日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

年賀状

2007年12月17日 | Weblog
わずか200枚にも満たない年賀状の中で、今年はなんと10通余りが、「喪中につき年始のごあいさつを差し控えます」という内容だった。ほんのささやかな市民生活を営んでいる私にとっては驚くべき枚数だ。「星霜は移り、人はこの世を去るのだなぁ」。とちょっぴり寂しくなった。

元日を迎え、なによりも楽しみなのは、年賀状である。
1日1回しか配達されない年賀状が待ち遠しくて、何回となく、郵便受けをのぞく。
配達された年賀状を手にすると、年賀状をくださった方々の体温の温もりが伝わってくるみたいだ。私はこの1年、親しい関係にあった方々に努めて、年賀状を出すことにしている。
年末の押し迫った20日過ぎ、年末の慌ただしさに、落ち着きを失いながら、年賀のあいさつのほかに、近況など一行を書き添えるのだが、相手のことを思い返しながら、付け加えるこの一行には、心温まる思いがする。
あけて1日、私の出した年賀状は私に変わって、友人、知人、先輩、恩師に挨拶をしてくれる。
さて…どうだろう。
 先さまは、どんな思いで私の年賀状をごらんになって下さっているのだろうか。元日に手元に届くというのはおそらく、去年の20日前後に出して下さった年賀状に違いない。こちらが出すから返事を出してくださるのとはわけが違う。先方様は去年のうちに、私に下さっているのである。つまり、これらの都合に関係なく、挨拶をしてくださっているわけだから、年賀状をいただいたわ、こちらは出してないわ、では相済まない気持ちがして、何となく気まずい思いがする。心の中が見透かされたような気がするのは、思い過ごしというものであろうか。年末に年賀状に宛名をかかなかったということは、なんだかんだ言っても、はっきり言えば、先方の事情に関係なく、今の私には、人間的には疎遠な関係の人たちである。常日頃から心を通して、お世話になったと思っている人には、自然に筆が進むから、こちらから宛名を書かなかった人は、それだけのつながりしかなかったという人である。だがしかし、この論法ですべてが割り切れるかというと、そうもいかない。例外的なものはいくらでもある。
 目下想いを寄せ合っている恋人同士ならば、ハガキのスペースは恨めしくなるほど小さく感じ、同じ出すなら封書ということになりはしないだろうか。あるいは、秘密の恋を家族に知られたくないために年賀状出すのはわざと差し控えるなどということはありはしないだろうか。
ともあれ、去年まで続いた人間関係を今年の始まりに当たる元日に心の中で再び温めて、今年1年、知らない人、またはよく知ってる人の間を縫いながらながらさらに新しい人間模様に染まっていくというのが一般的。庶民の生活ではなかろうか。1枚10円だったはがきも、40円になり、さらに50円になった。250枚出せば1万円は吹っ飛ぶ。年賀はがきともいえる御時世だが、私は心して、年賀状の挨拶だけは続けたい。選挙目当てに、送りつけられる政党や政治家から送られてくる年賀状とはわけが違うのだから。