天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

なつめと胡桃をいただく

2024-09-30 04:47:45 | 身辺雑記



結をみなくていい日曜日、多摩川へ行くことにした。府中四谷橋の樹林帯がまだ存在するのか見たかった。そこに森があれば胡桃がまだ採れる。
そこへ行く道すがら、ある団地になつめの木があることを思い出し、立ち寄った。
なつめはいっぱい実っていた。さて、採ろうと近寄ると蚊がわんわん寄ってきて餌食になってしまった。半袖がいけなかった。はたく暇もなく刺された。腕だけでなく耳や頭までやられた。73年生きてきてこんな蚊の大群と遭遇したのは初めて。
8月は蚊にとってもたぶん暑すぎた。9月終盤になって気温が下がった今が我が世の春なのだろう。それにしても何故なつめの木に跋扈するのか。彼らはヒトや動物の血を吸う以外、何を栄養源としいているのか。いま思えばすぐ合羽を着るべきであった。




暗渠から出る水。向こうの森が「帝国」。その向こうに府中四谷橋がある


府中四谷橋に来ると森があった。ここから下流の府中の森博物館に至る河川敷で森があるのはここと少し下流の一ヵ所だけ。そこもすぐそばまで伐られてかろうじて残っている。いま府中四谷橋の森は最後の砦である。
小生が「帝国」と呼ぶテリトリーは蔓草の天国。樹木のあるところへ入っていきにくい。去年より蔓草の勢いがよく入りにくい。しかたなく「嘴」と呼ぶテリトリーへ入る。ここは樹林へ入る道筋がはっきりしている。それは多くの人が近づきやすいことを意味するがそう大勢がここへ来ないので小生が胡桃をゲットできるのである。



木にある青い胡桃を捥ぐ。ひと房で両手いっぱいになるものもある。


随所に曼殊沙華があって目を楽しませてくれる。



胡桃に関する記事は当ブログで何度もアップしているがこれを見てここへ来たいと思う人はまずいない。多摩川の土手で眺めただけで途方に暮れるだろう。多摩川の胡桃拾いは旺盛な意欲が支える。藪へ入ることを厭わぬ克己心が要る。葉っぱや虫や雑草の花粉に触れて痒いしかぶれる。不快の要素がいっぱいなのだ。だからふつうの人は庭園へ行って清らかな水のたたずまいや綺麗な石を眺めて茶を喫する。
野生果実ハンターは獰猛に藪へ入りこむ人種である。
9月下旬に落ちる胡桃は少ない。まだ木についている。手の届くところにある胡桃を捥ぐ。ひと房8個ほど。1本の木で80個ほど採れると嬉しい。
リュックがいっぱいになって400個。ストラップが切れそう。それを自転車の後ろへ積み。前へ袋に採った215個を摘む。合計615個。以前1000個積んだことがあったが自転車がふらついて危険。以後。この程度で切り上げる。
加齢で体力、反射神経が衰えているので無理はできない。身の程をわきまえなくてはいけない。



森の入口。ここへ行く道があるわけではない。いちばん入りやすいところ。






向こうに森が見えるが胡桃はない。水際近くに胡桃がなく岸辺に胡桃があったのが不思議。その向こうの多摩川右岸、稲城市には立派な丘陵(森)があるが胡桃がない。


南武線と関戸橋の間の約2キロ。樹木はなぎ倒され、草は刈られた。のっぺらぼうの砂礫地になった。
このコンクリートの物体のあったところがかつては森であった。この物体が並んでここにあって何の作用が生じるか、誰かに聞きたい。不可思議な光景である。





蜂蜜と黒砂糖で煮たなつめ。胡桃と違いすぐ食べられるのがいい。



多摩川の森を出て別の人目に付かないところで腐ってもらう胡桃。
これからが時間がかかる胡桃である。

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鷹10月号小川軽舟を読む

2024-09-29 05:21:23 | 俳句




小川軽舟鷹主宰が鷹10月号に「今朝の空」と出して発表した12句。これを山野月読と合評する。山野が◯、天地が●。

月に墨流す雲ある鵜飼かな 
●「月に墨流す雲」、大胆な表現です。「黒雲」では言い切れない黒い光を感じます。
◯「月」に横切るように流れ行く「雲」と解釈しつつ読み進むと、下五「鵜飼かな」とあって、ひょっとしてこの「月」は川面に映っているのか?と戸惑いました。川面の「月」だとするなら、「雲」を「墨流す」と捉えるのも納得。さて、わたるさんの読みは? 
●月は空にあって川が下にあって壮大な空間を感じます。川面に映っていなくて、そういう形容をしたのだと思います。

