担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

「量の理論」続報。

2011-10-29 22:52:37 | mathematics
ちょうど一週間前に,雑誌「数学セミナー」のバックナンバーを調べて,「量の問題をめぐって」というシリーズ連載に出会ったことについて書いた。これはその続報である。

あれから一週間経つものの,まだちっとも肝心の文献を読んではいないが,ちらりと田村二郎氏が連載の結びとして書かれた「それでも量と数は違う」という太字の文言が目に飛び込んできて,この一週間の間,ずっと違和感と共に頭の中をグルグルしていたが,今日,図書館で借りてきた単行本「量と数の理論」の「はしがき」に目を通したとき,ようやく理解できた気がした。

そうだ,量と数は違う!

今では僕は違和感ではなく,心からこのスローガンに賛同している。

ちょうど一ヵ月ほど前に僕が達したある一つの理解は,まさにこの言葉に集約されているということにようやく気づいたのである。


ある性質を持った「量」たちに「実数値」を割り振る。それがその量の「測定」という行為に他ならない。


こう書くと実に当たり前のことだが,今まではこの事実を表面的に理解できていた(つもりな)だけだったことに気づいたのである。やっと腑に落ちたという気がする。

そして,ある「量」があったとき,それらを実数化することが出来るか(その「量」たちからなる集合から,実数の集合へのある種の同型写像があるかどうか),というのが測定の問題なのである。
このとき,それらの「量」が満たすべき性質,もっと具体的にいえば数学的な「公理」をどう規定するかが重要な問題として現れる。

これも当然と言えば当然だが,それらの性質が実数の性質と相性がよければ,それらの量を矛盾なく実数へと変換することが出来るが,相性が合わなければ整合性のある仕方で測定値を割り振ることは不可能になる。

こうした理論は,例えば量子力学における測定の概念とも関わりのあることだが,話は物理学に限ったことではない。ヒトの持つ主観的な観念なり感覚なりをどう数値化するかという,人文系の学問とも関連のある話である。

そういった意味で,量の理論は数学ではないというのが僕の到達した見解である。それは科学ですらない。
量の理論は数学や物理学,社会学や心理学などの学問領域の外,あるいは辺縁に位置するものであって,量の理論を研究するのは,科学基礎論というか,科学哲学というか,科学そのものの外にある,別の学問領域の範疇であるという気が強くしてきたのである。

このような理解があながち間違いでないことは,「量と数の理論」の「はしがき」において,H. Weyl の「数学と自然科学の哲学」という本について言及されていることからもなんとなく裏付けられているように思われる。

ちなみに,この本は持っているのでちらりと見てみたところ,今すぐ読まなければならないと思えるほどに,最近僕が気になっていることに密接なつながりがある話題に満ちているようだったが,そういえば,この本を数ヵ月前に手に取ったときは,読むのを先延ばしにしようと敢えて決意したことを思い出した。
(カッコつけてそんな決意をわざわざしなくとも,怠け者の僕はどうせ読みはしないのだが・・・。)

なぜそんな決意をしたかというと,ほぼ似たような話題を扱っていると思われる Poincaré の三部作(あるいは,せめて「科学と仮説」だけでも)を読むべきだと考えたからである。

どういうことかというと,どうせなら相対性理論の出現前に書かれた Poincaré や Mach の本と,出現後に書かれた Weyl の本を比較したいと,余計なことを考えたのである。
それならば時系列順に読む方が面白かろうということで,未だにろくに手をつけていない Poincaré の本を優先することにしたのだった。

ところが,よく考えてみると,Poincaré も数の話を深く取り上げているが,Dedekind の「数について」というエッセイに基づいた解説がなされているようなので,上の論理に基づけば,Poincaré よりも先に Dedekind を読まなければならないことになる。

それでもし Dedekind を読んだならば,今度は和製「量の理論」の道をたどることも可能になる。
それは,高木貞治の「数学雑談」(15年前に共立出版から復刻版が出版された;まだ入手可能かどうかは知らないが)の第4章「無理数」である。
そしてそれらをベースに南雲道夫氏による「南雲理論」が作られ,それは最終的に田村二郎氏の「量と数の理論」にも大きな影響を与えたとのことである。

これでようやく寄り道から本題に戻った。

南雲理論とは独立に,「数学セミナー」1977年7月号の特集をきっかけとする小島理論の展開があり,それら双方の影響を受けた田村理論を学ぶには,Weyl の本も経由しなければならないらしいので,なかなか道のりは遠い。
もちろん,小島理論を学ぶには,小島順氏の「線型代数」の教科書にも目を通しておくことが望ましいだろう。

