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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

旧福原家長屋門 (藤沢)

2024年10月01日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・藤沢市】旧福原家長屋門は江戸時代後半に建てられた建物で、平成二十年(2008)に新林公園内に移築・復元されたものだが、当時の建築様式と状態をよく残している貴重な遺構。 江戸時代の末頃から長屋門は、上層農家の格式を示す建物として屋敷の入り口に建てられた。 旧福原家長屋門は正面間口15.39m、奥行4.24mで、神奈川県下でも比較的規模が大きいとされる。 福原家は藤沢市渡内でも有数の旧家で、江戸時代には渡内村の名主を務めた。

★藤沢駅から市街地を通り、境川に架かる奥田橋を渡ると間もなく新林公園に着く。 ”新林公園”と彫られた標石がある入り口から少しだけ旧福原家長屋門の茅葺屋根が見える。 緑の中に入って直ぐの所に、植栽に囲まれて長屋門1棟だけがポツンと建っている。 建築当初の姿に復元された長屋門は、真っ白な土壁(漆喰壁?)と羽目板の腰壁が洗練された構えを感じさせる。 扉口の両側に長屋があるが閉扉されていて残念。 扉口部分は名主を務めた旧家の長屋門らしい格式ある堅牢な造りで趣がある。

△寄棟造茅葺の長屋門....規模は正面間口15.39メートル、奥行4.24メートル

△長屋門内側(屋敷敷地内側)の外観

△四方の壁は土壁と腰壁は縦羽目板

△軒下は突き出た横木に軒桁を乗せている構造なので船枻造り(と思う)

△扉口の左右に設けられた長屋....扉口の右側には空気口があり、その上に板戸があるので使用人の部屋?

△向かって右側の長屋の腰高の引き戸

△長屋門内側の扉口

△八双金具と乳金具を配した板扉/扉上の桁柱に4本の太い梁柱が外側に突き出ている...左側の長屋に窓がある

△長屋門外側の扉口....脇の仕切り板壁に八双金具と乳金具を配した潜り板戸


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旧永井家住宅 (町田)

2024年09月06日 | 史跡探訪-日本編

【東京・町田市】旧永井家住宅は江戸時代中期(17世紀末)頃、多摩丘陵(町田市小野路町)に建てられた典型的な農村家屋。 多摩ニュータウン建設に伴って町田市に寄贈され、昭和五十年(1975)に薬師池公園の現在地に移築・復元された。 建物は東京都下では最古に属する農家建築で、昭和五十三年(1978)に国指定重要文化財に。
平面は古式の広間型三間取で四方下屋造の構造、デイ(客間)は板敷だがヒロマとヘヤは竹の簀子敷で、天井は三間とも竹の簀子天井。 また、土壁と羽目板の側周りは出入口と2カ所に窓があるだけで開口部が少ない閉鎖的な造り。

★旧萩野家住宅から北側に少し離れたところに旧永井家住宅が東面で建つ。 出入口の左と南側一面の壁だけが板張りで、他は土壁だ。 正面の犬走りに6本の柱が建ち軒先を支えているが、みると、身舎から梁が延び、柱の上で繋いで丸太の丸桁を支えている。 梁はまるで寺社の海老虹梁のようで面白い造りだ。 老朽化した支柱や身舎の柱は「木組み」の工法で見事に補修されている。 正面の庭先に取り外された大棟押さえの芝棟が置かれているが、芝棟を近くで見るのは初めだ、

△東京都下で最古に属する農家の建物で、多摩丘陵に建っていたものを昭和五十年(1975)にここに移築復元された

△寄棟造茅葺の旧永井家主屋(国指定重要文化財)....建築年代は江戸初期~中期(1601~1700年)頃(推)で、桁行15m、梁間8.8m

△平面は広間型三間取りで下手を土間とし、床上にはヒロマ、ヘヤ、デイを配す....側廻りは土壁と板張りで、窓などの開放部が少ない造り

△正面には外壁面を保護するため、犬走りに柱を立てて軒先を支えている

△ダイドコロの左側面(西側)の板張りの突出部は物置部分/正面の軒先は身舎と軒支え柱を繋ぐ海老虹梁を設けて丸桁の丸太を支えている(仏堂の向拝のようだ)

△取り外されて地面に置かれた大棟押さえの芝棟

△正面に2つの窓が設けられ、左の窓は袖壁付きの格子窓

△老朽化した柱が「木組み」の工法にて修復されている

△右側面(東側)は土壁で窓がない

△土壁の下部に石を埋め込んでいる/背面(北側)の土壁にはヒロマの窓が一つだけある

★ダイドコロに入ると広い土間の壁際に唐箕、竈、大八車、座り流し、臼などが展示されている。 土間の梁組の上は、竹の簀子を張った天井になっている。 ダイドコロに面したヒロマの床は竹簀子で、ダイドコロ側の中央部分に腰板を設けて仕切っている。 また、ヒロマも竹の簀子天井だ。 ヒロマ奥の二間の黒ずんだ壁側には、養蚕に使われていた道具類が展示されている。 二間は板床のデイと窓がない竹簀子床のヘヤで、いずれも天井の一部に竹簀子を張っている。 古式の広間型三間取り、 竹簀子床と竹簀子天井、身舎外壁と軒を支える支柱と梁など実に趣があり、興味深い古民家だ。

△正面に土間のダイドコロへの入口がある....土間(ダイドコロ)側面の突出部(物置)まで屋根を葺き下ろしている

△入口から見たダイドコロ(土間)

△ダイドコロに展示されている唐箕、かまど、大八車、座り流し、臼など

△二台の大八車

△ダイドコロの梁組....天井は竹簀子張り

△ダイドコロとヒロマとの境に腰板を設けている....平面は広間型三間取りで、床上にヒロマ、デイ、ヘヤが配されている

△竹簀子が敷かれたヒロマ(広間)....床に組み込んで設けられた囲炉裏/自在鉤に掛かる鍋

△竹簀子敷のヒロマに展示されている養蚕に使われている道具類

△ヒロマの梁組....天井は竹簀子張り

△デイ(出居)の窓から眺めたヒロマ

△窓から眺めた板敷のデイ....戸棚や長持ち(と思う)が展示されている

△デイの梁組....天井は竹簀子張り

△背面(北面)の窓から眺めたヒロマ....内側からみるヒロマ東側の格子窓(しし窓)

△背面(北面)の窓から眺めたヒロマとダイドコロ....仕切りの黒塗りの腰板がある

△窓が無い竹簀子敷きのヘヤ(部屋)

△公園外の福王寺(野津田)薬師堂への参道から眺めた旧永井家住宅
















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旧萩野家住宅-(2) (町田)

2024年09月01日 | 史跡探訪-日本編

【東京・町田市】妻入りの建物は2つの土間(正面・背面)と4つの間から成り、内部の間取りは町屋に似た造り。 正面の広い前ダイドコロと称する土間(側面からも出入りできる)は天井が低く、炊事や作業の場を兼ねた様子がない。
また前ダイドコロは、チョーゴザシキ(調合座敷)と呼ばれる診察室に繋がっているので、患者の待合室として使用されたとされる。 入母屋造り茅葺屋根の外観は普通の農家建築に見えるが、江戸時代末期の農村の医師の建物として貴重な遺構。

