中学か高校の時に途中まで読んだ気がするが、まったく内容は覚えていない、ある一つの場面は覚えているが、その場面はまだ出てこない。
鬼道の巻、伊賀越え外道旅の章に出てきた。238ページ付近だ。つまり相対性理論のようなものが出てくる。しかし違うかもしれない。比べるものがない、変化をしないと言うことは時間が止まっていると同義みたいなことを話す場面を良く記憶している。
殺人鬼である石川光之介だが、実は宇宙人が乗り移っており、光之介自身は死んだわけだが、乗り移った宇宙人がその人格を占拠した。その宇宙人はかなり進歩した文明の住人らしい。先ほども書いたとおり、相対性理論を駆使し、また仏教的思想の語る。いわば仏教と科学の融合を語っている。面白い。
つまりはSFなわけだがこれを時代小説でやってしまうところが画期的だ。
進歩した宇宙人は肉体を持たず精神だけが存在しているということ。宇宙人はまだ未開の星の進化に介入してはいけない。宇宙の中にある自分の位置だけを随時知らせるだけの、舌を持った髑髏。宇宙の姿を示す模型。人類が進化した後の姿、これが醜いとだけ表現されていて実際どういうものなのかは描かれてはいない。この巻の大半は宇宙人が憑依した石川星之介と中山、俊策の宇宙に関する対話に終始した。敵味方が技を駆使しあって戦う、アクション小説を期待して読む人はガッカリするかもしてない、しかし、存在論に興味のある人にとってはこれほど面白い物語はないだろう。第一巻目から惜しげもなく話が展開するなんて、何と贅沢なのだろう。
第2巻外道の書に入った。鬼道の巻は存在論に関して議論されていた。この巻に入ると、一揆に関わり、やや次元が身近になり、身分や格差についての議論が中心になってくる。
その一方UFOが襲ってきて、生身の人間、星之介と小太郎だが、正確には人間ではなく、補陀落星人が乗り移った人間の体を借りた超人と言うべきか、それが超能力だけでそのUFOを打ち落とす。しかもその宇宙船が地上に墜落し大爆発し地震様の大振動を起こす。歴史書には越後高田の大地震と残されている。という流れ。こんなところは山田風太郎の外道忍法帖を彷彿とさせる。
この小説のすごいというか斬新なところは、今ではSF小説で当たり前となった描写や、設定が、江戸時代という時代で再表現したこと、時代小説風な表現で、現代の我々からしたら、ああこう言うことかと簡単にSF小説に結びつけることができると言うことだ。
そして、遺伝のことに言及される。その当時の人間にはまだ知ることのない科学の知識だ。
昇月斎によってそれが明かされるが、その昇月斎の最後が衝撃的だ。
第3巻神道の巻
蛇丸が胎内洞で時間と宇宙について悟る場面は怖いくらいだ。こういった宇宙論、宗教感、哲学が語られる物語は珍しい。
オンバさまは極低温状態の象徴だ。つまり極低温状態では原子の動きが停止し、身動きが取れなくなる。すごい。
神道の巻の最後にきて、遂に自分が記憶にのっこている文章が出てきた。物の存在しない所は時間が流れず、物の密度の濃い所で、初めて時間を感じると言う。つまり3巻までは読んでいたのだ。間は全く記憶にない。そして、この3巻の最後がその一節だ。しかし、そう納得させられてすぐに、それを否定する事象が予告される。楽しみは次巻以降へ、と言うことだ。確かに昔、ワクワクさせられた。次の4巻に進もうと思った。ところがそのまま読まずに中断していた。
黄道の巻にはいると一揆の話が主となる。それとともに進化や遺伝というテーマに言及される。そんな中、初期の段階からの主要人物だった桜井俊策が凄まじい最後を迎える。まるで悪夢のようだ。
そして黄金城がついに見つかる。その世界は不思議な世界だ。仏教の世界を小説として表現したかのようだ。
天道の巻
久しぶりに妖星伝に帰ってきた。半年振りか?天道の巻。ここは時、時間がテーマのようだ。ここで再認識。やはり、妖星伝は哲学を論じる小説。東洋哲学、仏教哲学だ。 蟻が感じる時間と、人間が感じる時間は同じものか?さらには人間が感じる時間と宇宙が感じる時間は同じものか?それは自分も常々思っている。
また一年近く読むのを中断していた。スティーヴエリクソンのきみを夢みてを読み終えて次の本を探すつなぎに読むのを再開。215ページ。因果率の乱れというのが出てくる。卵が先か鶏が先か分からないように、過去の言い伝えが実は未来の予兆とも言えるのではないかということだ。これも深い。
一回ごとの死。一回交わるごとに死ぬ。これも印象的だ。
この巻において、ついに因陀羅の信三郎が死ぬ。天道尼が女之助と交わることで女之助を吸収し、破戒仏として生まれ変わる。その破戒仏と交わることにより、信三郎は生命を吸いとられ、ミイラ化するのだ。すごい発想だ。また、すべてを記憶し、子孫に伝承し続ける頭(こうべ)の者である太郎という少年だが、ある日飛んできてつきまとう黒い玉を思わず食べてしまう。その直後から自分自身が黒い玉に変貌してしまう。それが宙を自由に飛び回ることができるのだ。それが陋の中に入った途端小さくしぼみ、黒い粒となってこと切れる。これも怪異だ。