篝火に鵜の嘴躱す鮎の影
●「躱す」は「かわす」と読みます。嘴の挟もうとするわきを鮎が逃げた、という光景ですね。 
◯鵜飼は何度か見たことがありますが、水中の「鮎の影」まで視認できるのかな? 
●水中といっても川面ですから鮎はよく見えるでしょう。
◯鵜は水中に潜って鮎を捕らえると思うのですが、上手く捕らえ切れずに水面間近まで追いかけ、結果として躱されたのかも。

鮎好きの箸も割らいでかぶりつく 
●串刺しの鮎。火で焼いたやつを食べようとしています。
◯レトリックとして、そこにないもの、行われていないことを敢えて言う手法があり、本句も中七でそれを上手く用いてますよね。これによって、手掴みであることだけでなく、供されてすぐに手にしたことも表現できており、情報効率的に優れてます。
●この句には誇張を感じます。「箸も割らいで」は味のある表現ですが、この場合鮎を食うのに箸は要りません。ですから味を出すために余計なことを言っている気がしてなりません。皿に置かれている鮎を食べるのではないので。
◯わたるさんが最初に言った「串刺しの鮎」を前提とするとそうなりますが、この前提が違うのではと思います。皿で供されたのでは?
●皿の鮎を手づかみにしたのか。すると串刺しでない鮎が皿に乗って出されたのか。ふーむ。

瑠璃蜥蜴朝礼台をわたりけり
●鮮明な句です。「朝礼台」を置いたのが技でしょう。  
◯こうした状況を把握できるというのは、作者はどこにいるのでしょうね。「朝礼台」に立っているのか、聞き手ではあるが最前列にいるとか。 
●どこにいてもいいです。書いてあることがすべてです。
◯どこにいてもいいのですが、伝聞でないでしょうから、これが見える位置にいるわけで、朝礼の話し手なのか、聞き手なのかが気になりました。
●ああそういうこと。朝礼じゃあありませんよ。朝礼ならそこに人が立っていて蜥蜴が来ません。朝礼台に誰もおらずまわりに作者以外いないときです。作者が朝礼台を通りかかったときでしょう。

巣を発ちし働き蟻に今朝の空
●どうということのない句ですがほのぼのとしています。前向きで明るい。 
◯確かに「今朝の空」が効いて、前向きな感じですね。若いサラリーマンへのエールでしょうか。 
●誰かへのエールなどは下衆の読みです。蟻のこととして読んでおもしろいければそれでいいです。そして蟻の句としてユニークかつ健康。申し分のない世界です。
◯わたるさんならそう言うと思いました。

歯を磨き歯茎を鍛へ夏盛ん 
●「歯茎を鍛へ」は歯を磨くさいに歯ブラシが肉も擦ることを言っているのでしょうね。 
◯季語ひとつで、こんな措辞も詩の領域に驚きました。
●そうですね、中七の効果抜群です。 

炎天へ海豚はおのれ発射せり
●海豚ショーの一場面と見ました。輪をくぐりぬけるような。自分を発射するという言い方にはっとしました。 
◯そうですね、「おのれ発射せり」は凄いな。私だったら、仮に「発射」という言葉を閃いたとしても、その主体は飼育員という常識に囚われて終わりそうです。

冷房にさやさや光りシャンデリア 
●この句は「さやさや」という擬態語にすべてがかかっています。   
◯「光り」の形容としての「さやさや」はかなり新鮮ですね。きっと「シャンデリア」がなくとも十分に明るい部屋なのかなと感じます。「さやさや」には、私的には軽さとか僅かさのニュアンスがあり、そのライト感覚が「シャンデリア」に洒落的に符合するというのは蛇足です。 
●「さやさや」はいいですね。

大鼓(おほかは)に指打ち込むや夏袴 
●鼓を打つことを「指打ち込む」と言いました。言われて当然と思うものの当を得ているんです。 
◯「おほかは」という読みも、「指打ち込む」という言い方も知りませんでしたが、「指打ち込む」と言われると、「大鼓」から発せられる音の強度までイメージできそうです。下五の「夏袴」の押さえも渋く決まってます。

赤紫蘇を塩に揉むまづがさがさと 
●紫蘇を調理する句をあまり知りません。そこからおもしろいと思いました。「まづがさがさと」が期待させます。 
◯丹念に「塩に揉」み込む前に、初めは大雑把に全体に「塩」が行き渡るように「がさがさと」やりますということで、レシピすらも俳句に。作句も案外この感覚なのですかね? 
●はい作句も単刀直入がいいでしょう。

