藤原竜也メッセージ
義援金はまだ送っていません。来週、銀行か郵便局から振り込む予定です。
今出来る事、あなたもしませんか。
藤原竜也メッセージ
義援金はまだ送っていません。来週、銀行か郵便局から振り込む予定です。
今出来る事、あなたもしませんか。
藤原竜也「宝くらべ」よみきかせ日本昔ばなし
「石原さとみ、藤原竜也らが日本昔話を朗読YouTubeに」
記事、一部抜粋
「[シネマトゥデイ映画ニュース] 石原さとみ、藤原竜也、船越英一郎などホリプロ所属タレントによる日本昔話の朗読動画がYouTubeのオフィシャル チャンネルにて公開されている。東北地方太平洋沖地震の影響でテレビでは連日臨時ニュースが放映され、子ども番組が放映されなくなっているために立ち上 がった被災者支援だ。」
他にも石原さとみ「そら豆とわらと炭」、市村正親「どろぼうのどろぼう」、優香「海の水はなぜ塩からい」など。
「3月11日の地震から5日目。だけど混乱収まらず・・・」
日記にだったら、こんなふうに書くのでしょうか。
あまりに先が見えない昨日今日明日。それでも自分のしている仕事などを放置と言うわけにはいかず、不安を覚えてつつようやく父兄の皆様にお電話など入れ、予定をお伝えしました。
何しろ余震の恐怖に加え、計画停電の予定が立たず、それに伴ってこちらも予定が立ちません。
計画停電の一日目は混乱また混乱の一日で、いったい自分の家がどのグループなのか分からない人も多数居たと思われます。回避と言ってみたり、やっぱりやるかもと言ってみたり、結局免れたと思ったら、唯一やった所に被災地が含まれて、みんなに叱られてしまった東京電力。
だけど「未曾有」の出来事であり、同時に国の存亡が掛かっている原発問題も抱え、致し方なしと言う感じがしましたね。混乱と錯綜&不慣れ。
その計画停電も二日目からは町名までの名簿も出てかなり分かりやすくなり、今週末までの計画表も出ました。
おかげでこちらもようやく予定が立ちました。
本音を言えば、こんな風に社会全体が振り回されているような気がして、イラつきましたよ。でもこんな時だから、寛容に臨機応変に動くと言うのも大切な事ですよね。
計画停電の予定表は→こちら
昨日、その連絡を入れていた時の出来事―
午前中、ほとんどのお母さんが家に居ない事が分かりました。皆さんお仕事を持たれているのですよね。こんな時でも頑張っているのですよ。急の予定なので留守電に入れました。確認する事無くその留守電が通じていましたが、今後の予定もあるので、また夕方お電話をしました。
子供たちの様子も聞きましたが、子供たちはみなかなり逞しい感じでした。ただ幼稚園のお子さんは気持ちの動揺が、その後に影響が出て母親の姿を後追いするようになったとか。
当たり前の事だと思います。大人だって怖かったのですから、子供だったら二倍も三倍も怖かったと思います。
またあるお母さんが言うには、マンションの高層階だったので食器などがまとまって落ちてきて割れたけれど、学校が終わっていない時間だったので、その方がかえって良かった。不幸中の幸いだったと。
なるほどと思いました。低学年の子が先に帰ってきて、一人で家で怖い目にあうより、学校でみんなと一緒のほうがどれだけ心強かった事でしょうね。後ちょっと遅くこの地震が来たら、そう言う子はたくさん居たと思います。
または私の家に居たかも知れません。この仕事中に地震が来たらと言う事は、以前から私の懸念のひとつでした。子供がたくさんいた時は、それを思うと本当に憂鬱でした。個人で何かをやるときは、なんでも繁盛しているのが良いというわけではないと思うのですよね。それに伴って増える責任を果たせる事が大切になってくると思うのです。
今度の事は、さらに私に課題を課したと思います。
また違うお母さんのお話。
このお母さんだけは昼間家に居るのが分かっていました。でもあんまりにも早くお電話に出たので、誰かからの電話を待機中なのかと尋ねました。だけどめちゃくちゃな返事が返ってきました。今思うと寝ていて起きたばかりで寝ぼけていたのかも知れませんが、まるで幽霊のような声で電話に出てきたので、どうしたのかと思わず尋ねてしまいました。
すると
「こんな事が起きたんじゃ、元気もなくなっちゃいますよ~!」と逆切れ。
だからって「はい、もしもし・・・・」って、電話に出る~!?
