雑誌『理系への数学』に連載中の,名古屋大学・谷村省吾氏の連載「21世紀の量子論入門」は,タイトルにしてからが魅力的で,第1回から注目してきたが,2011年9月号の第17回と10月号の第18回では,量の大きさを計って数値化するという「計量」の理論が取り扱われている。
連載記事の本文自体も勉強になるが,それと同じくらいいろいろな情報が「参考文献」のリストに詰まっている。
その「参考文献」に掲載されている文献のほとんどは僕がこれまで知らなかった論文や本なのだが,第17回の参考文献に挙げられている中西襄氏の次元解析に関するエッセイ(『数学・物理通信』1巻5号「次元解析と数学者」)に述べられている3つの話題のうち,素粒子の専門家にはおなじみだという「Feynman の恒等式」
について,思うことがあったので述べてみたい。
この等式が正の数 A,B に対して成り立つことは,右辺の積分を実際に実行すれば,高校レベルの計算で容易に示せる。
ところが,この記事で紹介されている1次分数変換を利用すると,右辺の積分を具体的に計算しなくても左辺の式が得られてしまう。
その理由を述べよう。
上の等式の右辺を F(A,B) と書くことにすると,1次分数変換
を用いて置換すると,
などとなるから,
を得る。
したがって F(A,B)=abF(aA,bB) であるが,ここで a,b の値を a=1/A,b=1/B に選ぶと F(A,B)=F(1,1)/(AB) となる。
ところが,F(1,1)=∫10dx/{x+(1-x)}2=1 なので,F(A,B)=1/(AB) であることが示された。
この議論のミソは,もちろん,この積分と非常に相性のよい1次分数変換をあらかじめ知っていることである。
そのようなうまい1次分数変換をどのようにして見出したのか,僕の興味はむしろそちらにあるのだが,その由来は今のところ皆目見当もつかない。
それはそれとして,せっかくこのような強力な道具がわかっているならば,それをこの積分の値を求めるのに使えないか,と思いついたので確かめてみた次第である。
連載記事の本文自体も勉強になるが,それと同じくらいいろいろな情報が「参考文献」のリストに詰まっている。
その「参考文献」に掲載されている文献のほとんどは僕がこれまで知らなかった論文や本なのだが,第17回の参考文献に挙げられている中西襄氏の次元解析に関するエッセイ(『数学・物理通信』1巻5号「次元解析と数学者」)に述べられている3つの話題のうち,素粒子の専門家にはおなじみだという「Feynman の恒等式」
1/(AB)=∫10dx/{xA+(1-x)B}2
について,思うことがあったので述べてみたい。
この等式が正の数 A,B に対して成り立つことは,右辺の積分を実際に実行すれば,高校レベルの計算で容易に示せる。
ところが,この記事で紹介されている1次分数変換を利用すると,右辺の積分を具体的に計算しなくても左辺の式が得られてしまう。
その理由を述べよう。
上の等式の右辺を F(A,B) と書くことにすると,1次分数変換
x=by/{a+(b-a)y}
を用いて置換すると,
1-x=a(1-y)/{a+(b-a)y}, dx=abdy/{a+(b-a)y}2
などとなるから,
F(aA,bB)=∫10dx/{axA+b(1-x)B}2=F(A,B)/(ab)
を得る。
したがって F(A,B)=abF(aA,bB) であるが,ここで a,b の値を a=1/A,b=1/B に選ぶと F(A,B)=F(1,1)/(AB) となる。
ところが,F(1,1)=∫10dx/{x+(1-x)}2=1 なので,F(A,B)=1/(AB) であることが示された。
この議論のミソは,もちろん,この積分と非常に相性のよい1次分数変換をあらかじめ知っていることである。
そのようなうまい1次分数変換をどのようにして見出したのか,僕の興味はむしろそちらにあるのだが,その由来は今のところ皆目見当もつかない。
それはそれとして,せっかくこのような強力な道具がわかっているならば,それをこの積分の値を求めるのに使えないか,と思いついたので確かめてみた次第である。
明治大学の杉原厚吉先生の錯覚に関する講演を聞いた。
以前,図書館でCG関連の書籍を探しているとき,杉原先生の不可能物体の作成に関する本を借りて写真を楽しんだ覚えがあったので,講演は楽しいものになるだろうと思っていた。