幻燈に守宮の大き影よぎる 
●この句がよくわかりませんでした。守宮の影が大きいというのは幻燈機の光を放つレンズのすぐ前をよぎったからだと思うのですが、ふつうあれは宙にあります。現実的には守宮は通れないはずなんです。 
◯ここでの「幻燈」は、卓上で用いるOHPのような映写機なんじゃないですか。スクリーンに「大き影よぎる」ことでのその場のざわめきが聞こえてきそう。 
●卓上の映写機でも宙にありますから守宮は通れないはずなんです。ですから想念と読むしかないのですが、だとすると現実的な印象が強くさっぱりしません。この句は策に溺れたんじゃないですか。
◯すみません、わたるさんの言う「宙にある」というがどういう状況を言っているのかが判然としません。
●映写機の光を出すところは台に接していません。空間にあります。そこをどうやって守宮が通れますか。最初からいたならわかりますがそれだと映写する前にたぶん気づきますし、守宮もそうじっとしておりません。

雨降れば火の山に沢夏終る 
●これは噴火した火山のことでしょうか。たとえば10年前噴火した御岳。「火の山に沢」。でそのなまなましさを感じました。 
◯下関にかって砲台が設置されていた「火の山」というところがありますが、それではなく、いわゆる火山でしょう。「雨降れば火の山に沢」の印象として、「雨降」らないときはひとつの「沢」すらないような山肌を思いました。

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ああ女たちの尽きぬエロスよ

2024-09-28 06:38:20 | 俳句




鷹10月号。
月光集巻頭句、主宰が「秀句の風景」に書いていて注目した。

香水の封切る繋縛(けばく)始まれり 三代寿美代

【小川軽舟評】
「繋縛」という言葉に驚かされた。一瞬だけど「緊縛」と見間違えて、あらぬ連想に誘われたからかもしれない。「繋縛」は「けいばく」「けばく」どちらにも読めるが、「けばく」と読むのは仏教用語で、煩悩に縛られることを指す。香水の封を切るのは新しい恋の暗示であろう。それが繋縛の始まりだと言うのだから、これまで経験してきた恋の激しさとしんどさがしのばれる。

三代は確か60代の中ごろ。魅力的な女優にメディアが「恋多き女」という言葉を贈るが彼女もそういうタイプである。年齢不詳のキャピキャピした風貌が三代の売りなのだ。
主宰が「香水の封を切るのは新しい恋の暗示であろう」と読んだのは正鵠を得ているだろう。
恋は卒業したかと思っていたが驚かされた。こうしてみると同時に発表した
萍の花柵(しがらみ)を越えて咲く 寿美代
も、「萍の花」に恋を象徴させたのではないかと深読みしてしまう。この読みがそう的を外れていないと思うのは、ひとえに、「柵(しがらみ)」という言葉による。「柵(しがらみ)を越えて」には不倫めいた味わいがついて回る。

恋といえば鷹の重鎮、奥坂まやのこの句にも驚いた。
肉慾のわが身に蠅の来て止まる 奥坂まや
奥坂の句は三代のように情念に傾いて作っていない潔さがある。「肉慾のわが身」と自分をモノ化したところがあっぱれである。
以前、奥坂と酒の席で性欲の話をして盛り上がったことがある。奥坂が「女は死ぬまでよ」と言って笑ったのが印象的であった。それを晴れ晴れと一句にして見せた。
しかし、「蠅」を止まられたことで性欲を鬱陶しがっているのがわかる。奥坂はわかりやすい。
同時に発表した
わんわんと大向日葵の立ちゐたり まや
向日葵のみごとな一物と思うが、なにせ、「肉慾」の句と一緒にあると、この句にも女の旺盛な性欲を感じてしまう。奥坂の20年前の50代の肉慾が「わんわん」ではなかったかと妄想するのである。
こういう読みは邪道であるが、活力ある秀句には必ず性の意識がついて回る。俗にいう「エロス」は秀句をなす根底に横たわるものである。
奥坂や三代のような才能は意識するしないにかかわらず、性というものに敏感なのである。
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テレビが野生果実ハンターに興味を持った