親戚が仙台に居るそうなのですが、無事を確認。でも彼女の気持ちは復活出来ていないのですね
「お気持ち強くもってね。」とは言ったのですが、ちょっと複雑な心境です。
「お母さん、しっかりしなよ!!」と言う気持ちも確かにありますが、決してそうは言い切れないのではないでしょうか。気持ちも体の内にあるのです。鉄のような強さを持っている人も居れば、ガラスのような人も居ます。若いがゆえに世界が狭く、ゆえにその世界だけにはまり抜け出せないで居る人もたくさん居ると思います。
ましてや入ってくる情報が、テレビの不安を掻き立てるようなものばかりでは心理的には良くないですよね。
心が弱い人が、津波や原発のニュースを見続けていると、それだけでPTSD(心的外傷後ストレス障害)と同じような症状になるのだそうです。
最初は地震のニュースばかりだったテレビにも、みんなの意見が反映して子供番組から戻ってきました。
辛い状況の中でもみんなが支えあって、微笑みや感動も生まれています。
世界もみんな祈ってくれています。
家の中でお母さんが笑っているのは、お母さんの仕事です。
いつだって心強くとか明るくとかは、実は無理なときもありますよ。でも、お仕事、お仕事。
辛い時もため息つきたいとき一杯あると思います。
でも、ひとりじゃないですよ。
ちょっとおまけです。→http://prayforjapan.jp/tweet.html
おまけその2@muramura0610 さんのツイート
東大生協に貼ってあった http://twitpic.com/49nqza
おまけその3@takataka601さんのツイート
心配すんな 兄ちゃんがついてるから on Twitpic http://twitpic.com/3w8yt0
人はどんな時にも微笑んだり笑ったり出来るものなのですよ。
そして誰かが笑っていると、安心したり勇気がわいてくるものなのです。
12日の土曜日の夜、姉から電話がありました。
「一応報告だけするね、」
どきっとしました。
「なあに。」
「おばさんが、昨日亡くなったの。」
「えええ~~、あの地震で!?」
「ううん、肺炎で。」
「なんちゅう空気読まずな死因・・・」
おっと、大失言。
悪魔kiriyはうっかり言ってしまいました。
でも天使kiriyは
「死んでいくのに、空気なんか読めるか、あほ。」と、そんなもうひとりの自分を諌めました。
ずっと昔からこの人たちと両親はお付き合いをしていません。と言うより、最近までどこに住んでいたのか分からなかったのじゃないかしら。この人たちと言うのは、このおばさんとその夫。夫の方が母と一応兄弟なのです。一応とは、小説のような出来事がまあいろいろあるのですよ。両親にとってはかなり辛いような事がこの人たちとあったのかも知れません。ただ私は自分に実害がないと、人を嫌いにはなれない人なので、どう言う訳かこの人たちをあまり嫌いになれなかったのです。
おじさんは頭が良くて飛び級で大学に行ったと言うのが母の自慢でした。今は復活しているその制度ですが、昔もあったみたいなのです。でもそのせいで、母が犠牲になりました。女だからと言う理由。
でもおじさんは頭が良かったかもしれませんが、心は弱くて会社の倒産、子供の障害には立ち向かう事が出来なかったのか、お酒に溺れていきました。私は母から自慢と言うか恨み節と言うか、その飛び級の話を聞くたびに、犠牲になるのに値しない人だと子供ながらはっきりと思いました。はっきり言ってろくでなしです。でも、子供の頃しか会っていませんが、おじさんは私の事が好きでした。
私は次女と言うポジションゆえに、あまり両親に愛されていると自覚が持てない子供でしたので、自分のことを好きになってくれた人の事はやはり嫌いになれないのかもしれません。
そしてその妻は、つまりおばさんは子供の目から見たら、深く物事を考えない人のように思えました。もう言う事がボロカスですが、正直なその時の気持ちです。
それでもそのおばさんは、絶対にアル中に違いないおじさんも見捨てずに
「パパは愉快な人だから。」とパパ、パパと言っていました。
本当は何も考えないようにしていたのかもしれません。夫に失望したり、子供の事で悩んだり、思う事は一杯あったのかもしれないけれど、へらへら笑っている事が、とっても大事な事だったのかもしれません。いやいや、もしかしたらもっと強かな人だったのかもしれません。私はたぶん、何も知らないのかも知れません。
だけど障害のある息子と、家族を支えてくれた娘と4人で肩寄せあって生きてきたのは間違いのないことです。
その最後の日、誰もが余震と津波の恐怖に打ち震え、身近な人の、または見知らぬ誰かの命を思って祈らずにいられなかった日、そんな日におばさんは逝ったのでした。
ちょっと経つとがががががと揺れ、またちょっと経つとゴゴゴゴゴと揺れ、またユサユサと揺れ、そんな中で逝くなんて・・・。
命の炎は消える日は選べない。
この日に消えていった命がひとつ。
「いつ」と言う日にちは忘れてしまっても「どんな日に」と言うのは、みんな忘れないと思います。
おばさん、静かに安らかに眠ってね。
※ ※ ※ ※
一つ前の記事で、まだ「ご冥福を」と言う言葉を使えないと、私は書きました。こうして書くことは出来ますが、それは言葉としてであって、言っているわけではないのです。どうしてなんだろうと思っていましたら、テレビを見ていて分かったような気がしました。この人たちはまだ家族の元に帰っていないからかも知れないなと思いました。
ようやく津波の心配が去って引き上げが始まったと思いますが、目視でも200から300あった溺死体と言われていましたが、1000人以上の遺体の確認とか安否不明が一万人以上とさらに言われています。
でも家族の方々は、その命を信じて待っていると思うのです。
まだまだ諦め切れません。奇跡がどうぞ一つでも二つでも数多く起きますようにと、お祈りいたします。
皆様、お元気でいらっしゃいますか?
