1月の中旬から下旬にかけては、1年中でも、最も寒い時期である。
僕の両親は、揃いも揃って、1月に、二人ともなくなった。当然、法事は、
1月に行うことになる。
7時50分の飛行機は伊丹空港から羽田空港へ向かう。そのために、間に合うように、家を5時半に出た。
飛行機は、定刻7時50分に、伊丹空港を離陸して、羽田空港へ向かった。滑走路を飛び立つと、5分余りで、茨木市や枚方市が見えた。
月曜日から、金曜日まではあったかい日が続いて、ずっと晴れの日が続いた。なのに、法事を行う土日は、珍しく、雨雪になった。
飛行機は、厚い雲中を突入した。雲をつきぬけると、あたりは、まばゆいばかりの銀世界である。飛行機の窓からのぞいているというよりは、雪原をスキーで走っているような感じがした。
銀世界は、朝日に輝いて、非常に美しい。しかし、地上は、雪混じりのみぞれが降っている。 雲をつき抜けて、さらに上空に達すると、まばゆいばかりの太陽が輝いていた。雲があるために、視界がさえぎられ、さらにそのために、心に映る世界と、今見ている太陽が、永遠不滅の輝きのように輝いている。
その姿を見くらべると、いかに目の前のことに、心が奪われるか。心がゴマかされるか。ということがよくわかる。
朝日が差すと、白い雲にも凹凸があり、白く光る部分と、影の部分つまり、灰色とか青い青灰色に見える部分がある。
35分たったら、飛行機は、高度を下げたのだろう。また、雲の中に突入した。相変わらず、厚い雲のために光が届かず、日中だと言うのに、薄暗く、感じられた。
懇意にしてもらってる友人が、面白い話をしだした。
現金をむき出しにして、100万円の札束をズボンの後ポケットに、入れて、
これにみよがしに、クラブに入っていくと、ホステスの目が、一斉に、自分に注がれる。彼女たちは、たぶん彼氏なる鴨男が、やってきたと、思うのだろう。しかし、男のほうでは、これは、女の関心を引くための見せかけの札束である。
注目を引きつけるための仕掛けである。女は、きっとこの金が、バラ巻かれて、その一部が、自分の懐に入ると、勘違いする。ところが、男の計算では、これは見せるための金であって、店で使う金ではないので、ホステスの思惑は全く空振りに終わる。
40分の空の旅は、今はやりの偽札の話で持ちきりになった。
初詣の混雑にまぎれて、偽札を使えば、捕まる可能性が少ないと計算した輩がいた。
近頃は、コンピューターと、プリンターを使えば、素人が、簡単に、1万円札を偽造することができる。機械が精密であればあるほど、出来上がる作品は、本物の1万円札によく似ている。それを三つか四つかに折り込んで、混雑にまぎれて、初詣の神社のまえに立ち並ぶ露店で使えば、おそらく発見はされまいという魂胆でこの犯罪を行ったんだろう。
神社およびその付近で、数多く、この偽札が使われた。もちろん、警察や国民は、偽札について、神経質になった。そして、犯人の何人かは、逮捕された。おそらく捕まってみれば、この偽札作りが、割に合わないことを身を以て知ることになるだろう。
目先のことに目が絡んで、行った偽造事件のために、これから刑務所で入らなければならない。見せかけの偽造1万円札で、本物と、勘違いさせようとしたところに無理がある。つまり目先でごまかそうとしたが、それが、通用しなかったわけだ。
そこで僕は思った
雲の下は、薄暗いみぞれ交じりの雨の日であるけれども、雲をつき抜けさえすれば、全く違う。朝日輝く美しい世界が広がっている。そして、僕の眼は明らかに、それに、順応して、雲を雪原と勘違いして間違ってしまう。
先ほどのクラブの話もそうだが、これは店で使うカネと、いう風に想い、勝手に、目の前の札束で(これが彼女たちのチップとしてばらまかれるだろうと)ゴマかされているのだ。
極め付きが、偽造された1万円の偽札である。普段我々は、1万人を使うときに、それが本物か偽物かというチェックをせずに信用して使っている。
その信用を悪用して、偽札でも、本物の1万円札に間違ってしまうだろう。と解釈する所に、今回の犯罪が起こったわけである。
要するに人間は、目の前に起こること、見えることは、それが本物だと信じてしまう癖がある。
心を奪われて、それが真実だと思ってしまうから、そしてまたそれが、本物であるのかないのか、自分で思ったとおりのことなのかということについてのチェックは、普通はしないものである。
ところが客観的事実として、
分厚い雲の層を突き抜けると、サンサンと朝日は輝やくし,店で使う金と見せ金とは明らかに区別がある。また、偽造された1万円と、本物の1万円札、明らかに違う。けれども、見た目で、ごまかされるために、この種の犯罪が起こる。
要するに人間の感覚なんていうものは、大体は、すべてを信頼して、即ち自分の見たままを信頼するように出来ているようだ。そしてそのことが、時と場合によれば、間違いを生むということに、思いをいたさないと、滑って転んでしまうことがおおい。
こういうことに、気がついた。
ひょっとすると、これは、先祖供養のために出かけた私に、先祖が生きる知恵として、授けてくれた、生きるための知恵、なのかもしれない。