★建物後方に主屋から突き出た杉皮葺屋根のベンジョとフロバ、そして後ダイドコロの出入口がある。 西側と北側の一部の軒下は正面の東側と南側、北側の一部の船枻造りとは異なり、竹の垂木むき出しの造り。 後ダイドコロは土間と鉤形板間になっていて、土間にヘッツイ(竈)、板間に囲炉裏がある。板間の西側の出っ張った所がナガシで、座り流しと水瓶とが置かれている。

△建物後方(西側)に突き出た杉皮葺屋根の便所

△便所の北側に杉皮葺屋根の風呂場がある

△杉皮葺屋根の風呂場....手前左の突き出た部分は後ダイドコロの流し場

△北側と西側の軒下は竹の垂木がむき出し

△後ダイドコロ(土間)の突き出た部分には座り流しと水瓶が置かれている/後ダイドコロの流し場には明障子窓を設けている....一般の農家建築では無双窓が多いが…

△流し場に置かれた座り流しと水瓶

△後ダイドコロは土間と板間からなる...土間から見た流し場(右)と腰高明障子戸のフロバ(左)....板間に囲炉裏がある

△後ダイドコロの鉤形の板間

△後ダイドコロのヘッツイ(竈)/ヘッツイから見たナカザシキとチューゴザシキ、奥に前ダイドコロ

△板間に囲炉裏を設け、隅に戸棚が置かれている/囲炉裏の魚の形をした止め木(小猿鈎)

★後ダイドコロからナカザシキを覗くと、9畳敷のナカザシキの西側に一間、北側に二間の大きな戸棚がある。 外に出て建物の北側に....北側は全面が土壁で窓が無い。 正面である東側に回るとチョーゴザシキに格子窓が建て付けられている。
建物の北側の庭に、招き屋根の板倉が建つ。 高床式の板倉は5部屋に分かれていて、前面には揚げ板が張られ、建て柱の上に「ねずみ返し」の板が設けられている。

△後ダイドコロから見た西側面に大きな棚がある9畳敷きのナカザシキ....奥の左チョーゴザシキで右は前ダイドコロ

△ナカザシキの北側面に設けられた二間の大きな戸棚

△住宅の東側のチョーゴザシキに建て付けられた格子窓

△住宅の北側は全面が土壁で窓が無い

△住宅の後方に建つ招き屋根で木皮葺きの高床式板倉....江戸時代末期の建築(推)で、旧萩野家のものではない

△板倉は5つの小部屋からなり、米や雑穀を籾のまま保存する建物....前面は揚げ板、建て柱の上の板は「ねずみ返し」がある

△北側の庭から眺めた住宅....屋根の苔が生えている

△緑に囲まれていて、まるで「日本昔ばなし」にでてきそうな古民家だ















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旧萩野家住宅-(1) (町田)

2024年08月26日 | 史跡探訪-日本編

【東京・町田市】旧萩野家住宅は江戸時代末期、町田市三輪町に医院を兼ねて建てられた住宅。 萩野家より町田市に寄贈され、昭和四十九年(1974)に薬師池公園の現在地に移築・復元された。 萩野家は江戸時代に常陸国茨城郡笠間に存在した笠間藩の医家を出自とし、町田の街道沿いに転居してきて幕末まで開業していた医家だった。 明治期に転業し、三代目より農業を専業としていた家柄。昭和四十九年(1974)に薬師池公園の現在地に移築・復元された。 建物は当時の一般農家と違って妻入りで、近世の古民家では珍しく正面と背面の二か所に土間がある。

★袖塀を備えた瓦葺きの薬医門をくぐると、赤く染まった春紅葉に隠れるように茅葺屋根が見える。 春紅葉が混じる深い緑に囲まれて旧萩野家住宅が東面で建つ。 入母屋造りでバランスのとれた佇まいや、しっかりした船枻造りの軒下などから、格式の高さを感じさせる外観だ。 
船枻造りは正面の東側と南面そして北側の一部(チョーゴザシキ部)の軒下。 珍しい妻入りで、前ダイドコロ出入口の左右の板戸は、町屋でみられる上下2段に分かれた揚げ戸になっている。

△旧萩野家住宅の入口に建つ薬医門....もと下鶴間の瀬沼靖木枝家の門で、市が寄贈を受け、旧萩野家住宅と同時期に公園内に移築された

△瓦葺きの袖塀を備えた切妻造桟瓦葺の薬医門....昭和十二年(1937)の建築

△拝に鶴の彫刻が施されている

△門から眺めた赤く染まった春紅葉と奥に茅葺屋根の古民家

△古民家と後方に板倉が見える

△入母屋造茅葺で妻入りの旧萩野家主屋....江戸時代末期建立の医院の住宅

△東側の妻面に出入口があり、南側面するツギノマとオクザシキには鉤形(L字形)の内縁がある

△東側と南側の軒下は太い材木を使った頑丈な船枻造り

△妻側が正面で、前ダイドコロ入口の左右の板戸は上下2段に分かれた揚戸

△正面側に前ダイドコロ(台所)と入口右に細かな格子窓が嵌められたチョーゴザシキの二間があり町屋風の構え

★中に入ると広い土間で前ダイドコロと称するのだが、天井が低く、竈などはなく炊事場の雰囲気がまったくない。 左右に差し鴨居が組まれた大黒柱があり、左側は縁側がある南面で畳敷きのツギノマとオクザシキとが連なっている。 ツギノマとオクザシキは襖で仕切られ、上に菱格子欄間を設けている。
奥のオクザシキの西壁側に床の間と天袋と地袋のある棚が設けられ、床の間の左は付書院のような造りになっている。 前ダイドコロに入って直ぐ右側の長式台があり明障子を入れた板戸の部屋は畳敷きのチョーゴザシキ(調合座敷)で、部屋の北壁側に薬や医療機器等を収納する薬戸棚がある。 外に出てツギノマとオクザシキに面して縁側がある南面側に。 前ダイドコロの土間と床上の境の出っ張った白壁の先が縁側で、境部の外に屋根を乗せ窓を設けた衝立のような珍しい仕切りが立っている。

△低い天井がある前ダイドコロ正面の左の腰高明障子戸は六畳敷のツギノマ、奥に十畳敷のオクザシキの二間続き、右の長式台がある腰高明障子戸は九畳敷のナカザシキ....真ん中に大黒柱があり左右に差し鴨居が組まれている

△手前のツギノマを通して眺めたオクザシキ

△ツギノマとオクザシキが襖で仕切られ、上に菱格子欄間が配されている

△オクザシキの西壁側に床の間と天袋と地袋の棚....床の間の左は付書院のような造りだが....

