いつのころからか、この小説はずっと気になっていた本だ。2009年辺り、福井に住んでいたが、突然古田織部の事が思い出され、関連する本を探し求めた。古田織部の事はずっと前に知ってはいた。NHKの歴史ドキュメントという番組で「徳川家康暗殺計画」という衝撃的な回があった。真田幸村辺りが忍者を使って家康を暗殺しようとした計画でもあったのかと思っていたが、古田織部というその当時名も知らなかった人物が暗殺を計画したという番組だった。しかし加藤唐九郎という陶芸家が目指した茶碗が古田織部であること、それに絡めて織部の前衛的な焼き物が紹介されていた。最後には加藤唐九郎が出来上がった焼き物が気に入らないらしく、涙を流しながら全て叩き割っていた場面が印象に残っていた。話は戻って福井に住んでいたとき、たった半年ではあるが。ふと古田織部のことを思いだし、先の歴史ドキュメントのムックを読んでみたくなった。このムックは放映当時買っていたのだが、手元になかったので図書館に借りに行った。その流れでこの本覚坊遺文を読んでみようと買ったのだった。だから2009年時点で一度読んだが、最近また古田織部への関心がぶり返し再度読むことにした。先ほどすでに買っていた映画版の「本覚坊遺文」も見た。
第一章。東陽坊に呼び止められ、茶に付き合う。本覚坊の夢の回想。淋しげな道を歩いている。冥界の道ではないかと思う。しかし京の町に向かっているというので、そうでもないのかと思う。師利休は生前、茶の湯の果ては枯れかじけて寒い境地にあるといっていた。
さて東陽坊だが、茶碗を高値で売ったり、大徳寺山門の事は根も葉もないことと理解している。ここで侘数寄常住という言葉。これは四六時中茶の心を忘れないと言うこと。これはかなり実践が難しい。これを利休は実行した。その利休がそんなことをするわけがないという。
秀吉の怒りを買い、堺へ送られる利休。早くもそれを見送る細川三斎と古田織部の描写が出てくる。東陽坊はその特利休自身も、細川古田も、いずれ誤解は溶け今日に帰ってくるだろうと思っていたとする。両武人もそうであるからただ二人だけ見送ったのだと。
この時点の推理では、堺行きの時点では死罪はないと思っていたかもしれないが、いずれ死を賜ることになるだろうとは感じていたのではないだろうかとのこと。
二章になるとそれまでの独白的な~でございます。という調子から、~であったという調子になる。ここでは岡野江雪斎が本覚坊の庵に訪ねてくる。山上宗二の書を持参し見解を聞きたいという。
江雪斎に山上宗二とあったことがあるか尋ねられるがあった記憶がないと答える。江雪斎は北条に仕えていて小田原の時には山上宗二が茶堂として滞在していてよく知っている。世話になったお礼ということで宗二から秘伝書をもらったのだ。江雪斎は宗二のことを異相だとその顔の印象を言う。本覚坊は妙喜庵での茶席を思い出す。中には三人。一人はもちろん師である利休。しかしあとの二人はだれかわからない。外で灯りを差し出そうと控えていると、「無では無くならない。死では無くなる」という声が聞こえてくる。そこで、「灯りを」という声があり、隙間から灯りを差し出す。一瞬見えた中の様子。灯の明かりによって阿修羅のように映る人物が見えた。今思えばそれが山上宗二だったのではないだろうかと考える本覚坊。江雪斎も異相と言っていたので、そう思える。あとの一人はいたのかいなかったのかもはっきりしない。
珠光一紙目録の筆写。名物の目録である。書かれた時代には存在したものが、今は持ち主が戦で死んだ時に一緒に失われたものもある。本覚坊は、人であれ、道具であれ、乱世を生きることは容易でないという感慨を深くする。