と,ここまで書いてきて,ろくに数学の本や記事が読めない僕にとって,このような学習計画は全くの机上の空論だということに気がついた。

まあ,それはそれとして,こういう計画を立てているときが一番楽しいというのは世の中の真理の一つであろうから,もう少し続けることにする。


「数学セミナー」のバックナンバーの目次を公式サイトで調べてみたところ,少なくとも前回挙げたリストに次のものを付け加えなければならないことがわかった。

  • 江沢洋,物理量ノート,1979年7月号,10月号と1980年2月号;
  • 倉田令二朗,量の理論と諸問題,1980年5月号~8月号。

倉田令二朗氏の連載がこのシリーズの最後なのかもしれない。
壮大な内容のようなので,締めくくりにふさわしかったのだろうか。
またそのうち時間を作ってもう少し調べてみようとは思うが,問題提起からすでに丸3年が経過しているので,量の問題自体への関心が薄れて下火になってしまった可能性は高いと思う。

ただ,江沢氏と倉田氏は量子力学や熱力学などの物理理論における量について考察しているようであって,話題が広汎になりすぎて収拾がつかなくなったのかもしれない。

けれども,量と数の関係は科学の根底に横たわる基礎理論に関わる問題であるから,現代科学を担う我々にとっても無関係ではないし,むしろより考察を進めて発展させていくべき課題の一つであるように思われる。

そういうわけで,とても大きな風呂敷を広げられるところまで気分がノッて来たので,このテンションでもってすでに膨大な量になった文献を読破していきたいものである。

何しろ,前にも書いたかもしれないが,海外では Hölder を始祖の一人とする量と測定の理論の伝統があり,その流派に属すると思われる Suppes によれば,こうした話は Newton にまで遡れるというのだから,だんだん話はヤバくなってくるのである。
あるいは,ドイツ系の人々の理論の思想的な母体は Kant 哲学にあるようなので,Kant も読まなければならないという話に広がっていく。

これら,先人たちの業績も踏まえた上で,21世紀の「量の理論」を構築するのが,今では僕の壮大な夢の一つである。
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『高橋秀俊の物理学講義』にまつわる思い出。

2011-10-29 22:02:07 | Weblog
※ 高橋秀俊先生の講義を直接聴講したとか,そういう話ではありません。
※ 単に,つい最近『高橋秀俊の物理学講義』という本が出版されたことを知って,その本の中身とはほとんど関係ない周辺的なことについて個人的な思い出がいくつかあるのでそれを書き記しただけという,ただそれだけの話です。

この間,友人の gk 氏から,ちくま学芸文庫から『高橋秀俊の物理学講義』という本が出たことを教わった。

僕は一も二もなく本屋に走った。

実は gk 氏には1ヵ月か2ヵ月前に,雑誌「数理科学」2001年5月号に掲載された霜田光一氏による記事「高橋秀俊の物理学」に感銘を受けた由の話をしたことがあった(gk 氏は覚えていないそうだが)。
このとき,二人して「物理学汎論」というものに強い興味を覚えたのだが,それがタイムリーにもちくま学芸文庫として復刊されたとは。

本書は全部で40講からなる講義録であるが,まだ全然読んでいない。

パラパラと見ていると,どれもこれも面白そうな講義である。
例えば第7講「いろいろな自由度の間の交渉」には,僕が不勉強なため全く知らなかった「熱磁気効果」やら,「熱磁歪逆効果」やら,非常に興味深い現象などが紹介されている。

第4講の「ルジャンドル変換」では,Legendre 変換の物理的な意味を詳しく考察しており,Legendre 変換を単なる数学的な技巧だと思っていた僕には衝撃的な内容であった。

Legendre 変換にも物理的な解釈が可能なのか!

と驚くと同時に,Legendre 変換の式に対しても物理的な解釈を試みるべしという,物理学者としていわば当然の心構えが身についていない己の不明に恥じ入り,深く反省させられた。

それ以外には,Hilbert 変換に関する講義(第25講)が目に付いた。

これについてはある友人と話したことを思い出した。

10年近く前,京大の数理解析研に行ったとき,当時まだ京大にいた高校時代の同級生と落ち合い,京大のそばの定食屋で食事をした。
その際,「Hilbert 変換については高橋秀俊の物理学講義に載っているよ」というような話を聞いたことを思い出したのである。
その後しばらく,その友人とメールのやり取りをしていたが,高橋秀俊の本が手に入らないことを伝えたところ,Arfken の物理数学の教科書にも載っているということも教えてくれたので,そちらはさっそく全4巻を買い揃えたのも良い思い出である。

もっとも,当時も今も僕には Hilbert 変換の理論は必要ではなく,なんでそういう話になったのかは思い出せない。何か因果律に関する話をしてたんだっけかなぁ。因果律と Hilbert 変換の関連って何だっけ・・・?

