路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

頂部より黄葉落とし尖りたる

2011年11月06日 | Weblog

 昼過ぎから曇ってきて夕刻には雨になる。
 電話が不通になってその旨携帯から電話してるときに、携帯番号教えろといわれワカンナイからいじっている間に切れてしまう。ケイタイしながらその番号調べるとかどうやるのだろう。

                

 「季刊柳田国男研究」創刊号の巻頭には、柳田学の形成と主題、と題しての座談会が載っている。『人と思想 柳田国男』(1972 三一書房)の巻頭に載ってるのと同じかと思っていたけれど、違うようだ。どこかの本に再録されているのだろうか。

                

 「季刊柳田国男研究」は調べたら8号まで出ているらしい。編集委員は、谷川健一、伊藤幹冶、後藤総一郎、宮田登。巻頭の座談会ではそれぞれの肩書きが、谷川は評論家、伊藤は國学院大助教授、後藤が東京教育大講師、宮田が東京教育大助手、となっている。(座談会出席者は他に橋川文三、色川大吉、川村二郎)

 創刊号には編集委員4人の連名で、問いとしての柳田学、と題する発刊のことばが掲げられている。
 その冒頭。
 「柳田国男は近代日本が産んだ最大の普遍的精神である。おそらく七〇年代の課題の一つは柳田をどのようにして越えるか、ということである。」

 出版元の白鯨社というのは検索してみるとクラシック音楽関係の雑誌を発行している同名の出版社が今もあるが、それと関係があるのかはよくわからない。2号に挨拶文が挟み込んであって、そこには社名の前に、小さな出版社、と表記してある。
 創刊号の編集後記を後藤総一郎が書いていて、彼が谷川健一の示唆を受け、伊藤と宮田を誘い、友人の白鯨社主に頼んで創刊までこぎつけた旨のことが書いてある。どうやら後藤が編集長もしくは事務方といった立場だったようにも思われる。

 その編集後記のなかの一文。
 「ここ十年近く、柳田国男と〈恋〉をし、その呪縛からいまだ解放され得ないままにいるわたしにとって、・・・」

                

 まだ30代の後藤総一郎が、すごく、若い。