ご無事でいらっしゃいますか?
あまりに大きな出来事で、何をどう語って良いかも分かりません。タイトルさえ思い浮かばず、朝目覚めたときにふと呟いた言葉をタイトルにしました。
あまりにと言う言葉を繰り返してしまいますが、あまりのショックに「ご冥福を」とか「お見舞い」と言う言葉を言うことが出来ません。
ただ心の底から、祈っています。いろいろな想いで祈っています。時には涙と共に。
※ ※ ※ ※
3月11日14時47分頃、ニュース等では46分頃とありますが、私が揺れを感じたのは47分、大きな地震がありました。
その日はちょうど仕事に日で、3時頃から頭は仕事モードに切り替えて子供たちを待つのです。それのちょっと前、しばし休憩のつもりで珈琲を飲みながら、ツイッターで献血の事をおしゃべりしていました。
そうだ、今年のやりたい事のひとつに「献血」と言う項目を入れよう。
そんな事を暢気に考えていたその時、その揺れはやってきました。
「ああ、地震だわ。」「大きい!!」と私はツイッターに書き込んで、子供たちの部屋に飛んでいきました。
さっき覗いた時に、二人は暢気にお昼寝中だったからです。
ラッタ君は起きて既に椅子に座っていました。
「ヒーター、消しな。」と消して、ルート君の部屋へ。彼も布団の上で起き上がっていました。
「よし、起きているね。これ、結構大きいよ。」と言ったら、揺れが激しくなりました。
再び危ない廊下を通って(物がごちゃごちゃ)危ないキッチンを通って(関所)リビングに戻るのはどうかなととっさに判断し、ルート君の横に行き
「私もここで退避!!」
「人生で初めて経験した大きい揺れ」と言う言葉を他の方のツイートでお見かけしましたが、それは私にとっても同じでした。
あまりに大きく、そして長い。
関東人は、こんな時必ず思います。(他の人を巻き込んでごめんなさい)
「とうとう来た!」と。
何かが落ちる音がガチャンガチャンと聞こえました。ルート君の本箱から本がバラバラ落ちてきました。
しかしルート君の部屋は汚部屋ながら床散乱タイプなので、意外と思っていたより安全なのだと分かりました。狭い部屋でひとりでいるラッタ君に
「そっちは平気~~!?」と声を掛けました。
「おう!」と返事が来ましたが、それでもまだ地震は収まらず、私の胸はキリキリと痛み出す始末です。
私の恐怖指数はもうリミット。思わず子供に抱きついて「怖い。」と震えてしまいました。
でも私はこれを情けないとは思わないのです。家の中の弱者を守る、そう思う事は子供の中の成長以外にあり得ないからです。
「布団を被って。」とルート君が私に言いました。
上を見上げると電気の傘がヘリコプターのプロペラのように回っていました。
何とか揺れが収まった時、
これは俗に言う「関東大震災」みたいなものではないなと思いました。こんな程度で済むはずがないからです。それでも
「怖かったね。まだ揺れているけれど。。。手が震えているよ。。。」と次にツイッターに打ち込んだとき、書いたとおり手が震えていました。
もう無理かなと思いましたが、その後すぐに私は姑に電話を入れてみました。やはり無理!