2024-09-27 05:54:31 | 身辺雑記




9月25日16:13、当ブログに大手テレビ局からコメントが入った。
********************************************
「突然のメッセージ、失礼致します。
TBSテレビ「情報7daysニュースキャスター」スタッフの福田と申します。
<番組HP:https://www.tbs.co.jp/Ncas/>
今週9月28日土曜日の放送に向けて「秋の味覚最前線」に関するテーマで企画を進めている中で
秋の味覚である「ぎんなん」についての取材を考えておりまして
ぎんなん拾いを行っているブログを拝見し、この時期のぎんなん事情や実際に収穫する様子など、お話をお伺いしたく、ご連絡差し上げました。
つきましては、メール等で直接やりとりをさせていただきたいのですが、可能でしょうか。
もしご了解くださるようでしたら、ご連絡方法をご指示いただけると幸いです。
 大変急なご相談で恐れ入りますが、ご返信のほどお待ちしております。」
********************************************
ほんとうにTBSテレビかフェイクか疑ったがフェイクでこんな面倒なことをするか。28日の番組にするのに小生を使うのなら取材は27日(本日)きり。えらく忙しい話である。返信するときのう14:33にスマホにその件とおぼしき声が入った。「情報7day」の籠原という男性。旧知の間柄みたいな応対をする如才ない人。電話取材に慣れている。
彼は小生にちょっかいを出したものの今日が雨らしいので取材は無理。別の方法を取るので今回の話は無しにしたい、申し訳ない、と簡潔におっしゃる。好感を持った。
Aプラン、Bプラン、Cプラン、Dプランがあり小生はDプランでそれがだめでもほかにいろいろ手だてを持つのが放送制作であろう。捨てて残る俳句のようなものであろう。
小生もこんな忙しい話は無理だろうとはなから思っていた。出るとしたら話を挿入するだけでなく小生じたいが映像になって出たか聞くと頷く。ひぇっ!それはヤバイ。いますぐ拾える場所はそうない。正式には拾ってはいけない場所に珠玉のぎんなんがある。こういう趣味は人にあまり知られないほうがいいのである。
なぜ小生に興味を持ったか聞くと、企画にあたって市井でぎんなん拾いに興じる猛者を取り上げたくネットで検索したという。その結果、当ブログの2017年9月28 日の記事「銀杏を4キロ拾う」に行きついたのだという。
7年も前の記事である。いままでぎんなん拾いの記事は複数ブログに上げたはずだがヒットしたのは「銀杏を4キロ拾う」という素朴さであった。タイトルはもって回った言い方ではダメ、単刀直入でいけ、ということなのだ。これは俳句表現にも通じる。ズバッと行かないと胸を打たないのである。
ところで「情報7days」はいつやっているか調べると、毎週土曜日の22:00 ~ 23:24とのこと。小生には考えられない時間である。いちばんよく眠る時間。自分が出たとしても見ないと思う。まるで月の裏側を見に行くような心境。
ブログを書いていると何かが起こる。おもしろい話であった。

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漢字だけの俳句を書け

2024-09-26 05:23:19 | 俳句




「流星道場」の兼題が季題と文字題というふうにパターン化してきた。これは兼題としてもっとも手堅いオーソドックスな題の出し方。一人がそうすると簡単ゆえみんなが踏襲するようになり何年もそうなってしまった。
兼題がパターン化すると作句もパターン化する。兼題の出し方を変えても俳句が新しくなるとも思えぬが何か変えることは大事。何かを変えることを常に考えたい。それで兼題を出す人は少なくとも前月を踏襲するなと発破をかけた。
するとさすがは鷹同人、山内基成が、「漢字だけの句」を提案した。
例句として、
奈良七重七堂伽藍八重桜 芭蕉
山又山山桜又山桜 青畝
電脳界曼荼羅無辺空海忌 軽舟
を挙げた。小生は芭蕉の漢字俳句を知らなかった。よく勉強している。小生は席題で即興で作ったという以下の句を記憶している。
神護景雲元年写経生昼寝 小澤實
他にもあるかもしれぬが大御所でも一生に一度書くか書かないかという漢字だけの句である。山内の出題には魂消て絶望した。難題中の難題である。出題者はできるのか、どんな句を出してくるのか。こちらははなからギブアップである。しかし、発破をかけた身の上にて、形だけでも句を作らねばならぬ。

ところで写真は、食べ物である。食べたら美味い。塩味の中に甘みがあって食が進む。珍味である。
海苔かと思ったら料理人が紫蘇だという。よくもこんな面倒な手の込んだものを作ったものである。この紫蘇巻きは漢字だけの句のイメージである。
これを賞味して漢字だけの句に挑戦しよう。4人の先人には及ばぬであろうが。


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