何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

百済寺-(2) (東近江)

2018年08月21日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・東近江市】平安末期から鎌倉・室町時代にかけては、一山境内を東西南北の四ツ谷に分かち、楼門凱回廊を配した本堂、五重塔婆、常行三昧堂、阿弥陀堂など十五棟の堂宇と塔頭三百余坊を有し、約1300人が居住する荘厳な大寺院だった。
室町時代の明応七年(1498)、本堂付近の堂宇を焼失、また文亀三年(1503)には戦乱による災厄に遭って、荘厳な多くの堂宇を焼失したが、再興により寺勢を保っていた。
戦国時代の永禄六年(1563)に来日したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、山門から本堂までの参道を「地上の天国 一千坊」と絶賛したほど、隆盛を極めた。
時代が室町から安土桃山に代わる元亀四年(1573/天正元年)、織田信長に敵対していた佐々木氏(百済寺の近くに観音寺城の支城・鯰江城を築いていた)を支援したとして焼き討ちに遭って全山灰燼に帰し、衰亡した。

表門から樹林の中に続く石段の長い参道を上っていくと、苔生した石垣に守られた石段の奥の杉木立の間に仁王門が見えてくる。 仁王門手前の右手の土手の上の平地は旧喜見院跡で、喜見院が昭和十五年(1940)に現在地に移築されるまでここに建っていた。
約370年前に再建された仁王門は風情があり、古寺の面影を感じさせる。 正面の連子前には大きな草履が下がり、まるで鎮座する金剛力士像を隠しているかのようだ。 草履にそっと触れてから仁王門に入る。 阿形と吽形の金剛力士像が向き合って鎮座しているが、皮膚がはがれ少々くたびれたようなお姿なので、守護神としてしっかりとお寺を護っているのか心配になった。
仁王門をくぐると、老杉が林立する石段の先の石垣の上に本堂が見える。 乱積の石垣の前には、推定樹齢430年の「観音杉」と呼ばれる境内最大の古木が聳えている。
石段を上り詰めると、江戸初期に再建された本堂が建つ。 軒唐破風付きの本堂は、金剛輪寺及び西明寺の本堂よりも一回り小さいが、正面と内陣部分の側面のみに縁を設けた典型的な天台形式の建物で、歴史を感じさせる。 本堂の左手に、「仏陀の聖樹」として崇められてきた推定樹齢約千年の「千年菩提樹」がある。 幹が苔に覆われた「千年菩提樹」は、織田信長の焼き討ちによって幹まで損傷したが、若木が育って蘇った....合掌。
 
境内に鎮座する弥勒半跏石像....平成年(2000)造立で、座高1.75m、全高3.3m/弥勒半跏石像

仁王門の手前の石段参道....支院跡の名残を残す左右の乱積の石垣が石段の参道を護る
 
仁王門前参道の右手の石段の上に旧喜見院跡がある/石段左側に五輪塔の笠を積み重ねたような七重石塔と仏像が浮き彫りされた4体の石仏が鎮座

旧喜見院跡....元文元年(1736)に自火で焼した喜見院は、元文二年(1737)に仁王門側のこの地に移転改築された
 
旧喜見院跡にある放生池/放生池越しに眺めた仁王門....大棟に鳥衾付鬼板、拝みに蕪懸魚、妻飾は豕扠首

入母屋造銅板葺の仁王門....慶安三年(1650)の再建

軒廻りは二軒並行垂木、組物は頭貫に台輪をのせ隅柱上に連三斗の出組、中に柱上に間斗束、中央に詰組を配す
  
鎮座する仁王像を隠すように連子前に大きな草履が下がる/金剛柵の奥に向き合って鎮座する阿形吽形の金剛力士像....健脚の両足に草鞋を履く「印度発祥の東洋的な神様」

本堂境内側から眺めた仁王門....両脇の連子窓を設けた袖塀

仁王門をくぐった参道の右手に鎮座する流造銅板葺の弁天堂
 
石段を上り詰めると老杉に隠れるように野面積の石垣の上に本堂が建つ/古杉が聳える石段参道の先の石垣の上に鎮座する本堂

入母屋造銅板葺の本堂(重文)....慶安三年(1650)の再建

注連縄が張られた「観音杉」越しに眺めた本堂....「観音杉」は推定樹齢430年で境内最大の樹木

乱積の石垣の上に鎮座する本堂....正面中央に軒唐破風を設けている

正面五間、側面六間で正面は中央間に桟唐戸、両脇間に蔀戸....軒廻りは二軒並行垂木、組物は頭貫上に出三斗、中備は撥束と蟇股

正面は両折両開の菱狭間付桟唐戸で、内側に腰高障子と連子欄間
  
組物や中備の巻斗上に繰形の実肘木が乗る/軒唐破風に鳥衾付鬼板、猪の目のような兎の毛通/大棟に鳥衾付鬼板、拝みに猪の目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

引違格子戸で仕切られた本堂の内陣と外陣....外陣に鎮座する閻魔大王坐像2体、賓頭盧尊像、聖徳太子元服姿立像が鎮座....内陣の厨子に奈良時代造立の十一面観音立像(秘仏)が鎮座

側面六間は両開の板戸(出入口)、蔀戸、花頭窓、小さい四角の格子窓そして白壁二間....正面と内陣部のみに擬宝珠勾欄付切目縁を設置....手前の五輪卒塔婆の各輪に「(北)涅槃門」の梵字が刻
 
寛政九年(1797)造立の宝篋印塔....後方の五輪卒塔婆は明治三十六年(1903)造立/注連縄で囲まれた推定樹齢約千年の千年菩提樹....古来より「仏陀の聖樹」として崇められてきたが、天正元年の信長の焼き討ちで幹まで損傷したが根は助かり、若木が育って蘇った

本堂前の左手に建つ鐘楼、宝篋印塔そして幹が苔生した千年菩提樹
 
低い基壇上に建つ切妻造桟瓦葺の鐘楼/梵鐘は三代目で昭和三十年(1955)の鋳造.....初代は信長焼討ちの際に持ち去られ、二代目(江戸期鋳造)は先の大戦で供出
 
本堂境内の入り口で本堂を見守るように佇む宝篋印塔/塔身は方形でなく丸形に近く、月輪に四方仏が浮き彫り、基礎は輪郭を巻いて格狭間

本堂の右手に鎮座する鎮守社の三所権現社....本堂と同時期の建立で熊野三社の主祭神を祀る

立派な基壇に鎮座する一間社流造で檜皮葺の三所権現社....向拝柱上に連三斗、中備に蟇股
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