モンゴルの主権者は汗と呼ばれる。一代目はカブルでテムジンの曽祖父に当たる。二代目はタイチュウト氏族のアムバカイがなり、三代目はボルジギン氏族に戻り、クトラがなる。クトラは四代目エスガイの叔父である。エスガイの子がテムジン。
モンゴル人の祖先は青い狼と惨白き(なまじろき)牝鹿だ。伝説にすぎないが何とも叙情的だ。テムジンはその血を継いでいる。それに誇りを持っている。
父が倒れ、仲間はみんな裏切り出ていった。母と兄弟だけ残され、テムジンは汗となる。
テムジンは成長するにつれ、凶暴で残虐な面が現れ始める。発端は自分の意に従わない弟を射殺したことだろう。これも狼の血を受け継いでいるためなのだろうか。
当初自分の家族しかいなかったテムジンだがやがて35才になる頃にはモンゴルでもトオリル・カン、ジャムカ、テムジン、タタル部の4つに統合されるぐらい大きくなった。
タタル部に金国が攻めた。それに便乗して、テムジンはトオリル・カンを誘い、タタル部を滅亡させた。その後ジャムカが侵攻してきて、テムジン、トオリル・カンの連合がこれを迎えた。ジャムカ本陣へはトオリル・カンに譲り、テムジンはタイチュウトを攻めた。取り決めにより、両者は戦利品を分け、数日後同時に自分の土地へ帰る事になったが、ここで当然の気持ち、いずれはモンゴルの統一のため、両者で戦う日が来るだろう。テムジンは早くも、互いの土地に向けて帰る時にそう思い、今のうちに追撃しようと思うが、トオリル・カンもまた同様の事を考えているのではないかと気付き、臨戦態勢のまま帰郷する。
トオリル・カンに勝ち、ついにモンゴルの統治者となる。井上靖という日本人から描いたモンゴルという異国の思想・思考なので必ずしも正確ではないのかもしれないが、日本の武士道とは異なる、戦士の思考がある。日本のような義や忠と言ったものがない。敵対する部族がある時には助け、ある時は殺戮する。なぜ助けるか?日本では恩があったり、昔世話になった、親の代で世話になった、知り合いの、どうしてもという頼み。そういったものを鑑みて決断を下すのだが、どうもモンゴルでは、恩や忠義はある。しかし、目的のためには、それはそれという考えが先行するようだ。昔、テムジンが仲間にすべて去られ弱小であった頃、妻のボルテを他部族にさらわれた時、無償で助けてくれたトオリル・カン。そもそもトオリルカンはなぜ、何の見返りもなく助勢してくれたのか?それから何年も経ち、恩のあるトオリル・カンに対して、恨みがあるわけではないがモンゴル統一が進んできたとき、統一という目的のためには恩というものは何の意味もなさず、統一のために斃さねばならない、となるのだ。またトオリル・カンの方も、統一のためには自分を斃せと考える。この辺りは日本人には理解しにくいかもしれない。この後も敵味方感情を排した死が出てくる。自分が何をしたいかではなく、何か?という目的のための自分の生であり、生き方なのだ。
ムンリクの話。ムンリクは、母のホエルンと通じているようで息子のテムジンとしては気に入らない。ただ、ムンリクの父チャラカ翁に対しては自分が弱小であったころ、それでも自らの命を捨てて守ってくれた恩がある。だから気に入らなくても目をつぶった。そのムンリクの息子のテップ・テングリはシャーマンの僧で、怪しい占いなどをする。そのテングリはカサルがテムジンの座を奪い、統治者になろうとしているという占いをする。そしてその通り、カサルがチンギスカンの側室の忽蘭(くらん)に手を出そうとしているのを見つける。すぐさまカサルをとらえいざ処罰しようとしたとき、年老いた母ホエルンが立ちふさがり、お前は前に弟を殺したことがある、それをまた繰り返すのかと諭す。その母の眼には父親の知れないチンギスカンより、父親の素性の知れているカサルへの愛情を見つける。母親には尊敬の念を抱いてきたチンギスカンであるが、この事件でやはり自分は愛されていないのではないかと落ち込む。この母への尊敬、愛情を受けたいという気持ちが、井上靖らしい。
他部族を攻め、勝って凱旋してきた隊長に対しては、自分の娘を報償として取らせる。つまり価値は高いとは言え、品物と等価なのだ。そのため側室をつくり、子を生ませる。逆に言えばそのための側室となる。女の子供に関しては愛情より、今後出てくる、政治的駆け引きのための物のような扱いだ。