次は夫、やはり無理。次は姉、やはり、む、いえ、これは通じました。
自分が掛けたくせに、瞬間誰が出たのか分かりませんでした。それだけ混乱していたのです。
横浜の姉も母も無事でした。
それが分かったので、次に私は、義母と夫と二人の妹に「大丈夫?怖かったね。」と言う短い文面でメールを送りました。幸い送るだけは出来ました。いつ見ても良いやと思っていました。
もちろん返事はすぐに返ってきませんでした。
だけど義母からはタイミングが良かったのか電話が掛かってきて無事が確認されました。夫よりも先に彼女に連絡をとったのは、私的にも意外な行動でしたが、彼女は独居老人です。テレビが転がり電子レンジは落下して壊れ、食器がいくつも割れたその部屋でひとり、どんなにか怖かったでしょうね。
私より先に夫は私にメールを送っていました。返事が返ってこなくてイライラした模様。「新着メール問い合わせ」をチェックすると言う事に少し経ってから気が付き夫からのメールを受け取った私は、それが返事かと思っていました。
夫の会社はめちゃくちゃ、片付けに時間が掛かって早くは帰ってくる事は出来ませんでしたが、家から近いところに会社があるので帰宅難民にはならずにすみました。
妹の一人は1時間半後に返信が来ました。代官山の高層ビル内に居たらしく、外に飛び出したそうです。
もうひとりの妹は6時間後にメールが来ました。なんと地震のときにディズニーランドにひとりで遊びに行っていて、それから帰り着いたのが午後10時過ぎだったのです。みんなの無事が分かって思わずホッとして涙が出そうになりました。姉の子供たちは、やはり会社に泊まって、朝帰ってきたそうです。大変でしたね。
実家の父はタイミング悪く、何がしの役員会議で伊豆に行っていました。その帰り道、渋滞に巻き込まれて深夜に帰ってきました。
私の地域は、もちろん震源地ではありません。でも大きく揺れれば家族を思う気持ちは同じです。
また、みんなの無事確認をぼんやり待っていたわけではなく、私はやる事が出来てしまいました。
普段から、ここはまずいんじゃないかと思っていた玄関の本箱と上に載せておいた季節の飾りをしまう箱は、箱は下に落ち、本箱は傾いでいました。これに倒れられては逃げ道を失います。本を抜き片付けなくてはなりません。
駄目なんじゃないかなと思っていたところは駄目なんだと分かりました。この傾いだ本箱の画像はありませんが、下のは散乱した廊下と玄関の画像です。
柊を入れておいた花瓶は転がり、まだ仕舞っていなかったお雛様も他の飾りに攻撃されています。
だけど本箱の本たちは飛び出さず、食器も割らずにすみました。それは我が家がマンションの下の方の階だからなのだと思います。
今日、日曜日なのに管理人さんが割れた瀬戸物を捨てて良いとごみ置き場を開けてくれましたが、上層階の人たちは紙袋に二つ三つと入れて運んでいました。
他の時間はテレビの情報とツイッターに釘付けでした。
津波の映像は凄く恐ろしかったです。思わずおばさんモード全開になり、「そこで止まるな、走れ走るんだ。」と声が届くわけもないのにテレビの中の車に向かって叫んでしまいました。
その声に、子供たちもやってきて
「何じゃ、この映像は!」と食い入るように見ていました。
「おい、お前、何やってんだよ。家に帰っている場合じゃないんだぞ。」とラッタ君が突然私同様テレビに向かって言いました。すぐ後ろまで津波が迫っているのに、それが見えない車が自分の家の車庫に入っていくのが見えました。
「ああ」と言っていたら、映像は切り替わってしまいました。
あの人たちはどうなってしまったのでしょうか。
夜、夫が車ごと流されたけれど、助かった人も居たらしいと言っていました。
それが、あの人、またあの人でありますようにと祈るばかりです。
ところでこんな時にもツイッターに書き込むのかと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、そうなんです。ここで書き込まなければ私がツイッターを始めた意味が無いのです。
地震が起きたとき、以前は必ずブログにちょっとだけ情報をアップしていました。でもブログはそこで終わりで、情報が入ってくるわけでもなければさらに発信出来るわけではありません。(読者様が1000人以上の人気ブログ様や、普段からコメント重視で情報のやり取りが活発なブログ様は違うかもしれませんが。)
自分が上に書いたよう体験をした時なら体験談としては書けるかもしれませんが、地震の様に生きた情報が欲しくてさらに発信し続けるような場所には、ブログはあまり適していないと思っていました。地震のような事にはタイムリーな事をツイッターで情報を得て、そして発信したいと思っていました。
だけど情報は得ても、その発信が役に立つかは分かりません。でも役に立ちそうなものはリツイートし続けました。リツートと言うのは、自分の所にまわってきた情報を、他の人にさらに発信するシステムです。
主に帰宅難民になってしまった人たちに、横浜や品川や池袋での解放避難所の情報だったと思います。
私の情報が役に立たずとも、朝方ようやく帰り着いた人の中には、ツイッターがひとりで歩く支えだったと言う人もいらっしゃいました。
ひとりではない。そんな感覚がこういう時には大切な事だと思うのです。
ただ今はちょっと静かにしています。なぜなら東京の帰宅難民の人たちは、ツイッターなどのツールが支えでも、今、被災地の皆様は停電の中に居て、情報を見ることが出来ないと思われるからです。
今私に出来る事は、募金に行く事とそれからテキパキと家事をこなし、早く寝て節電に協力する事かなと思っています。
まだまだちょっと大変な日々が続きますが、お気持ち強く持ち、皆様頑張りましょうね!