その期待はもちろん裏切られなかった。
杉原先生はBest Illusion of the Year Contest の2010年度のチャンピオンに選ばれたとのことで,こういう面白そうなコンテストで日本人が優勝するというのは実に嬉しいことである。
講演は,数学的な話も交えつつ,もっぱら図や動画を紹介するという内容で,錯覚を起こす映像を立て続けに見せられたのは貴重な経験ではあったが,ちょっと頭がくらくらしてきたのも事実である。
「錯視酔い」とでも呼ぶべき状態になりかけた。頭がちょっとパニックになるらしい。
講演内容はどの話題も全て刺激的で面白かったのだが,とりわけ印象に残った言葉がいくつかあった。
そのうちの一つは,
という言葉である。
これは例えば連続関数の中間値の定理によって方程式の解が「ある」ということがわかっただけでは解けたことにならず,その解の近似値でもいいからどうにかして具体的な数値として解の情報を引き出すことまでしないと工学においては役に立たない,というようなことであろう。
この言葉から,次のようなフレーズを思いついた。
数学的な議論によって解けないことが証明されたとしても,それで話は終わらない。
全く別のアプローチを取ったり,数値や条件を多少変えてでも,なんらかの結果を残さなければどうしようもない。
そんな無理を承知で困難に挑戦し続ける壮絶な覚悟を感じさせる言葉であるが,あきらめるな,粘れ,工夫しろ,という励ましがこもったメッセージともとれるだろう。
いつか自分もトップ10入りを果たして,コンテストのお祭りの舞台に立てたらなあ,などという夢を抱いてしまった。
以前,図書館でCG関連の書籍を探しているとき,杉原先生の不可能物体の作成に関する本を借りて写真を楽しんだ覚えがあったので,講演は楽しいものになるだろうと思っていた。
その期待はもちろん裏切られなかった。
杉原先生はBest Illusion of the Year Contest の2010年度のチャンピオンに選ばれたとのことで,こういう面白そうなコンテストで日本人が優勝するというのは実に嬉しいことである。
講演は,数学的な話も交えつつ,もっぱら図や動画を紹介するという内容で,錯覚を起こす映像を立て続けに見せられたのは貴重な経験ではあったが,ちょっと頭がくらくらしてきたのも事実である。
「錯視酔い」とでも呼ぶべき状態になりかけた。頭がちょっとパニックになるらしい。
講演内容はどの話題も全て刺激的で面白かったのだが,とりわけ印象に残った言葉がいくつかあった。
そのうちの一つは,
数学的に解けたとしても,工学的に解けたことにはならない。
という言葉である。
これは例えば連続関数の中間値の定理によって方程式の解が「ある」ということがわかっただけでは解けたことにならず,その解の近似値でもいいからどうにかして具体的な数値として解の情報を引き出すことまでしないと工学においては役に立たない,というようなことであろう。
この言葉から,次のようなフレーズを思いついた。
数学的に解けないとしても,工学的には解かなければならない。
数学的な議論によって解けないことが証明されたとしても,それで話は終わらない。
全く別のアプローチを取ったり,数値や条件を多少変えてでも,なんらかの結果を残さなければどうしようもない。
そんな無理を承知で困難に挑戦し続ける壮絶な覚悟を感じさせる言葉であるが,あきらめるな,粘れ,工夫しろ,という励ましがこもったメッセージともとれるだろう。
いつか自分もトップ10入りを果たして,コンテストのお祭りの舞台に立てたらなあ,などという夢を抱いてしまった。
知り合いの知り合いのそのまた知り合いくらいになると,ずいぶんいろんな人とつながっていることになるというような,グラフ理論か何かの話を聞いたことがある。
そういう意味では世間は狭い。
最近,自分が興味を持っている複数の学問分野についてたくさんの文献を集めているが,だいぶ遠いところでそれらの学問がつながっていることを実感している。
そんな折,ちょっと違った新たなつながりに出くわした。
熱力学の理論を応用して数学の不等式を証明するという,ちょっと「トンデモ」な感じの論文をこのあいだ見つけた。
そういう刺激的な論文があると,何人かが釣られてコメント論文を書く。
