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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

根来寺-(2) (岩出)

2019年02月17日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・岩出市】覚鑁一門は高野山を下り、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺に拠点を移した。 弘田荘園内に新たに円明寺を建て、豊福寺と円明寺を中心として堂宇が整えられ、一山総称としての根来寺が形成された。
覚鑁は3年後の康治二年(1143)、円明寺で49歳の生涯を閉じた。 覚鑁上人入滅後、大伝法院は高野山で発展し十三堂塔が建立されたが、仁治三年(1242)に焼失した。 その後の正応元年(1288)、伝法院の学頭の頼瑜僧正が大伝法院の僧侶の教学の拠点を根来に移し、根来が大伝法院の本拠地となった。

鐘楼門からの光明殿までの切石敷参道の両側に、木造と石造の据燈籠が整然と並んでいる。 参道の左手に聖天池があり、光明殿に連なって左手に役行者を祀る行者堂そして池辺に懸造りの聖天堂が建つ。 聖天堂は聖天池に突き出るように建ち、古色蒼然たる佇まいの姿を池に映していて風情がある。
光明殿の右手に続く本坊・寺務所の大きな唐破風の玄関から建物内に入る。 渡り廊下を進んで光明殿の外陣を通り、左手の行者堂に....真ん中に護摩壇があり、真っ黒に煤けた役行者像が内陣に鎮座している。 更に渡り廊下を進むと聖天池に浮かぶ聖天堂で、池側と脇障子側に擬宝珠高欄付き切目縁を設けている。 聖天池に向いて設けられた聖天尊(歓喜天)像を安置する厨子を納めた朱塗りの壇は、室町時代から伝わる根来塗でつとに有名とのこと。
渡り廊下と光明殿を通って戻り、江戸時代造営の庭園がある名草御殿に進む。 名草御殿の縁側から、ガラス越しに池泉を中心に自然の滝と石組を配した庭園を眺める。 規模はさほど大きくないが、流石に国指定の名勝庭園らしく風情を感じさせる。
唐破風の玄関をでて、中島に弁天堂が鎮座する聖天池の縁の参道を進んで九社明神に向かう。 土塀に囲まれた中に同じ造りの3棟の流造りのお社が建ち、祀られている明神や権現など九神が、根来寺前身の豊福寺の時代から鎮守社としてお寺を見守ってきた。

光明殿前庭に幾つかの石造物や木造家型燈篭が並ぶ....光明殿の左に連なる建物は行者堂
  
光明殿の前庭に佇む宝篋印塔....造立年不明だが、隅飾突起が大きく反り返り開いているので江戸後期の作と推....塔身四面の月輪に梵字が刻/延享二年(1745)造立の石燈籠....火袋の円窓が大きくてかわいい/光明殿前の宝形造覆屋に置かれた常香炉