今日は最終回。season9も終わりです。
最終回に相応しく豪華ゲストで内容も見ごたえ十分でしたね。
昼間もこの物語を見るのに役に立つ復習版「カナリアの娘」が再放送されました。この「カナリアの娘」も凄く面白くて、やっぱり「相棒」は面白かったのだよと、しみじみ思いました。なんて言うか台詞のテンポが良いのですよね。
脚本:戸田山雅司 輿水泰弘
監督:和泉聖治
彼らの作品が、やっぱり私好みで、安心して見る事が出来そうです。
「カナリアの娘」の感想は→こちらです。
面白いところが一杯ありすぎて拾いきれていなかった感想です。
でもそれは今日も同じです。テレビ前でじっと見ていたので、かなり笑ったり感心したりしたのに、全く拾い切れませんよ、それだけ中身が濃かったですね。
だから思い出した事をランダムに書き出してみます。
あらすじではないので、あらすじは→こちらで
今回のタイトルは「亡霊」。これは死刑囚でテロリストの本多の事を一応は指しているのだと思いますが、その本当の意味は、官房長小野田の意思を指しているのだと思います。まあ、それは容易に納得できる部分ではあるのですが、その小野田の本当に意思がどのようなものであったのかと知った時、ちょっと涙が出ました。いきなり最後に話が言ってしまいますが、印象深い順で言うとそうなってしまうのです。
前回の「相棒」の感想の中にも書きましたが、元法務大臣・瀬戸内(津川雅彦)と衆議院議員の雛子(木村佳乃)は、私にとっては「相棒」の中のスターですから、この二人が出演するだけで、もう「相棒」は内容がどんなでも、もうパラダイスなのです。
その瀬戸内が、最後の小野田の言葉を語ります。
「私の目の黒いうちは誰も殺させない。」
それが本当の官房長の遺言だった。でもそれを守ってあげる事が出来なくて無念だったと瀬戸内は語りました。
死刑囚解放を要求してきたテロ集団赤いカナリアと交渉し、尚且つ、本多の存在を利用しようとするわけですから危険はあって然るべき。小野田は彼らしくいつも言うような事を最初に言うのです。
「多少の犠牲は止むを得ない。」
だけど、その後に付け加えた先に述べた言葉。それは右京の正義にも良く似た台詞だったと思います。
官房長は庇護者でありながら、時には敵。だけどその底辺にあったものは、実は右京と同じものだったのだと思いました。だから「相棒」が好きな人はみんな小野田の事が好きだったのだと思いました。
season9は映画の事件が終わった後から始まっているのですね。このシーズンの初めの頃、まさか映画にそんな秘密があるとは思わずに、小野田さん、最近ちっとも出てこないなあと、暢気に思っていたのですよ。実はあの時もこの時にも、既に彼はいなかったのです。だから、season9では小野田さんが出演している回は二回のはずです。でも・・・私はと思います。
このseason9全体に、常に小野田の気配を感じ、つまりシーズン中ずっと小野田の亡霊が存在していたように感じました。
お墓参りに行こうと尊を誘う右京。
そして、その亡霊もseason9の終わりと共に去っていきましたね。
よく夜の大都会を映し出していくのが得意な「相棒」でしたが、今日の最後は真昼の大都会。ぐんぐん引いていきまるで映画のような終わり方。
そこに轟音を立てて通り過ぎていくヘリコプターが。
ドキッとしました。
それで心がざわめきました。いったい何があったのだろうかと。
これは終わりだけど終わりじゃないよと言うメッセージだったのかもしれませんね。season10もありそうです。その節には、このレベルで毎回お願いしますと祈りたいです。
もうここで終わっちゃっても良いのですが、せっかくなので後ちょっとだけ。
本多の殺人シーン、結構怖かったです。死んだ人もずっとあの目で気の毒。これって海外ドラマを見ているときには感じない感覚ですね。お芝居を見ているって言う感覚が前面に出ちゃうのかなと、ちょっと不思議です。
雛子ちゃんはやっぱり怖い女。いきなりちゃん付け。だって、私のアイドルですから。
「何でもわかっちゃって、ちょっとうっとおしい、」って、彼女言ってましたよねw←「w」、これ便利。