△土間右側の長式台があり明障子を入れた板戸はチョーゴザシキ....左の腰高明障子戸はナカザシキ

△六畳敷のチョーゴザシキ(調合座敷)....部屋の北壁側に薬や医療機器等を収納する薬戸棚がある

△前ダイドコロ(土間)の南側側面からも出入りできる造り....雨戸が入った所は縁側でツギノマとオクザシキに面している

△出っ張った白壁部は縁側部分で、土間と座敷の境の外に屋根を乗せ窓を設けた衝立のような仕切りが立つ/土間の白壁の上部に明り取りの障子窓がある

△建物の南側側面....雨戸部分はツギノマとオクザシキの縁側

△縁側から覗いたオクザシキ....オクザシキと榑縁の縁側は明障子戸で仕切られている/ツギノマの縁側から覗いた前ダイドコロの土間(右)、奥の大黒柱の左右にナカザシキとチョーグザシキ....土間側の見事な差し鴨居
















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旧島崎藤村邸-(2) (大磯)

2024年07月26日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・中郡・大磯町】藤村は、昭和十六年(1941)に新杵が所有する貸別荘(邸宅?)を借り受け、翌年8月に購入し、終の棲家とした。 昭和十八年(1843)8月に永眠するまでの2年余、藤村はこの家を「静の草屋」と名付けて静子夫人と過ごした。 藤村の旧邸は表問、主屋、離れからなるが、離れは藤村亡き後の昭和二十年(1945)に静子夫人が建てた。

★建物の東側に小庭に面した居間兼寝室があり、東南側に一間幅の鉤形の広縁があるが、畳敷きで居間兼寝室よりも広い。 広縁の外側の建付けは希少な大正ガラス を入れた腰高格子戸で、燦燦と陽が差し込んでいる。 軒下に目を向けると、垂木を支える軒桁は製材(角材)ではなく丸太のまま使っている。 広縁の天井は平天井と化粧屋根裏の掛込天井とが半々で、掛込天井は軒先まで延びている。

△建物の南東側の広縁と明障子戸の居間・寝室

△居間・寝室の南面と東面に設けられた畳敷の広縁....両広縁前に沓脱石が置かれている

△八畳の敷の居間・寝室の南側は腰高明障子で、鴨居・内法長押の上に上部を緩く湾曲させた櫛型の格子欄間を設けている

△屋根の疎垂木を支える軒桁は製材(角材)ではなく丸太のまま/引き戸には希少な大正ガラス が使われているようだ

△南側の小庭から覗いた畳敷の広縁....右奥は東側広縁

△南側の広縁の天井は、平天井と化粧屋根裏の掛込天井(傾斜天井)....突き当りは廊下で、左手見えるのは書斎

△東側の小庭から見た鉤形の広縁と大正ガラスが入った腰高格子戸の引き戸を通してみた南側の小庭

△東側の広縁....南側と同じの平天井と化粧屋根裏の掛込天井(傾斜天井)

△掛込天井が軒先まで延びている....掛込天井は垂木が見える化粧屋根裏天井

△八畳の敷の居間・寝室の東側....南側と同じ造りの腰高明障子と櫛型の格子欄間

★東側広縁の北側の外に小さな濡れ縁があり、その脇の竹穂垣で仕切られた奥に厠がある。 濡れ縁の前には石組みらしきものがあるので、ここに蹲踞手水鉢が置かれていたと思う。 敷地内の南東に植栽に隠れるようにして離れが建つ。 離れは藤村亡き後に静子夫人が書庫として建てたが、立入禁止で敷地内から近づけずだ。 表門から道路に出て、割竹塀越しに離れを拝観した。

△東側広縁の北側に小さな濡れ縁があり、竹穂垣で仕切られた奥に厠がある/濡れ縁前に石組みがあるのでここに蹲踞手水鉢があったと思う

△建物の北東端にある厠....母屋と独立して疎垂木を支える丸太の軒桁、そして小さな庇と面格子を付けた窓がある

△西側の道路から眺めた桟瓦葺き屋根の旧島崎藤村邸....割竹塀に勝手口への両開き庭木戸、母屋の手前の本瓦風銅板葺き(と思う)屋根は玄関

△敷地内の南東に建つ離れ(立入禁止)

△竹垣越しに眺めた切妻造桟瓦葺の離れ

△離れは藤村亡き後の昭和二十年(1945)、静子夫人が書庫として建てた

△離れの南面....左側は雨戸がある小さな内縁か?




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旧島崎藤村邸-(1) (大磯)

2024年07月21日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・中郡・大磯町】旧島崎藤村邸は大正末期から昭和初期にかけて建築された建物で、菓子で有名な新杵が所有する貸別荘(邸宅?)だった。 藤村は昭和十六年(1941)1月、休養で湯河原町を訪れる途中、大磯の祭り「左義長」の見物に立ち寄った際、温暖なこの地を気に入り、大磯での生活を決意した。

★国道1号線から住宅地に入り、しばらく進むと割竹塀に囲まれた旧島崎藤村邸の前に着く。 教科書でしか知らない島崎藤村だが、晩年ここに住んでいたと思うと感慨深い。 竹穂垣を袖塀のように設けた表門を入る。 正面が建物の西側で砂利を敷いた中、飛石を配した奥に玄関があり、その手前に女中部屋の肘掛け窓がある。 建物内は立入禁止とのことで、表門脇の庭木戸から小庭に入る。

△穂垣造りの割竹塀に囲まれた旧島崎藤村邸....屋根は寄棟造桟瓦葺で、L字に配している(居間の東側の屋根の形は見えず)

△切妻造木皮葺の表門....袖塀のように両側に竹穂垣を配している

△表門から眺めた主屋西側の外観....砂利と飛石を敷いた奥に玄関がある....手前右は女中部屋の窓

△庇を設けた女中部屋の肘掛け窓

△肘掛け窓から覗いた和室六畳の女中部屋

玄関は引き違い格子戸で、上に連子入り欄間がある....外壁は下見板張り

△主屋北側の外観....手前から浴室、台所、納屋そして便所で、浴室と台所に勝手口がある

△表門の脇に小庭への小さな庭木戸がある/上部に菱格子を入れた庭木戸

★小庭に入ると直ぐ左手の濡れ縁がある小庭に面した部屋は藤村の書斎で、晩年の多くをこの部屋で過ごしたそうだ。 濡れ縁の東端に珍しい仕切り壁がある。 縦棒を入れた窓のある脇障子風の仕切り壁は小庭を眺めるのに邪魔な存在だと思うのだが、わざわざ設けたのは何故かな。
書斎の白壁にハギの枝を格子にして、アケビのつるを巻き付けた茶室風の下地窓があり、なかなか趣がある。 書斎東面の外壁側に回る。仕切り壁の外側と書斎の外壁はいずれも板壁に杉皮を張りつけた造りで、仕切り壁は縦張りなのに対し書斎外壁は横張りだ。

△庭木戸からみた濡れ縁がある書斎と庭で、濡れ縁側に銅板葺の庇を設けている....奥の木立に隠れた建物は離れ(立入禁止)

△書斎濡れ縁前の苔生した割竹垣に囲まれた小庭

△濡れ縁から覗いた床の間がある和室四畳半の書斎....奥の廊下の左が女中部屋で右手に内縁がある

△濡れ縁の東端に設けられた脇障子風の仕切り壁....縦棒を入れた窓がある(西端の仕切りに窓なし)....室内に掲げらている静子夫人筆による「明月」の扁額(レプリカ)

