日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

吉兆さん

2007年12月11日 | Weblog
先日吉兆さんにおよばれでいった。昼から、フルコースである。出てくる料理はどれもこれも、超一流の味付けと、いろいろな食材を、腕を磨いた腕自慢の料理職人が料理した盛り合わせばかりで、季節の旬のものも量も、考えられている。さすが日本で1,2をあらそう料亭である。味付けと、素材の新鮮さと、磨かれた職人芸の料理や盛りつけを楽しみながら、僕なんか一生涯で何回こられるのかなと思いながら舌鼓をうった。

さかんに箸を動かせながら、おいしいごちそうとは一体どんなものだろうかと考えてみた。
フルコースだから吸い物をはじめとして、煮物、揚げ物、酢の物、香のもの、デザートでしめたけど、満腹を通り越して、食べすぎで体がしんどくなってきた。
そこで考えた。

一番おいしいごちそうとは、
1,自分の食べたいものを、
2,そのときの体調に合わせて、食べたいだけ、食べることである。

自分の食べたいものは、その日の体調によってかわる。例えばからだが疲れていると、すしのような酢の気のようなものがほしいし、甘いものも食べたい。日によってはウナギの蒲焼きのようなあぶらっこいものが食べたくなるし、またある日には体調に合わせて、刺身のようにあっさりしたものがほしい。

食べたい量を決めるのはそのときの体調による。たくさん食べたい時もあれば、あまりほしくないときもある。その日の食欲をまあ満足させてくれるだけ食べれば最高だ。
食べ過ぎてしんどくなるよりは、食べたりない方がまだいい。
ここまで考えた時、この世の中でものの値打ちというものは、自分が決めるものだな
と思った。吉兆さんだからおいしいという前に、そのおいしさを決めるのは自分であること、つまりものの価値を決めることに関しては、人は宇宙の中心なんだということだ。

えべっさん

2007年12月11日 | Weblog
1月10日はえべっさんの縁日である。通天閣に近い、今宮えびすにあるえべっさんは、商売の神さんとして、関西人の尊崇を集めて、毎年1月10日は大変にぎわう。
今年などは9日の宵えびすに残り福の11日を加えて、都合3日で
100万人を突破したという。

 物心ついて初めて、今年は本えびすの10日に参拝した。大きな傘の下に作られた、特大の賽銭箱は世の景気・不景気を反映するのだろうか。硬貨にまじって、漱石さんが泳いでいる。数こそ少ないが、福沢さんもチラッチラッと顔を見せている。

 締めて幾らか。下司の勘定が頭を横切る。
他人の銭勘定をしても、どうにもならんと思いなおして、今日お参りにきた要件を思い浮べた。

「商売繁盛じゃ、笹持って来い」
庶民の素朴な願いをなんとウマク言い表したセリフだろう。
大阪人は銭金に対してギラギラした感覚を持っているから、商売繁盛というセリフには説得力がある。
ましてや、えびすさんはえびで鯛を釣っている。
鯛を釣りたい人がえびを賽銭箱の中に投げこむのは、そろばん勘定があっていて、それは当然である。えびもつけないで、鯛を釣るような真似は大阪人はしない。何とも筋の通った話である。
大阪人のバランス感覚は健全である。

私も人々がやっているように、鈍い色を放つ小さいえびを投げ込んだ。そして両手を合わせて、それに見合う鯛を頼んだが、拝んでいる最中に、はっと気がついた。
もう少し大きいエビ投げ込んだら、それに見合う大きい鯛を頼んでも良いのではないか。

そこで、前回のはチャラにして、今度は白い色の海老を賽銭の池に放り込んで、一礼二拍手し、心の中で
「ほんまにたのんまっせ」と祈った、というよりは、えべっさんに下駄を預けた。
それでも、心残りがあったが、とりあえず、出口のほうへ向かって流れる人波に乗った。

 本殿裏に来ると、黒山の人だかりがある。何だろうとのぞいてみると、えべっさんの背中に当たる部分に、もう一つの神さんが鎮まっておられる。
五弊のついたしめ縄の張ってある神殿の前には、そこそこの賽銭箱があり、正面ほどではないが、投げこまれるお賽銭の音は鳴り止むことがない。
珍しいこともあるものだ。本殿の同じ屋根の下に、背後ではあるが、もう一つの神さんがまつって、あるなんて。

 私は小首を傾げながら、人並みに賽銭を投げ込んでから、心のなかで願い事を唱えた。
「どなたが御鎮まりますのか、存じませんが、御神様00市に住みますxxと申す男、50歳でございます。只今よりご挨拶の般若心経を1巻唱え奉ります。

続いて唱え奉る般若心経の功徳をもって心願成就をなさしめたまえ。般若波羅密多心経、むにゃむにゃむな、、、」

ひょいとお隣りを見て、熱心な祈りを捧げ終わった、年配のご婦人に、ここにまつられている神様について尋ねた。
「それはアンさん、なんでございますよ。正面から拝んだ後で、後ろに回り込んでもう一度、背中の方から拝んで駄目押ししますねん。せやさかいに、えべっさんも願い事をよう聞いてくれはりますねんやわ。それに、ほら、そこに大きな鏡みたいな鉄板が二つぶら下がってますやろ。それをな、叩いてだめ押しをしますねんや。
がーんがーん。こないしといたら、えべっさんも忘れはらしませんやろ。アンさんもしときなはったら。」
「おおきに。ほんなら私もしときまっさ。」
私は手のひらで、パターンパターンと鉄製の鏡のお化けみたいなのを叩いてだめ押しをしておいた。

今年、金回りがよくなったら、私は正にえびで鯛を釣ったことになる。えべっさんがどんな大きな鯛をくれはるか。今年は楽しみである。
 天気の良い冬の日差しの中には、もう春の息吹が感じられる。福娘のにこやかな顔の中にも、春が踊っている。








