「幸福の探求」について、たくさんの本が今までに書かれています。 それは当然のことです。哲学者も、教育家も、医者も、人間は幸福でなければならないことを常に認めています。 人類はいろいろなことにより、いろいろな方法によって、幸福を求めて来ました。 私たちは、学問、訓練、平和、戦争、愛、金銭、友人、孤独、ときには自分から貧しくなることによって、幸福を求めてきました。 ほとんどの人は、幸福をもたらすもののためなら働きますし、幸福になるなるためなら、なんでも犠牲にしようと思います。 聖書は長い間忍耐をもって、罪が不幸をもたらし、ただ罪ゆるされ、きよい良心をもって神の御前に出るときにのみ、幸福があると説いてきました。 私たちの大部分はなんとかすれば、罪の問題から身をかわして、他の方法によって幸福に到達する道を見つけることができると思っています。 しかし、人類の歴史は、聖書が「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである」(詩篇三二・一) と言うとき、そのページに心から「アーメン」と書きしるすのです。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より