△東側の白壁に設けた萩の枝を格子のして作られた茶室風の下地窓....書斎の入口は茶室の躙り口を模しているらしい

△濡れ縁の脇障子風仕切りの外面と書斎の外壁は板壁に杉皮張り....仕切り壁は縦張りで書斎外壁は横張り

△庇を設け萩の木の格子を入れた下地窓の雨戸は下から上に跳ね上げる方式

△書斎の右後方に連なる居間・寝室....広縁(内縁)外側にガラス入り腰高格子戸

△書斎や居間から眺められる小さな飛石や石組みが配された割竹垣で囲まれた小庭

△小庭に置かれた飾手水鉢/小庭に置かれた「涼しい風だね」のオブジェ....永眠直前に藤村が残した言葉











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旧金子家住宅-(3) (横浜)

2024年07月16日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】展示資料によると大正時代の初めころまで養蚕を行っていたようで、根太天井を用いていること、土間の梁組の上部がスノコ、そして兜造り屋根がそれを裏付けているようだ。 寄棟造茅葺の納屋には、昔の農機具などが展示されている。

★敷地内の西側に竹藪を背にして小棟造りの納屋が建つ。 屋根は正面平側の軒を長く伸ばし、妻側の軒の下部を切り落として片側だけ兜造りにして窓を設けた造りだ。 平側の長く伸ばした軒は、身舎の柱から腕木を出して丸太の出桁を乗せ、それを柱で支えて垂木を乗せている。 兜造り側の窓は天井裏の中二階のもの。
入口前の左右に「唐蓑」と「筵を編む道具」が、内部には足踏み脱穀機などの農機具や農具が所狭しと展示されている。

△敷地内の西側に竹藪を背にして建つ納屋

△寄棟造茅葺の納屋

△正面の軒を長く伸ばし,妻側下部を切り落とした軒で、半分だけ兜造りにした造り....壁は土壁と腰壁は下見板張り

△妻面に銅板葺きの庇を設け、薪や道具の置き場としている

△身舎の柱から腕木を出して丸太の出桁を乗せ、それを柱で支えて垂木を乗せている

△納屋正面左右の腰壁の前に置かれた農具

△風の力で穀物と藁・塵を選別する「唐蓑(とうみ)」....中国から伝わった道具だそうだ

△馬車の車輪前に置かれた筵を編む道具/ご丁寧に筵の編み方や編んでる状態の筵が掲示されている

△天井裏への階段....左手に農具/納屋に保管されている足踏み脱穀機などの農機具・農具群

△納屋の北面(妻面)側....中二階になっている天井裏に窓が配され、身舎に鋼板葺の庇を設けている

★主屋の東側に妻側と西側に鋼板葺の庇を設けた瓦葺きの水屋が建っている。 情報はないが、造りから母屋と納屋とは建築時期が異なると思われる。 古民家の敷地から出て公園北門近くにある水車小屋に向かう。 水車小屋は耕作体験田んぼ傍に建ち、建屋の北側に堅牢そうな水車がある。 案内によると中には米つき機があり、杵で米をつく方法のものと回転式のものとがあるようだが、小屋内に入れず残念。

△主屋の東側に建つ水屋....妻面(正面)と西面に鋼板葺の庇を設けている

△切妻造桟瓦葺の水屋....主屋側に縦格子を入れた腰高格子戸....壁は上が土壁で腰壁は下見板張り

△北門近くの園路脇で耕作体験田んぼ傍に建つ切妻造板葺の水車小屋

△江戸時代,水力で歯車を回して米をつく方法が考えられ水車が用いられた

△小屋内に米つき機があり、杵で米をつく方法と回転式がある

△水車は低いところから高いところへ水を揚げるためにも用いられ、江戸時代から明治時代に各地で使われた


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旧金子家住宅-(2) (横浜)

2024年07月11日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】旧金子家住宅母屋の建築様式は木造平屋建て寄棟造茅葺で、東側の屋根は兜造り。 「整形四ツ間取り」と呼ばれる間取りで、8畳敷の部屋を4室田の字状に配置した構造。 間仕切りに壁がなく、すべて戸・障子が用いられていて開放的な造りは、江戸後期から明治初期にかけて座敷で蚕の飼育をしていた名残のようだ。

★土間に入ると二基のへっついの他、鍋が掛かった自在鉤そして壁側に農具類が置かれている。 土間の北側にウナギの寝床のような台所がある。 台所の流し台の前の窓は無双窓だ。 土間の天井を見上げると、梁の上に養蚕に使用されたスノコが張られている。 また、部屋の天井裏に二階と三階があってスノコが張られ、それぞれ梯子が掛けられている。 天井裏の二階と三階と土間の天井二階で養蚕が行われた俤を感じさせる。

△入り口からみたドマ(土間)....二基のへっつい(竃)と自在鉤がある....奥の部屋は台所

△土間に下がる鍋を掛けた自在鉤/自在鉤の傍の柱に牛蒡注連縄を乗せた棚....地神(祖霊、農神)の神棚だろうか?

△土間の東側壁の前に展示されている農具類

△ドマの北側にあるダイドコロ(台所)....手前に流し台、奥に大きな戸/台所の流し台,前の窓は無双窓

△上に何かの道具が置かれた樽 茶器などを収納した大きな戸棚

△土間の竈の壁裏に設けられた展示室

△桁行三間の土間の天井....梁組の上部がスノコ(簀子)になっていて、養蚕に使用されたもの

★土間と床上部の境に立つ重量感のある大黒柱に三方から差し鴨居が組まれている。 床上部に上がると板戸と格子戸で縦横十字に間仕切りされた八畳の部屋が田の字に四室並んでいて、典型的な整形四間取りの造りだ。 広間の差し鴨居の高い位置に、一間幅の棚がある。 腰高格子引違い戸が閉まっていて中が見えないが、神棚を祀っていると思われる。 居間だけが板張りの床で、少し大き目の囲炉裏がある。 自在鉤は竹の棒に取り付けられ、竹の棒は開けられた天井の上に這わせた梁から吊り下げられている。

△大黒柱の三方に差し鴨居が組まれている....土間から見上げた部屋の天井裏、二階と三階への梯子がそれぞれ掛けられている

△土間(ドマ・ニワ)から見た4つの部屋....整形四間取りで、8畳の部屋を4室田の字に配置

△土間から見たヒロマ(広間)とその奥はオク(奥)

△土間から見たイマ(居間・ザシキ)とその奥はナンド(納戸)

△広間に置かれた子供の遊具/広間の大きな差し鴨居部に設けられた腰高格子引戸、天井近くの中央に蟇股を配した戸棚

△奥から見た広間....左手は囲炉裏がある居間

△広間から見た囲炉裏のある居間

△納戸から見た居間....奥は土間/自在鉤は竹の棒に取り付けられ、竹の棒は開けられた天井の上に這わせた梁から吊り下げられている

△奥から見た納戸と右手は居間



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旧金子家住宅-(1) (横浜)