寄棟造本瓦葺の行者堂....江戸時代の建立で、修験道の始祖役行者を祀り、仏法興隆の行場

三間四方の行者堂の軒廻りは一軒疎垂木、組物は舟肘木、窓上長押の上は小壁

正面三間はいずれも蔀戸、正面と側面に高欄のない切目縁を設けている
 
行者堂に鎮座する役行者像....護摩の煙で見事に真っ黒に煤けている/行者堂中央に設けられた護摩壇

露盤宝珠を乗せた宝形造檜皮葺の聖天堂(雨宝堂)....享保二十一年(1736)建立

行者堂に連なって建つ聖天堂は懸造りで、聖天尊(歓喜天像)を安置している
 
聖天池に浮かぶ擬宝珠高欄付き切目縁を設けた聖天堂....三間四方で正面は連子入桟唐戸、円窓を設けた脇障子がある
 
行者堂から聖天堂への渡り廊下から眺めた聖天堂(雨宝堂)の入口/正面の唐破風の厨子を納めた朱塗りの壇は室町時代から伝わる根来塗として有名らしい
 
光明殿から行者堂・聖天堂に向かう廊下の脇にある阿加井/窓際に鎮座する宝冠を頂く半跏坐の弥勒菩薩像

本坊から光明殿への渡り廊下から眺めた枯山水庭園と名草御殿の縁に続く飛び石

本坊の奥御殿(三棟で構成)の一つの紀州徳川家から拝領した名草御殿と奥の山裾に庭園

名草御殿に面した江戸時代造営の庭園....池泉を中心に自然の滝と石組を配し、日本庭園として国から名勝庭園に指定されている

本坊・寺務所の大きな唐破風の玄関....ここから堂宇内に入る

根来寺創建時からある聖天池越しに眺めた右から光明殿、行者堂そして聖天堂

聖天池の畔に鎮座する3基の石塔....真ん中は板碑型十三仏塔か?
 
聖天池の中島に祀られている弁戝天                  流造銅板葺の弁天堂

切妻造桟瓦葺の門と瓦屋根土塀で囲まれた中に鎮座する九社明神.....参道脇の石燈籠は宝暦六年(1756)の造立

九社明神は根来寺の前身である豊福寺当時からの鎮守社

同じ造りの3棟の社はいずれも流造銅板葺で、大棟に外削ぎの千木と4本の堅魚木を乗せている

丹生・高野・伊太祁曽・御船三所・金折六所の5大明神、熊野三所と白山妙理の2権現、金峯山金剛蔵王、牛頭天王八王子の9神を祀る

3社いずれも同じ流造りで、向拝の柱は面取方柱、柱上に連三斗、虹梁上の龍や木鼻の獅子と像の彫刻は精緻だ

少し複雑な桟瓦屋根に千鳥破風や煙出しを乗せた庫裏....大棟に錣風の造りも見えるが....

庫裡越しに眺めた大塔(多宝塔)
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根来寺-(1) (岩出)

2019年02月14日 | 寺社巡り-和歌山


【和歌山・岩出市】平安後期の真言宗の僧・覚鑁上人が、長承元年(1132)、鳥羽上皇の院宣を受けて高野山に大伝法院(他に密厳院など)を建立したことに始まる。 空海以来の学僧といわれた覚鑁上人は、大伝法院の建立と同時に、根来近郊の荘園と豊福寺(後の根来寺)を賜り、大伝法院は大いに興隆した。
2年後の長承三年(1134)、覚鑁は金剛峯寺の座主となり、高野山全体を統轄する強大な勢力を持つに至った。 座主に就任した覚鑁は堕落していた高野山を憂い、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒の反対に遭い、保延六年(1140)には覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が反対勢力によって焼き討ちされた。 宗旨は新義真言宗(総本山)で、本尊は大日如来像。 真言宗十八本山第17番、紀伊之國十三仏霊場第1番、近畿三十六不動尊第34番。

バス停「岩出図書館」で下車し一般道の参道の入口に進むと、2基の石塔が立ち、コンクリート製の覆屋に10体の地蔵石仏が鎮座して参詣者を見守っている。 参道を横切って流れる蓮華谷川に架かる朱塗りの擬宝珠欄干付の天真橋を渡ると、左奥に大門が見えてくる。
大門は根来一山の総門....二重門で五間三戸の豪壮な構えに圧倒される。 脇間に鎮座する仁王像に迎えられるが、仏敵の侵入を防いでいる仁王像仏の鋭い眼光には迫力がある。 堂宇境内からかなり離れたところに建つ大門をくぐって、さらに一般道の参道を暫く進む。
寺域の参道入り口に寺号標石が立つが、そこから堂宇は全く見えない。 入山料を納めて参道を進むと、緩やかな石段参道の奥に鐘楼門が現れる。 鐘楼門は竜宮造りで、白い漆喰の下層の上に擬宝珠高欄付縁を設けた鐘楼がある。 鐘楼門をくぐって境内に....切石敷の参道の正面に「光明殿」と呼ばれる光明真言殿が建ち、殿内には覚鑁上人像を安置している。
 
寺域から遠く離れた一般道の参道入り口の路傍に佇む2基の石塔....板碑型六字名号塔は天文二年(1533)の造立、題目塔は宝永六年(1709)の造立/コンクルート製の覆屋に鎮座する10体の舟光背型地蔵石仏

