天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

プレバト「炎帝戦」雑感

2017-06-30 03:43:16 | 俳句


昨夜7時からTBSテレビのプレバト、俳句の部を見た。題して「炎帝戦」。
順位上位から特に夏井いつき先生の添削に注目した。

セイウチの麻酔の効き目夏の空 藤本敏史(FUJIWARA)
ユニークな句。「セイウチの麻酔」を考えた藤本さんに脱帽した。

喧噪の溽暑走り抜け潮騒 NON STYLE石田 明
ぼくは破調を警戒する立場だがこのリズム感は納得。先生の指摘したように、「溽暑」と「潮騒」を対比させる感覚がいい。
この2句がこの位置に来たことは納得できる。

夏の果ボサノバと水平線と 東国原英夫
ぼくはここまでの破調を俳句で認めたくない。藤田湘子は晩年の飯田龍太が七・五・五を重用したことを、俳句は五・七・五の詩形であって七・五・五ではないと批判した。そういう師についたので、五・五・七はもう感覚的に俳句を逸脱していると拒否してしまう。
したがってぼくの査定だとこの句を⑦から⑨あたりに下げる。

籐椅子の脚もとにある水平線 横尾渉(Kis-My-Ft2)
一読していうことのない句だと思った。
先生が椅子の脚と作者の脚のまぎらわしさを指摘して、<籐寝椅子のあしもと
にある水平線>と添削したが、ぼくは原句のほうがすっきりしていると思う。人間の脚であろうと椅子の脚であろうとこの場合どっちでもいい。その位置に水平線があれば十分。状況を明らかにしよとうとしすぎて添削が勇み足になったのでは。

雷鳴を吸ってうねるや蒼き海 千賀健永(Kis-My-Ft2)
これを<雷鳴を吸いうねり立つ蒼き海>と添削したとき感心した。
こんなふうには思いつかず原句でいいと妥協していた。この添削はずば抜けているのだが、「雷鳴を吸う」という擬人化はおもしろくない。俳句はそもそも「雷鳴にうねり立つ」という簡素のほうがいいいのだ。これは作者の問題。

星空の螺鈿を恋ふる夜光虫 梅沢富美男
ぼくは東国原句を⑦から⑨あたりに査定したがこの句もそのあたり。
先生のおっしゃった通り「やりすぎ」のひとこと。先生は<星空の螺鈿さざめく夜光虫>と直した。これでいいのだが、夜光虫と螺鈿のイメージがまだ近すぎる。<星空の螺鈿さざめくソーダ水>くらい離したいがここまでやると添削ではなく改作。

夕凪の帆に寝葉巻の老漁師 三遊亭円楽
円楽師匠がこんなにすっきりしない人格とは思わなかった。
先生が指摘したように中七の混雑が傷。先生は<夕凪の帆に寝て老漁夫の葉巻>と添削したがその「夕凪の帆に寝て」がわからないのだ。ぼくは「帆の下に寝る」でないとわからない。帆をハンモックのように使用している映像が出て、こんな使い方があるのかと驚いた。帆をハンモックにするのだろうか……。普遍性のない句だよ。

荒神輿はねる鳳凰波けたて 中田喜子
これは語順の問題であるとぼくもすぐわかった。
ぼくは<波蹴立て鳳凰跳ねる荒神輿>としたが先生は、<波蹴立て跳ねる鳳凰荒神輿>とした。ぼくは鳳凰と荒神輿が密着しないほうが流れると判断した。

渋滞の後部座席の浮き袋 フルーツポンチ・村上
先生が得意の毒舌で「わかったらしろよ」とおっしゃたっときぼくはわかっていなかった。名詞のみだと動きも作者の意図も出にくいのでなにか動詞が要るなあ、とは思っていた。
先生は行きなら<渋滞の座席を弾む浮き袋>で、帰りなら<渋滞の座席を沈む浮き袋>とした。
発想はこれでいいが、「座席を弾む」は変。<渋滞の座席に弾む浮き袋>であり、帰りは<渋滞の座席に縮む浮き袋>であろう。
とにかく先生にいわれるまで村上君同様わからなかったので完敗。先生の添削は総じてうまいと思う。その結果、添削句はいったい誰のものかわからなくなるのであるが。

なお、ぼくも海の句の句をいくつか書いた。

白靴はまつすぐ海へ行きたがる わたる
昼寝覚水平線に白帆あり わたる
見届けに行く母の屍と夜光虫 わたる
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男には胸板ありぬ青葉潮