ジュチはボルテの息子だ。ジュチはみるみる逞しくなる。そんなジュチに対して恐れを抱く。因果応報的だ。血の繋がりへの不信と
かつて自分が抱いた反抗心が、成人した今自分に返ってくる。
金国を制したチンギスカン。敵の将軍が自ら命を絶つ。これにチンギスカンは驚く。今まで制した国の指導者は、自分の進退、生命も含め、制服者に委ねる。その上で殺されるか、兵に迎え入れられるか判断される。それがモンゴルなのだが、金国ではそうではなかった。相手に委ねるのではなく、自ら決するのだ。それに驚くチンギスカンだった。
ほぼ統一したあと、通商隊の持ち帰る品々から高い文明を持っていると予想されるホラズムと国交を交わしたくなったチンギスカンだが、派遣したモンゴル人がホラズムによって捕らえられ、全員処刑されたことに憤る。ホラズムに軍を派兵するか?家臣達に尋ねる。どの家臣も、高度な文化を持つ得体の知れない未知の国への派兵には反対をする。ただ1人長子のジュチだけは攻めいらない理由があろうかと前向きだ。それは自分達は狼である。敵のいなくなった狼は狼ではないと言う。息子が紛れもなく狼の血を継いでいることに喜ぶ。生きる理由が敵を倒すことのみである。物語としてはロマンのようなものを感じるが、現実として我々にはそのような考えは理解しがたい。しかし恐らく世界のどこかにはそう言う考え方の国や民族もあるだろう。理屈ではなくそういうものだと思っているところに救いようの無さを感じる。そのように考える人々に、殺し合うことは良くないなどと言っても理解されない。そして、ジュチに感動したチンギスカンは喜び、もちろん自分も派兵すると答える。その際にはジュチを先鋒として侵攻し死ね。そして我はその屍を越えて敵に攻めいるだろうと答える。この部分も物語としてはロマンがあるが、現実には、先に年少の者を死なせ年長者が続くと言うのはおかしなことだ。
耶律楚材は軍師的な存在か?何か記憶がある。小学生の頃だろう、新聞の広告に耶律楚材と言う本が紹介されていた。陳舜臣の小説か。そのときは人名とはおもわなかった。それから何年?30年くらい経つか?ここに登場。言ってみればチンギスカンの軍師のようなものだ。劉備における諸葛孔明、豊臣秀吉における黒田官兵衛、武田信玄における山本勘助だ。ただし、そこまで活躍はしない。実際も成吉思汗の次代で活躍するようだ。
母のホエルンが死んだときはショックだったが泣くまいと決めた。側室のクランが病んだとき、クランは成吉思汗が戦いをしなければならないと言うことで西夏への侵攻を決めた。しかしその行軍途中でクランが死んだ。そのときも決して泣くまいと決めた。長子のジュチは、自分の後継者に選ばなかったことを根に持ち、遠く遠征に行ったまま帰ってこないのではないかと不安になる。行商人の噂で、ジュチは遠くの国で既に悠々自適に暮らし、新たな自分の国を立てようとしていると聞く。それに対して遂に怒りが爆発し、ジュチの討伐に立ち上がる。ところが真実は、ジュチは遠い地で病のため死んだのだった。心配をかけるまいとその事は成吉思汗には伝えられることがなかった。これを知った成吉思汗は、一瞬でも息子を疑った自分に後悔し、孤独に死んだ息子に悲しみを抑えることができなかった。泣くことを禁じず、初めて慟哭する。この場面は震える。
結局、父親が本当にモンゴルの血を引くのかわからないと言う出自が似ているジュチを一番愛していたのだった。
この、あまりに詩情溢れる蒼き狼の血という運命に支配され続けた。この血を受け継いでいると信じるがゆえに、侵略を繰り返すのであり、父や母への尊敬があり、そのため子供には愛情があったりなかったり複雑で、特に出自が似ているジュチに対しては最後に一番愛していたことに気づく。
実際に成吉思汗のやっていることは残虐で、英雄とは思いにくいこともある。表現を変えれば仁義なき戦いやゴッドファーザーであるとするならおぞましい。しかし、井上靖だからなのか淡々としていて、また詩的であって、モンゴルという異国に長く住んだかのような読後感を感じた。
20180121読み始め
20180217読了