昭和1桁悲哀節

2007年12月11日 | Weblog
1,花も実もある青春を  軍隊にとられ殺し合い。

 殺し殺されるのもイヤだけど、お国のためと強いられて、運良く、助かって帰国

したら、家も肉親も焼きはらわれて、瓦礫の山に呆然と立ち尽くす。

2,食うや食わずの日を過ごし、闇市で、カストリ飲んで、我が身を慰めれば、

朝鮮動乱特需景気で、祖国復興は軌道に乗り、 続く高度経済成長では、産業戦士

とおだてられ、馬車馬のごとく働きバチ。

オイルショックの低成長では、情け容赦なく、窓際族。家では住宅ローンの重圧に加えて、核家族。子供は親の老後の世話をしないという。


3,男女同権 民主主義 自由平等の名の下に、女房からは粗大ごみ扱いをされ

る。広い天下に、わずか5尺の身の置き所なし。

迫り来る人生の夕暮れ 我が過しかたをながむれば、怒りのみぞこみ上げて、悲哀の嘆き声もなし。

4,鳥なら、とんで逃げる手段あるが、鳥ならぬ身飛ぶすべもなし。たとえ飛べど

も行くところなし。

これは、我ら世代の宿命か。 人の一生とは、こんなものか。

空に居ます神や仏や先祖たち、我らの嘆きを聞きたまえ。物言いはぬ我らが心情を

お察しあれ。

人間不信になるのも、神仏に手を合わせないのも、すべて失われた青春の後遺症

未完成交響楽

2007年12月11日 | Weblog
「わが恋が、終わることのないがごとく、この曲が終わることなし」

1X2=2 2X2=4 から黒板に、2/4が生まれ、質屋の娘が投げてよこしたゲーテの詩「野バラ」が算数の授業の真っ最中に、黒板の上で作曲されていく。
作曲は、作曲家のハートによってなされるもので、楽器によってなされるものではないことの証明である。
、ピアノは、音の確認のために補助的に使われるものであって、ピアノによって作曲されたというのは、本末転倒の話である。

私にも、教壇に立って、授業をしている真っ最中にメロデイーが湧いてきて、あわてて胸のポケットに忍ばせてある5線紙に書きとめた経験がある。

神は、洋の東西を問わず、特定の人に、時間空間を超越して、メロディーをお与えになる。
そこで私は神にお願いしたい。シューベルトに与えたもうた美しいメロディーを私にも与えたまえ。と、

見せかけ

2007年12月10日 | Weblog
1月の中旬から下旬にかけては、1年中でも、最も寒い時期である。
僕の両親は、揃いも揃って、1月に、二人ともなくなった。当然、法事は、
1月に行うことになる。

 7時50分の飛行機は伊丹空港から羽田空港へ向かう。そのために、間に合うように、家を5時半に出た。
飛行機は、定刻7時50分に、伊丹空港を離陸して、羽田空港へ向かった。滑走路を飛び立つと、5分余りで、茨木市や枚方市が見えた。
月曜日から、金曜日まではあったかい日が続いて、ずっと晴れの日が続いた。なのに、法事を行う土日は、珍しく、雨雪になった。

 飛行機は、厚い雲中を突入した。雲をつきぬけると、あたりは、まばゆいばかりの銀世界である。飛行機の窓からのぞいているというよりは、雪原をスキーで走っているような感じがした。

銀世界は、朝日に輝いて、非常に美しい。しかし、地上は、雪混じりのみぞれが降っている。 雲をつき抜けて、さらに上空に達すると、まばゆいばかりの太陽が輝いていた。雲があるために、視界がさえぎられ、さらにそのために、心に映る世界と、今見ている太陽が、永遠不滅の輝きのように輝いている。
その姿を見くらべると、いかに目の前のことに、心が奪われるか。心がゴマかされるか。ということがよくわかる。
朝日が差すと、白い雲にも凹凸があり、白く光る部分と、影の部分つまり、灰色とか青い青灰色に見える部分がある。

35分たったら、飛行機は、高度を下げたのだろう。また、雲の中に突入した。相変わらず、厚い雲のために光が届かず、日中だと言うのに、薄暗く、感じられた。

 

 懇意にしてもらってる友人が、面白い話をしだした。
現金をむき出しにして、100万円の札束をズボンの後ポケットに、入れて、
これにみよがしに、クラブに入っていくと、ホステスの目が、一斉に、自分に注がれる。彼女たちは、たぶん彼氏なる鴨男が、やってきたと、思うのだろう。しかし、男のほうでは、これは、女の関心を引くための見せかけの札束である。
注目を引きつけるための仕掛けである。女は、きっとこの金が、バラ巻かれて、その一部が、自分の懐に入ると、勘違いする。ところが、男の計算では、これは見せるための金であって、店で使う金ではないので、ホステスの思惑は全く空振りに終わる。

40分の空の旅は、今はやりの偽札の話で持ちきりになった。
初詣の混雑にまぎれて、偽札を使えば、捕まる可能性が少ないと計算した輩がいた。
近頃は、コンピューターと、プリンターを使えば、素人が、簡単に、1万円札を偽造することができる。機械が精密であればあるほど、出来上がる作品は、本物の1万円札によく似ている。それを三つか四つかに折り込んで、混雑にまぎれて、初詣の神社のまえに立ち並ぶ露店で使えば、おそらく発見はされまいという魂胆でこの犯罪を行ったんだろう。

神社およびその付近で、数多く、この偽札が使われた。もちろん、警察や国民は、偽札について、神経質になった。そして、犯人の何人かは、逮捕された。おそらく捕まってみれば、この偽札作りが、割に合わないことを身を以て知ることになるだろう。

目先のことに目が絡んで、行った偽造事件のために、これから刑務所で入らなければならない。見せかけの偽造1万円札で、本物と、勘違いさせようとしたところに無理がある。つまり目先でごまかそうとしたが、それが、通用しなかったわけだ。

そこで僕は思った
雲の下は、薄暗いみぞれ交じりの雨の日であるけれども、雲をつき抜けさえすれば、全く違う。朝日輝く美しい世界が広がっている。そして、僕の眼は明らかに、それに、順応して、雲を雪原と勘違いして間違ってしまう。
先ほどのクラブの話もそうだが、これは店で使うカネと、いう風に想い、勝手に、目の前の札束で(これが彼女たちのチップとしてばらまかれるだろうと)ゴマかされているのだ。

極め付きが、偽造された1万円の偽札である。普段我々は、1万人を使うときに、それが本物か偽物かというチェックをせずに信用して使っている。
その信用を悪用して、偽札でも、本物の1万円札に間違ってしまうだろう。と解釈する所に、今回の犯罪が起こったわけである。

 要するに人間は、目の前に起こること、見えることは、それが本物だと信じてしまう癖がある。
心を奪われて、それが真実だと思ってしまうから、そしてまたそれが、本物であるのかないのか、自分で思ったとおりのことなのかということについてのチェックは、普通はしないものである。