その雛子ちゃんを
「美人なのに勿体無い。」って暇か課長。何が勿体無いのw
ちなみに人気のパンダカップ、あれは絶対に持ちづらいな。
三人が話している時に、右京さんのティーカップが微かに揺れていて、紅茶がこぼれないかと気になってしまいました。
で、その時ラムネさんからお電話が。
でもその時ね、外は明るいのに時計の針がリアルと同じ9時37分(頃)。ちょっとビックリしましたよ。テレビの中の時計と実際の時計とをチラチラと見比べてしまいました。テレビの中は午前と言う設定なのですが凄いなって嬉しくなってしまいました。アレ、絶対に偶然とは思えないですよ。
拘置所を見つけてその記録を持ってくるイタミンも可愛かったですね。
だから取調室では、いつもと違う対応。
「いいですか、」と右京が言えば、
「どうぞ。」と。
なんだかんだといっても信頼しているのですね。
もう「相棒」の感想を書くのは卒業しようと思っていましたが、こんなに面白いと気持ちは揺れてしまいますね。ともかくドラマは半年間のお休み(勝手に決めて、違かったらどうするんだ。)、しばしのお別れですね。
ゲスト:古谷一行 内山理名 津川雅彦
木村佳乃 岸部一徳←ゲストのところに名前が・・・(涙)
この記事、自分用のメモには良いけれど、書いてみたらぜんぜん面白くないみたい。申し訳ありません。先に言っておきます。
今年の目標は「丁寧に物を捨てる事」。
だけど2月は来る日も来る日も人が家に来ていたので落ち着かず、そんなに頑張る事が出来ませんでした。
とにかく我が家、私の後から読むかも知れないと言う間違った発想ゆえに、紙ごみが凄く多いうちなんです。でも昨年から、もしくはおととしからヒステリックに捨ててきたので、かなり無くなりました。役にも立たない資料は減りつつありますが、それでもやっぱり・・・・
あらっ、ちょっと待て・・。ヒステリックにと丁寧に捨てるはちょい矛盾・・・・。でも資料というのは、後で役に立つはほとんどない。直感で捨てていくべしと言うところですね。
と、言うわけで、
2月1日は誕生日だって言うのに紙ゴミと格闘していました。ゴミ袋に二袋ぐらい。でもこの紙ごみとの格闘は、本人的にはかなり頑張ったわけでも、ブログ的には詰まらない話題ですね。
と、言うわけで2月5日は古くなった薬を整理しました。
今年は早々から胃薬なんかを飲んでいましたが、風邪や他の病気とは幸いな事に無縁で、なんとなく取っておいた眩暈の薬や風邪薬なんかもみんな捨てました。この捨てたというのは、病院から貰った薬の事ですが、取っておくのがおかしいと思う人も居ると思います。基本的には病院の処方で出してもらった薬は飲みきりだと思います。
でも私は通院の最後に出る薬が、いつも多めであることに気が付いた事があります。これは病院によると思うのですが、最後には薬を出さない良心的な病院も知っていますが、どちらかと言うと通院の最後にも同様に出す病院もあるのは事実。また非常に混んでいる病院などは、また来院しなくても良いように多めに出たりしませんか。
要するに薬を何時辞めるのかは、お医者様と要相談です。
拡大解釈されると困りますのでこれ以上の事は書きませんが、なんとなく残ってしまった薬ではなくわざと残しておいた薬なのです。でも病気知らずだったこの数年でみんな古くなってしまったので捨てました。眩暈止めも捨ててしまったので、ちょっと不安です。
置き薬も市販の薬も、何でか昨年が期限のものが多かったので全部捨てました。ぎゅうぎゅうだった薬箱がスッキリしました。そして私用の目薬がひとつもなくなってしまったので買いに行かなくてはと思っているところです。
不必要なもので溢れかえっていても、整理をしてみなければ、必要な物がなかったことに気が付かなかったと言う教訓になりました。。
10日だったかな。うっかり禁断の部屋であるルート君の部屋に踏み込んでしまいました。でも彼の部屋は気まぐれにチョロチョロでは済まないのですよ。それでもダンボール二つ分は片付きました。でもドアを一回閉めてまた開けると、もう目が慣れて、何処を片付けたのか分からない感じ・・・
3月はこの部屋も含めて頑張るぞ!