僕の両親は、揃いも揃って、1月に、二人ともなくなった。当然、法事は、
1月に行うことになる。
7時50分の飛行機は伊丹空港から羽田空港へ向かう。そのために、間に合うように、家を5時半に出た。
飛行機は、定刻7時50分に、伊丹空港を離陸して、羽田空港へ向かった。滑走路を飛び立つと、5分余りで、茨木市や枚方市が見えた。
月曜日から、金曜日まではあったかい日が続いて、ずっと晴れの日が続いた。なのに、法事を行う土日は、珍しく、雨雪になった。
飛行機は、厚い雲中を突入した。雲をつきぬけると、あたりは、まばゆいばかりの銀世界である。飛行機の窓からのぞいているというよりは、雪原をスキーで走っているような感じがした。
銀世界は、朝日に輝いて、非常に美しい。しかし、地上は、雪混じりのみぞれが降っている。 雲をつき抜けて、さらに上空に達すると、まばゆいばかりの太陽が輝いていた。雲があるために、視界がさえぎられ、さらにそのために、心に映る世界と、今見ている太陽が、永遠不滅の輝きのように輝いている。
その姿を見くらべると、いかに目の前のことに、心が奪われるか。心がゴマかされるか。ということがよくわかる。
朝日が差すと、白い雲にも凹凸があり、白く光る部分と、影の部分つまり、灰色とか青い青灰色に見える部分がある。
35分たったら、飛行機は、高度を下げたのだろう。また、雲の中に突入した。相変わらず、厚い雲のために光が届かず、日中だと言うのに、薄暗く、感じられた。
懇意にしてもらってる友人が、面白い話をしだした。
現金をむき出しにして、100万円の札束をズボンの後ポケットに、入れて、
これにみよがしに、クラブに入っていくと、ホステスの目が、一斉に、自分に注がれる。彼女たちは、たぶん彼氏なる鴨男が、やってきたと、思うのだろう。しかし、男のほうでは、これは、女の関心を引くための見せかけの札束である。
注目を引きつけるための仕掛けである。女は、きっとこの金が、バラ巻かれて、その一部が、自分の懐に入ると、勘違いする。ところが、男の計算では、これは見せるための金であって、店で使う金ではないので、ホステスの思惑は全く空振りに終わる。
40分の空の旅は、今はやりの偽札の話で持ちきりになった。
初詣の混雑にまぎれて、偽札を使えば、捕まる可能性が少ないと計算した輩がいた。
近頃は、コンピューターと、プリンターを使えば、素人が、簡単に、1万円札を偽造することができる。機械が精密であればあるほど、出来上がる作品は、本物の1万円札によく似ている。それを三つか四つかに折り込んで、混雑にまぎれて、初詣の神社のまえに立ち並ぶ露店で使えば、おそらく発見はされまいという魂胆でこの犯罪を行ったんだろう。
神社およびその付近で、数多く、この偽札が使われた。もちろん、警察や国民は、偽札について、神経質になった。そして、犯人の何人かは、逮捕された。おそらく捕まってみれば、この偽札作りが、割に合わないことを身を以て知ることになるだろう。
目先のことに目が絡んで、行った偽造事件のために、これから刑務所で入らなければならない。見せかけの偽造1万円札で、本物と、勘違いさせようとしたところに無理がある。つまり目先でごまかそうとしたが、それが、通用しなかったわけだ。
そこで僕は思った
雲の下は、薄暗いみぞれ交じりの雨の日であるけれども、雲をつき抜けさえすれば、全く違う。朝日輝く美しい世界が広がっている。そして、僕の眼は明らかに、それに、順応して、雲を雪原と勘違いして間違ってしまう。
先ほどのクラブの話もそうだが、これは店で使うカネと、いう風に想い、勝手に、目の前の札束で(これが彼女たちのチップとしてばらまかれるだろうと)ゴマかされているのだ。
極め付きが、偽造された1万円の偽札である。普段我々は、1万人を使うときに、それが本物か偽物かというチェックをせずに信用して使っている。
その信用を悪用して、偽札でも、本物の1万円札に間違ってしまうだろう。と解釈する所に、今回の犯罪が起こったわけである。
要するに人間は、目の前に起こること、見えることは、それが本物だと信じてしまう癖がある。
心を奪われて、それが真実だと思ってしまうから、そしてまたそれが、本物であるのかないのか、自分で思ったとおりのことなのかということについてのチェックは、普通はしないものである。
ところが客観的事実として、
分厚い雲の層を突き抜けると、サンサンと朝日は輝やくし,店で使う金と見せ金とは明らかに区別がある。また、偽造された1万円と、本物の1万円札、明らかに違う。けれども、見た目で、ごまかされるために、この種の犯罪が起こる。
要するに人間の感覚なんていうものは、大体は、すべてを信頼して、即ち自分の見たままを信頼するように出来ているようだ。そしてそのことが、時と場合によれば、間違いを生むということに、思いをいたさないと、滑って転んでしまうことがおおい。
こういうことに、気がついた。
ひょっとすると、これは、先祖供養のために出かけた私に、先祖が生きる知恵として、授けてくれた、生きるための知恵、なのかもしれない。