木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

books15NHK日本語なるほど塾10月号

2005年02月26日 17時51分58秒 | books
バックナンバーを頼んでいた本屋から「12月号が入りました。」と電話があって慌てて10月号を読んだ。

擬音・擬態語の世界がテーマ。そういえばゲストの山口仲美さんの「暮らしのことば 擬音・擬態語辞典」って本屋で見たな。

国語辞典に擬音・擬態語があまり載っていない理由について(1)引かなくても意味がわかるから、(2)生まれては消える流行語の側面があるから、(3)いささか品に欠ける言葉だから、の3つを挙げて、実はそうじゃないことを解説している。

日本語には特に擬音・擬態語が多いそうだ。英語には350種類なのに日本語には1200種類あるという調査があるそうだ。なぜだろうね?

第1回放送が「とぼとぼ」歩く 「すたすた」歩く
で、留学生が腹痛で医者に行ったら「しくしく痛むの? きりきり痛むの?」と聞かれてとても困ったという話しが載っていたけど、手話通訳者も大いに困るのだよ、そんなこと聞かれても。
”「しくしく」は、絶えず身体の奥が鈍い痛みを感じている状態を表すのに対して、「きりきり」は、鋭く差し込むような痛みを感じている状態を表しますね。”とさらっと書いてあるけど、さすが専門家です。

”擬音語は物まねではない”という話しも面白い。確かに犬や鶏の鳴き声なんて国によって全然違うもんね。よくテレビのクイズ番組なんかでやってる。
”擬音語は「言葉」なのです。”とのこと。そうか、だっから万国共通ではない手話も「言葉」なんだし、物まねじゃないんだよね。

第3回放送 マンガの言葉が面白い!
ってテーマでいろんなマンガで用いられている擬音語・擬態語が紹介してあってとてもホント「面白い!」です。真っ先に挙げてあるのが「北斗の拳」ってのが笑える。次が「Dr.スランプ」。3番目が「ドカベン」で、4番が「スラムダンク」。ほかに黒鉄ヒロシの「赤兵衛」も載ってます。

そいでもって”日本語を翻訳する苦悩”って話しは、まさに手話通訳者にも大いに参考になる話し。該当する擬音語・擬態語がない場合には、3つの対応があるそうだ。
(1)近い名詞や動詞、形容詞で代用する・・・「ピカ」は英語ではflashって訳されてるそうです。手話通訳者はこのやり方が多いかな。
(2)そもそも訳さない・・・空白にしてしまう。うっ、これは手話通訳者の禁じ手というか「奥の手」というか…。
(3)ローマ字でそのまま日本語を表記・・・手話通訳者はあまりやらないけど、特に擬態語の場合は、そのままってわけにもいかないから「血液がドロドロになって血栓ができる」とか通訳するの難しいよねぇ~。擬音語は(2)で逃げる場合が多いような…。

さらに”擬音語は時代の文物を映しだし、擬態語は時代の価値観を映し出す”という項目も面白い。確かに今時「ガタピシ」いう階段はないし、「チクタク」音のする時計も少ないよね。

そういえば黒鉄ヒロシの「赤兵衛」のサブタイトルには”日本語には擬態語(オノマトペ)がいっぱい。気付かぬうちにポロポロ使ってます。”とあって
・おめおめ
・くよくよ
・めそめそ
・ぬけぬけ
・のらりくらり
・はらはら
・ねちねち
・ふらふら
・へらへら
・にやにや
・いきいき
・どきどき
・わくわく・・・などが描かれています。(2003年10月10日号ビッグコミック)
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books13「実感的手話文法試論」(松本晶行)

2005年02月26日 16時58分10秒 | books
ようやく全部読みました。
この本は2001年に全日本ろうあ連盟から「手話コミュニケーション双書」の第1巻として発行されました。同時に第2巻「手話のための言語学の常識」が発行されて、そっちは簡単な書評も書いたのですが、こっちの松本さんのは途中まで読みかけて挫折してました。

■D-proへの反論書?
というのは、発行当時からちょっと「政治的な匂い」が強くて嫌だったのです。もともとは日本手話研究所が発行している「手話コミュニケーション研究」誌に連載されていたもので、D-proを始めとする「日本手話」派へ対抗して、全日本ろうあ連盟サイドからの反論文みたいなトーンが鼻についたのです。

「狭義の『日本手話』で話す者だけがろう者だ、などという言語至上主義には到底賛成できません。」「シムコムだとかピジン手話だとか言って、その概念で議論するのには賛成できない」という断片的な意見を書き込むことは、「日本で初めての手話文法書 」(全日本ろうあ連盟のコメント)としてこの本を手に取った多くの読者に無意味な疑問点を残すだけだと思います。

■「表情や視線は単語の要素ではない」の?
また、松本さんの主張の中でも特に「表情や視線は単語の要素ではない」した部分(13頁)は、腑に落ちません。
20頁でも「アメリカでは、視線・表情が手話単語の要素のように見られていると聞きます。しかし、仮にそうだとしても、アメリカ手話は、そもそも眉などの動きに一定の約束事があるようですので、これを日本手話と同列に論じることはできません。」と書かれていますが、全日本ろうあ連盟の「理論書」として発行している書籍の中で「~と聞きます」とか「仮にそうだとしても」というような曖昧な根拠の示し方で論じては、単なる感情的な反発、頭ごなしに否定しているという印象を持ってしまいます。