ところが客観的事実として、
分厚い雲の層を突き抜けると、サンサンと朝日は輝やくし,店で使う金と見せ金とは明らかに区別がある。また、偽造された1万円と、本物の1万円札、明らかに違う。けれども、見た目で、ごまかされるために、この種の犯罪が起こる。


要するに人間の感覚なんていうものは、大体は、すべてを信頼して、即ち自分の見たままを信頼するように出来ているようだ。そしてそのことが、時と場合によれば、間違いを生むということに、思いをいたさないと、滑って転んでしまうことがおおい。

こういうことに、気がついた。
ひょっとすると、これは、先祖供養のために出かけた私に、先祖が生きる知恵として、授けてくれた、生きるための知恵、なのかもしれない。

馬鹿としか言いようがない。

2007年12月10日 | Weblog
台風が近づいて、
高波の危険があるから、海で遊ぶなと注意されているときに、決まって海に出 かけ、波に、飲まれて死者がでる。
彼らは死ぬように死ぬように、うかれている。 
消防 警察 マスコミ 家族の悲しみを気にしたことがあるのだろうか。 

酒を飲んでから泳ぐために
夏休みの山間リゾートで、夜、水に入るな、 湖や河野周辺には、酒を飲んで、泳ぐな、という立て札が立っている。

ところが酒によって水に飛び込んで、心臓麻痺を起こすように。死ぬように。自殺行為をする大のオトナがいる。


仲間が集まって、はしゃぎ回り、歯止めが利かない盛り上がりになると、1台の車に乗ってもうスピードで走る。電柱にぶっつかり、あるいは、酔っぱらい運転で事故死。いくら注意しても毎年、同じことを繰り返す。

それまで、苦労をして育ててきた親の気持ちを思うと、バカとどなってでやりたい。
こうした連中は、いま死ななくても良いのに、自ら死の闇へ突っ込んでいく。誰もが、忠告をするが、耳をかすような素振りは見えない。

今日もまた、テレビで、このような悲劇が、報道されている。
どうしようもないやりきれない気持ちになる。

一方通行のはずのテレビに向かって、ばかやろう。てめえみたいなやつは死んで当たり前だ。と大きな声で怒鳴る。
本当にやりきれない悔しさが、怒号となって、口から出るのだ。

人間には、いろんな考え方をする人がいるものだという。だが理屈では、彼らの無謀な、そして無益な死を認めることは絶対にできない。

この世に生まれて心底、自殺を願っての行動なのだろうかと、まじめに考えたりするが、そんなに深く考えたうえで、こんな行動をとっているとも思えない。 
やはり馬鹿なんだ。
馬鹿は、馬鹿としか言いようがない。もし、反対意見があるならば、
わけのわからない暴挙をどんな方法でもいいから、止めてから言いなさい。

中道

2007年12月10日 | Weblog
人は美しいものに憧れる。汚いものにも憧れる.

尊いものにも憧れる。卑しいものにも目が届く。

人が正反対の両極端に憧れるということは、両極端まで受け入れる許容範囲の動物。それが人間だと言うことだ。

ただし、人間らしく、安穏に暮らそうと思えば、一定のルールを守る必要がある。そのルールを与えるのが宗教である。

お釈迦様は中道をといた。

反論したくなる

2007年12月10日 | Weblog

1、韓国大統領がまた歴史問題を持ち出して、日本に厳しいことを言ってきた。

2、歴史問題は日本にとっては、反論のできないもので、いつも謝罪を要求されている。

3、日本国内における同和問題みたいなもので、
「すでに侵略して損害を与えた。お前が悪いから反省して謝って、過去の過ちの保  証をせよ」となる。

4.こういうことを教育の現場でもきっちり教えているそうな。彼らはそれを正しい歴史認識と言っているが。それはある面では反日教育であり宣伝である。背景になっている帝国主義時代の世界情勢がどこまで教えられているのだろうか。

5.日本側から見ると、
  1、スジ論ではもっともなことであり、だからこそ日本の首相が謝罪したので    はないか

  2,現代からいえば、確かに理不尽なことだが、それでは100年前の世界情    勢を見つめてみると果して、朝鮮半島は独立国家として存立が許されただ    ろうか。帝国主義的侵略植民地が世界の趨勢であり、もし日本が植民地化    していなかったら、朝鮮半島は中国がソ連の植民地になってはいなかった    か
  
  3、もし日本 中国、ロシアの三国のうちでもっとましな国に侵略されたとす    れば、それはどこか。侵略した事実を正当化はしないが、三国の家では日    本が一番ましなような気がする。それは韓国の国力充実を見ればわかる。

なぜならば、もし、韓国、南朝鮮が資本主義体制の中で、経済活動をしていなかったら、としたら、おそらく韓国は革命直後の中国程度の経済力しかないだろう。

決してましだとは言わないが、朝鮮人民はその三国のうちのどれかに侵略されるとすれば、どれを選んだであろうか。当時の世界情勢では朝鮮国の独立は果たして許されただろうか。

植民地問題は2国間の問題とは思われない。帝国主義は世界の趨勢であり、国家間の問題で有り、勢力のぶっつかりあいの問題だ。英仏が中国清やインドやベトナム、カンボジャを植民地にした事実をもあわせて考える事が大切だ。ただし私はどのような世界情勢であろうとも、他国を侵略し植民地化したことは正当化できないし、植民地化された国にとってはその責任を自覚して十分反省することが出発点だと思っている。

愛染さんじゃ 宝恵かご

2007年12月06日 | Weblog
大阪の夏の風物詩、愛染祭りは6月30日、7月1、2日の3日にわたって行われる。愛染さんは大阪の3大夏祭りの魁でもある。この日を境に浴衣を着始めるので浴衣祭りともいわれる。

元禄時代に花街芸者衆がカゴに乗って、いい旦那にご縁がありますようにと願を掛けたのが始まりとか、つまり色欲(愛欲)と金銭欲(貪欲)の両方の願いを成就してもらおうと、きそってお参りしたという。いつの世も変わらない人間の欲望を、あらわに出して願かけするところが関西向きで、面白い。かっこつけもいいけれど、そのものずばりは迫力があって説得力がある。

