かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

『ネパールのビール』に涙する

2009-01-09 10:22:42 | お気に入り
4,5年前でしょうか、父が手術のため県内のとある病院に入院していたことがあります。そして、病室の近くの廊下脇に休憩所がありまして、そこに皆さんが不要になった本が置かれている場所があったのです。何度か付き添いで病院へ行ったのですが、私には興味をそそられる本がなかったのです。

ところが、ある日その休憩所の本棚を見ていて、「うん?」と思って手にしたのが、『ネパールのビール』だったか、『私が一番泣けた夜』とかいうタイトルの本だったのです。
(本のタイトルが『ネパール・・』でその中のある項のタイトルが『私が一番泣けた夜』だったのかもしれません。っていうより、『私が一番泣けた夜』とかいうタイトルで、いろんな著者のエッセイを載せていて、その中のひとつが「ネパールの・・」だったような気もします。記憶があいまいです)

著者の名前も覚えていなかったのですが、最近当ブログでネパールの旅行記を投稿していて、ビールの話になって、ふとその本のことを思い出したしだいです。
そこで、ネット検索してみると、『ネパールのビール』でたくさんヒットしました。
この本(話)は結構有名なようで、多くの方がHPやブログで取り上げておられます。

ということで、ネパールの思い出旅行記投稿に伴い、私もこの話を取り上げさせていただこうと思いました(ご存知の方には申し訳ありません)。
かなり長くなりますがご容赦を。
「著作権に触れるのだろうか?」と心配しつつ、できるだけ原文を。

筆者は、元NHKのプロデューサーだった吉田直哉さんという方です。
皆さんもこのお名前どこかで眼にしたことがあるのではないでしょうか? 大河ドラマの『太閤記』や『源義経』などの演出を手がけた方のようです。
では・・・

筆者の吉田さんたちが昭和60年の夏、撮影のためネパールのドラカという村に10日余り滞在した時の話です。
斜面に家々がはりつくようにして散在している、ヒマラヤの麓の村です(このあたりは我が地区に似ています)。車が通れる道路はもちろん、電気、水道、ガスといったライフラインもありません。
ですから、最低限の装備だけ持ち込みました。ビールなどの嗜好品はもってのほかです。
そんなある日のことです。

【青文字は原文(と思う)のまま】
大汗かいて1日の撮影が終わったとき、眼の前に清冽な小川が流れているので思わず言った。「ああ、これでビール冷やして飲んだら、うまいだろうな」と。

この一言を村の少年チェトリ君が聞いて、

「いま、この人はなんと言ったのか」
と通訳に聞き、意味がわかると眼を輝かして言った。「ビールがほしいなら、僕が買ってきてあげる」「・・・どこへ行って?」「チャリコット」 チャリコットは、私たちが車を捨ててポーターを雇った峠の拠点である。トラックの来る最終地点なので、むろんビールはある。峠の茶屋の棚に何本か瓶が並んでいるのを、来るときに眼の隅でみた。でも、チャリコットまでは大人の脚でも1時間半はかかるのである。
「遠いじゃないか」「大丈夫。真っ暗にならないうちに帰ってくる」ものすごい勢いでうけあうので、サブザックとお金を渡して頼んだ。じゃ、大変だけど、できたら4本買ってきてくれ、と。
張り切ってとび出していったチェトリ君は、8時頃5本のビールを背負って帰ってきた。私たちの拍手に迎えられて。
次の日の昼過ぎ、撮影現場の見学にやってきたチェトリ君が「今日はビールは要らないのか」と聞く。前夜のあの冷えたビールの味がよみがえる。「要らないことはないけど、大変じゃないか」「大丈夫。今日は土曜でもう学校はないし、明日は休みだしイスタルをたくさん買ってきてあげる」。STARというラベルのネパールのビールを、現地の人々は「イスタル」と発音する。うれしくなって、昨日より大きなザックと1ダース分以上ビールが買えるお金を渡した。チェトリ君は、昨日以上に張り切って飛び出して行った。
ところが夜になっても帰ってこないのである。夜中近くになっても音沙汰ない。事故ではないだろうか、と村人に相談すると、「そんな大金を預けたのなら、逃げたのだ」と口をそろえて言うのである。それだけの金があったら、親のところへ帰ってから首都のカトマンズへだって行ける。きっとそうしたのだ、と。15歳になるチェトリ君は、1つ山を越えたところにあるもっと小さな村からこの村へ来て、下宿して学校に通っている。

   ≪中略≫

そのチェトリが、帰ってこないのである。あくる日も帰ってこない。その翌日の月曜日になっても帰ってこない。学校へ行って先生に事情を説明し、謝り、対策を相談したら、先生までもが「心配することはない。事故なんかじゃない。それだけの金を持ったのだから、逃げたのだろう」と言うのである。
歯ぎしりするほど後悔した。ついうっかり日本の感覚で、ネパールの子どもにとっては信じられない大金を渡してしまった。そして、あんないい子の一生を狂わした。でも、やはり事故ではなかろうかと思う。しかし、そうだったら、最悪なのである。


いても立ってもいられない気持ちで過ごした3日目の深夜、宿舎の戸が激しくノックされた。すわ、最悪の凶報か、と戸を開けるとそこにチェトリが立っていたのである。泥まみれでヨレヨレの格好であった。3本しかチャリコットにビールがなかったので、山を4つも越した別の峠まで行ったという。合計10本買ったのだけれど、ころんで3本割ってしまった、とべそをかきながらその破片を全部だしてみせ、そしてつり銭を出した。彼の肩を抱いて、私は泣いた。ちかごろあんなに泣いたことはない。
そしてあんなに深く、いろいろ反省したこともない。

・・・【吉田直哉 著『ネパールのビール』より】

最後のくだり直前までは、「あーあ」と思います(読んだ時の私はそうでした)。
ところが違う。
ちょっぴり『走れメロス』っぽい、すごすぎる話です。
でも、ネパール・トレッキングで山間部へ入って、現地の子どもたちに接したことのある人間にとって、この話はありうるのです。
あの国には、信じられないほど純粋な心を持った子供達がいるのです。
ちなみにこの話は、今では中学校の道徳の教科書に採用されているらしいです。
さらに、この話の筆者の吉田直哉さんは、昨年9月に亡くなられたようです。
遅ればせながら、
氏のご冥福をお祈りするとともに、いいお話に感謝です。


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