荒野の泉 カウマン夫人著より
『イエスはみずから十字架を背負って、されこうべという場所に出て行かれた』
ヨハ十九ノ十七
「とりかえた十字架」という詩がある。
これは彼女の十字架が、その周囲の人たちのそれより確かに重いと考えていた、一人の婦人を表したもので、
彼女は自分の十字架の代わりに他の十字架を選びたいと考えていた。
彼女は眠った。その夢の中で沢山の十字架がおかれているある場所に導かれた。
その十字架はさまざまな形と、大きさとをもっていた。
そこに見るからにうるわしい、小さな十字架があった。
それには宝石と黄金とがはまっていた。「ああ、これならば喜んで負える」と彼女は言った。
彼女はこれを取りあげたが、彼女の弱い身体はその下によろめいた。それは彼女にはあまりにも重たかった。
つぎに彼女は周囲に彫刻があってそれにうるわしい花をちりばめた愛らしい十字架を見た。
たしかにこれは自分のだと思った。彼女はこれを取り上げたが、花の下にはとげがあって、それが彼女の身体を傷つけた。
とうとう彼女は一本のそまつな十字架の所に来た。宝石もなく彫刻もなく、ただその上にわずかばかりの愛の言葉が記してあった。
彼女はこれを取りあげたが、それはどれよりも軽いもので、負うのに一番たやすかった。彼女は天からくる輝きの下にこれを眺めたが、
それは彼女自身の古い十字架であった。彼女は再びこれを発見したのである。
そしてそれは最善のものであり、また一番軽いものであった。
神はわたしたちが負うべき最善の十字架を知りたもう。わたしたちは他人の十字架がどの程度重いかよくは知らない。
わたしたちは富める人を羨んだ。彼の十字架は、宝石をちりばめた金の十字架である。だがわたしたちはそれがどの位重いかわからない。
ここにまた、その人の生活がきわめて愛らしく見えるものである。彼女は花をちりばめた十字架を負っている。
もしわたしたちがその人の十字架を負ってみるならば、その中どれ一つとして自分の十字架のように自分にふさわしくないことを発見する。
生活の窓から見た光景