枯れかじけて寒かれの解釈。江雪斎の解釈は、何事にも酔わぬ、醒めた心ではないか。修行について、初めは何もかも師を真似る。次は一時期師と反対のことをして自分を出す。そうしてまた師の教えに従う。これがなかなか難しい。太閤の場合太閤から離れたところで皆、滅びている。うまく渡ったのは家康公だけ。
帰ってから師と語りたくなり、師の幻と対話する。枯れかじけて寒いという思いのなかには淋しさはない。その道を歩くのはわしや宗二だけでいい。妙喜庵で利休と宗二とあと一人いたように思われたがそれは誰かという問いには。誰でもいいではないか。いてもいなくてもいいし、好きに本覚坊が選べばいいと。
第三章は古田織部のこと。9月13日に茶に招かれる。そこで本覚坊も見たことがないであろうという茶杓を見せてもらう。これは利休の形見で「なみだ」という銘。筒は織部の自作であろうが、真ん中に四角い窓が開いており、位牌仕立てになっている。本覚坊は利休でなく織部が名付けたものだろうと察する。利休ならば爽やかな名前を付けるはず。同様に細川三斎にも茶杓の形見が与えられておりそちらは「いのち」という銘のこと。織部は三斎らしい命名だという。また利休の命の付け方のさわやかな例で、三斎、蒲生氏郷との茶席のことを話す。長次郎の赤楽茶碗で「早船」という茶碗だ。この席のために高麗から早船で取り寄せた。というところから由来する。三斎と氏郷はどちらも譲ってほしいと強い執心を見せた。帰った後、利休は織部に、この赤楽は蒲生氏郷に与えたい。けんかしないよう三斎に中立ちしてほしいと依頼する。実は利休は三斎には黒楽茶碗のほうがふさわしいと考えていたのだった。因みにこの赤楽茶碗は現存する。東京の畠山記念館に収蔵されている。但し割れており、接いで復元している。そんな話をしながら、織部から利休について堺へ行ってからの数日は、どのように考えていたのだろうか?最も近くにいた本覚坊ならわかるのではないか?と聞く。しかし、織部にわからないものがどうして自分にわかるだろうか?と、わからないと答える。家に帰って。利休は堺に行っても利休だったとしか答えられない。しかしそれをどう言葉にできるかわからないと考える。そのとき、今日9月13日は利休が堺へ蟄居を命じられた日で、織部と三斎が淀まで見送りに行った日であることに気づく。織部にとって特別な日であったのを、全く気付かなかった自分を恥じる。
9月22日にも織部に招かれる。今度は前のように何の日か知らずに訪れるという失態をしないよう、認識する。この日は明らかに、利休が一亭一客で織部をもてなした日であり、実は翌日は本覚坊自身が一亭一客でもてなしてもらった日。つまり利休との最後の茶席だった。利休は運命を悟っていたのか、この時期に一人一人と別れを告げるように茶席を開いていたのだと思う。
さて、茶席に向かうと、点前は前回同様利休に寄り添ったものだが、道具は自分好みだ。瀬戸の沓形の茶碗。
織部は利休に数寄の極意とは?と聞く。すると奈良の松屋家に徐煕(じょき)に鷺の絵を見ろと言われた当時40歳になったばかりの織部はすぐ奈良へ向かいそれを見たが、ここから極意を感じとることはできなかった。20数年多って再度見たとき気付いた。絵ではなく珠光のしつらえた表具こそが素晴らしいのだった。因みにこれも実話である。しかし現存せず失われている。このように現存しないものに物語を付加する著者の凄さ。
今回も織部から利休は最後どう考えていたか質問される。わからないと答えたが、今回は続けて答える。利休は自然体だった。生きようと思えば生きたし、死を賜ったなら抵抗せず死のうと。それを聞いて織部は、確かにそうだと思う。生きるより生きない方がいいと思ったのだろう。しかし何がそうさせたのだろうかという疑問は残る。
次に古田織部と接するのは3年後。とは言っても実際に会ったわけではなく、噂を聞いたと言う話。大坂の冬の陣で、豊臣徳川が和睦した頃のことである。戦が始まったばかりにも関わらず、茶杓によさそうな竹を探している最中、流れ弾に当たったと言う不名誉な事件の噂を聞く。その晩織部の幻と対話する。