蓮華谷川に架かる朱塗りの擬宝珠欄干を設けた天真橋....奥の右は愛染院、左は大門
 
橋の袂に佇む「天真橋」の碑/「天真橋」の碑の前から遠望した大門

入母屋造本瓦葺の大門(二重門)....嘉永三年(1850)の再建で、根来一山の総門

五間三戸の大門は根来一山の総門で、高さ約16.9メートル、横幅約17.6メートル、奥行6メートル....上層に釈迦三尊と十六羅漢像とを安置

下層は二軒繁垂木、組物は二手先で中備は蟇股、蛇腹支輪が見える
 
両脇間の金剛柵の中に鎮座する仁王像....力強い姿で仏敵の侵入を防いでいる

上層の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先で中備に蟇股、蛇腹支輪と軒天井がある....腰組は出三斗で中備は蓑束

大門前の境内の隅に鎮座する不動明王坐像
 
大門からの参道に茂る紅葉....左手奥に蓮華院がある/築地塀に囲まれた蓮華院の山門

境内にある円明寺....根来寺開祖の興教大師覚鑁上人が入寂した寺とされる
 
寺域の参道入り口に立つ「新義真言宗 総本山 根来寺」と刻まれた寺号標石/緩やかな石段参道の奥に建つ鐘楼門

入母屋造本瓦葺の鐘楼門....上層に擬宝珠高欄付縁を巡らす
 
下層が漆喰塗りの竜宮造り           軒廻りは一軒疎垂木で組物は出三斗

鐘楼門の通路から眺めた境内....正面は光明真言殿

堂宇境内から眺めた鐘楼門
 
切妻造桟瓦葺の手水舎                  勇ましい姿の龍の水口 
 
入母屋造本瓦葺の光明真言殿(光明殿)....文化元年(1804)建立で、紀州徳川家第八代藩主重倫の母清信院の発願による

光明殿には開山興教大師覚鑁尊像を安置、また歴代藩主・座主の位牌等も祀る

正面五間で広い中央間に両折両開の桟唐戸、両脇間に蔀戸....正面と側面に擬宝珠高欄付き切目縁
 
獅子口が乗る唐破風の向拝の柱は切面方柱....入り口に「密厳堂」の扁額が掲げられ、正面に鰐口が下がる/向拝柱の上に出組、水引虹梁の中央に脚間に彫刻を施した2つの本蟇股

軒廻りは一軒疎垂木、組物は舟肘木の他は小壁....大棟の獅子口、拝みに三花縣魚、妻飾りは失念(二十虹梁蟇股かも)

光明殿内から眺めた鐘楼門

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善福院 (海南)

2019年01月06日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】鎌倉時代健保二年(1214)、日本臨済宗の祖で京都建仁寺を建立した栄西禅師によって創設されたとされる広福寺五ヶ院の一つ。 創建当初は広福寺の塔頭として広福禅寺という寺号だった。 安土桃山時代、広福寺は紀伊国守護の畠山氏に仕えていた大旦那の加茂氏の菩提寺として栄え七堂伽藍を備えていたが、加茂氏の没落とともに荒廃した。 その後、高野山に頼り真言宗に改宗して伽藍が修復された。 江戸時代に入って紀州徳川家の菩提寺の候補となったため、紀州徳川の宗派である天台宗に改宗した。(紀州徳川家の菩提寺は善福院ではなく長保寺に)
明治初期までは三ヶ院が存し、その一つが広福禅寺だが、廃仏毀釈の嵐の中で現在の寺号に改められ、現在は善福院だけとなった。 堂宇は鎌倉後期再建の禅宗様仏殿「釈迦堂」(本堂・国宝)だけが唯一現存し、かつての広福寺の繁栄を今に伝えている。 宗旨は天台宗で、本尊は釈迦如来像。