愛染さんじゃ、宝恵かご、 愛染さんじゃ、宝恵かご。

おはやしもにぎやかに、今里新地の芸者衆がのった駕篭を若衆が威勢良くかついで行く。谷町筋を練り歩いて、愛染さんのある四天王寺別院・勝 (まん)院・愛染堂に寺(宮)入するのであるが、特に宵宮は沿道に露店が出て、夜店の豆球に照らされて、娘さんの浴衣姿のなまめかしさは、何ともあでやかで、一種独特の雰囲気を醸し出している。夏の夜にふさわしいフアンタジーである。愛染祭りが、大阪の夏の風物詩になるのも納得が行く。

時が流れて、どんなに時代が変わろうとも、祭りに寄せる人々の思いは、うきうきしたもので、そのハレの気持ちが、また新しい活力を生むことにつながって行くのを考えるとき、いつまでもこの愛染さん(愛染明王・仏様)をかついで、祭りがますます盛大になることを願わずにはいられない。

愛染堂の入り口には赤門があり、愛染さんはその奥の赤御堂に鎮座まします。朱塗りも鮮やかなこの寺のご本尊・愛染明王は、大日如来を本地として衆生済度のために3つの目と6本の腕で身を現し、愛敬開運を授ける仏様である。序でながら、この勝まん院愛染堂は愛染さんを祭っている寺が集まって作った愛染さん巡拝ネットワークの出発点、第1番の札所でもある。

人気商売の芸能人は山田五十鈴を始め、芦屋雁ノ助、三田寛子など有名無名を問わず、また商売繁盛を願う商売人、出世を願うサラリーマン、さらには必勝合格を祈る受験生、などさまざまであるが、特に目を引くのは、縁結びを求める人たちの多いことである。愛染さんの面目躍如たるところある。たぶんご利益をもらう人が多いのだろう。そうでなければ、計算高い関西人のこと、愛染さんに無関心な人も多いと見るのは、私のひがみか。

そんなことに関係なく、ひょんなことから、私は愛染さんにご縁をいただいた。聞けば終戦直後の人出に比べて参詣人は減少傾向にあるという。この話を聞いて、おっちょこちょいの私は奮い立った。よーしやるぞ。それから3カ月ほど掛けて私は構想を練りあげ、祭りの仕掛け人兼プロデュサーをかって出た。
何よりも、一人でも多くの人々に来てもらう仕掛けを考えなければならないと思い、鳴り物とお色気を柱にして、イベント計画をねった。

調べてみると、愛染さんにまつわる歌は既に存在する。
「野崎参りは、屋形船で参ろう、どちら向いても菜の花盛り、、、、」 今中、大村コンビの作品に東海林太郎が直立不動のスタイルで歌った、往年の名曲、「野崎小唄」と、全く同じ調子、同じメンバーで[愛染まつり小唄]ができている。早速聞いてみたが、ちょっと古い。

そこで自分で愛染音頭、愛染サンバ、を新しく作りかえた。これに踊りを振り付けて、愛染音頭の方は熟年ギャルチームに浴衣姿で踊ってもらうことにし、愛染サンバは池田青年会議所が主催する池田サンバチームのピチピチギャルとOSKのプロダンサーによるものとの2チームを編成し、四天王寺から谷町筋を練り歩き、愛染堂まで行進することにした。

パレードが通る約2時間ほど交通量の激しい谷町筋の車線を1車線にして交通量を制限してもらうように警察の協力をお願いした。
次にお色気の演出である。桂の木にかずらがまとわりつく事から、縁結びの花として造花を作ることにした。これを、公募した愛染娘に、特設舞台で福笹ならぬ、カズラの花売りをさせ、また彼女たちに浴衣を着せて、造花のかずらの花を持たせ、宝恵かごに乗せた。かつぎ手は四天王寺国際仏教大学の学生に協力してもらうことにした。勿論従来からの色街の芸者衆宝恵駕篭も出してパレードの列に加わって貰った。

新聞は大阪の夏の風物詩として、祭りが近くなると書きたててくれる。従来と違って今年はマスコミにたいしても、積極的にPRさせてもらった。愛染祭りの垂れ幕を車の横に張って、新聞各社は勿論のこと、テレビ局も、大阪府庁にも愛染むすめが、かずらの造花を配って愛敬をふりまいた。

マスコミ報道のお陰で、パレードに参加したいとの申し込みも多数あり、700人の大部隊になった。 女性の祭りにふさわしく、宝恵かごを初めとして、愛染音頭の踊り子の熟年ギャルたち、サンバのヤンギャルたち、先頭のブラスバンドも女性が多く、制服がピシッときまっている。そろいの帽子からはみ出ている髪が宝塚スターを思い起こさせる。

そんな隊列に愛染音頭や、サンバを流すスピーカー付きの車を踊りチームの頭に配置して午後2時かっきりに四天王寺の中の門を出発した。初めてのことで事前に十分PRできていない面もあったが、パレードそのものはにぎやかに、華やかに繰り広げられた。ブラスバンドは元気よく力の限り吹きまくり、踊りのための音楽を鳴らすスピーカーは音量を最大にして谷町筋を練り歩いたから、ちょっとした車の渋滞が起こった。警察は渋滞が起こらないように、隊列を手早く通そうとするが、隊列の、血気盛んな若者は規制も何のその、出来る限り派手に宝恵かごのかつぎあげをする。かつぎ手の頭より高く宙にたかだかとかつぎ上げられた愛染娘はこわがってきゃっきゃ悲鳴を上げている。それが面白くかつぎ手は何回もかつぎ上げをする。

車のわき見運転も当たり前の話。警察の巧みな車さばきでなんの事故もなくパレードは無事終了した。露出度90パーセントのサンバチームの若さ発散度はうっとしい梅雨空を突き破って参加者全員の心のもやもやを吹き飛ばし、参加者総数700名の大部隊は疲れも忘れて今日1日を楽しんだ。

終わってみれば何のことはないのだが、私はこのイベントを行うについて、トイレの問題だけには音をあげた。700人の大部隊にあてる女性用トイレの事が計画からすっかり漏れていたのである。男便所は割に簡単に見つかったが、700人近くの女性用トイレの準備は半端なものじゃない。これには困った。四天王寺は勿論のこと、天王寺駅、アベチカなど頼めるところは皆頭を下げて回った。手足となって協力していただいた、世話役が走り回ってくれたお陰で一件のトラブルも事故もなく終わった。