・・・もう3月だけど・・・
14日、寒い月曜日。これこそ気まぐれにお部屋のミニ模様替えをしました。あっ、そうそう。このことは「バレンタイン」の記事を書いた時についでに書きましたね。ラックの移動をして部屋の中央を広くしたのですが、それに伴ってラックの中の過去の教材を捨てました。
今の段階での私のゴミステは、紙ごみの場合は我が家のみの物が多く、皆様の暮らしのヒントにはなりそうもないですね。
そのほかに捨てたもの。ルート君の部屋の壊れたヒーター。
捨てる待機中→壊れた小さなテレビ(夫に内緒でベランダにそっと置いてあります。)
一応こんなものかしら・・・・。
忙しかった割には、まあまあ頑張ったほうだと思います。
だけど3月、暇になったなと思ったら早くも腑抜け状態です。テキパキ動くときは映画に行こうかなと思うときだけ。それではまずいので、明日からは計画を立てて頑張りたいと思います。
3月は別れの季節なのです。
さらばさらばとまた繰り返し、
さらばさらばと去っていく。
分かっているのに、やっぱり寂しくて別れの後はぼんやりしてしまう私です。
9年前の3月初め、このお仕事を始めました。途中で形を変えましたが、諸事情があり完全には止めるわけには行かず新規募集もせずにひっそりと続けてまいりました。3月の時に幼稚園の年長さんで4月から一年生だったT少年も受験も終わり去っていきました。
彼はさながら私のお仕事の歴史でもあったのですね。
毎年遣ってくる別れと区切りの月ですが、そういった意味でもいつも以上に感慨深いものがありました。
ある時、私はちょっとした区切り時間に、ふと呟くように言いました。
「君が最初に来た時の事を覚えている。君は幼稚園で私がお母さんとお話している間にソファの背を滑って遊び、ふと気が付いたらリビングのテーブルの上にあったチョコレートを食べちゃったのよね。私もまだそう言うことに慣れていなくて、うっかりしちゃったなぁ。」
「それ、なんか覚えていますよ~。」
「食べても全くかまわなかったんだけど、でもあのチョコレートは外国のお土産で、あまり美味しくなくて可愛そうな事をしたなって思ったのよねぇ。」
「そんな事ありません。美味しかったですよ。」と少年は言いました。
「君が最初に来た日の事も覚えているよ。君は4年生の夏、お父さんと一緒に来たのよね。」
少年はちょっとはにかむように笑いました。
彼は彼の父親と共に同じ席に座っていましたが、いきなり立ち上がり我が家の冒険を始めたのです。トイレぐらいなら良いけれど、他の部屋を空けられてはたまりません。私は父親の前でもはっきりと、「ここは君の家ではないのだから、うろうろしてはいけません。」と注意しました。甘やかされて育った彼は、単にそう言うルールを知らなかったのです。注意されて二度とうろうろする事はありませんでした。知らない事がちょっと多くて誤解を受けやすいような少年でしたが、それからもずっと素直でした。
「僕は?」と、ある少年が聞きました。
「君は5年生の時に一度止めちゃったけれど、初めて来た日の事は覚えているよ。」
「そうです。僕は何で途中で止めてしまったんだろうと後悔しているんです。」
「ううん、私もあのままずっと引き受けられたかは分からないよ。お互いに時間が必要だったと思うよ。」
そんな事を言ってもこの子には意味など分からないと思います。
この子が一度止めてからの三年間で、私の考えもいろいろ変わったのです。考えだけじゃなくて、対応する力もアップしたかもしれません。それゆえに自信が付いたのだと思います。だから戻ってきたこの子を拒まなかったのです。そう書いても、この子ばかりではなく読んでくださっている皆様にも分からないと思います。彼との物語はまた別にお話しする機会があったら良いかなと思います。
また別の少年。
「君が初めて来た日の事は、申し訳ないけれど全く記憶にないわ。6年の夏にお母さんと普通に来たと思うな。でもね、それはその後が印象深かったからなんだよね。君は本当に暗くて口も利かなくて、いつも私は緊張していたわ。それがそれがよ、こんなひょうきん太郎丸になるなんてね。」
「えへへのへ」と少年は笑いました。
彼はまるで冬のような少年でした。彼がやって来る頃は日が沈みかけた頃が多かったからかもしれませんが、冬の寒さと闇のイメージ。家庭に問題を抱えていました。だけどその問題が解決した途端、彼は豹変していきました。まるで陽気な春のパレードで踊る少年ピエロのように。
いろいろな子がいて、でもみんな大好き!