徒歩では少し遠すぎるのでタクシーで善福院釈迦堂に向かった。 行き先を告げたときに「建物がひとつあるだけだよ」と云われたが、確かに白壁の塀で囲まれた境内に一宇の御堂がポツンと建っているだけだ。 この御堂が国宝の釈迦堂で、現存する最古の禅宗様仏殿の一つとされる。 境内の石段を下った少し先に寺院があり、これが善福院の本堂だろうと思って撮影した。
その後、石段を上って釈迦堂境内に....庭のない境内で、塀際に数本の木があるだけで殆ど緑がなく殺風景だ。 乱積の基壇上に、陽を燦燦と浴びて小棟造りの釈迦堂が建つ。 鎌倉後期に建てられた一重裳腰付の典型的な禅宗様建築で、荘厳で風格を漂わせている。 正面五間の三間に桟唐戸があるだけで、脇間や側面に縦の羽目板を張った窓のない造りだ。 桟唐戸の内側の格子戸を通して釈迦如来像を拝観。 中央の須弥壇の厨子の中に黒く浮き上がる釈迦如来像が鎮座....よく見ると脇侍が鎮座する釈迦三尊像で、須弥壇上の両隅に四天王の二天が須弥壇を護っている。
なお、後で調べたら、釈迦堂境内の石段下の参道脇にあるお寺は、善福院とは全く関係がないことを知った。

石段下から見上げた白壁の築地塀に囲まれた釈迦堂
 
築地塀の間から眺めた釈迦堂....乱積の基壇上に建つ鎌倉時代末期再建の禅宗様仏殿

寄棟造本瓦葺で裳腰付の釈迦堂(国宝)....鎌倉時代嘉暦二年(1327)の建立で釈迦如来像を安置

軒廻りは一軒繁垂木、組物は台輪上に二手目が尾垂木の二手先、組物の間に詰組
 
裳腰の軒廻りは一軒繁垂木、組物は出組で中備に平三斗

裳腰正面五間の三間が桟唐戸で内側に格子戸、脇間は窓がなく羽目板(小脇羽目)

堂内中央の須弥壇の厨子に本尊が鎮座....土間は瓦敷で、中央方一間が鏡天井、周囲は化粧屋根裏天井になっている

中央の須弥壇に鎮座する釈迦如来像....前に2体の菩薩像が鎮座しているので釈迦三尊像、須弥壇手前両端に四天王像の2天が邪気を踏んで立つ

本屋は桁行三間、梁間三間で裳腰部分は五間四方....側面五間は窓がなく全て縦羽目板....裳腰の周囲の内法貫上に、間隔が大きな波形連子の透欄間を設けている

白壁の築地塀に囲まれた境内は庭がなく、塀際に数本の木があるだけ

釈迦堂の左手に建つ現代風の建物は庫裡のようだ(撮影を失念)
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長保寺-(2) (海南)

2019年01月03日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】戦国時代には衰退していたが、江戸時代初期、浅野長政の子で紀州藩主の浅野幸長から5石の寄進を受けるなどして法灯を維持した。
紀州徳川家になった後、寛文六年(1666)、長保寺を訪れた紀州藩初代藩主徳川頼宣により 紀州徳川家菩提寺に定められ、頼宣と天海僧正の約束により真言宗から天台宗に改められた。
境内東の山の斜面に広大な藩主廟所が造営され、頼宣以降の歴代藩主が眠っている。 ただし、第5代藩主吉宗(後の8代将軍)と第13代藩主慶福(後の14代将軍家茂)の墓は東京に在る。 広大な藩主廟所は大名墓所としては全国随一の規模を誇る。

本堂の東側に建つ国宝の多宝塔に、朝陽が燦燦とふり注いでいる。 上層の円形塔身が細身で、漆喰の亀腹も小さい造りだが、下層の裳腰が大きいので安定感があり、実に優美な姿だ。 板唐戸の内側の格子戸の間から塔内を覗くと、中央に大日如来坐像が鎮座。 智拳印を結び舟形光背を背負って蓮華座に鎮座する大日如来坐像は、この寺で最古の仏像とのこと。
本堂に向かって左側(西側)に護摩堂、阿弥陀堂そして鐘楼が並んでいるが、阿弥陀堂と鐘楼は工事用テントにすっぽりと覆われている。 阿弥陀堂を覆うテントの隙間から中を覗くと軒先全体に足場が組まれているので、台風で被害を受けた屋根の修復工事が行われていると思う。 鐘楼の方はテントに隙間がなかったが、鐘楼の構造上、屋根の修復だろう。
受付に「台風21号による倒木の為、徳川家墓所に立ち入れない」とあったが、先に会った住持に、御廟門に近い初代藩主の墓碑だけでもとお願いしてみたが、倒木があって危険とのことで....。
大門近くまで戻り、東側の山裾に建つ簡素な御成門をくぐり、墓所への切石敷の参道を進んで向唐門に....閉ざされた門扉の前で合掌し、長保寺を離れた。