本来なら事前に救急車出動のお願いもしておくべきだったのだろうが、なんせ初めてのことで、そこまで気が回らなかった。とまれなんのトラブルもなく700人の大パレードが無事終了した事はそれだけでも大役を果たせたとほっとした気持ちだった。

梅雨のころになると愛染音頭が頭の中で鳴り出す。そして梅雨があがるとあの暑い夏がくる。

ハアー 愛染さんは愛欲(愛)と貪欲(欲)

かなえてくださる仏様

愛敬和合の御本誓(おんちかい)

御手の弓矢は 知恵方便

ソレ ホーイット ホーイット ホイサッサ

愛染さんだ ホイ サッサー








格安チケット

2007年12月05日 | Weblog
1,

新幹線の新大阪と東京間は、通常価格だと、往復で2万6、7000円する。
ところが、時には考えられないような格安チケットが販売されている。
僕が支払ったのは二人で1泊のホテル代と二人の往復の新幹線のチケット代で、これが正規の運賃ホテル代の半額に近かった。
このことを知って、一口のってみようと思い、11月23日から25日にかけて、連休の初日の分を8月末に、申しこんだ。大丈夫かな。そんな気持ちを引きずってはいたが、新聞広告でこの目で見た話である。どこかのうわさ話ではない。それでも一抹の不安は残った。

3カ月も前に予約してOKが出たので安心していたら、10月も半ば過ぎを過ぎて、ホテルと帰りの切符は取れたが、出発の列車は予約が満杯で、変更して欲しいと連絡があった。
僕の予定では、23日にはどうしても、東京には決められた時間につく必要があったので慌てた。
朝6時8分に乗って、東京には9時台につく必要があったのだ。
怒った僕は、8月に予約をOKしたものが、なぜ取れないのかと声をあらげて怒った。
電話の相手は、「なんともなりませんから、出発時刻を変更してもらわないと」、と頑張る。埒があかないので、上の人に代わってくれと言ったら、上の人が出た。その人に
「いったんOKしておきながらの変更は絶対に、困る」と粘った。
「別料金を払って、予約した列車に乗って欲しい。予約の席が取りにくいので」という。
「何のために3カ月も前に申し込んだのか、どうして責任をとるんだ。」とかなりどなって一歩も譲らず、粘った。
最後の返事は、「もう一度頑張ってみます。」だけだった。
これには参った。無責任にも程がある。どうせ事務員の手抜かりが原因だろう。
すでに、訪問先には、時間まで連絡してあるし先方もその予定で動いている。今更天変地異でも起こらない限り、延着はできない。

それから3日ほどして、こちらから問い合わせたら、鋭意努力中とのこと。今度はこちらが、懇願調になった。
それから2日たって電話したら、手配は鋭意進めている。、確定はできないが、ほどなくで、手に入れられると思う。たぶん今夜にはよい返事ができると思う。とのこと
それから、「大丈夫、取れたので」、という返事がきた。
安堵のため息が出ると、同時にその労をねぎらった。

考えてみると先方の手違いで、声をからしたり、懇願したりすることはおかしい。責任は
申し込みを受け付けながら、手抜かりのあった会社側にすべてある。

しかし理屈はどうでもよかった。所期の目的を果たせば、事は予定通りに進むものだから。責任追及より、どうして目的を果たすのか。の方が大切だ。



帰りの乗車について、また戸惑った。たしかに切符には、東京、新大阪と記入されている。
その日は鎌倉観光したので、東京から乗らないで新横浜から乗ることにした。格安切符なので、表記以外のところ、すなわち新横浜から乗るについては不安があったので、何回も駅員に、訊いた。

東京駅に到着したときも切符を見せて、「これで新横浜から乗って良いか。指定の列車は新横浜に泊まるのか。」と聞いたら、停車するという。
「そこから乗車できるのかと聞くと」「できる」という。
そこで、その気になって、帰りの列車は新横浜から乗ることに、決めた。
そして鎌倉観光をした。

新横浜についたのは、発車予定の約2時間前だった。
これは、万が一新横浜で乗れない場合でも、東京に戻り、乗れるように、余裕を見ての行動だった。
そして新横浜の改札で、もう一度「このチケットで、この列車に乗れるかどうか」たずねた。OKだという。そこで改札機に投入したら、ちゃんと通ることができた。
やれやれ、待つのは長いけど。その間、鎌倉観光の日記でもつけると時間は矢のように過ぎ去って列車の到着時刻はすぐに来た。


電光表示板を見ると、表記の時刻の列車が表示されていない、切符には
19時36分発と書いてあるのに、その時刻の列車の表示がない。これは止まらないのでは、とひやっとした。
僕はさっそく、駅員にたずねようと思ってホームの端まで探した。やっと見つけた駅員に、切符を見せてこの列車はここに停車するかと確かめた。
「お客さん、この切符では、ここからは乗れません。始発の東京駅から乗ってもらわないと」という。僕は一瞬どきっとした。
「いや、東京駅でも聞いた。新横浜の改札口でもよく確かめて確認をとったから、このホームで、この列車を待っているんだ。」
僕は抗議調でいった。
「先ほど説明したでしょう。このキップにはちゃんと乗車は東京と書いてあるじゃないですか。この切符を買った段階で、お宅は我が社に東京から乗車することを承諾したはず。ここからの乗車はダメですよ。」という。

そういうこともあろうかと前もって東京駅で、さらに新横浜駅で、再度確認をとったのだ。
ことをここに至って乗れないとは理不尽な。
今度はこちらが爆発した。こういう手違いがあったら困るので、尋ねて、OKの返事のもとに行動しているのだ。僕としては予定とおぼしき列車に飛び乗るほかは無かった。

「お宅ら、なんというちぐはぐなことを言うんだ。二人がOKと言い一人がノート言う。いったい乗客はどちらのいうことを信じたよいのだ。俺はこの列車が着たら飛び乗るから、重ねて聞くが、この切符の番号の列車はこに停車するんだね。」
「停車はします。けど先ほど説明したとおりです。」と言いながら、駅員は歩きは出した。
僕は、「止まるのだったら、乗れればいいだけだから、お宅がなんと言おうが乗るから、」と独り言のように言って、相方が待っているところに戻ったら、彼女はニヤニヤしてこちらを見て笑っている。