その中のひとつに,Michael A. B. Deakin 氏の論文
Thermodynamic Proofs and Their History quick view
(The Mathematical Gazette, Vol. 83, No. 496 (1999), pp. 92-94)
がある。
これによると,少なくとも 1860年代に Tait(Hamilton の四元数を広めたり,Maxwell や Kelvin 卿と共に電磁気学や熱力学に貢献した科学者)が同じことを考えていた(たった1ページの短い論文として発表している)し,その後,Pauli の師匠である Sommerfeld も熱力学の教科書でそのようなことを書いているそうだ。
「機械仕掛けの数学」という本も最近出版されているくらいだから,物理語で数学の定理を解説するという行為は,はっきり公にされたことは少ないにしろ,物理学者なら誰しもやっているに違いない。
そうやって数学の定理を物理的に解釈し直すことで,ようやく理解した気分になり,自在に使いこなせるようになるのだろう。
さて,こうして Deakin 氏の論文にたどりついたわけだが,この人の他の論文のリストを眺めていたら,
Hypatia and Her Mathematics
というタイトルが目を引いた。
"Her" という単語が引っかかったのである。
Hypatia というのは女性の名前らしい。
ただ,気にはなったものの,いつか読もうという程度で中身は見なかった。
ネットサーフを中断し,雑誌『数理科学』2011年1月号に掲載されている,ある全く関係のない記事を探していたら,その号から連載が始まった「人物で学ぶ数学 創始者の思考で学ぶ」というリレー連載の第1回が目に留まったので,読んでみた。
(この「創始者の思考で学ぶ」というサブタイトルがたまらない。僕が常日頃気にしているのは,まさにこの「創始者の思考」であって,だからこそ,せめて理論や概念の提唱者の最初の論文を見てみたいと,ネットサーフィン三昧の日々を送っているのである。)
第1回は砂田利一氏が担当で,序文のような内容であったが,「取りつくし法」(という訳は誤訳なんだそうだが)で有名なユードクソス(エウドクソス)と,ヒッパティアという2人の数学者の紹介も述べられていた。
ん?ヒッパティア・・・?どこかで聞いたような・・・。
ああ,ついさっき Deakin 氏の論文のタイトルで見かけた,あの Hypatia か!
砂田氏の文章にも,はっきりと女性数学者と書かれている。
(ヒッパティアは才能に恵まれたすばらしい(おそらく史上初の)女性数学者だったそうだが,キリスト教徒の集団に惨殺され,遺体が引き裂かれるという,壮絶な最期を遂げたとのことである。その文章を読んだとき,残酷さにとても悲しい気持ちになった。)
というわけで,不思議な偶然で,Hypatia の名に再び出会ったのであった。
こうなると,Deakin 氏の論文を読まないわけにはいくまい。
というわけで,せっかくの出会いを生かすべく,読んでみることにしよう。
そういう意味では世間は狭い。
最近,自分が興味を持っている複数の学問分野についてたくさんの文献を集めているが,だいぶ遠いところでそれらの学問がつながっていることを実感している。
そんな折,ちょっと違った新たなつながりに出くわした。
熱力学の理論を応用して数学の不等式を証明するという,ちょっと「トンデモ」な感じの論文をこのあいだ見つけた。
そういう刺激的な論文があると,何人かが釣られてコメント論文を書く。
その中のひとつに,Michael A. B. Deakin 氏の論文
Thermodynamic Proofs and Their History quick view
(The Mathematical Gazette, Vol. 83, No. 496 (1999), pp. 92-94)
がある。
これによると,少なくとも 1860年代に Tait(Hamilton の四元数を広めたり,Maxwell や Kelvin 卿と共に電磁気学や熱力学に貢献した科学者)が同じことを考えていた(たった1ページの短い論文として発表している)し,その後,Pauli の師匠である Sommerfeld も熱力学の教科書でそのようなことを書いているそうだ。
