今日、夕食後、米子の孫が帰った。三日間、赤碕の孫と楽しい時を過ごし、再会を楽しみにして帰っていった。
怒りをおそくする者は勇士にまさり,自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。( 箴言一六・三二)
なに?
強い元気な男が、我慢の人よりも良いに決まっている!
強いスポーツチームには、いつでも多くのファンが集まる。我慢の人が歓声で迎えられはしません。
それにしても・・いったいだれが、善とか悪とか、より善とかを決めるのか?
世論? 政府? 哲学者? 神学者? 先生? それとも我々自身の良心?
何が本当の「善」であるかを言えるのは、ただ一人・・世界の主、さばき主なる神。その主が聖書を通して、
「怒りをおそくする者は勇士にまさる」と宣言するのです。
奇妙なことば!「怒りをおそくする者は、怒りやすい者にまさる」というのならわかります。ところが「勇士にまさる」。
もっとも、勇士がいけないのではない。強壮で頑健であれば、そんなよいことはありません。その人は神に感謝すればよい。
けれども・・怒りをおそくする者はさらにまさる。なぜか?
怒るにおそい人とは、時間を持つ人。聖書はサタンについて、彼は「自分の時の短いことを知っている」と言います(黙示録一二・一二)。
時間がなくて追い立てられるのは、サタンの典型的な特徴。
神は時間をお持ちです。神は「第七日目に・・・休まれた」(創世二・二)方。また、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者三・一二)。
神には平安、落ち着き、喜びがある。そして、怒りをおそくする人は、神の側に立つ人、また、イエスを通して与えられた主の力で生きる人です。
主イエスよ!平安のない我らの心を、あなたにあって静めてください。アーメン
ヴィヘルム・ブッシュ著 「365日の主」より
もし、あなたが帰るならば、わたしのもとに帰らなければならない。エレミヤ書四章一節(口語訳)
帰らなければなりません。帰る、ということから始めなければなりません。
帰るべき一点を見失って、いたずらに駆けめぐり、疲れ果てているのですから。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その. 人は 豊かに実を結ぶ。ヨハネによる福音書一五章五節
双方向からのつながり、ということが言われています。キリストの手が差し伸ばされ、わたしたちをとらえます。
私たちの手が伸ばされ、キリストの手を握ります。そのように双方が結びつくことによって枝は実をみのらせるのです。
人間の実力や良い性格が実をみのらせるのではありません。
キリストという木につながって豊かに実を結ぶことができます。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。ヨハネによる福音書三章三節(口語訳)
努力、精進、行為、そうしたもので神の国に入ることはできません。
「肉から生まれる者は肉」(六節[口語訳])にすぎないからです。
十字架によって罪赦されて(罪がなくなって、ではありません)新生は始まるのです。
「努力」ではなく、十字架の前にくずおれるところから始まります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
夜をつかさど。月と星を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。詩篇一三六篇九節
暗い世のために、神は月と星を造ってくださいました。
人生のどんな暗闇にも、神の配慮は途絶えてはいないのです。
一筋の、導きの光を、必ず備えていてくださいます。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。ガラテヤの信徒への手紙六章三節
信仰生活は言うまでもなく、神を知る生活でありますが、同時に自分が見えてくる生活でもあります。
自分が見えてきて、人のことを裁けなくなってゆく過程で、神の言葉はしだいに深く心の中に染み渡ってゆきます。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。テトスへの手紙一章一節
信心は思い込みではありません。信心は真理の認識と結びついていなければなりません。
真理である方(イエス・キリスト)との出会い、この方を深く知ることが、すなわち信心が確かなものにされるということです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
喜びなさい。完全な者になりなさい。コリント信徒への手紙二、一三章一一節
完全主義者というのは、えてして不機嫌なものであります。
不完全な人間をゆるすことができないのです。
信仰の完全は完璧ということではありません。自己の存在を喜び、他者の存在を喜ぶことであります。
欠けある者たちが、お互いに神の赦しの光の下に生かされていることを喜ぶのです。どんな正しさもそうした喜びにまさるものではありません。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。ヨブ記一章二一節(口語訳)
与えられる恵みがあります。
しかし取り去られる恵みもあります。
母親が子供の手からものを取り上げるように、
神が取り去られるのです。
「主」が取られるのなら、そこにもやはり
恵みが込められているのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
人に惑わされないように気をつけなさい。マルコによる福音書一三章五節
人々は大げさに騒ぎます。興奮して思い上がったり、失望して意気消沈したり、気分は乱高下します。
人間の動向を見ているだけでは、歴史についても、時代についても、判断を誤ってしまいます。
歴史を導いておられる見えざる神を見失わない信仰が、激動の中で人を揺るがず立たせるのであります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
主がいかに親切であるかを味わい、これを見つめよ。(詩篇三四・八ドイツ語訳)
今日の世界に向かい、一度このように叫んでみたら。おそらくあちこちで抗議のこぶしが振り上げられます
・・「神が親切?それなのに毎日、恐ろしいことが起こるのか?ばかを言うな!」
フランスのある小説で、一人の母親が「愛する神様は犯罪者に違いない。こんな子どもたちを奪ってしまうなんて!」と絶望して叫びます。
また、ある著名人が書いています「自分たちは神から告発されねばならないと思い込んできた。が、今では、言わねばならない、
『もし今日告発される者がいるなら、それはキリスト者の神だ。告発するのは、痛められ苦しんだ人類だ』と」。
これらの抗議の前に、ダビデは「神の親切」という彼の詩を引っ込めるべきか?。
確かに神は隠れたる神。神は義人ヨブを貧しくし、病気にし、灰の中に座らせました。神はまた、偉大なパウロを牢獄の闇に迷い込ませます。
しかし、それでもなを、我々は世に向かい、「主の親切を味わい、見つめよ!」と叫びたい。神の憐み、愛、恵みを示す確かな証拠が一つあるからです。イエス・キリストの十字架。
暗い世界に立つ、神の愛の灯台です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」・・信仰をもって十字架を見上げない人には、
相変わらずすべては闇に沈んでいるでしょう。が、この少し前に歌われるのです。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」(詩篇三四・五)
主よ!我らの目を開き、ゴルゴタで示されたあなたの愛を見させて下さい。アーメン
ヴィヘルム・ブッシュ著 「365日の主」より
主がわたしの助けとなってくだされなければ
わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。詩篇九四章一七節
もし神がおられなければ・・正しいことを求めることは無駄なことであります。力の強いものだけが勝つのです。
もし神がおられなければ・・どんなに忍耐しても報われることはないでしょう。
もし神がおられなければ・・人はあきらめて沈黙するしかありません。
しかし、神はおられます。世の片隅の馬小屋に来られた神は、どんな貧しい者の声にも耳を傾け、応えてくださるのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より