僕は彼女に腹が立った。ひょいと表示板を見ると、列車番号が出ている。おかしい。19時36分、発と書いて、あるのに、19時53分と不当表示されているのは。

すぐには、合点が行かなかったが、冷静を取り戻すと思わず、笑いがこみ上げて吹き出した。
東京発の時刻と新横浜発と、勘違いしたのだ。東京発に15分くらい足した時刻でないと新横浜の発車時刻にはならない。なーんだ。そうだったのか。

僕サイドの完全なる錯覚である。彼女は僕が駅員に確かめようと、出かけてすぐ後にこのことに気がついたので、ニヤニヤしたわけだ。
ああ、一泡吹いた。僕は安心した。よくぞ、怒りぷんぷんの表情をして語気を強めてものを言わなかったことだ。
彼女のニヤニヤ顔を見た時、一瞬腹が立ったが、よく自分の間違いに気付いたことよ。恥ずかしい。

2回もトチッタ今回の旅だった。心の底ではこんなに安く旅ができるはずがないと、いつも一抹の不安を持っていたが、今回のどっきり事件は格安切符のせいではなかった。

一つは先方の手違いで、もう一つは、こちらの錯覚で起こったトラブルだった。
たまに格安切符を利用すると、格安だから少々のことは我慢をしなくては、と自分に言い聞かせている。
しかしながら、その二つ共が「乗車できない」となると、ムキにならざるを得ない。済んでしまったことは、お笑い草であるが、当面した瞬間は蒼くなったり赤くなったり。

自宅に帰ったとき、女房にも旅のみやげ話としてこの話は話せない。と言うのは今回の旅は彼女とのお忍びだったから。

ホリエモン的劇場型茶番劇

2007年12月05日 | Weblog
     その1
今までの経緯はこうである。
ライブドアが、フジサケイ系グループの日本放送の株を大量に、時間外取引で取得して買収攻勢をかけた。日本放送を企業買収し、さらにフジテレビを企業買収することを目指して、株の買い集めを図っている。

フジテレビは、攻勢をしかけられて、防戦に終始した印象を与えた。
防衛策の一環として出した、新株発行の法的な是非は、裁判所で、一審二審とも差し止めを決定された。フジの言い分は、否定されたのだ。
 これでライブドアに、フジの経営は大きく影響を受けると誰しも思った。しかしそのとき、孫グループの一員が出てきた。

 ソフトバンクインベストメントのK氏が突如として乗り出してきて、テレビ会見をしたのである。
その模様を見ていると、彼は一癖もふた癖もありそうな、個性的な男だと誰しも思ったことだろう。話していることから判断すると、ホリエモンとは違って、大分「大人」であり共感はできる。たとえば中国古典のを引用して、「仁」の心がなければ企業買収はうまくいかないから、やめた方がいいと言う。共感を覚えるセリフだ。
しかしそれは嘘偽りのない彼の経営哲学ではあろうが、はたしてどこまで信用できるご仁か。見極めはついていない。
資本の論理は、そういう哲学を許さないことだっていくらもある。
そのとき彼はきっと「仁」の使い分けをすることだろう。問題はそこにある。
情勢が時々刻々変化する経済界にあって、スローガンを掲げるのはよいが、果してそれが、必ず実行されるかどうか、を考えてみると眉につばを塗りたくなる。
仁の精神を経営哲学の根本に据える、というのは心の内に秘めて、口に出す前に実行、実践で示せばいいのであって、得々としゃべるのをきくと、やはりそれが真意だとしても、素直には受け取れないのは、やっかみや、ひが目であろうか。
 ましてや、野村證券を引っ張っていたT社長が世の指弾を受けて引退したので、自分も野村を退社したというのであれば、次元の低い話である。 ルールをして責任をとった男の、どこが尊敬されるところかよく分らない。おそらく価値観の共有という点で、あい通じる物があったのだろう。彼はこういうたぐいの男だと推定した。

話を元に戻すと ライブドアー社の社長だとは言うものの、とても大企業を率いていく器量を持った人間だとは思われない。こういう人間をトップに抱いたとき従業員はどういう気持ちで仕事をするであろうか。
 日本放送は従業員のほとんどが今回の買収に反対しているし、出演者は彼が乗り込んできた段階で出演拒否を表明している。

旗色が悪くなり、風向きが悪くなってきたら、途中から広報担当と称する女性を前面に出してきた。
これでいよいよ茶番の色合いが濃くなってきた。
この男、誇りも恥も知らないらしい。所詮タレント性を売り物にする腰軽男という感じが否めない。信念があるなら最後まで己が出てきて、すべてにおいて堂々と受けて立つのが、責任のある男のすることだ。
これが「詰め将棋でいうなら、穴熊だ」と相手に言った人間のすることか。報道陣からの穴熊を決め込んだのは、相手を穴熊だと言った本人ではないのか。

 報じられるところによると、この種の買収劇、すなわちインターネットと既存のテレビ、放送関連メデイアとの融合を目指した買収劇は、アメリカではインターネット関係のAOLと既存の放送関連メデイアのタイムワーナーの買収劇があったが、両者の従業員の人間関係がうまくいかず、ことごとく対立して、合併提携の買収劇が、失敗に終わり大損をしたという過去の事例があるらしい。
 企業合併における体質の違いは、事業運営上の障害となることを如実に示した。また日本ではソフトバンクのソンは、過去にTV朝日買収劇に失敗している。
インターネットと他の放送メデイアとの融合や業務提携は、それが将来のこの業界のあり方だとしても、現時点では、相当の山や谷を超えなければ、できないようである。そこには巧妙な作戦が要求されている。株を過半数買い占めたから、買収は成功したと言うほど簡単なものではない。 

話は代わるが、
 ここでちょっと気になることがある。
確かに表面的には、フジにとっては、救い主が現れたような気になったことだろう。いわゆるホワイトナイトの出現である。
これがクセモノで、場合によったら、ホワイトナイトにもなるだろうし、
ライブドアに代って、フジサンケイグループを業務提携という名のもとに、ソングループの中に取り込んでしまう恐れは十分にある。
この参入のタイミングは絶妙である。資本の論理で動くものが、表面的な正義感だけを振りかざし、いい格好をして漁夫の利を占める恐れは十分にある。要警戒である。
かれこれ2ヶ月間の動きを概述すれば、この辺が今までの動きである。