2024年07月06日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】旧金子家住宅は、戸塚区舞岡町にある「舞岡公園」内に建つ古民家。 明治初期の建築とされる旧金子家住宅母屋(主屋)は戸塚区品濃町にあったが、開発事業のため現地での保存が困難となり横浜市に寄贈された。 横浜市は解体し、平成七年(1995)6月に納屋なども含めて舞岡公園内の「小谷戸の里」に移築し、復元した。 同年9月、母屋は横浜市歴史的建造物に認定された。

★バス停「京急ニュータウン」で下車し、舞岡公園の南門に向かう。 南門から賑やかな蝉の声を聞きながら濃い緑に覆われた園路を進み、古民家がある”小谷戸の里”に着く。 板張りの門扉が開いている入口から里の中に....左手に耕作管理棟その少し先に管理運営棟が建ち、明るい園路の奥には水屋と母屋の茅葺屋根が少しだけ見える。
園路を進むと急に開け、広い庭に裏山に生い茂る竹林を背にして茅葺の母屋と納屋が建つ。 母屋は寄棟造りだが、東側の妻の屋根は兜造りになっていて二階に窓を設けている。 母屋の東側三分の一が土間で、その上が二階になっていて養蚕が行われていたので、兜造りにして窓を設けたのは採光と風を取り入れるためだ。

△樹林に覆われた舞岡公園の南門

△蝉の声が賑やかな「南の丘」付近の園路

△園路脇に佇む星野富弘さんという方の詩碑

△古民家がある「小谷戸の里」の入口

△「小谷戸の里」の入口の右手にある小谷戸池

△古民家がある「小谷戸の里」の入口

△耕作管理棟の前から眺めた寄棟造桟瓦葺の管理運営棟と右に舞小谷戸屋....正面奥は水屋

△切妻造板葺の舞小谷戸屋....ボランティアの方々が作った民芸品風のものを販売

△住宅エリアの入り口から眺めた母屋(右)と納屋

△寄棟造茅葺の母屋....明治後期の建築(推)

△母屋は戸塚区品濃町から納屋なども含めて平成七年(1995)6月に小谷戸の里に移築・復元された

△母屋の東側(妻面側)に鋼板葺とみられる裳腰を設けている....屋根は兜造り

△兜造り部に設けられた窓は、土間の上で行われた養蚕のための採光と風を取り入れるためのもの

★西側の南側三分の二はヒロマ(広間)とオク(奥)で、両間一体の榑縁の縁側を設けているが、オク側が内縁なのに対し、ヒロマ側は外縁(濡れ縁)という異なる造りになっていて面白い。 母屋の南側は軒を長くせり出すためセガイ造り(出桁造り)になっていて、建物内から水平の梁を軒下に突き出して軒桁(丸桁)を支えて深い軒にしている。 母屋の北側に回ると、西側から内厠・ナンド(納戸)・イマ(居間)・台所が並んでいて、内厠から台所まで長い榑縁の廊下が延びているが、ナンドとイマ部の廊下は内縁だ。

△母屋の東面(妻面)側は腰壁が下見板張りの土壁

△母屋の右側桁行三間が土間で、左右の下見板張り腰壁の間に入口がある/南側は軒を伸ばす工夫の一種のセガイ造り(出桁造り)....建物内から水平に梁を軒下に突き出し,軒桁(丸桁)を支えている

△縁側を設けた腰高明障子が入った部屋は、右がヒロマ(広間)で左がオク(奥)....西側面(妻面)は全て土壁と下見板張りの腰壁

△オクとヒロマに一体の榑縁の縁側があるが、手前のオクが内縁右のヒロマは外縁で異なる造りの縁

△母屋の西面(妻面)側....左奥は切妻造産瓦葺の厠/母屋と切妻造桟瓦葺の厠が渡り廊下で繋がっている....厠は上半分が土壁で面格子を設けた窓、下の腰組は下見板張り

△瓦葺の厠の北側に廊下を挟んで鋼板葺の屋根を伸ばした造り

△母屋の北側の背面

△手前からナンド(納戸)、イマ(居間)で、奥の出っ張った部分は鋼板葺屋根の台所

△厠から台所まで廊下で、ナンドとイマ部分は内縁(榑縁)....内縁の上に大きい縦格子欄間を配している
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旧藤本家住宅-(3) (横浜)

2024年06月21日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・鶴見区】かつては主屋南西に谷戸田が広がっていた。 昭和五十六年(1981)には谷戸田(水田)を菖蒲園として地域の人々に開放し、主屋と東屋は休憩施設として利用されていた。 丘陵から沸いた湧水(ハケ水)が主屋前庭の脇を東西に流れて現菖蒲田に流れ落ちている。 東屋は納屋を茶室として改修されたもの。

★主屋から芝生の庭を池の方に少し下ってから東屋に向かう。 丘陵の裾に、燦燦と陽を浴びている茅葺の東屋が樹林を背にして建つ。 東屋はもとは納屋だったのを茶室に改修したもので、中は座敷と土間から成り、左半分が座敷で杉皮葺の庇と南面に濡れ縁を設けている。 右半分は土間で囲炉裏があり、その周りに腰掛が設けられている。

△芝生の庭の西側に樹林を背にして建つ東屋....右奥は主屋

△池を見下ろすように建つ東屋は、納屋を茶室として改修された建物

△寄棟造茅葺の東屋....座敷と土間から成り、鉤形の杉皮葺の庇のところが座敷で南側に腰高明障子と濡れ縁がある

△西側から見た東屋の外観....雨戸が入ったところは窓で中に明障子....その左の壁に杉皮を張った突出部は下屋で室内に襖があるので押し入れだと思う

△腰高格子戸の出入口がある東側半分は土間で、中に囲炉裏がある

△腰高格子戸の出入口の上の杉皮を葺いた庇

△座敷南面の切目縁の濡れ縁と杉皮葺の庇/東面の外壁は、上が土壁で腰壁は杉皮を竹で押さえて張った造り(と思う)

△東屋の西半分の六畳敷きの座敷

△東側半分は囲炉裏がある土間

△土間に設けられた囲炉裏....囲炉裏の周りに腰掛が設けられている/囲炉裏の自在鉤と魚形の横木

△東屋の天井は化粧屋根裏天井

★東屋からは蓮の花が咲いている池と辺に建つ四阿が見える。 池には水面が見えないほどに蓮の花が咲き誇っている。 馬場花木園のHPによると、池の周りの水辺にはアヤメ、ショウブ、桜などの花も咲き、四季折々の花々と風情が楽しめるとある。 池に突き出た四阿に腰を下ろし、水面いっぱいに広がる蓮の花をしばし眺めながら和風庭園と古民家の風情を楽しんだ。

△東屋の南西側に広がる池....辺に池に突き出た四阿が建ち、池一面に蓮の花が咲いている

△池の辺にある巨石越しに眺めた蓮の花が咲く池と四阿

△池の東側に架かる八つ橋風橋(木道?)越しに眺めた東屋

△池に咲き誇る蓮の花々

△池に突き出て建つ宝形造鋼板葺の四阿

△休憩棟が建つ高い位置から眺めた池のほぼ全景

△園の南西端に建つ休憩棟(茶室)の中から眺めた蓮の咲く池....見通しはイマイチだ






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旧藤本家住宅-(2) (横浜)

