木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

手話通訳を見ない権利と情報を保障する義務

2008年01月28日 22時22分07秒 | Weblog
昔、通信制大学のスクーリングの手話通訳をしたときに感じたことです。学生ならみんなそうなんだけど長時間の聴講(ろう学生だから見てるんだけど・・)は当然猛烈な睡魔に襲われやすいわけです。
こっち(手話通訳者側)は15分くらいで交代してるからピンピンしてるし、先生の話を「一言も漏らさず伝える」のが使命だって勢い込んでるもんだから、手話自体もシムコムでバンバンいくわけです。聞いてる(見てる)学生さんは、授業の「内容」を理解したいのに、手話通訳は「音声対応手話千本ノック」状態ですからへとへとになるし、眠くなる。
そうするとこっち(手話通訳者)は、<私の通訳が分かりにくいのかもしれない>と不安になってさらに気合い入れて、しゃかりきになって手を動かします。
手話通訳者にとって「音声情報を保障する」というのはいわばミッション・使命・義務=何としても手話で伝えねば・・ならない、ですから、まあ「仕事熱心」な態度になるわけですけれども、見ているろう者にとっては、それが望んでいる「情報保障の姿」なんでしょうか。
私が表現している「手話」が音声対応で、先生の話の意味内容を「理解」しづらい、というところに問題の本質はありそうですが、そもそもろう学生の「授業中に居眠りする権利」だってあるじゃないかなどと考え始めるともうわけがわからなくなります。
一方、先日「休憩が終わってもおしゃべりが止まらなかったろう者の話を<気持ちが落ち着くまで>と思ってしばらく聞いていたら、サブの通訳者がその間、始まっていた会議の内容をずっとメモして残しておいてくれた」との経験談を友人の手話通訳者から聞き、二人ともすごい手話通訳者だなぁ~と感動したりもしました。それは手話通訳者を見ない権利というよりも、ろう者が「話したいことを話せること」の大切さと、それを手話通訳者が受け止めることの意義を気づかせてくれました。そして「情報を保障する義務」も忘れずに勤めてたっていうのに私はいたく感激いたしました。
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