「機械仕掛けの数学」という本も最近出版されているくらいだから,物理語で数学の定理を解説するという行為は,はっきり公にされたことは少ないにしろ,物理学者なら誰しもやっているに違いない。
そうやって数学の定理を物理的に解釈し直すことで,ようやく理解した気分になり,自在に使いこなせるようになるのだろう。
さて,こうして Deakin 氏の論文にたどりついたわけだが,この人の他の論文のリストを眺めていたら,
Hypatia and Her Mathematics
というタイトルが目を引いた。
"Her" という単語が引っかかったのである。
Hypatia というのは女性の名前らしい。
ただ,気にはなったものの,いつか読もうという程度で中身は見なかった。
ネットサーフを中断し,雑誌『数理科学』2011年1月号に掲載されている,ある全く関係のない記事を探していたら,その号から連載が始まった「人物で学ぶ数学 創始者の思考で学ぶ」というリレー連載の第1回が目に留まったので,読んでみた。
(この「創始者の思考で学ぶ」というサブタイトルがたまらない。僕が常日頃気にしているのは,まさにこの「創始者の思考」であって,だからこそ,せめて理論や概念の提唱者の最初の論文を見てみたいと,ネットサーフィン三昧の日々を送っているのである。)
第1回は砂田利一氏が担当で,序文のような内容であったが,「取りつくし法」(という訳は誤訳なんだそうだが)で有名なユードクソス(エウドクソス)と,ヒッパティアという2人の数学者の紹介も述べられていた。
ん?ヒッパティア・・・?どこかで聞いたような・・・。
ああ,ついさっき Deakin 氏の論文のタイトルで見かけた,あの Hypatia か!
砂田氏の文章にも,はっきりと女性数学者と書かれている。
(ヒッパティアは才能に恵まれたすばらしい(おそらく史上初の)女性数学者だったそうだが,キリスト教徒の集団に惨殺され,遺体が引き裂かれるという,壮絶な最期を遂げたとのことである。その文章を読んだとき,残酷さにとても悲しい気持ちになった。)
というわけで,不思議な偶然で,Hypatia の名に再び出会ったのであった。
こうなると,Deakin 氏の論文を読まないわけにはいくまい。
というわけで,せっかくの出会いを生かすべく,読んでみることにしよう。
今日の午前2時8分に満月のはずだったが,ちょうどそのときは曇っていたようで,残念ながら見えなかった。
昨日の授業中,ツクツクボウシやアブラゼミの鳴き声が聞こえてきたので,それに反応して口に出してしまった。
どうせセミのことについて話すなら,
「あら,セミの声。」
とか言えばもっと風流だっただろうか。
昨日の授業中,ツクツクボウシやアブラゼミの鳴き声が聞こえてきたので,それに反応して口に出してしまった。
どうせセミのことについて話すなら,
「あら,セミの声。」
とか言えばもっと風流だっただろうか。
ブログのカテゴリー数がもう上限に達してしまったので,くだらないネタ専用のカテゴリーを設定できない。
古い記事を整理するときが来たようだ。
タイトルの「トホホな超能力」とは,それは確かに常人には備わっていないすごい能力なのだが,何の役にも立たないという,自慢にならない全く無駄な『超』能力のことである。
よくバラエティー番組やマンガ,お笑いネタなんかに出てくるポピュラーなジャンルである(すでに名前がついているかもしれないが,暫定的に命名しておいた)。
実際にある能力ではなく,想像上のものでかまわない。
自販機でジュースを買おうと財布をのぞくと、ピカピカした百円玉があったので,何年のものか表示を見ようとしたときに思いついた能力。
「目で見なくても,指でちょっと触っただけで何年の百円玉かわかってしまう能力」。
「はい,お駄賃」といって手渡されたり,「落としましたよ」と拾ったり,おつりを受け取ったときなどに,詳しく見ることなく,瞬時に各百円玉に書かれた年がわかってしまう。
そんな能力を持った友達がいて,実際に目の前でその能力を披露してもらったら,絶対に「スゲー!!!」と興奮するに違いないが,少ししたら,だからどうしたの,という感じで白けてしまう可能性も高い。
「ほんとすごいよ!」と周囲にはやし立てられている能力の持ち主は,大して自慢にならないので,気恥ずかしそうな笑みを見せることだろう。