2017-06-29 01:52:53 | 紀行


6月は俳句甲子園の審査員をはじめ田無の定例句会指導など活動が多かった。いつき組と知り合い俳句関連の記事をブログに多々掲載するなど句作より評論的な活動に没頭していた気がする。
忙しかった6月の最後を泳いで締めようとと志賀島へやって来た。

男には胸板ありぬ青葉潮
66歳になると体の衰えはいかんともしがたい。毎日、腹筋、腕立て伏せを等して体力維持につとめているが波にさらわれるようにはかなさを感じる。

水着着て締まり身体岩に寄る
水着を着ると精悍な気分になる。まあ岩のように筋肉が固くなるのはよくない。骨が固いのはいいが。

足浮いてつんのめりたり泳ぎ出す
沖に向いて歩いて行くと突如空足を踏む。ここからが泳ぐということか。

水割つて砲弾のごと泳ぐなり
砲弾はそうとうオーバーな自意識。泳ぐとき男は海の主人公なのだ。

黒々と海鵜と巌梅雨の底
海と空の区切り失せたり五月雨

一番得意な泳ぎは横泳ぎ。とにかく省エネで疲れない。沈む船から逃げて永らえるのに一番いい。
ところが誰もいないと思っていた海を海豹のように進むものがあった。嘘だろう。
それを必死に追ってクロールに変えた。100mほど追いかけるとそれはがばっと顔を出してニヤッと俺を見た。黒髪の女である。おぬし泳げるねという表情。
こんなアマゾンに会ったのは30年前、大雪山系で熊笹を分けてきた山女以来である。

泳ぎ女の胸突き立てて来りけり
陸に上がった女は黒い競泳用で身を包んでいた。激しく泳いだあとゆえ荒い呼吸に胸が上下していた。

泳ぎ女の砂つきし髪綺羅なせり

泳ぎ女の指もて払ふ鼻の塩
女の体力を褒めてほかに何をするか問うと「スキーと山」という。女は乾いた鼻にのこる塩を指で払った。
このとき女の口を吸ったら塩味がするだろうと妄想した。
ほんとうにそうしていたら唇を噛まれるか横面を張り倒されたかであろう。
泳ぎ女の唇の塩味はひぬ

水着より水したたれる白砂かな

少女追ふ夏潮舌を伸ばすがに
女には連れがいた。5歳くらいの少女で、女が泳ぐ間ひとり波打ち際で押し寄せる波に声を上げていた。女が陸に上がると駆けて行った。二人は親子か。
女性版「子連れ狼」のような気がした。
ちょっと一緒に泳いで二言三言言葉を交わしただけだが妄想がふくらんだ。
これも旅の醍醐味。



黒南風やタンカーに島隠れたる



点滴の雨後なほ繁し松の芯
樹林の中を歩くと雨が降っているかと思うほどすごい点滴。
樹林の外へ出るとやはり雨は上がっている。

海砂の足に執念し五月闇
砂が落ちない。玄関マットに足を擦りつけるがジャリジャリする。ロビーにも点々と砂が零れる。脱いだTシャツで足を拭うも取り切れない。
中居さんごめんなさい。あとをよろしく。





宗像市にある出光佐三の生家




翌日、藤田湘子が<七月や雨脚を見て門司にあり>と詠んだ門司へ行く。出光美術館で出光佐三の資料を見たいとも思った。

山国育ちにて船はいつ見てもおもしろい。特に金属の上の鍍金や塗料の剥げたところや錆びた金属にひかれる。もうどうにもならぬ色合が錆なのだ。



梅雨寒のペンキ剥がれし地金かな

船側のタイヤのきしみ梅雨深し

水母浮く何を聴かんとする耳か

船側を鎧ふタイヤと梅雨の鵜と




船老いて倉庫となりし海月かな

繋がれている船がまだ使われるのか捨てられてしまったか……錆びた船を見るといつも考え込む。今回その船に人がいたので聞いた。「倉庫として使っている」とのこと。すると廃船ではないのか。いや船の本来の機能は失っているから廃船か。
梅雨空に似てはっきりしない。そこがおもしろい。

俳句などやる気はなかったがやはり下手な俳句を書いてしまう……。
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型の恩恵を受ける鷹俳句会

