荒野の泉 カウマン夫人著より
わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
神を待ち望め。詩篇四二・5
C・H・スポルジョンは次のように書いています。
「クリスチャンの行く道には、いつも太陽が輝いているとは限らない。
そこには、暗やみの日も、嵐の日もある。またその道は楽しい道であり
その道筋はみな平安であることもある。
宗教とは、一般に天国で喜びを与えるだけでなく、この地上においても人々に
喜びを与えるものであると考えられている。
しかし、私の経験から次のようにいうことができる。
正しい者の道は『夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる』
そのことも真理であるが、その輝きも時には消えることがある。
ある時には、雲が信者の太陽を覆うことがある。
その時は、光のない暗い中を歩まなければならない。
多くの人たちは、ある状況においては、神の臨在を楽しんでいるようだ。
すなわち、クリスチャン生活の初期の段階においては、彼らは、日光浴をしながら楽しんでいるようだ。
彼らは『水辺のほとり』を、また『緑の牧場』を歩んでいる。しかし突然に、栄光の空は黒雲に覆われ、
ゴセンの平和の地に代わって、彼らは砂漠を歩くことになり、こう言う。
『もし私たちが神の子なら、こんなことが起こるはずがない。』
おお、そのようなことを言わないでほしい。神の聖徒のすぐれた者たちは、にがよもぎを飲まなければならない。
愛されている神の子供たちは、十字架を負わなければならない。
あなたは初めのうちは、弱くまた臆病であったので、主は恐らく、
あなたが平坦な明るい晴天の道を歩くように定められた。
しかし、今やあなたは霊的生活において強くなったので、成長した神の子として、
円熟したつらい経験の中にも入っていかなければならない。
私たちは信仰が成長するために、風も嵐も必要であり、それに出会うとき、
私たちの自己信頼の悪癖の枝は折られ、キリストにしっかりと深く根をおろすようになる。
悪しき日は、価値のある栄光と希望を約束する前ぶれである。」