路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

ひととあわねばひとさわがしき六月尽

2013年06月30日 | Weblog


 三十数年ぶりに上木敏郎先生の書籍小包開けてみた、という続き。
 入っていたのは、「土田杏村とその時代」の十二・十三合併号と、抜刷論文4冊。1970年から81年にかけてのもので、「精神的中国大使土田杏村」「土田杏村と山村暮鳥 -往復書簡を中心にー」「土田杏村伝記資料蒐集の十四年」「土田杏村と吉野作造 -吉野書簡を中心にー」

 「土田杏村伝記資料蒐集の十四年」(1979 成蹊論叢)によれば、上木先生が杏村に興味をいだいたのは少年期。(先生は大正11年の生まれ)杏村没後まだ10年もたたずに杏村がすっかり忘れ去られていることに衝撃を受け、杏村の本格的評伝を志す。けれども、兵役にとられ思うに任せず、戦後、彼を黙殺しあるいは誤解し続ける学界やジャーナリズムに激しく不満をかかえながら、実際に評伝の資料収集にとりかかったのは昭和40年すぎ、自身四十代半ばをすぎてからであった。


                     


 まず佐渡の新穂村の杏村生家を訪ね、関係資料の探索からはじめ、以後杏村生前に関わりが少しでもあったと思われる人物等に片端から手紙を出し、やがてそのうちの何人かと文通をかわすようになる。最初はすべて手書きで書いていたが、それではとても間に合わなくなり、ガリ版刷りで「故土田杏村伝記資料蒐集についてのお願い」をつくって発送するが、そもそも住所がわからない人物が多く、まずはそこからの探索であったという。
 かくして、乏しい糸を辿るようにして集めた資料を、これまたガリ版刷りの個人誌「土田杏村とその時代」を発行して世に問い続け、いつの日か本格的な「杏村伝」を上梓するために絶えざる営為を続けられたのだ。


                      


 今後土田杏村という人物の名前がどの程度残るものなのかわからないが、少なくともそのことのために人生を賭けたたった一人の人間がいたことを誰かが記憶しておくべきだろうと思う。

 上木敏郎先生は、敬虔なキリスト者でもあったらしい。




                       

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