2017-06-27 00:19:32 | 俳句

大國魂神社の茅の輪


霜柱俳句は切字響きけり 石田波郷
水原秋桜子の弟子で、藤田湘子が兄事した石田波郷のこの句は俳句の韻律性を俳句に詠んだことで特異な作品である。
この韻律を重んじる精神が秋桜子の「馬酔木」を辞して「鷹」を興した藤田湘子に引き継がれ、現主宰小川軽舟に至っている。
あとでも触れるが、上五に名詞の季語を置き、中七下五を意味のつながったひとかたまりの文言でまとめる。しまいを「けり」「なり」「たり」といった強い切字で締める、という形を湘子は『新版 20週俳句入門』で、「型・その4」に分類した。

形より入る稽古や秋の声 小川軽舟
句集『呼鈴』より。鷹主宰も波郷のように、俳句の形の大切さを句にしている。これは湘子が「型・その2」に分類した型である。
このように鷹俳句会は主要作者が俳句でもって型の重要性をアピールするほど型の美しさを追究する俳句結社である。

ぼくは型にのっとった俳句の美しさは青磁の壺を爪で弾いたときに生じる音ととらえている。型という器が鋭い音を発する。陶器ではなく磁器の質感、音感である。
別ないいかたをする。
天ぷらはカラッと揚げなければうまくないだろう。べたべたと油じみた天ぷらは型のない俳句のようなものである。食べたらパリッと音がするのが食欲を誘うだろう。
型にのっとった俳句はじとじとした情緒を払ってきりっと立つのである。
鷹俳句会は立ち姿の美しい俳句を書こうとしている。
たとえば歌舞伎の名優は舞台に立っただけでオーラを放ち観客を魅了する。そういう種類の美が型にあると考えるのである。

藤田湘子は「型は変える必要がない。中身を時代と作者が新たな内容を盛ればいい」といった。俳句の文体はそうそう新たなものはないのであり、あったとしても湘子のいう型の基本形を応用したものである。

さて、現鷹主宰小川軽舟が鷹6月号、7月号に発表した24句を、湘子の分類にしたがって見てゆく。

【型・その1】
筍や寺領見廻る雨合羽
新緑や風吹くかぎり大気圏
十薬や競争社会まだ退かず

上五を4音の季語+切字「や」とする。下五中七をまとまった文言でまとめ基本形は下五体言止め。変形したものに「まだ退かず」のような用言や「〇〇して」のようなものもある。
小川主宰が「俳句のふるさと」と呼ぶ基本形である。

【型・その2】
火の影を踏む白足袋や薪能
体内を燃やす呼吸や夏来たる
掌のつめたき汗や百合の花
日に一度あらふ頭や啄木忌

切字「や」が中七の終りに来て切る、そして下五。下五に季語が来る。季語が上五中七のどこかに来てもいい。

【型・その2の変形】
みづうみの波一重なり松の花
雨ながら稜線青し朴の花
砂利船の吃水深し五月雨
噴き上げて凝(こご)る大楠春深し

これらの句は中七のしまいに切れをいれている点で、趣旨は「型・その2」と一緒。切字が「や」でなく、「なり」であったり形容詞の終止形であったり、あるいは体言で切字効果を出す、というのが変形の意味である。

【型・その3】
拾はれて聖歌に育つ仔猫かな
ファックスの光行き交ふ薄暑かな
牛乳に鼻濡らしたる仔猫かな

しまいが「かな」の句である。さすがに鷹主宰は「かな」にいたるまでよどみない流れを維持し、最後をフォークボールのように落としている。
6月2日の当ブログで『兜太さんの「かな」は反則』と書いて批判した。
<瀬を跳び越す春の人影平和かな 兜太><谷に堕ち無念の極み狐かな 兜太>の流れの悪さから詩が発生するのだろうか。鷹主宰の句と読みやすさ、調べの良しあしを読み比べてほしい。

【型・その4】
時鳥闇殷々と盈ちゐたり
初燕読者カードに切手貼る

この型の典型は、<花の雨八千草に丈生まれけり 軽舟><春の雨和釘の稜の光りけり 軽舟>である。
つまり5音の季語で上五完結。後は流す。しまいに「けり」「たり」「なり」などの切字が来るのが基本形。「春深し」「切手貼る」といった切字なしの用言(終止形)が来るのが変形。