最後の日、ケーキなんでかミニお別れ会もどきをしました。ささやかなプレゼントを渡し、写真を撮りました。
「あっ、そうだ。二年前に(彼等が中学一年の時の)みんなで撮った写真を渡し忘れていたわ。コピーしたらあげるけれど、見る?」
でもそれを覗き込んだ一人の少年が、悲鳴をあげて言いました。
「そんな写真破り捨ててください!」
「なんでよ、いいじゃな・・」と言いかけて、そうかもなぁと私も思ってしまいました。
だって、彼はみんなの真ん中で、体も顔も愛らしく幼いけれど、さながらミニマシュマロマンみたいだったのです。そんな彼も今ではすっかり背が伸びて、体も締まり、それに伴ってか顔もちょっと素敵に変わってきました。
「黒歴史じゃー」と嘆く少年。
クスクスと笑いながら、子供の写真は何年も前の写真を渡しても喜ばれそうなのに、中学生のこの頃はちょっと微妙だなと思いました。
この三年でこんなに変わる子供たち。時は緩やかに流れているようで、実は私の方にも同じように変化があるのかもしれません。
別れの時はいつも思います。出来る範囲の努力をして、出来る範囲で同じ雰囲気の自分で居ようと。私は彼らをすぐに分からなくなってしまうかもしれません。でも彼らには私がわかるように。声など掛けてくれなくて良いのです。だけど通り過ぎたときに、「ああ、あの人だな。」と分かれば、時にはここでの思い出が煌いて思い出されるかもしれませんから。
彼等が去って、今、ちょっとだけ私は空っぽの寂しさを楽しんでいます。
ああ、陣川君の回か・・・と思ったらちょっと気持ちが萎える。
しかも「活躍」なんて、怪しいタイトル。
彼=活躍→それこそ罠という構図になりそうと思ったら、案の定でした。
でも彼の場合、そうじゃなくちゃ陣川君じゃなくなってしまいますものね。
アレで良いのだわ。
それにあの優しさが良いのよね、彼の場合は。
新しいシリーズになってから、彼の出番が増えたのは、相棒の相手が薫から尊に変わって、ああ言ったちょっとかっこ悪いけれどストレートな優しさ担当が必要になったからかもしれないなと思いました。
もちろん尊も優しいけれど、どうやっても彼には「スタイリッシュ」と言う言葉が似合っていて、今回のような事件を持ち込む事はありえないですものね。
今回の事件のあらすじは→こちら
しかし今回のゲストの中村靖日さんほど
「僕なんて居ても居なくてもどうでもいい人間なんです。」と言う台詞の似合う人はいませんね。〈褒めています。〉
この人は朝ドラの「ゲゲゲの女房」を見ていた私には、今でもテレビの中でお見かけすると、
「あっ中森さんだ。」と思ってしまいます。
その中森さんは意外とあちらこちらに出ていて、今の時代、さえない男キャラの需要は大きいのだなと思ってしまいます。
テレビで放映した時に気が付いたのですが、映画の「カイジ」の鉄骨渡りのシーンにも何気に彼は存在していて欠かせないキャラだと思いました。
そしてその彼が惨めキャラの奥にあるものを垣間見せた時、憎たらしさが増しましたね。
何言ってるんだ、ぼかっ、って言う気分。
おっと、ぼかっなんて暴力的なことを言ってはいけませんね。でもどうも彼、女性のS的気分を引き出す人なのかもしれませんね。以前もガスパッチョのCMで、馬渕英俚可さんが奥様役で、自転車漕ぎながら電気を作っていましたし・・・
だけど警察に働かせたくて事件を起こすのって、何か他でも見たような・・・
しかもオルゴールに入っていたものは口座番号。何でそんな所にねぇ。査察が入ったらいっぺんにばれるでしょ、あんた。
なんか説得力ない。
だけどそれをカバーしてしっかり見せているのは相棒コンビの魅力かもしれませんね。
近頃友人と会ってもこの私を差し置いて「相棒」大好きと言う話題で盛り上がるくらいで、世間様的には視聴率も良く絶好調ですよね。だけど、「相棒」って凄く計算されたシナリオでもっと面白かったのになぁと、私は思ってしまうのですよ。前にもさりげなく書きましたが今期の相棒には、右京が震えるほどのダークスターがいなかったのですよ。そして全体的なバランスが悪いような気がするのです。私は何もお涙頂戴的なドラマが見たいわけでないのです。
右京も震える、私たちも震える、そんなドラマをこれからも期待します。
ファンの皆様の中にはちょっと共鳴してくださる方も多少はいらっしゃると思いますよ。みな私よりデープなファンの方が多かったはずですから。
私ははっきり言って「相棒」ラブですから、これからも楽しみに見続けるとは思いますが、もう応援隊は使命も終わっているしそろそろ卒業かなと思います。
というわけで、次週は最終回。
元法務大臣・瀬戸内(津川雅彦)、雛子(木村佳乃)、そして小野田官房長までご出演。もうテンションがあがっちゃいますよ。
なんて言ったって、瀬戸内さんも雛子も私にとっては、「相棒」のスターですからね。
タイトルも「亡霊」。
お時間、お間違いなく。8時からですよ。
・・・・、というか、シーズン10はあるのかしらとふと思う・・・。
きっとありますよね。こんなに人気があるのだし、まだまだ魅力が引き出せそうな尊がもったいないですものね。
いったい春はどこから来るんだろう。
と言うようなあいまいな事を呟いても、実はあまり意味がない。でも時には、そんな意味のないことを呟いても見たくなる。
1月にはまだこんな感じだったこの花たちも
蕾をつけて
そして咲きました。おいおい、途中はないのか。へい、親分、ありませんって。
色違いも。
違った場所の花も・・
ちょっとうちのベランダはこのクロッカスが咲き始めています。球根から育てるのってやっぱり楽しいですね。
☆ 昨日は9年間も私の家に通ってきてくれた子が去っていった日。
・・・・・、しっかり育って、そして去っていきました。