 K氏の話は、彼の言うこととは裏腹に、腹の底が見えすいているような気がする。衣の下に、甲が見えている。そんな感じを与える男である。
僕が思うに、この動きは、孫と十分話し合いがなされ、打ち合わせの上でのことである。それを彼はあうんの呼吸といった。以心伝心ともいった。それを連想させるにもかかわらず、彼は口では、関係のないようなことをいう。この辺から僕にとっては、不信感が生まれている。
経験を通して、大人は裏読みにたけている。額面通りに受け取ることは少ないのが、大人の社会である。 
 現実を多方面から、思いを巡らせ検討する大人の目は、彼の言動の裏表を見分ける力がある。
曰く、M&Aは、日本でいちばん数多く手がけ、自分が最も精通していると公言した。それにとどまらず、評論家は、何もわかっていないとも発言もした。これは黙っておくべき言葉である。こういうところはライブの大将と一脈通じるものがある。
人間中心主義の経営をしきりに主張するが、果たしてどうか。
と疑問符を付けるのは僕一人だろうか。巧言令色少なし仁だ。
こういうことであるから、喋る人間に、表面的にはともかくも、「お主
。ハートがあるなー」と冷やかしの半畳を入れたくなる。
でも、心の奥底は、資本の論理で動く人間に違いない。でないと現在の彼の立場はないはずである。というのは、彼もまた、今まで資本の論理で動いてきた人間だからである。
 野村証券出身らしいが、おそらく野村では、出番がなくて、異端児扱いされていたのではないであろうか。次期社長と言う、よいしょもあったらしいが、果たしてその器か。
そういう中で、孫との出会いであり、ソフトバンク、グループの一員に、なったというのが真相だろう。

ホリエモン的劇場型茶番劇  その2
        
 現今重要な経営ファクターとは何か。
基本的には、従業員の生活保障とか、働きがいのある職場の提供。そしてそれが、社会的に大きく貢献していく。もちろん、株主の配当も十分行う等々であるが、その中でもとりわけ大切なのは、人間である。決して資本の論理だけで経営ができるものではない。経営者従業員が力を合わせて一丸となって、経営目標に向かって邁進するところに業績の向上は望めるのである。

こういう経営上のファクターを検討してみると、
堀江氏は、資本の論理を最優先にして、自社も買収先の日本放送の従業員についても、どう考えているのか。なおざりにしているのではないか。そのような印象を受けた。今頃になって買収の相手先の従業員様と言ったり、取引様と「様付け」をしてみても、一旦土足で他人の家に上がってしまうと、相手から警戒され、信用されることはまずないだろう。言い方を変えれば、相手の横面を一発食らわせておいて、仲良くしよう、と握手を求めるようなものである。食らわされた人間が相手のことを良く思うだろうか。
 急に「様付け」で呼んだり、手のひらを返したようなことを言われると、大人の感覚では気持ちが悪いだけである。

 企業合併は、株数を多く持った方が勝ちというものではない。
合併会社は、そこに働く人々の意思疎通が図られてこそ、事業として、立ちゆくが、これがそう簡単なことではなく、至難の業なのである。
ましてや今回のように、占領軍が、進駐してくるような印象を与えては、絶対にマイナスである。
 彼は今、そのことに気がついたのか、あるいはアドバイスをもらったのが。日本放送の従業員には、とってつけたような言葉として「様」を使いだした。彼は言葉の上で、従業員を大切なパートナーとして、考えているようなふりをする。
「詰め将棋で穴熊をきめこんでいる」と相手に対して言った人間が、今更普通のように「様 」を つけるなんて、それだけでも反感がわいてくるという人間の心理や、気持ちがわからないのだろうか。もしそうだったら、それは未熟者という一言だ。
 
 表現を変えれば、土足で家へ上がったともいわれているし、また一発パンチを食らわせておいて、仲良くしましょうと握手の手を差し出す厚顔無恥は誰に通用するというのだろうか。
それは大人の従業員に対する最大の侮辱である。
そのことに気がついているのだろうか。気がついてないなら馬鹿と言われても仕方がない未熟者で、取るに足りない人物である。
未熟者が大人の世界に入ってきて、茶番劇を演じているだけの事である。

 法に触れない、時間外取引をしたことは、確かに違法とはいえないが、法に触れなければ、何でもありきの精神はいただけない。
この世は法律だけで、運営されているわけではない。義理人情に始まって踏襲された慣習、伝統、日本的風土、土壌など諸々の条件が複雑に絡み合ってなり立っている社会を、一挙には変えられない。
 一挙に替えようと思うならば、それは革命である。時間を掛けながら替えていく革新はあり得ても、現在の日本で革命が起こるか。あり得ない話である。結局未熟者の目立ちたがり茶番劇に終わるだろう。
そして、果たして、この茶番劇のご利益は何だろう。

近頃にない知能ゲームを展開して、ライブドアーとホリエモンという青年実業家の存在を世間に大きくアピールしただけで、バブル崩壊後の沈滞したムードに浸っている国民の耳目を集めて、はらはらどきどきの劇場型茶番をみて観客は楽しんだことぐらいだ。

観客席に一言

人皆それぞれの意見や見方があろうが、観客席にいる僕はホリエモンに対して厳しい見方をとっている。茶番を演じてみっともないとさえ思う。大人だったら黙って上手にやるべきだ。
 若いのだから、多少の失敗は許されるし、また法の不備をついたのだからと言うけれど、こういう形で是認されてしまい、適法だと言われると、すんなりとは受け入れがたいし、感心はしない。ましてや賛成はできない。
 
 世代間ギャップだと言われてはいるが、僕はそうは思わない。
肝心なことが経営者の世代によって、経営の基本原則が異なるとは思えない。沈滞ムードの現在の社会に一石投じたのは間違いないが、これを、企業買収のために使う手段とする前に、経済界や行政に警鐘をならしてやる方が、よほど自己ピーアールになるし、彼の評価も上がったことだろう。
 
 時間外取引は間違いなく違法ではないが、法の不備を突いて買収を仕掛けたという、不快感を与える結果を招いている。これが不信感の一端になっているのである。いわゆる大人の知恵が不足している。
その一言に尽きるようだ。

すべて物事には、功罪相半ばするという見方がある。そしてまた今回の事例でも、それは人様ざまな見方と意見があろう。ただし、その見方の正当性は常に現実に実行されての結果によって、検証されなければ、観客席の無責任発言として、葬られてしまうだけだ。
単に知的なお遊びに終わってしまう。時間と労力が空しい。