【一物】
かたまりより仔猫の形摑み出す
大鮑胆の琅玕つややかに
炙らるる鮑の怒り行き場なし

「一物」は型の分類とは違う。これに対する概念は「取合せ」である。ここに集めたのは季語そのもの、季語からあまり出ない材料で決めた句である。型・その1~4は「取合せ」の句をつくるために手段である。

【その他】
麦秋の空は冷たく晴れわたり
茶摘待つ夜明の空に塵もなし
古靴に慕ひ寄るなり蟾蜍
石蓴搔く波静かにて潮迅し
若葉して神戸は古き港なり

型・その1~4に当てはまらない句。24句のなかの5句、約21%。
鷹主宰がいかに型の恩恵で句をなしているかがわかる数字である。基本の型を使っていないとはいえ、「塵もなし」「寄るなり」「潮迅し」「港なり」と随所に切れを入れて韻律を重んじているのがわかるだろう。
<麦秋の空は冷たく晴れわたり>のみ結句に連用形を使って余韻を出そうとしている。
この句のみ平句でありあとはすべて立句としている。
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いつき組に構造を与える

2017-06-26 04:25:14 | 俳句


いつき組の方々と俳句を二日行い膨大なエネルギーに圧倒されました。ぼくは「それ行けミーハー吟行隊関東支部」をあふれ出るマグマと見ています。
鷹にも30代40代の若い人はいるのですがうちの連中は落ち着きがある。いつき組の方々はそんなものを放擲して前へ向かってがむしゃらに突進する。声高く笑いながら。
ひこばえ句会の面々にぼくは積極性が乏しいことを憂いていました。どこかで遠慮してしまう。いつき組の方々が遠慮を捨てて貪欲にぼくに向かってどんどん聴いてくる姿勢に感動しました。

隈取りの役者肌脱ぐ中村座 かをり
松の廊下汗の滴る掃除かな 莎草
水中の青梅銀の息を吐く 比々き
茄子一つ喧嘩の訳は分からない 葉音


ぼくが気に入っていただいた句です。いろいろな句を書くみなさんを頼もしく感じています。
リーダーの比々きさんが感じているように系統だった教育視システムから遠いところで自己流で句を書いていることへの危惧がおありなのかもしれません。
それゆえに鷹という老舗結社の同人が指導する句会に興味を持ち、ルーティーンの教育を受けてみたい人が大勢いらっしゃるのでしょう。

茄子一つの句を褒めたところ葉音さんが『私の現在の俳句力は、「たま~~にいい句が降りてくる」といった状態です』といったのが正直です。たまに長打が出るが打率が低いという思いなのでしょう。それはぼくがいつき組の方々に感じていることです。

あふれでる膨大なマグマに意識的に道筋を用意することが課題です。
道筋をつけるというのは構造の認識です。
俳句に構造があることをつよく認識するといい句が生まれる確率がアップします。
藤田湘子 『新版 20週俳句入門』(角川学芸ブックス、1,620円)は鷹俳句会の教科書です。


ここで湘子が解説しているのは、俳句には構造があることを意識せよということです。湘子は俳句を四つの型に大きく分類しました。はじめはとにかくこの型の中へ言葉をはめてみれば型の力で、いい句が生まれますよ、というのが本書の内容です。

季語とほかの言葉との関係論であり、それはたとえば新体操の選手を例にすると、ボールと身体の関係に応用できるでしょう。
ボールが季語、身体がほかの言葉。



選手たちはボールと自分の身体に対して明確な意思を持っています。ボールを左上に見るとき左手と右脚が宙に45度でまっすぐ伸びていること……といったような鋭敏な意識があってこそ観客を魅了する演技となるでしょう。
彼女たちは瞬間瞬間、ボールと身体の関係、構造を意識しています。

いつき組の方々が句のしくみ、構造ということを今以上につよく認識したらいい句を生み出す確率は飛躍します。発想力は夏井いつき先生に鼓舞されていますから、俳句の立ち姿のよさを意識したら鬼に金棒となるでしょう。
ぼくができることは構造を認識するためのお手伝いです。

みなさんのマグマの活力はわれわれひこばえ句会の面々にないもの。ぼくらを奮い立たせてくれます。
きめの細かい句会運営をしたいため毎月5名に限らせていただきましたが、毎月来て欲しいと思っています。どうぞよろしく。
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鷹7月号小川軽舟を読む

