日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

未だに忘れないこと8-38

2007年12月11日 | Weblog
よーし、見ておれ、必ずD大学以上の一流大学へ行ってやるから。そして見返してやるから」
私はこの無念な気持ちを信念にまで高めた。
しばらくして、私は、この小さな会社の下請け会社の社員をやめて、田舎へ帰り体を壊しながらも、受験勉強を続けた。この無念さと、憤りに支えられて、私は念願どおり、大学に合格し卒業した。

今考えてみれば、この馬鹿みたいな意地も憤りも文字どおりうまく使えばエネルギーを生み出す原動力となりうるものだ
その意味からすると、私はいまだにけしからんと思い続けているあの支店長に感謝しなければならないのかもしれない。
そしてもしや彼がこういうことを予期して逆説的に私を励ましてくれていたのなら、私は心をこめてお礼を言わなくてはならないだが、明らかにそうではない
彼は自社の新入エリート社員と下請けのこの社員を見て明確に差別しただけのことである。このような差別的発言は、私は今も許せないと思っている。もっと年齢を重ねて世の中がすべて灰いろに見える頃になると、この憤りは輝きを失うだろう。しかしそのときまで感情の赴くままに心の傷として時にはうずくだろう。
そして一方では、早くこのようなマイナス感情を消してしまいたいと願っている。この先こういうものにこだわっている限り、私はいわゆる小ものの世界に自分を閉じこめておくことになるから。要するに、今の私はこの支店長とドングリの背比べをしているのである。言葉を変えれば、同類なのかもしれない。
人間は人間そのもの。その人の人となりによって判断すべきで、大卒高卒は人を判断するに、問題にすべきではないという信念は今も少しも変わらない。会社という組織に入れば入れば区分けすることによって会社の組織構成を成立させてはいるのだろうが。それはやむを得ないものとしても、たかが学歴くらいで人間が判断されてたまるものか。学歴だけで判断できるほど人間は単純には出来てはいない。



吉兆さん

2007年12月11日 | Weblog
先日吉兆さんにおよばれでいった。昼から、フルコースである。出てくる料理はどれもこれも、超一流の味付けと、いろいろな食材を、腕を磨いた腕自慢の料理職人が料理した盛り合わせばかりで、季節の旬のものも量も、考えられている。さすが日本で1,2をあらそう料亭である。味付けと、素材の新鮮さと、磨かれた職人芸の料理や盛りつけを楽しみながら、僕なんか一生涯で何回こられるのかなと思いながら舌鼓をうった。

さかんに箸を動かせながら、おいしいごちそうとは一体どんなものだろうかと考えてみた。
フルコースだから吸い物をはじめとして、煮物、揚げ物、酢の物、香のもの、デザートでしめたけど、満腹を通り越して、食べすぎで体がしんどくなってきた。
そこで考えた。

一番おいしいごちそうとは、
1,自分の食べたいものを、
2,そのときの体調に合わせて、食べたいだけ、食べることである。

自分の食べたいものは、その日の体調によってかわる。例えばからだが疲れていると、すしのような酢の気のようなものがほしいし、甘いものも食べたい。日によってはウナギの蒲焼きのようなあぶらっこいものが食べたくなるし、またある日には体調に合わせて、刺身のようにあっさりしたものがほしい。

食べたい量を決めるのはそのときの体調による。たくさん食べたい時もあれば、あまりほしくないときもある。その日の食欲をまあ満足させてくれるだけ食べれば最高だ。
食べ過ぎてしんどくなるよりは、食べたりない方がまだいい。
ここまで考えた時、この世の中でものの値打ちというものは、自分が決めるものだな
と思った。吉兆さんだからおいしいという前に、そのおいしさを決めるのは自分であること、つまりものの価値を決めることに関しては、人は宇宙の中心なんだということだ。

えべっさん

2007年12月11日 | Weblog
1月10日はえべっさんの縁日である。通天閣に近い、今宮えびすにあるえべっさんは、商売の神さんとして、関西人の尊崇を集めて、毎年1月10日は大変にぎわう。
今年などは9日の宵えびすに残り福の11日を加えて、都合3日で
100万人を突破したという。

 物心ついて初めて、今年は本えびすの10日に参拝した。大きな傘の下に作られた、特大の賽銭箱は世の景気・不景気を反映するのだろうか。硬貨にまじって、漱石さんが泳いでいる。数こそ少ないが、福沢さんもチラッチラッと顔を見せている。

 締めて幾らか。下司の勘定が頭を横切る。
他人の銭勘定をしても、どうにもならんと思いなおして、今日お参りにきた要件を思い浮べた。

「商売繁盛じゃ、笹持って来い」
庶民の素朴な願いをなんとウマク言い表したセリフだろう。
大阪人は銭金に対してギラギラした感覚を持っているから、商売繁盛というセリフには説得力がある。
ましてや、えびすさんはえびで鯛を釣っている。
鯛を釣りたい人がえびを賽銭箱の中に投げこむのは、そろばん勘定があっていて、それは当然である。えびもつけないで、鯛を釣るような真似は大阪人はしない。何とも筋の通った話である。
大阪人のバランス感覚は健全である。