2024年06月16日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・鶴見区】敷地は丘陵に挟まれた谷戸で主屋は北東の丘陵を背にして南面で建つ。 現在、主屋は右側が土間で、田の字形の整形四間取りだが、痕跡等から元々は広間型と推定されている。 土間境中央に大黒柱がたち、土間境や部屋境には差し鴨居を多用している。

★外側と内側に大きな石が置かれた出入口からダイドコロと呼ばれる土間に入る。 土間には農具や生活用の道具などが展示されている。 ザシキ(座敷)そして展示室との土間境に差し鴨居が用いられていて重量感を感じさせる。 土間から座敷とその奥のデイ(出居)を見ていて、座敷と出居とを仕切る腰高格子戸が気になった。 腰部が縦スリットを入れて板が張られていてつうつうなのだ。 よく見ると縁側の腰高格子戸も同様で、無双窓式かもしれないが確認を失念した。

△石が敷かれた主屋出入口はガラス入り引き違い格子戸

△出入口から覗いた中はダイドコロ(土間)....奥の部屋は展示室/土間の東壁の隅に展示された農具など

△土間境に差し鴨居が用いられている....土間と床上部の式台に生活用の道具などが展示されている

△土間の化粧垂木天井と梁組/土間から見上げた床上部の整形四間側の化粧垂木天井と梁組

△土間から見たザシキ(座敷)と奥にデイ(出居)....土間境と部屋境に差鴨居を多用

△土間から見た十畳敷の座敷と奥の出居....部屋間の腰高格子戸の腰部に縦スリット状の隙間がある(無双式と思うが)

△座敷の差し鴨居の上に取り付けられた牛蒡注連縄を張った神棚/座敷の隅に置かれた湯釜と火鉢

★”床の間”がある出居は客間として使われた部屋で、鉤形の榑縁に大きなガラス窓がしつらわれていて広い庭を一望できる。 床上部は田の字形の整形四間取りで、出居と座敷の北側にはそれぞれ板の間のナンド(納戸)とチャノマ(茶の間)があり、茶の間には横木が魚の囲炉裏がある。
納戸の西側に主屋から突き出た下屋は厠で、備えられた鮮やかな青色花柄文様の染付の陶器製和式便器に目を奪われた。 調べたら、明治時代後期に某陶器製品メーカーで製造されもので、九州にある該社ミュージアムに同じものが展示されていることを知った。 さらに吃驚したのは、その時のメルカリに出品されていたこと....勿論、未使用品だと思うが....。

△座敷から見た出居北面の床の間と2段の押し入れ....座敷及び榑縁とを仕切り、腰高格子戸の腰部は縦にスリット状の隙間を設けた造り

△八畳敷の出居は客間として使われた部屋で、広い庭を一望できる....榑縁側の腰高格子戸も腰部に縦スリットが入っている

△奥は座敷で、手前が横木が魚の囲炉裏がある茶の間

△自在鉤と横木(魚形)....上部に付いている巨大な「し形」の吊り具/茶の間の隅に展示されている家具など

△出居西側の榑縁の奥の突き出た下屋は厠/男性用便器と手洗器

△腰高格子戸で仕切られた和式便器室/鮮やかな花柄文様の染付を施した陶器製和式便器....明治時代後期のもの

△主屋の前庭から眺めた木立の中に建つ東屋

△主屋の西側に広がる芝生の庭.....芝生の中に飛び石の園路がある




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旧藤本家住宅-(1) (横浜)

2024年06月11日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・鶴見区】旧藤本家住宅は鶴見区馬場にある「馬場花木園」内に建つ古民家。 江戸末期から明治初期にかけて港北区篠原に建てられた茅葺屋根の民家(農家)で、大正二年(1913)に旧馬場村の澤野家が購入してこの地に移築した。 その後、昭和十七年(1942)に藤本家が購入し、平成二十三年(2011)まで住み継がれた。 主屋と東屋で構成される旧藤本家住宅は、平成二十八年(2016)、景観条例に基づき「特定景観形成歴史的建造物」に指定された。

★バス停「東高校入口」で下車し、丘陵に向かって8分ほど進んで「馬場花木園」に着く。 園内に入ると直ぐの所に茅葺の古民家が現れるが、生活感が感じられる佇まいだ。 出入口がある右側三分の一が土間で、正面に大八車と肥桶、兜造り風の東側面に唐蓑・手動式送風機・万石通などの農機具が置かれている。 土間の左隣の部屋(ザシキ)の腰高格子戸が大きく開かれ、濡れ縁の前に、軒先までつるが伸びた朝顔のプランターが置かれていて、人が住んでいるような雰囲気だ。

△馬場花木園の入口....奥に見えるのが古民家の主屋

△木立の間から眺めた旧藤本家住宅....藤本家は昭和十七年(1842)に購入し、平成二十三年(2011)まで住んでいた

△寄棟造茅葺の主屋....江戸末期~明治初期にかけて建築された古民家で、大正二年(1913)この地に移築された

△寄棟造茅葺の主屋は木造平屋建てで、東側妻面の軒は片兜造り風の造り

△軒先に支え柱を立て、垂木を支える丸太の丸桁を乗せている....出入口があるダイドコロ(土間)部の正面の壁は上小壁で腰壁は下見板張り/東側壁面....上半分は白壁の小壁、腰壁は縦に桟を入れた下見板張り

△入口傍に置かれた大八車と肥桶/大八車は野菜や下肥の運搬に、肥桶は作物の肥料としての人糞尿(下肥)の運搬に使用された

△主屋の東側壁際に置かれた農機具/唐蓑....穀物選別道具で、風力で実とそれ以外を選り分ける

△穀物を選別するための道具

△唐蓑に風を送る(と思う)手動式のファン(送風機)/万石通し....穀物の粒の大きさをふるい分けする道具

★正面の左側三分の二は床上部で、畳敷きの二部屋が並んでいる。 右は濡れ縁があるザシキ(座敷)で、左はデイ(出居)と呼ばれる客間でガラス戸を配した鉤形の榑縁(内縁)があり、この部屋から広い庭が一望できる。 西側の北側に突き出た下屋があるが、軒先を切り落として桟瓦葺の庇を設けた厠だ。 樹林の丘陵からの湧水が、主屋前庭の隅を東西にせせらぎとなって流れ、菖蒲田に向かっている。

△主屋の正面(南側)....手前はザシキ(座敷)で濡れ縁があり、奥はデイ(出居・客間)でガラスの両引き違い戸の中に榑縁がある....両部屋の縁前に沓脱石が置かれている

△両部屋の雨戸の戸袋には照り反った本瓦葺風の造りの屋根を設けている

△ザシキ(座敷)の濡れ縁から覗いた内部....手前がザシキで奥が囲炉裏があるチャノマ(茶の間)