第四章は織田有楽斎のようだ。こう言った構成になっているとは気付かなかった。有楽斎が屋敷をたてると言うので、大徳屋を通じて同行するよう言われたのだった。古田織部が謀反を起こしたという事で切腹をした。というエピソードがまずある。なぜ謀反などという最期だったのか納得できない本覚坊だが、有楽斎は織部は利休に殉じたという考えであることを知り、会ってみようと思ったのだった。噂では、掛け物が格好悪いと切り捨てたり、茶碗や茶入れをわざと割ったりするので横死にかかると言われていた。ただ有楽斎は別の理由で死ぬことを予見していた。織部は死ぬときを探していたと感じていたのだ。罪に服したわけでなく、利休に殉じた。謀反の疑いに申し開きをしなかった。それはめんどくさかったからだろう。茶を本気で点てていたらそんなことは面倒になる。三斎は自分の家だけがのこればいいという話。山上宗二は太閤の前でひっくり返るようなことを口走ったから死を賜ったに違いないという話。そして映画にも出てきたあの台詞。「宗二も腹を切り、利休どのも腹を切り、織部どのも腹を切った。茶人というものは厄介なもので、ちょっとましな茶人になると、みんな腹を切る」「だが、心配しなくてもいい。わしは腹は切らん。腹を切らんでも茶人だよ」この快活さがいい。古い形の茶が再び求められ始めているとの問いには、利休の頃よりもっと古い時代の茶もある。その方が腹を切らなくていいかもしれないと笑う。有楽斎は利休や織部がなぜ腹を切ったのか理解できないようである。自宅に戻った本覚坊は、果たして有楽斎は利休や織部に同意的なのか反対的なのか悩む。どちらかというと反対の考えを持っているように感じる。そして、妙喜庵の座を思う。そこで、宗二と利休とあと1人は誰だったか?それは明らかに織部だと思いいたる。今までそれに気が付かなかったのが不思議だった。あの時3人は死の盟約を交わしたのだろう。有楽斎は織部は利休に殉じたと言っていたが、そうではなく、盟約を果たしたのだろう。その盟約に加われなかった有楽斎は悔しさのあまり、死なないが茶人だというセリフにつながったのだろうと考える。この意見を有楽斎に聞いてもらいたいと思ったのだった。
次に有楽斎にあったのは11か月後で有楽斎の隠居の住まいが完成した時だった。大徳屋を共にした茶の席。織部の茶杓をを見せられる。切腹するだけあって、強い茶杓だろう。その言葉に本覚坊は、有楽斎は織部に敵意は持っていないと理解する。そして利休の死に話題が及ぶ。有楽斎はその理由は簡単だという。つまり太閤は利休の茶室に入るごとに、刀を取られ、茶を飲まされ、茶道具を見せられ、言ってみればそのたびに死を賜っていた。何十回何百回と死を賜り続けたら、一度は死を賜らせたいと思ったからだろう。利休はすごい。茶を禅の道場にするのではなく、腹を切る場所にした。
第五章は利休の孫、宗旦との話。宗旦が祖父の利休の話を聞きたいというのだ。秀吉のことも合わせて話す必要があると思うが、その時には利休へ死を与えたということで秀吉が憎いと思っていた。一度も思い出そうとしなかったし、頭に浮かびそうになったら、排除しようとしていたくらいだ。そうではあるが、秀吉が主催したいくつかの大規模な茶会を思い出す。自分は配膳係であったので大した記憶はない。印象深かったのは北野の大茶会。こうした派手な突拍子もないアイディアを思い付く秀吉と、それに対してまんざらでもない様子であった利休。その北野の茶会がわずか一日で中断となった。様々な理由が考えられるが、本覚坊は肥後の一揆が原因ではなかったかと推測する。秀吉の武人としての本能が、茶会をしている場合ではない、自分にたてついているものを制圧しなければならない。その本能が茶会の中止に至らせた。制服というものに生命を掛けている武人の心を知る人は、侘数寄に命を賭けている利休しかない。