本堂の右手(東側)に建つ多宝塔....多宝塔の左手に紀州歴代藩主墓所への細い道があるが赤い「通行止」の表示が置かれている

本瓦葺の多宝塔(国宝)....南北朝時代正平十二年(1357)の建立....塔内に大日如来像を安置

多宝塔は和様建築で、四方に板唐戸と脇間に連子窓、周囲に切目縁を巡らす

上層の軒廻りは二軒繁垂木で組物は四手目が尾垂木の四手先
 
下層は二軒繁垂木、組物は出組で中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、蛇腹支輪がある/板唐戸の内側に格子戸

塔内に安置されている智拳印を結んだ金剛界大日如来坐像....長保寺で最古の仏像

本堂越しに眺めた三間四方の白壁の護摩堂

寄棟造本瓦葺の護摩堂....軒廻りは一軒繁垂木、組物は平三斗で中備は無く白壁の小壁

中央間は格子戸で、白壁の両脇間に花頭窓

境内左側に護摩堂・阿弥陀堂・鐘楼が並んで建つが、阿弥陀堂と鐘楼は工事用テントに覆われている(台風の影響か?)....テントの隙間から撮った阿弥陀堂は窓がない白壁の建物、左奥は鐘楼

多宝塔前の築地塀越しに眺めた客殿、御霊屋(奥の小棟造り屋根)、納経所、庫裡など
 
山中に広がる国史跡の「和歌山藩主徳川家墓所」は台風による倒木被害のため立ち入り禁止に/受付から東側に続く客殿、御霊屋、納経所への参道

白壁の築地塀に囲まれた中に客殿と御霊屋が建つ....壁の途中に設けられた客殿への棟門風の門

納経所、御霊屋そして徳川家墓所への門....右は御成門からの参道に建つ唐門
 
納経所への門は切妻造桟瓦葺の棟門で扉は桟唐戸/石段の右下にひっそりと鎮座する石祠....唐破風のある立派な切妻造り屋根

御成門から墓所への参道に建つ唐門は四脚向唐門

大門近くまで戻って御成門へ向かう途中から眺めた本堂と多宝塔
 
御成門への切石敷の参道/切妻造本瓦葺の御成門は四脚門....乱積石垣の上にL字形の袖塀に5本の筋は入っている
 
御成門近くから眺めた和歌山藩主徳川家墓所への入り口に建つ四脚向唐門

屋根に鬼板、拝に猪目を入れた兎毛通、台輪と虹梁の間に雲肘木、虹梁の上に結綿がある大瓶束

四脚向唐門近くから眺めた御成門と少し先に大門

御成門への参道から眺めた境内....手前の二段になった広大な原っぱも境内
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長保寺-(1) (海南)

2019年01月01日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】平安時代の長保二年(1000)、一条天皇(第66代)の勅願により、慈覚大師円仁の弟子で書写山円教寺を開いた性空上人によって創建され、年号を取って「長保寺」と号したとされる。
寛仁元年(1017)に七堂伽藍が完成し、子院十二ヶ坊を有していた。 創建時は現在地より西方にあったが、鎌倉時代仁治三年(1242)に現在地に移り、鎌倉末期から南北朝時代にかけ、現存する金堂、多宝塔、大門(いずれも国宝に指定)などが再建されて伽藍が整えられた。 本堂・塔・大門が揃って国宝の寺は奈良法隆寺と長保寺だけ。
創建時は天台宗の寺院だったが、その後、法相宗、天台宗と改宗され、現存の堂塔が再建された頃は真言宗だった。 宗旨は天台宗で、本尊は釈迦如来坐像。
一条天皇には定子皇后と彰子皇后の二人の皇后があったが、定子皇后のお付き女官が「枕草子」の作者の清少納言、彰子皇后のお付き女官が「源氏物語」の作者の紫式部なので、二人の作品は一条天皇の長保時代の宮廷生活を題材にして書かれているそうだ。