私も人々がやっているように、鈍い色を放つ小さいえびを投げ込んだ。そして両手を合わせて、それに見合う鯛を頼んだが、拝んでいる最中に、はっと気がついた。
もう少し大きいエビ投げ込んだら、それに見合う大きい鯛を頼んでも良いのではないか。

そこで、前回のはチャラにして、今度は白い色の海老を賽銭の池に放り込んで、一礼二拍手し、心の中で
「ほんまにたのんまっせ」と祈った、というよりは、えべっさんに下駄を預けた。
それでも、心残りがあったが、とりあえず、出口のほうへ向かって流れる人波に乗った。

 本殿裏に来ると、黒山の人だかりがある。何だろうとのぞいてみると、えべっさんの背中に当たる部分に、もう一つの神さんが鎮まっておられる。
五弊のついたしめ縄の張ってある神殿の前には、そこそこの賽銭箱があり、正面ほどではないが、投げこまれるお賽銭の音は鳴り止むことがない。
珍しいこともあるものだ。本殿の同じ屋根の下に、背後ではあるが、もう一つの神さんがまつって、あるなんて。

 私は小首を傾げながら、人並みに賽銭を投げ込んでから、心のなかで願い事を唱えた。
「どなたが御鎮まりますのか、存じませんが、御神様00市に住みますxxと申す男、50歳でございます。只今よりご挨拶の般若心経を1巻唱え奉ります。

続いて唱え奉る般若心経の功徳をもって心願成就をなさしめたまえ。般若波羅密多心経、むにゃむにゃむな、、、」

ひょいとお隣りを見て、熱心な祈りを捧げ終わった、年配のご婦人に、ここにまつられている神様について尋ねた。
「それはアンさん、なんでございますよ。正面から拝んだ後で、後ろに回り込んでもう一度、背中の方から拝んで駄目押ししますねん。せやさかいに、えべっさんも願い事をよう聞いてくれはりますねんやわ。それに、ほら、そこに大きな鏡みたいな鉄板が二つぶら下がってますやろ。それをな、叩いてだめ押しをしますねんや。
がーんがーん。こないしといたら、えべっさんも忘れはらしませんやろ。アンさんもしときなはったら。」
「おおきに。ほんなら私もしときまっさ。」
私は手のひらで、パターンパターンと鉄製の鏡のお化けみたいなのを叩いてだめ押しをしておいた。

今年、金回りがよくなったら、私は正にえびで鯛を釣ったことになる。えべっさんがどんな大きな鯛をくれはるか。今年は楽しみである。
 天気の良い冬の日差しの中には、もう春の息吹が感じられる。福娘のにこやかな顔の中にも、春が踊っている。








昭和1桁悲哀節

2007年12月11日 | Weblog
1,花も実もある青春を  軍隊にとられ殺し合い。

 殺し殺されるのもイヤだけど、お国のためと強いられて、運良く、助かって帰国

したら、家も肉親も焼きはらわれて、瓦礫の山に呆然と立ち尽くす。

2,食うや食わずの日を過ごし、闇市で、カストリ飲んで、我が身を慰めれば、

朝鮮動乱特需景気で、祖国復興は軌道に乗り、 続く高度経済成長では、産業戦士

とおだてられ、馬車馬のごとく働きバチ。

オイルショックの低成長では、情け容赦なく、窓際族。家では住宅ローンの重圧に加えて、核家族。子供は親の老後の世話をしないという。


3,男女同権 民主主義 自由平等の名の下に、女房からは粗大ごみ扱いをされ

る。広い天下に、わずか5尺の身の置き所なし。

迫り来る人生の夕暮れ 我が過しかたをながむれば、怒りのみぞこみ上げて、悲哀の嘆き声もなし。

4,鳥なら、とんで逃げる手段あるが、鳥ならぬ身飛ぶすべもなし。たとえ飛べど

も行くところなし。

これは、我ら世代の宿命か。 人の一生とは、こんなものか。

空に居ます神や仏や先祖たち、我らの嘆きを聞きたまえ。物言いはぬ我らが心情を

お察しあれ。

人間不信になるのも、神仏に手を合わせないのも、すべて失われた青春の後遺症

未完成交響楽

2007年12月11日 | Weblog
「わが恋が、終わることのないがごとく、この曲が終わることなし」

1X2=2 2X2=4 から黒板に、2/4が生まれ、質屋の娘が投げてよこしたゲーテの詩「野バラ」が算数の授業の真っ最中に、黒板の上で作曲されていく。
作曲は、作曲家のハートによってなされるもので、楽器によってなされるものではないことの証明である。
、ピアノは、音の確認のために補助的に使われるものであって、ピアノによって作曲されたというのは、本末転倒の話である。

私にも、教壇に立って、授業をしている真っ最中にメロデイーが湧いてきて、あわてて胸のポケットに忍ばせてある5線紙に書きとめた経験がある。

神は、洋の東西を問わず、特定の人に、時間空間を超越して、メロディーをお与えになる。
そこで私は神にお願いしたい。シューベルトに与えたもうた美しいメロディーを私にも与えたまえ。と、