木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

市田泰弘さんの連載「手話の言語学」

2005年02月03日 00時26分36秒 | sign language
大修館書店から発行されている「月刊 言語」で国リハの市田泰弘さんの「手話の言語学」という連載が始まりました。僕はこの情報を木村晴美さんのブログを読んで知り、早速池袋リブロ(本屋)に買いに行きましたが、すでに2月号が発行されていて1月号は店頭にありませんでした。
とりあえず読んだ2月号は「第2回 図像性をめぐる2つの世界-手話の音韻形態構造(1)『CL構文』」でした。
残念ながら今の私には1回読んですっと内容を把握するだけの力がありません。これから何度か読み直して少しずつ理解を深められたらいいなと考えています。

それで今日は同じ池袋のジュンク堂に電話して1月号が残ってるか電話してみました。ラッキーなことに在庫がまだあって会社の帰りに手に入れることができました。第1回は「自然言語としての手話」として、これから連載していく「自然言語としての手話」とは何かを書かれています。その小見出しを書き出してみると

手話とは
手話はいつ、どこで、誰が、どうやって”作った”のか
クレオールとしての手話
手話の方言
ろう教育における手話
シムコム
学習者と手話

です。この中でも最後の「学習者と手話」という項目に私は特に共感しました。

学習者と手話
1960年代に入るまで、手話はろう者と一部のろう学校関係者、そしてろう者の家族(とりわけ、子どもや年少の兄弟)だけのものだった。その後、一般市民が手話を学習するようになると(特に、初期の手話サークルなどのような自然習得の形ではなく、手話講習会などの意図的教育が一般的になるにつれて)、日本手話の代わりにシムコムが”手話”として広まっていった。独立した言語である日本手話よりも、単語だけを覚えて学習者の母語にしたがって並べていけばよいシムコムのほうが、学習がはるかに容易であるということもあったが、ろう者の中にも、日本手話はあくまでも仲間内の言語であり、前者とのコミュニケーションにはシムコムを用いるのが当然のマナーだという意識もあったにちがいない。ろう者にとって日本手話とシムコムを使い分けることは、もともとごく一般的なことだったからである。
 しかし、シムコムが学習者に広まるにつれて、やっかいな問題が生じた。日本語は学習者の母語であり、ろう者にとっては第二言語である。そのため、日本語にもとづいたシムコムは、ろう者よりも学習者のほうが表面上流暢に話せるのだ。しかも、手話と日本語のバイリンガルであるろう者が話すシムコムは、手話の音韻的特徴や、手話の文法で重要な役割を果たしている非手指動作(顔の表情や頭の動き)をある程度保持しているのに対して、日本語モノリンガルである学習者のシムコムは、それらを欠いているために、ろう者にとってはきわめて理解しにくいのである。
(中略)
 手話が自然言語であり、音声言語同様、複雑で洗練された文法をもつことはなかなか理解されない。その理由には、今回述べたように、手話はホームサイン(「原型言語」)とは異なる「真の言語」であること、手話は音声言語の二次的コードでもないし、それをろう者が学び損ねたものでもないということが理解されていないこと、加えて、ろう者が手話とシムコムを使い分けているということが理解されていないことなどがあげられる。しかし、それだけではない。手話という言語そのものが、言語といえば音声言語しか知らなかった私たちにとって、あまりに意外な姿をしているということも、その理由のひとつである。
(以下略)


これから連載を読みながら頑張って理解を深めたいと思っています。
コメント
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