間見ていて飽きないゆかしさ。

 

 

 

 

 

 

あをみどろどろどろ育つ青田かな

早苗の時期を過ぎた水田はいろいろなものが繁茂する。なかでも、アオミドロはエネルギッシュ。ほかに糊のような水垢や泡も活力を感じる。

 

しつとりと十薬を踏み森へ入る

山の入り口に社がある。神主が常駐しているわけではない。杉など繁茂していて涼しい。

 

 

 

老鶯や木々の中なる木の社

樹木の中の木造家屋。これぞ日本の原風景である。付随する石段と手水。これも欠かせない。

 

滴りの音も吸ひをり青き苔

滴りとそれを受ける苔。相性の良い二つ。夫唱婦随といくが滴りと苔ほどしっくりしたカップルは稀。自然は麗しい。

 

水音を聞きつ蕗摘む木暗がり

東京を出るとき6月フキはもう無理だろうと思った。ぶらぶら歩いていて木陰にフキを見た。見たとたん食えると思った。見ただけで美味そうか否かわかる。ナイフがないので千切り、入れ物がないのでシャツを脱いで使う。

 

 

 

 

木の陰に眼休ます苔の花

木陰には苔が頑張っている。苔の花は訴えるようなものではなく木陰に似合うかそけき存在。

 

杏捥ぐ草の深みに足濡らし

いつしか足が濡れているのに気づく。草は必ず水分を含んでいる。早朝ならなおさら。日向を歩くと自然に乾く。

 

熟れ麦の焦げ色腹に染み込みぬ

山や野原の緑のほか印象的だったのが麦の焦げ茶。ずっと見ていて落ち着く色である。この麦は小麦でなく大麦。パンには向かないらしい。米と混ぜて炊飯するらしい。

 

 

風立ちて乾きし音や麦の秋

熟れ麦を見るといつも乾いているイメージである。麦わらのストローの軽さゆえにそう感じるのかもしれない。これをストローにしていた時代が懐かしい。

 

黒穂抜く遁世の気もなくはな

「麦の黒穂抜く」が正式の季語名。略して「黒穂抜く」と使う。自分自身、この作業をやったことがないがイメージが立つ。男の哀愁を秘めた季語であり好きな季語である。

 

野茨やお早うの声うしろより

ちょうど通学の時刻。道端の野茨を見ていると大きな声で合唱のように「おはようございます」と児童らが言うではないか。こちらも大きな声で返した。最近、東京の学校では路上でみだりに知らない人と話してはならぬと指示されているという。故郷の学校関係者はまだ人を信用しているらしく、ほっとした。

 

 

 

近づけば旧知の友や葱坊主

小生の生まれたのが富県北福地(とみがた・きたふくち)。小学校は村のほぼ中間点にあり小学校を越えると貝沼(かいぬま)に入り、それを抜けると桜井(さくらい)に到る。そこに八幡様の杜がある。それをめざして歩いて来ると前方に見たことのある姿が目に入ってきた。奴だろうと思うとまさしく奴であった。小学校から高校まで一緒。東京で一時、同じ女と付き合った旧知の友である。

奥から水をいただいて飲み、彼のクルマでドライブすることになった。ラッキー!

 

 

 

 

 

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