早い時間に門前の長保橋の袂に着いた。 山々の緑を背景に自然豊かな境内が広がるが、国宝の建造物が3つもある寺院とは思えない佇まいだ。 桜の木に隠れるように優美な国宝の楼門が参道にぽつんと建ち、鎮座する鎌倉時代作の仁王像に迎えられる。
楼門をくぐり、澄み渡る清浄な空気を感じながら参道を進む。 途中から参道が石段になり、石段の途中に拝観料を納入する小さな受付があるが、拝観開始時間が過ぎてもなかなか人が来ないので拝観料を払わず石段を上り詰めて堂宇境内に....。
正面に鎮座する本堂を参拝して写真を撮り始めると、住持さんがみえられたので、拝観料を払おうとしたら「こんなに早くに訪問して頂いたので拝観料は結構です」と言われ、少し驚いた。 あらためて、国宝の本堂を撮影していると、本堂の扉が開かれたので、内陣奥に鎮座する金色の釈迦三尊像を拝観させて頂いた。 本堂は折衷様建築で趣があり、簡素だが風格を漂わせている。
 
楼門前を流れる加茂川の支流の宮川に石造り擬宝珠欄干を設けた長保寺橋が架かる/長保寺橋の先の桜の木に隠れるように楼門が建つ

入母屋造本瓦葺の大門(国宝)....室町時代嘉慶二年(1388)の再建

大門は三間一戸の楼門で、後小松天皇の勅宣を受けて寺僧実然により建立された

脇間に仁王尊像が鎮座、中央戸口の上に頭貫と飛貫の間に左甚五郎作とされる精緻な三匹の鯉の透かし彫りがある(境内側には虎と龍の彫刻があるは失念)
 
鎮座する仁王像は鎌倉時代弘安九年(1286)の造立で、運慶の長男の堪慶の作とされる

上重に擬宝珠高欄を巡らし、高欄を支える腰組は三手先で中備は間斗束

軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で中備は間斗束....蛇腹支輪と軒天井がある

大門の通路を通して眺めた境内
 
桜の木立に覆われた参道/境内は約1万坪の広さで、山中に広がる藩主廟所は大名墓所としては他に例がない全国一の規模

参道脇にある塔頭の福蔵院....左奥の建物は元三大師を祀る御堂

堂宇境内に続く自然石を積み並べた石段参道....右手は白壁の築地塀、左手は石垣
 
納経所への入り口にある受付傍に地蔵石像が佇み、石段上に本堂と多宝塔の屋根が見える

入母屋造本瓦葺の本堂(国宝)....鎌倉時代延慶四年(1311)の建立

正面五間、側面五間で一間の向拝、周囲に切目縁を巡らす

本堂には本尊釈迦如来坐像が安置されている
 
本堂前の切石敷の参道に仏事を行うためのものとみられる四角の石がある/礎盤上の切面取り角柱の向拝柱上に連三斗、水引虹梁の中央に本蟇股、向拝に鰐口が下がる

正面中央間三間は連子入り桟唐戸、両脇間に連子窓
 
側面は正面側の一間が連子入り桟唐戸で他は白壁の小脇羽目/軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は間斗束、大棟に鬼瓦、拝に猪目懸、妻飾は豕扠首
 
桟唐戸の内側は蔀戸、桟唐戸裏側に連子がないので表側の装飾のようだ/外陣の菱格子欄間の上に「世雄殿」の扁額....内陣に釈迦三尊像が鎮座

内陣の蓮華座に鎮座する釈迦三尊像....脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩、釈迦如来像の二重円光の舟形光背に化仏がある
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