鬼道の巻、伊賀越え外道旅の章に出てきた。238ページ付近だ。つまり相対性理論のようなものが出てくる。しかし違うかもしれない。比べるものがない、変化をしないと言うことは時間が止まっていると同義みたいなことを話す場面を良く記憶している。
殺人鬼である石川光之介だが、実は宇宙人が乗り移っており、光之介自身は死んだわけだが、乗り移った宇宙人がその人格を占拠した。その宇宙人はかなり進歩した文明の住人らしい。先ほども書いたとおり、相対性理論を駆使し、また仏教的思想の語る。いわば仏教と科学の融合を語っている。面白い。
つまりはSFなわけだがこれを時代小説でやってしまうところが画期的だ。
進歩した宇宙人は肉体を持たず精神だけが存在しているということ。宇宙人はまだ未開の星の進化に介入してはいけない。宇宙の中にある自分の位置だけを随時知らせるだけの、舌を持った髑髏。宇宙の姿を示す模型。人類が進化した後の姿、これが醜いとだけ表現されていて実際どういうものなのかは描かれてはいない。この巻の大半は宇宙人が憑依した石川星之介と中山、俊策の宇宙に関する対話に終始した。敵味方が技を駆使しあって戦う、アクション小説を期待して読む人はガッカリするかもしてない、しかし、存在論に興味のある人にとってはこれほど面白い物語はないだろう。第一巻目から惜しげもなく話が展開するなんて、何と贅沢なのだろう。
第2巻外道の書に入った。鬼道の巻は存在論に関して議論されていた。この巻に入ると、一揆に関わり、やや次元が身近になり、身分や格差についての議論が中心になってくる。
その一方UFOが襲ってきて、生身の人間、星之介と小太郎だが、正確には人間ではなく、補陀落星人が乗り移った人間の体を借りた超人と言うべきか、それが超能力だけでそのUFOを打ち落とす。しかもその宇宙船が地上に墜落し大爆発し地震様の大振動を起こす。歴史書には越後高田の大地震と残されている。という流れ。こんなところは山田風太郎の外道忍法帖を彷彿とさせる。
この小説のすごいというか斬新なところは、今ではSF小説で当たり前となった描写や、設定が、江戸時代という時代で再表現したこと、時代小説風な表現で、現代の我々からしたら、ああこう言うことかと簡単にSF小説に結びつけることができると言うことだ。
そして、遺伝のことに言及される。その当時の人間にはまだ知ることのない科学の知識だ。
昇月斎によってそれが明かされるが、その昇月斎の最後が衝撃的だ。
第3巻神道の巻
蛇丸が胎内洞で時間と宇宙について悟る場面は怖いくらいだ。こういった宇宙論、宗教感、哲学が語られる物語は珍しい。
オンバさまは極低温状態の象徴だ。つまり極低温状態では原子の動きが停止し、身動きが取れなくなる。すごい。
神道の巻の最後にきて、遂に自分が記憶にのっこている文章が出てきた。物の存在しない所は時間が流れず、物の密度の濃い所で、初めて時間を感じると言う。つまり3巻までは読んでいたのだ。間は全く記憶にない。そして、この3巻の最後がその一節だ。しかし、そう納得させられてすぐに、それを否定する事象が予告される。楽しみは次巻以降へ、と言うことだ。確かに昔、ワクワクさせられた。次の4巻に進もうと思った。ところがそのまま読まずに中断していた。
黄道の巻にはいると一揆の話が主となる。それとともに進化や遺伝というテーマに言及される。そんな中、初期の段階からの主要人物だった桜井俊策が凄まじい最後を迎える。まるで悪夢のようだ。
そして黄金城がついに見つかる。その世界は不思議な世界だ。仏教の世界を小説として表現したかのようだ。
天道の巻
久しぶりに妖星伝に帰ってきた。半年振りか?天道の巻。ここは時、時間がテーマのようだ。ここで再認識。やはり、妖星伝は哲学を論じる小説。東洋哲学、仏教哲学だ。 蟻が感じる時間と、人間が感じる時間は同じものか?さらには人間が感じる時間と宇宙が感じる時間は同じものか?それは自分も常々思っている。
また一年近く読むのを中断していた。スティーヴエリクソンのきみを夢みてを読み終えて次の本を探すつなぎに読むのを再開。215ページ。因果率の乱れというのが出てくる。卵が先か鶏が先か分からないように、過去の言い伝えが実は未来の予兆とも言えるのではないかということだ。これも深い。
一回ごとの死。一回交わるごとに死ぬ。これも印象的だ。
この巻において、ついに因陀羅の信三郎が死ぬ。天道尼が女之助と交わることで女之助を吸収し、破戒仏として生まれ変わる。その破戒仏と交わることにより、信三郎は生命を吸いとられ、ミイラ化するのだ。すごい発想だ。また、すべてを記憶し、子孫に伝承し続ける頭(こうべ)の者である太郎という少年だが、ある日飛んできてつきまとう黒い玉を思わず食べてしまう。その直後から自分自身が黒い玉に変貌してしまう。それが宙を自由に飛び回ることができるのだ。それが陋の中に入った途端小さくしぼみ、黒い粒となってこと切れる。これも怪異だ。