それはともかくとして,このような事情もあって,その頃から「高橋秀俊」という学者の名前は僕の脳裏に刻み付けられていたのだが,実はそれよりも前にこの名前には出会っていたような気がしてきた。

それはどういう話だったか,よりいっそう思い出せないのだが,日本で独自に開発されたコンピュータ素子として名高いパラメトロンのことを何かで読んで興味をそそられたことがあり,その時に「高橋秀俊」の名を目にしたのだったかもしれない。
当時は電気工学者だと思っていたが,「数理科学」の記事でれっきとした物理学者であったという認識に改めることとなった。

これ以外にも,高橋秀俊はロゲルギストという日本の物理学者数名のグループの一員としても有名である。
ロゲルギストの「物理の散歩道」シリーズは,面白そうな話題に満ちているものの,見掛けとは裏腹に僕には難しく感じられ,敬遠していたが,そろそろ読める年頃になってきたのかもしれないので,近いうちにチャレンジしてみようと思う。

なお,本稿の最後に,上記とは関係がないが,「高橋秀俊の物理学講義」の「まえがき」の終わりに挙げられている参考書の一つ,Pippard の本は1988年に共立出版から日本語訳が出ている(自然の応答と安定性 : 現代物理学への招待 / A.B.Pippard 著 ; 加藤鞆一 訳)ことを書き添えておこう。

ついでに思い出したので,それも書き記しておこう。
訳者の加藤鞆一(ともかず)先生は今ではすっかりご無沙汰してしまっているが,やはり10年ほど前に個人的にお世話になったことがある。
特によく差し入れと称して大変美味などら焼きを持ってきて下さった。
初めていただいたとき,とてもおいしかったので,ついぶしつけにもお土産に持ってきて欲しいと,それとなく催促したところ,それ以降,孫におやつを持ってくるような感覚で毎回のように買ってきて下さったのは,本当に楽しい思い出である。
(ときどき本物の孫に負けて,孫にあげたから僕たちの分までは買ってきて下さらなかった,という悲しい思い出も,今となっては懐かしい思い出である。)

Pippard の本も,そろそろ手にとって吟味する時期が来たということなのかもしれない。


ともかく,何らかの形で,「物理学汎論」という精神を継承したいものだと切に思う今日この頃である。
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裏切られた期待と,残された苦悩。

2011-10-29 00:05:59 | Weblog
27日の木曜日のことである。

炭酸ビタミン飲料が欲しくて,100円自販機にお金を入れ,目的の商品のボタンを押した。

・・・。それなのに。

出てきたのは「○茶」のミニペットボトル。

商品の出口をよく調べたが,他には何もなかった。


なにこれ。ありえない。


僕は呆然とした。

ちょっと喉が渇いたから,何でもいいから飲み物が欲しいな,という軽い気持ちで自販機を利用したのなら,目当てのとは違う商品が出ても,「ま,いいや」で済むかもしれない。

しかし,僕の場合はそうではなかった。

ブドウ糖とビタミンを摂取したい,炭酸の喉越しを味わいたい。

そんな切実な期待を胸に,意気揚々と自販機にお金を入れたのである。


それなのに,どうだ。


甘くなければ炭酸飲料でもない,ただの茶を出してきたのである。


とんでもない仕打ちである。


炭酸ビタミン飲料への未練を断ち切れなかった僕は,もう100円を投入してみることにした。


商品のボタンは3つ並んでいる。先ほどは右端のを選んで敗北した。

今度は,左と真ん中のを同時に押した。

真ん中のランプだけが点いたままになり,ガコンという音がした。

取り出し口を見てみると,目当てのジュースが無事に出てきていた。


こうして,僕の手元には「生○」のペットボトルが残った。

<裏切られた期待>完


炭酸ビタミン飲料はソッコーで飲み干したが,問題は残された茶である。

おそらく商品の補充の際に入れ間違えただけだろうが,このご時勢である。
誰かの悪質ないたずらであるという可能性はゼロではない。

もし毒でも入っていようものなら,怪しいとわかっていながら飲んで体を壊しては,ただのバカである。
ただのバカで済めば笑い話で済むかもしれないが,重症になったり,命を落としたりしてはたまらない。

かといって,飲まずに捨てるというのも mottainai の言葉が心にひっかかり,捨てる決意もままならない。

こうして未だに僕の心の迷いの象徴として,茶のペットボトルは未開封のままに置いてある。

<残された苦悩>継続中
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