△主屋西側の榑縁で鉤形の内縁がある部屋はデイ(出居・客間)

△軒下に突き出た垂木を支える軒桁(丸桁)は正面が丸材で側面は角材

△柱と縁束は自然石を用いた台石(礎石)の上に立つ....デイの南側と西側に沓脱石を配している

△主屋の西側外観....左奥の突き出た下屋は、軒先を切り落とし、桟瓦葺の庇を乗せた厠

△厠の壁の上半分は小壁と面格子を設けた窓、下の腰壁は下見板張り

△前庭には丘陵からの湧水(ハケ水)が石組護岸のせせらぎとなって東から西に流れ、菖蒲田に注がれている/せせらぎに架かる自然石の石橋

△小川の中に置かれた丸い水穴が彫られた石造水鉢....石段が設けられているので理由があっての設置と思う/小川の脇にひっそりと佇む石燈籠




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まんだら堂やぐら群(逗子)

2024年06月06日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・逗子市】鎌倉時代に造られた名越切通(鎌倉七口のひとつ)の東側に沿って広がる納骨・供養する施設。 鎌倉時代中期(13世紀後半頃)から室町時代(16世紀前半頃)までの間に作られた遺跡で、国指定史跡の名越切通にある。 岩の崖に四角い横穴を削り掘り、主として内部に五輪塔などの石塔を建てたもので、約2メートル四方の小規模なものを中心に150穴以上が存在している。 近世の初め(安土桃山時代の頃)にはこの地は「まんだらどう」と呼ばれていた。 「まんだら堂」という建物についての史料はないが、やぐら群A群の前の平場の一部で14世紀頃((中世)の建物の痕跡(柱など)が見つかった。

★小坪階段口から階段を上って「まんだら堂やぐら群」に向かったが、急峻な階段が名越切通まで続いていて難儀した。 階段を上り詰めると第1切通にでる。 第2切通に向かって進むと、切通路の右手に「まんだら堂やぐら群」への石段がある。 受付でパンフを頂き、まずは敷地の南側の高台に位置する展望広場に向う。 展望広場からはやぐら群(B群)と平場が望めるが、生い茂る木々の緑が視界を狭くしている。 岩の崖に削り掘られたやぐら群は、まるで四階建ての集合住宅のようにみえる。

△小坪階段口から急峻な階段を上り詰めた所に立つ案内標識....右下奥は鎌倉七口のひとつの名越切通の第1切通

△第2切通を過ぎた所に「まんだら堂やぐら群」への参道石段

△まんだら堂やぐら群の出入口....期間限定公開日以外の日は閉鎖されている

△展望広場への参道途中にある四角い2つのやぐら

△四角い2つのやぐらには墓標(五輪塔)がない....墓所以外の目的(修行の座禅窟や後世に倉庫として利用)か?

△展望広場から眺めた平場と「まんだら堂やぐら群(B群)」....やぐら群は13世紀後半(鎌倉時代中期)頃から16世紀頃(室町時代後期)まで使われた遺構

△この部分は4段の集合住宅のようにみえる

△やぐら群は2メートル四方程度と小規模のものが中心だが150穴以上存在している

★下に降り、平場が広いやぐら群B群に....硬い岩に掘られたほとんどの四角い横穴には1~3基の五輪塔が鎮座するが、中には火輪の厚い軒口が摩滅して丸みを帯びたものがあって古い石塔だと思う。 B群の北側にやぐら群A群があり、その平場には14世紀頃の建物の痕跡が見つかったとの案内があり、その痕跡とやらを探してみたが....。

△平場に隅に佇む五輪塔越しに眺めたやぐら群B群....五輪塔(安山岩製)は南北朝時代・14世紀後半の造立

△やぐら群B群と平場....「まんだら堂」の名が確認できる最古の文献は文禄三年(1594)の検地帳

△やぐらの前の岩の上にも五輪塔が建ち並んでいる

△前の写真の右端のやぐらの三基の五輪塔....火輪の厚い軒口が丸みを帯びているので古いものと思う

△右のやぐらには五輪塔がなく、真ん中には少し大きめの五輪塔一基が、左には三基の五輪塔が鎮座

△前の写真の左端のやぐらの三基の五輪塔....火輪の厚い軒口はゆるやかな反りを見せている

△岩の崖に掘り削られた四角い横穴

△やぐら群B群の北側....殆んどのやぐらの中に1~3基の五輪塔が建つ

△やぐら群B群の南側....敷地内に750基ほどの石塔があり、その99%が五輪塔

△五輪塔の石材は凝灰岩(通称「鎌倉石」)が8割、箱根火山に由来する硬い安山岩が約2割

△やぐら群はA群とB群とに分かれ、石柱の奥にA群がある

△「まんだら堂やぐら群A群」の南側

△岩を繰り抜いたトンネルはやぐら堂B群と繋がっているようだ

△硬い岩の崖を掘り削ったやぐら群

△まんだら堂やぐら群A群の北側

△やぐら群を長い時間見つめていた見学者

△やぐら群A群の前の平場....案内板には、この平場の一部で中世の柱など14世紀頃の建物の痕跡が見つかったとある









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万代会館-(2) (横須賀)

2024年05月01日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】昭和三十四年(1959)に順四郎氏が逝去した後は、妻トミ氏が継承した。 昭和五十三年(1978)に建物と敷地が横須賀市に寄贈され、整備後、昭和五十四年(1979)から「横須賀市立万代会館」として公開された。 4,000㎡を越える敷地に純日本風・数奇屋作り風の3棟茅葺屋根の建物が建ち、芝生の日本庭園がひろがる。 
「万代会館」の名称に違和感を感じたので「旧万代邸」と記した。 辞典では会館とは「集会・会議・儀式などに用いる目的で建てた建物」とあるが、この建物は万代氏夫妻が住んでいた邸宅であり、また歴史的価値があるので「旧万代邸」と呼ぶべきと思うが....。

★真ん中の棟からは庭園全体を見渡せられ、特に応接間は絶好の位置にある。 納戸を挟んで右側に建つ棟は、八畳敷和室一間(「椿」の間)と後方に湯沸室・水屋があり、他の二棟と異なり妻側を南東に向けて建つ。 建物に上がっての拝観はできないので、北東面の窓から中を拝観してから、連なる三棟の北側に廻ると最初に見た茅葺屋根の倉庫棟が現れる。

△芝生の庭園から眺めた真ん中と右手の棟....真ん中は和室一間と応接間がある棟、右は和室一間の棟.....二つの棟の間に納戸がある

△真ん中の棟には十畳敷和室「梅」の間と応接間がある

△真ん中の棟の庭園に面した側の建具は,和室に明障子窓,奥の応接間にガラス戸

△右側(一番北側)に建つ八畳敷和室「椿」の間のみの棟

△右側の棟の妻面(南東面)に内縁が設けられている/内縁の外に石をちりばめたコンクリ床を設け、石をコンクリで固めた沓脱石を置いている

△南東面の妻側に裳腰を設けた右側の棟(八畳敷和室一間)