と,まあこんな調子で,この手のネタはその気になればいくらでも作れそうだが,わざわざ作るのではなくて,ふとした拍子に思いつくことを楽しみに待ちたいものである。
古い記事を整理するときが来たようだ。
タイトルの「トホホな超能力」とは,それは確かに常人には備わっていないすごい能力なのだが,何の役にも立たないという,自慢にならない全く無駄な『超』能力のことである。
よくバラエティー番組やマンガ,お笑いネタなんかに出てくるポピュラーなジャンルである(すでに名前がついているかもしれないが,暫定的に命名しておいた)。
実際にある能力ではなく,想像上のものでかまわない。
自販機でジュースを買おうと財布をのぞくと、ピカピカした百円玉があったので,何年のものか表示を見ようとしたときに思いついた能力。
「目で見なくても,指でちょっと触っただけで何年の百円玉かわかってしまう能力」。
「はい,お駄賃」といって手渡されたり,「落としましたよ」と拾ったり,おつりを受け取ったときなどに,詳しく見ることなく,瞬時に各百円玉に書かれた年がわかってしまう。
そんな能力を持った友達がいて,実際に目の前でその能力を披露してもらったら,絶対に「スゲー!!!」と興奮するに違いないが,少ししたら,だからどうしたの,という感じで白けてしまう可能性も高い。
「ほんとすごいよ!」と周囲にはやし立てられている能力の持ち主は,大して自慢にならないので,気恥ずかしそうな笑みを見せることだろう。
と,まあこんな調子で,この手のネタはその気になればいくらでも作れそうだが,わざわざ作るのではなくて,ふとした拍子に思いつくことを楽しみに待ちたいものである。
今日の日中はよく晴れて暖かかったが,もう蝉の鳴き声は聞こえなかった。
月曜日に新しい靴を買った。
2年前にスキーブーツを買う際にスポーツ店で計測してもらったところ,僕の足のサイズは28.0cmだとのことだった。
27.5cmくらいだと思っていたのが,大きくなっていて驚いた。
「馬鹿の大足」という言葉があるので,足が大きいことは嬉しくはない。
土踏まずがない偏平足であり,昔に比べて体重が増えたことが災いして,足がつぶれて広がったのだろう。
僕の足にジャストフィットするのは27.5cmの靴なのだが,現在,28.0cm の靴はよく見かけるようになったものの,27.5cm は一切見かけなくなった。
靴屋の店員に確認したところ,27.5cm のサイズの靴は今はもうないそうだ。困ったことである。
28.0cm だと靴の中で足が滑って歩きにくいので,試しにワンランク下げて 27.0cm を履いてみた。
意外といけるかも?!
つま先が靴の先端に当たっているものの,むしろ今回は締め付け感を求めていたので,それにしてみた。
もちろん,足が窮屈で問題が生じるのではないかという不安はあったが,1,990円の安物の靴なので,失敗しても大した損害ではない。ともかく一種の賭けなので,リスクは覚悟の上である。
翌火曜日から三日間,その靴を履いてさんざん歩き回った。
こう書くと平気だったように思えるかもしれないが,木曜日の夜には右足の負担が限界に来ていたので,もう一度靴屋に寄って同じ靴の 28.0cm を買うことにした。
右足にとっては 27.0cm のサイズの靴はかなり窮屈だったようで,初日から我慢をしていたのだが,左足はどちらかというとやや窮屈で,靴下の親指の爪があたるところがすぐに破けてしまいそうな感じがあるものの,靴が足にしっかり固定されていてむしろ快適であった。
逆に 28.0cm では足が靴の中ですべってしまい,歩きにくい。
こうなると,答えはひとつしかない。
右足は新しく買った 28.0cm のサイズ。
左足は月曜日に買った 27.0cm のサイズ。
両足の大きさが異なるというのは体のゆがみを如実に具現化しているようで面白くないし,1cm も違う靴を別々に履くというのはバランスが悪くて,心理的にはかなりの抵抗があるが,こうするのが最も合理的な解決法なのだから致し方ない。
ちょうど足して二で割ったら 27.5cm で,そのサイズの靴は左右どちらの足にもフィットしないともいえるが,どちらの足にもほどほどに合っているともいえる。
ああ,どうして靴業界は 27.5cm の規格を無くしてしまったのだろうか。
今にして思うと,スキーブーツのときに 28.0cm と言われたのは,本当は 27.5cm くらいなのだが,そのサイズのブーツがないのでそう言われたのではないかと思われてくる。