そもそも松本さんの言われる「表情」とは何なのかという定義も曖昧です。

■手話は話し言葉文法
一方で「音声語の話し言葉の文法をこそ参考にするべき」(22頁)との主張はまったくそのとおりだと思いますし、「手話動詞には受動態はない」(76頁)という整理も面白いと思います。

それでも、飛行機が様々に飛ぶ様子を表す手話について、「連続変化(複合変化)」とひとくくりにしてしまうのは、話しはわかりやすいですが、それでは文法を説明していることにならないと思います。また、”リュックを背負って山に登ると息が切れる”という例を挙げて、後半の「山に登ると息が切れる」は手話単語というより「イメージの動作」「表現技術の一種」であると書かれているのは、自ら言語としての手話文法を否定されているかのように感じました。

これでは「やっぱり手話って言うのは一部分は身振りも含んでいるんですね」と言われても反論できなくなってしまいます。単語としての柔軟性・時代的な変化のパターンとしてキチンと分析していく責任があると思います。

■「首かしげ・上目遣い」も文法項目から除外しちゃうの?
第10章の疑問詞の項では、「3.首かしげ表現・上目遣い表現」を取り上げていますが、いずれも「音声語でもある日本語でも、同じような表現(表情)で同じような意味を表します。」として「手話独特のものとは言えません。」と切り捨てています。しかし、ここで取り上げている例文「一緒に行く?」ひとつを考えても聴者、特に男性は「首をかしげたり」「上目遣い」になることはまずないと言えます。

そもそも音声日本語でもやるから手話文法じゃないって論法はおかしくないですか? 手話言語にとってどのような意味・役割をもっているのかを分析するのが文法論であって、実際に「首かしげ」や「上目遣い」は僕のようなへたっぴな手話通訳者にとっても、必要不可欠な表現となっているのだから、そこにどのようなルールがあるのか、後輩たちにキチンと説明できるように整理することが今切実に求められていると思うのです。

■松本文法というより松本話法じゃないのかな?
これはあくまでも個人的な印象・意見なのですが、全日本ろうあ連盟の元会長の高田英一さんや現理事長の安藤さん、そして松本さんなどこれまでの日本のろうあ運動を背負っていらした方々はみな口話が上手で、挨拶などを読み取ってもほぼ音声日本語どおりです。当然「首かしげ」や「上目遣い」も少ないように感じます。ですから松本さん個人の意識の中で「首かしげ」や「上目遣い」は手話の範疇に入らないのかもしれません。

■じゃあ、手話の「格」問題はどうなってしまうの?
最後から一つ前の12章「4.身体の移動」でも「論者によっては、文法上の問題であって、身体や視線の向きで「格」を意味するものだ、ということになるようです」として、ここでも身体の移動は「手話の文法的要素で格を明確化する機能を持つ、とまで言う理由はないでしょう。」と断じています。そしてここでも「話術というか、表現技術の問題だと考えます」と述べておられます。

手話言語における「格」の問題は、聴者がなかなか習得できない文法項目だと感じています。なかなか的確に読み取れないし、それ故キチンと格を表現し分けることもできないし、まして人に教える知識・技量はありません。だからこそ、わざわざこの「手話文法」書をお金を出して買ったんであって、それを「話術」とか「表現技術」というような言葉でお茶を濁されたんでは、「金返せ」と言いたい。

■一日も早く「試論」でなく全日本ろうあ連盟版「手話文法本論」の出版を!
ああ、こんな書き方するからまたどっかで怒られちゃうんだよな。
私はどっちがいいという議論をしたいのではないのです。
木村晴美さんと市田泰弘さんが「ろう文化宣言(言語的少数者としてのろう者)」を発表したのが1995年3月号の雑誌『現代思想』、それからもう10年が経つ。1998年4月には『月刊言語4月号』で「特集 手話の世界」が組まれ、米川明彦さん、神田和幸さん始め、12本の論文が掲載された。

その2年後、2002年12月発行の日本手話研究所「手話コミュニケーション研究」では”手話文法論”という特集を組んだが、”国内におけるこの種の研究は乏しく、遺憾にしてアメリカの手話研究を紹介するに留まっている”として日本の手話文法の研究成果は掲載されなかった。「日本手話」文法は、「日本の手話」文法研究とは言えないとの立場だったのだろうか?

■バイリンガル教育を最重要課題とした米内山さんたち
その後、『月刊言語』では2003年8月号でも手話を採り上げたが、特集タイトルは「バイリンガリズムとしての手話」、副題「日本手話によるろう教育を目指して」となった(10本の論文を掲載)。全日本ろうあ連盟との不毛な手話文法論議を避けて、実際のろう児の教育環境にとっての「日本手話」の確立を最優先にした米内山さんらの行動は、英断だと思う。

この間、全日本ろうあ連盟・日本手話研究所からの手話文法に関する論文は研究所所報を読む範囲では掲載されていない。わずかに全国手話通訳問題研究会から「手話ここが知りたい学びたい」(長谷川達也著)という小冊子が発行されたのが手話文法に触れた出版物だろう。

■全日本ろうあ連盟版「手話文法書」待ち望んでます!
そして2005年1月号から『月刊言語』で市田泰弘さんの連載「手話言語学」が始まった。
さあ、全日本ろうあ連盟も手話コミュニケーション研究誌上で「手話文法本論」をスタートさせよう! 筆者は大杉豊さんだろうか?
ああ、どうして僕はこう挑戦的なものの言い方になってしまうんだろう…。いかんいかん。でも、地方で手話通訳者養成に関わる者として、ホント待ち望んでます「手話文法書」
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