 彼は最初に金が万能という印象を与えたのがまずかった。彼は価値の創造なんていうが、日本国家の存立基盤は3次産業には
あり得ない。それは歴史が示すところであり、工業のものつくりこそが実業だ。日本ではこれ(加工工業)なくして存立も発展もあり得ない。嘘だと思ったら、日本人の頭脳と、欧米人のそれと比べてみるがいい。グローバル化などと、先進気分でいるが、これは完全に乗せられている姿。もしこれを開国になぞらえるなら、勝さんや西郷さんが出てこないと、今の日本では無理な話だ。今時日本にこんな人材が輩出しているか。答えは一目瞭然だ。
ウオールストリートで勝った日本人がいただろうか。長銀の例を見ればわかるように、ハゲタカと呼ばれる欧米の頭脳にはどうしても勝てないのが現状だ。こういう面では日本は、発展途上国だ。
 国富はものつくりで勝負。これは世界に冠たる日本の実情であり
誇りである。また国家存立の基盤でもある。こういう次元から眺めてみると、(話を戻すと)この争いは、欧米では笑いぐさにすぎない。
上っ面なマスコミに振り回されることなく、日本本来のあり方を再検討して、再認識してみたらどうだろう。ハゲタカに食い荒らされないようにするにはどうしたらよいか。
与党が会社法を延期したのは当然だし、こんなお粗末なリーダーが
やっと気がついて、あわてている姿は、欧米人にはどう映っているか。日本人はこれをおもしろ、おかしい勝負と見て、おもしろがっているが、欧米人は果たして、これを勝負としてみているだろうか。彼らは日本人とその政治経済の強さ弱さを改めてチエックしたことだろう。グローバル・スタンダードといっても、まず国益最優先。歴史も発展過程も異なる先進国(というのも問題があるが)の仲間入りはまだ早い。そのための条件整備を始めることから始めないと、一足飛びにやるとけがをするのがオチだと思うが。

こんな輩の集団だったのか

2007年12月05日 | Weblog
IT時時代の寵児ともてはやされ、自民党に推されて国会議員に立候補したという虚業の青年実業家がいた。これは端から見ている僕には、たとえてみると、渋滞の高速道路で、路肩を走る車のような物。皆が順番待ちして居るときに、渋滞に巻き込まれても順番良く走ろうとする常識人の運転をあざ笑うかのように、路肩を走り、最後には事故を起こすという感じだった。

Hという若造が始めた資本金600万円の会社が10年後には
8000億円の値打ちのある会社になるという、夢のような話。
法律違反の虚業の実態が暴かれて、関係者の中から自殺するものが現れた。
影響 株価の乱高。東証の処理能力弱さを露呈。IT業界のイメージが悪くなった。中身がわからないから虚業を怪しむ想いから、疑心暗鬼の目でこの業界を見る事になる

識者の判断はこれをほめる者、うさんくさいと見る者両方だが、時の勢いは彼を認める方に傾いた。日経連に加盟する迄になったと言うことは、この辺の事情を物語っているようだ。
今まで放置しておいた理由
IT産業と言われても、中身がわかる人と、わからない人が居て、
わからない人にとっては、これが大半、株価の値上がり、値下がりだけに注目せざるをえなかった

この業態は年配者の経営陣には理解できていない現状がある。結果は被害者続出である。株を買った素人、フジテレビ、東京証券取引所、関係を持った企業など。 

創造

2007年12月05日 | Weblog
ニュートンが発見しなくても、万有引力は、存在した。
人間が創造するということは、未知のベールに覆われた存在するものを発見することだ。
この宇宙に存在しないものをどうして創造しえよう。神の御手によって作りだしえないものをどうして人間が作りだしえよう。
創造主、それは神である。

世界的な物理学者である西沢教授は同じことをいう。それは謙虚か、それとも実感か。おそらく実感なんだろう。似たような認識は運慶の彫刻の話にも出てくるし。神戸再山
にある大龍寺のお不動さんを彫った仏師もおなじ事を言う。大きな木彫りの不動明王像を彫るときに、不動明王はすでに木の中に鎮座する姿が見えるという。

レコード大賞の海外放送

2007年12月05日 | Weblog
昨日NHKの紅白歌合戦の出場メンバー発表があった。
まもなくレコード大賞についても何らかの情報がもたらされるだろう。ところでもう20年前からレコード大賞は海外放送された。
ホンコン、シンガポール、サンフランシスコなど。

これは日本人の心情のみを対象にしていた歌謡曲は海外人たちをも対象に含めて曲つくりをしなくてならないことを求めているのだろう。

民族や地理的環境を越えて、人々に訴える良質の作品を作る必要が出てきた。つまり世界的に耐えうる作品つくりを考えなくてはならない時代になってきた。

演歌しかも日本だけにしか通じないようなド演歌だけではどうにもならない時代がやってきた。
もし演歌で勝負というなら美しい叙情演歌ということになるかもしれない。
ロックポップスが46曲。、演歌が17曲しか対象曲にならなかったのも、あながち
音楽の質の低下だけではなく、世界の潮流なのかも知れない。

初釜

2007年12月04日 | Weblog
法隆寺の隣にある中宮寺から、墨の跡もはっきりとした巻紙で、新春の初釜のお誘いがきた。
茶の湯など、興味はないが、考えているところはある。

難しい作法やたしなみなど、一切知らないが、要は、茶の湯を通して、人の心や、人生の何かを感得できれば、それで私における茶道は完成セリと思っている。

限りなく美しい黄色の混ざった、緑色の茶が、高級と思われる焼き物の器に、底からちょっと上まで入っているのが、和風姿の女性によって、うやうやしく? 運ばれて、客の前に出される。

それを一口で、ぐい飲みするのか、何回かに分けて味わいながら飲むのか、。渇きをいやす人ならいざ知らず、普通は大抵は何回かに分けて、舌の上に、茶の香りを漂わせてながらいただくだろう。

話はここから人生につながっていく。
人生を一服のお茶に、たとえると、一口で、ぐい飲みしては、茶の味が分からないのと同じように、何も考えないで、生きることは、お茶をぐい飲みするのと、同じことだ。 茶道は奥が深い。人生もまた奥が深い。