お願いです,靴のメーカーさんたち。
こんな僕を哀れと思うなら,27.5cm のサイズを復活させて下さい。
もうこうなるとオーダーメイドで靴を作るしかないが,貧乏人には夢物語である。
あるいは,靴は消耗品だから安物でいいという考えを改めて,毎日使用するし,最も負担のかかる足を守る大事な道具なのだから,お金をかけてなるべくよいものを求めるべきだという価値観へと転換すべきなのかもしれない。
とりあえず,予算がどれくらい必要なのか,ググって調べてみることとしよう。
月曜日に新しい靴を買った。
2年前にスキーブーツを買う際にスポーツ店で計測してもらったところ,僕の足のサイズは28.0cmだとのことだった。
27.5cmくらいだと思っていたのが,大きくなっていて驚いた。
「馬鹿の大足」という言葉があるので,足が大きいことは嬉しくはない。
土踏まずがない偏平足であり,昔に比べて体重が増えたことが災いして,足がつぶれて広がったのだろう。
僕の足にジャストフィットするのは27.5cmの靴なのだが,現在,28.0cm の靴はよく見かけるようになったものの,27.5cm は一切見かけなくなった。
靴屋の店員に確認したところ,27.5cm のサイズの靴は今はもうないそうだ。困ったことである。
28.0cm だと靴の中で足が滑って歩きにくいので,試しにワンランク下げて 27.0cm を履いてみた。
意外といけるかも?!
つま先が靴の先端に当たっているものの,むしろ今回は締め付け感を求めていたので,それにしてみた。
もちろん,足が窮屈で問題が生じるのではないかという不安はあったが,1,990円の安物の靴なので,失敗しても大した損害ではない。ともかく一種の賭けなので,リスクは覚悟の上である。
翌火曜日から三日間,その靴を履いてさんざん歩き回った。
こう書くと平気だったように思えるかもしれないが,木曜日の夜には右足の負担が限界に来ていたので,もう一度靴屋に寄って同じ靴の 28.0cm を買うことにした。
右足にとっては 27.0cm のサイズの靴はかなり窮屈だったようで,初日から我慢をしていたのだが,左足はどちらかというとやや窮屈で,靴下の親指の爪があたるところがすぐに破けてしまいそうな感じがあるものの,靴が足にしっかり固定されていてむしろ快適であった。
逆に 28.0cm では足が靴の中ですべってしまい,歩きにくい。
こうなると,答えはひとつしかない。
右足は新しく買った 28.0cm のサイズ。
左足は月曜日に買った 27.0cm のサイズ。
両足の大きさが異なるというのは体のゆがみを如実に具現化しているようで面白くないし,1cm も違う靴を別々に履くというのはバランスが悪くて,心理的にはかなりの抵抗があるが,こうするのが最も合理的な解決法なのだから致し方ない。
ちょうど足して二で割ったら 27.5cm で,そのサイズの靴は左右どちらの足にもフィットしないともいえるが,どちらの足にもほどほどに合っているともいえる。
ああ,どうして靴業界は 27.5cm の規格を無くしてしまったのだろうか。
今にして思うと,スキーブーツのときに 28.0cm と言われたのは,本当は 27.5cm くらいなのだが,そのサイズのブーツがないのでそう言われたのではないかと思われてくる。
お願いです,靴のメーカーさんたち。
こんな僕を哀れと思うなら,27.5cm のサイズを復活させて下さい。
もうこうなるとオーダーメイドで靴を作るしかないが,貧乏人には夢物語である。
あるいは,靴は消耗品だから安物でいいという考えを改めて,毎日使用するし,最も負担のかかる足を守る大事な道具なのだから,お金をかけてなるべくよいものを求めるべきだという価値観へと転換すべきなのかもしれない。
とりあえず,予算がどれくらい必要なのか,ググって調べてみることとしよう。
本家のサイトでいち早く受賞者を知ろうと思っていたが,アクセスが殺到しているのか,つながりにくくて,中継の動画がちっとも観られなかった。
何回か更新していたら,いつの間にか受賞者の名前が掲載されていた。
最有力候補としてノミネートされていた日本人研究者の名は無かった。残念。
何回か更新していたら,いつの間にか受賞者の名前が掲載されていた。
最有力候補としてノミネートされていた日本人研究者の名は無かった。残念。