秀吉が突然利休に死を与えたことに関して、北野の茶会を突然中止したことと気質において通じるところがある。恐らく秀吉の生涯の大仕事である朝鮮出兵、これに意図せず異を唱えたと捉えられたのだろう。しかし本質は誰もわからなかったのだろう。織部もわからないままであったし、三斎も実際わかっていないだろう。利休もわからなかった。本覚坊は今はそう思う。
ところが堺に行ってから秀吉と利休の立場が入れ替わる。秀吉は冷静になった。そして利休を呼び戻したくなった。が、今度は利休の方がそれを受け付けなかった。
終章。有楽斎が死去する。本覚坊は葬儀に向かうが年齢と、体調が優れないのを押して寒空を歩いたせいで風邪を引いたらしい。やむなく引き返す。その帰り道朦朧とする意識の中で、夢で見た淋しい磧を師の後を追って歩いている場面を見る。かつては利休から帰れと言われて帰ったと思っていたが実はまだ後を追っていたのだと感じる。
有楽斎との対話を思い出す。一番いい茶会は何だったかと。有楽斎は大坂の陣の半年前の木村重成との席が一番だったという。恐らく重成は半年後の自分の運命を覚悟していたのだろうと思う。実際有楽斎は夏の陣の前に大坂から離脱しているだけに、重成に敵わぬものを感じていたのだろう。同じようなことを利休から聞いた。三好実休との茶会や、特に高山右近との茶会だ。
利休の茶とは死に向かうための茶。死地に赴く武将を送る茶。また自ら死に向かうための茶とも言える。
利休が死に向かう場面の幻を見る。今まで幻と書いてきたが幻覚というわけではなく。本覚坊が自問自答しているという場面である。最後の茶をたてようという場面。いつの間にか秀吉がいる。秀吉は何度も何度も死ぬ必要はない。むきにならなくていいとおさめようとするが、利休は頑なに拒む。利休は秀吉にずっと感謝している。あらゆるものを与えてくれた。そして最後に死を与えてくれた。秀吉は最後に何もかもして刀を抜いた。茶がなんだ。いままで付き合ってきてやったのだ。そんな気持ちだったのだろう。すべてを捨てて刀を抜いたことで、秀吉は武人としての本来の姿を見せたのだ。だから利休も茶人としての刀を抜いた。茶室を作って自分だけの城を造るつもりが、それを他人にも押し付けてしまった。死地に向かう武人たちを茶室に入れてしまった。それが間違いだった。妙喜庵を造って以来、一つ一つ捨てていった。最後に残ったのが自分自身。このタイミングで秀吉から死を賜り目が覚めた。何の恨みもないが、これで自分の侘茶を完成させることができる。これが結論だろう。
もう一度秀吉は言う、それはそれでいいとして、死ぬ必要はないと。しかし、利休は自分の最期の茶を見るために多くの人が集まっていると固辞する。と、そこへ今は死んでしまった、様々な茶人が囲炉裏に入っていく。何十人も何十人も。もちろんそれだけの人数が一つの部屋に入ることなど物理的に無理だが、そういう映像が見えるのだ。もちろん夢の話。
利休の歩く淋しい道。すぐ先には山上宗二が歩いており、後ろには古田織部が続く。本覚坊を来るのを拒み、有楽斎が入れなかった道。恐らく利休が考える侘茶の道、これに同意した宗二、織部との三人だけの道であって、他の茶人に押し付けるものではないということなのだろう。
読むたびに新しい読み方ができる。
20200508読み始め
20200512読了
古田織部を知った初めてのテレビ番組。そのムック。
因みに「追跡・王朝の秘薬」は金液丹のはなしだ。
なかなか面白い企画。
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