喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

有田焼の祖  李参平

2013-11-10 | ブログ
 先週11月3日。
職場の旅行で佐賀県有田に立ち寄った。

 いつも旅でよくするように、まちなみ自由散策。
まずは、まちを一望できる高い場所をめざす。

 小高い場所にある陶山神社を参拝。
そしてそれよりもさらに高い所に足を進めた。

 

 写真が、最も高い場所からの眺め。
山あいの静かなまち、有田。
山あり、石あり、水あり。
ここから日本で最も有名な磁器「有田焼」が始まった。

 この場所には、記念碑が建っている。
すごくりっぱなものだ。

 

 近づいて見てみると、「李参平」と書いている。



 調べてみた。
 江戸時代初期、肥前の有田にて、日本で初めて磁器が焼かれた。
それまで、中国製磁器を購入していた日本人にとって、白く、硬く、
そのうえ中国製品よりは安価な国産の磁器の出現は、驚異的な出来事だったことだろう。

 有田焼の誕生は17世紀始めのこと。
 豊臣秀吉の時代、戦乱に明け暮れた武将たちの間で茶の湯が流行っていた。
茶の湯の指導的茶人であった千利休はわびさびの茶に導き、高麗茶碗を珍重していた。
秀吉は、そんな高麗茶碗を作り出していた朝鮮半島へとても関心を深めていたようだ。

 秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀藩主の鍋島直茂は朝鮮から撤退する時に何千という朝鮮陶工たちを日本に連れて帰った。
そうした陶工の中の一人に、李参平(りさんぺい)がいた。
日本名を金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)と呼んだ。

 李参平は、最初のうちは佐賀の多久にて陶器を焼いていたが、
なかなか納得のいくものができず、良質の原料、すなわち磁器を作るための陶石を見つけるために、旅に出る。

 多久から伊万里の地を経て有田に入る。
そして、1616年、ついに有田の泉山(いずみやま)にて、良質の磁石を発見。
山の磁石は磁器原料・質量ともに条件を満たすものだった。
そこから有田の窯業は急速に発展し始めた。

 李参平は、日本で初めて白磁を焼いた有田焼の祖と言われている。

 初期の有田焼は白い素地に藍色一色の模様が多かったが、
磁器発見から約30年後の1640年代に初代・柿右衛門が赤を基調とした「赤絵(色絵磁器)」を生み出す。

 1650年代からは、有田焼はオランダの東インド会社によりヨーロッパの国々に輸出されはじめる。
ヨーロッパに渡った有田焼は「IMARI」と呼ばれ、豪華な金襴手の品々は当時、純金と同じ価値で取引されていた。
ヨーロッパの王侯貴族の中には熱狂的なコレクターが非常に多かったと言われている。

 白い素地に描かれた赤・黄・緑・青などの美しい絵柄は、有田焼の代表的なもので今も世界中で愛されている。
あの有名な磁器「マイセン」も有田焼の影響を強く受けている。

 現在の美しくすばらしい日本の磁器は、朝鮮半島からもたらされたもの。
ちなみに土器は、日本の縄文土器が世界最古のものといわれている。

 新しいものを取り入れ、その土地、土地の風習や文化に取り入れる。
ちがいは、豊かさのもと。

 ふるさとを見つめる視点の重要な一つだろう。

                      岬人


 

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