この巻では、将軍詰の種明かしがある。それと共に多くの馴染みのある鬼道衆のキャラクター達が、倒されてしまった。
最後はハチャメチャだ。天道尼はついに光となって消える。そして黄金城はどうなったのか?日天はどうなったのか、突然幕を閉じる。
人道の巻
この巻は、一揆侍である栗山と鬼道衆であるお幾の話となる。人道という巻のタイトル通り、超常的な話ではなく、人の心理、特に農民の心理を描写した内容から始まる。それまでの鬼道衆の人智を超えた残虐ぶりから一転して、人間臭い、ある意味それもドロドロした嫌な話ではあるのだが、文学作品のような雰囲気となる。
一揆の話がほとんどではあるが、信州人津波の章では前巻で消えてしまった鬼道衆達が霊となって再登場する。つまり肉体を離れ霊だけになったというのだ。
628ページから4章だが、ここで桜井俊策の霊が語る。これがまさに真髄だ。
自他の区別がいずれなくなる。そこで思うのは、他者は存在しない。ある一つの存在があり、自分の意識を無数に分裂させる。さらに分裂させたものは完全独立で隣と共有することができない。その分裂されたものは、あたかも個人であるように思う。
唯一の存在が、精神を分裂させているのだ。それも無数に。この小説ではあえて自ら分裂させ実験をしている。そして楽しんでいる。鬼道衆はある意味保険だ。暴走してしまった時に、制止するするツールとして用意していた。そのため鬼道衆達は我々からすると、非道な鬼のように見えてしまうのかもしれない。
何か相似したものを感じる。そうだ、微生物の生育と似ている。微生物の増殖には、じっと増殖のための準備をする誘導期があり、指数的に細胞分裂して増殖する、増殖期が来る、そして、いずれ定常状態となり、死滅期がやって来る。自ら排出する有害物質によって、自らが溶解してしまうのだ。
つまりこの小説では、それが微生物ではなく、精神が同様の経過をたどると言うことを言いたいのではないか。
この巻も終盤にはいると急速にしぼむ。あっという間に年月が経つ。一揆侍の栗山が一気に年を取る。当然お幾もそれなりに老けるわけだ。ここは他者の評にあるように、下町人情風になる。こんな収束でいいのか?と思う。
完結編の前に、著者自ら語る妖星伝の思い。が数ページ挟まれている。これがある意味真髄だろう。中断せざるを得ない事情や、生命とは何かなど考察される。そして、最終巻。これはもはや小説ではなく、思想書のようになると宣言している。これは居住まいを正して向き合わなければならない。
魔道の巻
宇宙論が仏教用語を駆使しながら語られる。それは、上記のどうにゅうぶにもあったように、小説の流れ上、日円と青円との問答を借りてかたられるq。もしかして読みにくいかもしれない。しかし、自分にとってはこの問答が面白くてならない。要は、相対性理論をろんじているのだが、設定上江戸時代に生きている日円と青円なので、その当時の知識と、彼らの仏教的知識を元に、相対性理論を語るのだ。こんな小説はほかにはないだろう。
存在しつづけるためには、連続を続けねばならない、思考し続けなければならない。思考をやめた時、存在は消滅する。結局はそのため青円までも消滅してしまう。そこでなんと外道皇帝から後継者として任命されたのが日円なのだ。日円はその後、人類を救うための指導者として、DNAの中に自分の分身を宿らせ、子孫に自らを伝えて行く。ここからはSFとなって行く。人類は核戦争の放射線被曝によりミュータント化し、適者生存の原理で選別されて行く。そしてエスパーが残って行く。その頃になると物質による文明ではなく、精神化された文明になりつつある。悲しいのは、温暖化が進み地球は破滅へと向かいつつあると言うことだ。それからまぬがれるためには、人類は精神化、つまり霊だけで存在できるようにならなければならない。そうすると不老不死となり、輪廻が膠着してしまう。
この魔道の巻は前6巻の総まとめ的である。知的興奮にあふれた巻だ。
このような小説は後にも先にも妖星伝しかないかもしれない。海外を含めてこんな思想書が出てくることは想像しがたい。
鬼道の巻
20140307読み始め
20140312読了
外道の巻
20140315読み始め
20140403読了
神道の巻
20140403読み始め
20140430読了
黄道の巻
20140512読み始め
20140525読了
天道の巻
20141124読み始め
20151108読了
人道の巻
20151108読み始め
20151119読了
魔道の巻
20151120読み始め
20151123読了
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