△北東側の窓から覗いた八畳敷の「椿」の間と内縁

△「椿」の間の北側の裳腰を設けた部分は湯沸室&水屋....二方面に面格子付き窓、壁は下見板張

△建物の北側から眺めた八畳敷和室二間の棟と倉庫棟

★先の「松」と「竹」の間の棟と「梅」の間と応接間がある棟の北側は鉤の手に曲がった廊下になっていて、いずれもガラス戸が全開になっている。 まずは「梅」の間を覗く....真ん中の畳の中に「炉」を設ける位置に小さな畳がはめ込まれている。 「梅」の間と応接間とは腰高明障子と障子欄間で仕切られ、応接間には陽が燦燦と差し込んでいる。 廊下を通して連なる「竹」の間と「松」の間を見通すと、三方を腰高障子戸と障子欄間で囲まれていて明るく落ち着いた雰囲気だ。 二つの和室は襖と大きく半月上に開けた欄間で仕切られている。 「梅」の間と同じく、両和室の真ん中の畳に「炉」を設ける位置に小さな畳がはめ込まれている。 北面と東面が雨戸で閉じられている倉庫棟だが、何故か濡れ縁がある。

△正面は八畳敷和室二間の棟、左側は十畳敷和室一間と応接間がある棟

△左は八畳敷和室一間の棟、ガラス戸がある右は十畳敷和室一間と応接間がある棟

△十畳敷の和室一間と応接間がある棟....「炉」を設ける位置に小さな畳をはめ込んでいる

△十畳敷和室と応接間を仕切る腰高明障子戸、内法長押の上の小壁に障子欄間

△応接間の脇の廊下は3つの和室の棟にまたがって設けられている

△応接間は東南が全てガラス戸で、庭園を広く見渡せる....何故か天井が傾斜している

△北側から見た和室二間の棟の内部....手前に廊下、八畳の「竹」と「松」の間が連なる....両和室に「炉」を設ける位置に小さな畳をはめ込んでいる

△和室二間の南東側は腰高明障子を配し、外側に廊下(内縁?)....腰高明障子の上に障子の欄間、襖で仕切ら上の小壁に大きな饅頭型に開けた欄間

△八畳和敷室二間の棟の北側に建つ倉庫棟(右)

△寄棟造茅葺の倉庫棟....建物は倉庫だが濡れ縁がある

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万代会館-(1) (横須賀)

2024年04月26日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】昭和三年(1928)頃に建てられた茅葺の建物で、同十二年(1937)に万代順四郎氏が別邸として取得した。 帝国銀行頭取、現ソニー株式会社会長、母校である青山学院大学理事長などの要職を務めていた万代順四郎氏が、昭和二十二年(1947)から自邸として夫妻で住んでいた。 当初は玄関棟・書院棟・居間棟・サンルーム棟が建築され、昭和十二年~十六年(1937~1941)頃に増築棟が竣工した。 和室の松ノ間と竹ノ間は香淳皇后(昭和天皇の皇后)生誕の棟が東京から移築されたようだ。

★京急津久井浜駅から住宅地を歩いて5分ほどで袖垣付きの門柱の前に着く。 右に緩く曲がった園路を進むと万代会館(以後「旧万代邸」と呼ぶ)の玄関棟が建つ。 玄関に向かって左手に茅葺の倉庫が建つが、細い竹を用いた穂垣で仕切っている。 右手の植栽の間に建つ簡素な切妻造りの門をくぐって庭園に。 飛び石を敷いた園路の先に待合と呼ばれる宝形造りの四阿が建ち、その奥には周りが木々で囲まれた広い芝生の庭園が広がっている。 左手の茅葺屋根の建物を横目で見ながら四阿に向かう。

△木立の緑を背にした万代会館の門....袖垣を設けた門柱に連子を入れた板扉が付けられている

△小砂利を敷いた通路の奥に建つ万代会館

△玄関前左手に仕切り用の穂垣(細竹を用いた垣)....竹垣の奥は倉庫棟と和室棟

.△正面(妻面)の屋根を入母屋破風にした寄棟造鋼板葺の玄関棟

△竹垣越しに眺めた建物は和室棟と倉庫棟(左)

△寄棟造茅葺の倉庫棟

△正面は玄関棟(右)と倉庫棟(左)にまたがって建つ寄棟造茅葺の和室二間の建物

△敷地の南東に広がる庭園への切妻造りの門....門に袖垣を設けている/棟門風の門は竹葺屋根....門扉は上部に大きな菱格子を入れた板扉

△飛石を敷いた庭園への園路....園路の先に四阿が建つ

△園路から見た2つの和室がある建物と面格子付き窓がある玄関棟....仕切りの袖垣は門から延びている

△宝形造りの四阿の先に主に松が植えられた広大な芝生の庭園が広がる

★四阿で一息つきながら旧万代邸を眺める。 四阿の目の前の建物には屋根の修復のための足場が組まれていて....撮影にはチト残念な光景。 四阿から少し庭園側に進むと、南東面で連なって建ち並ぶ茅葺屋根三棟の全容が現れる。 だが、建物の傍には資材材や作業道具が置かれ、柵が設けられていて近づけない。 とはいえ、パンフにあるように建物はまさしく「日本家屋と古式ゆかしい趣のある風格」を感じさせる佇まいだ。
左側の棟は八畳敷和室を二間(「松」の間・「竹」の間)を連ねた建物で、二間は廊下と内縁でぐるりと囲まれている。 真ん中の棟には十畳敷和室一間(「梅」の間)と応接室があり、応接間の前の坪庭には方形竿に切り込みを入れた石燈籠が立ち、傍に地面に少し埋め込まれた蹲踞手水鉢そして役石が配置されている。

△四阿から眺めた玄関棟と三棟の茅葺の建物....一番手前には屋根の改修のための足場が組まれている

△四阿脇から眺めた玄関棟(左端)と二棟の茅葺き建物....足場が組まれているのは和室二間の棟

△寄棟造りの茅葺き建物三棟が南東面で建ち並ぶ

△足場が組まれた左の棟は和室二間が連なり、四方を廊下(二方は内縁?)で囲んだ造り....北東側と南西側に瓦葺風の庇を設けている

△和室二間の棟はいずれも八畳敷で、向かって右(南東側)が「竹」の間、左(南西側)が「松」の間....南東側内縁の外に沓脱石が置かれ,坪庭に石燈籠などが佇む

△坪庭に佇む石燈籠と地面に少し埋め込まれた蹲踞手水鉢そして役石....石燈籠の太い方形の竿に文様らしきものが刻まれ脇に切り込みがある

△真ん中の棟には応接間と十畳和室「梅」の間がある....南東側と南西側に銅板葺風の庇を設けている

△真ん中の棟の応接間(手前)と「梅」の間からは庭園全体が見渡せる

△少し離れた芝生の庭園から眺めた旧万代邸のほぼ全景....三棟の茅葺屋根の棟と玄関棟

△庭園内に立つ面格子風の飾りをつけた庭園灯越しに眺めた旧万代邸

△広い芝生の庭園の南東端近くからは,松などの木々に遮られて旧万代邸がよく見えない




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