2017-06-25 07:12:47 | 俳句

国分寺市立第七小学校の坂から見上げる


みづうみの波一重なり松の花
主宰は鷹7月号の「秀句の風景」で、<樺発ちし真鶸の群や雪解川 大滝温子>を取り上げ、「よくできた自然詠は読んで気持がよい」と称えている。
同じことがこの句にもいえる。
「波一重なり」が発見である。
海ならば波は十重二十重という感じで陸続と岸に押し寄せて止まらない。けれど四方が陸で区切られる湖は嵐でない場合、波が続けてやって来ることが希。
言われてみてそうだなあ、というところに目を止める能力が際立つ。
これは、たとえばサッカーで、ボールが来そうなところにいて点を取るロナウドのようなストライカーの能力を想起させる。
無理をして詩をこしらえるのではなく自然界の詩の湧くところにしかと立つ。優れた叙景句は自分が動きを止めて向こうの動きを見逃さないところに成立する。


火の影を踏む白足袋や薪能
個性のある俳句には「俺はここを見た」という主張がある。「火の影を踏む白足袋」がそれでありこの句もさきほどの句と同様、無理をしていない。作者が動かず先方の動きに鋭敏に反応する。
藤田湘子が火とするなら小川軽舟は水であるとぼくはずっと思っている。静かに立って深く見入るという作者の透徹した眼力がここにある。


麦秋の空は冷たく晴れわたり
どうということもない表現だが、麦が熟れて風が吹くと乾いた音が立つころの空をこう感じるのはわかる。


体内を燃やす呼吸や夏来たる
この句は減量に苦慮しているボクサーや体形維持に汗する女優などを想起する。主宰がそうスポーツしているか疑問でありよくこういう発想ができたものだと驚いた。
叙景句のよさを見てきたが体内という自然への目も優れていると認めざるを得ない。


時鳥闇殷々と盈ちゐたり
そうとう技巧的な句。
「殷々」は俳句や文芸での使用頻度が高く、悪くいうと手垢がついた言葉である。音の盛んなこと、それも雷や大砲の音の形容に本来は使われる。それを夜鳴く鳥声のひびきに使いこなしたところに腕前を見る。オーバーな形容であるが鳥声と闇の間の情感を出すことに成功した。
オーバーな形容で詩情を出した句の代表として<蝶堕ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男>があるが、ここまでアクロバッティックに見せないのが小川流。


茶摘待つ夜明の空に塵もなし
「塵もなし」は誰でもいうこところであるが気持のいい句である。「夜明の空に塵もなし」と空を見せつつ茶の新芽のういういしい緑を想像させるところがうまい。


雨ながら稜線青し朴の花
雨降りの山はたいてい稜線が煙るが雲の立たない雨降りもあろう。そこが意表を突く。手前に白い花を置いたのは定石通り。


古靴に慕ひ寄るなり蟾蜍
靴はどこにあるのだろうか。古靴は廃棄されたものだろうか。
たとえば非常階段の地に接するあたりと読んでみた。「慕ひ」と見たのは作者なのだがほんとうに蟾蜍は慕って寄ったのだろうか。そんなこと俺知らないよと蟾蜍はいうかもしれないが(言葉がないからいわないのだけれど)、「慕ひ」と見たところが作者ならではの有情である。
仮に小澤實が蟾蜍を見たなら情を抜いて突き放すのではないか、そんな想像をしておもしろくなった。


砂利船の吃水深し五月雨
船なら何でもいいのではなく「砂利船」ゆえに「吃水深し」が効くし、季語が効く。陸上100m競走と一緒でスタートが決まると流れに乗れるということを俳句で見せたような感がある。


ファックスの光行き交ふ薄暑かな
こういう句を書いた人がすでにいないのかなあと思わせるほどいい薄暑。文句ない。歳時記に収録してもいいような薄暑の典型的な句。


十薬や競争社会まだ退かず
今月の12句の中でこの句は読みに迷いに迷った。
競争社会(が)まだ退かず、なのか、競争社会(から自分が)まだ退かず、なのか。そのへんがわかりにくい。
後者だとすれば主宰クラスの言語力を持つのなら「競争社会より退かず」とするのではないか。ならば前者のように読むのがよく、競争社会が厳然と存在する。そして自分もそこにいる、ということになろうか。結果は句意が似てくるのであるが言葉遣いは胡乱ではないか。


掌のつめたき汗や百合の花
「つめたき汗」はすでにいわれているところでそう驚かない。「百合の花」と併せて清涼感を出したのが見どころ。
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