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「濹東綺譚」 永井荷風

2018-01-04 19:30:34 | 読書
1988年6月27日購入とあるので高校2年の時に買ったものだ。高校の教科書に日本文学史のようなものがあって、一通りの作家と代表作が紹介されていたのだろう。恐らく「耽美的」とか「浪漫」というキーワードに反応して買ったのだろうと思う。恐らく娼婦との作家の云々などというところに興味があったわけではなかろう。そのためか読まずに放置。ほぼ30年ぶりの読書となった。谷崎潤一郎のような官能的な小説家と思えば全くそんな話ではない。読むとまさかの所謂メタ小説。この時代にそれを取り入れているのがすごい。
冒頭、主人公の作家大江匡がこそこそ行動しているのが怪しい。実際に巡査に引っ張られていかれるわけだが、当時の治安が悪かったのか、それゆえ少しでも怪しい行動と見るや職務質問される社会状況だったか。また娼館通いする後ろめたさがあったのか、それが印象的だ。大江も巡査の質問に対してからかったりへらへらしたり、一般人とは一風変わっている。年齢を聞かれたら、「己の卯」と答え、後がこわいのですぐ「五十八」などいうのは面白い。これは使えるかもしれないと思ったり。この場面に限らず私娼館通いの場面ということでそうなのかもしれないが、取締りがきつい様子で、それから逃げるような場面が印象に残る。
「彼氏」「彼女」「愛の巣」という単語が出てくるか来ないかという時代だったのが面白い。昭和10年代のこと。馴染みの女は「君」や「あんた」でなく「お前」で事足りた時代。しかし逆にこの時代に既に「彼氏」という呼び方があったのかと新鮮な気もする。
わたくし(主人公の大江匡、言い換えれば永井荷風自身と言える)は現代の人と応接する時は、あたかも外国に行って外国語を操るように、相手と同じ言葉と使うことにしている。古きよさを大切にし、新しいものを受け入れられない様子がわかる。「わたくし」を「おら」、「わたし」を「あたし」、「けれども」を「けど」など。面白いうのは「必然性」や「重大性」など性をつけるのにも違和感があるようだ。堪え難い嫌悪の情を感じなければならないらしい。
お雪がいない時にその家の亭主(夫ではなく雇い主)と2人になった時の気まずさとある。今ならそんな場面はあり得ないわけだが、時代を感じて面白い。テレビを見たり、何か気をそらすものもなく、相手とは会話しかない時代だからその場面たるや想像がつく。
お雪の家に行くのは、自宅の隣のラディオ(ラジオ)の音がうるさいからとか、執筆中の小説の取材のためとか言い訳がましい。そしてお雪との会話も、適当に話を合わせて、時には思ってもいないことに同意したりしている。
わたくしが溝の臭気と、蚊の声との中に生活する女達を深く恐れもせず、醜いともせず、むしろ見ぬ前から親しみを覚えていたことだけは推察せられるであろう。出かけるときには訪問先の雰囲気に合った服装に着替えていく。恐らく自分はハイソなので、粋な場所におしゃれな格好で行くのが普通だが、ちょっと下町に行くときにはボロを着ていく。こういったところからは、自分はいい身分だが、一般的に下層と言われていて敬遠されている人たちにも分け隔てなく接するところが粋だろう?と上から目線感がちらりと窺える。
会話を始めたものの照れてしまい言葉に困ったとき、たばこの煙の中にせめて顔だけえも隠したい気がしてまたもや巻煙草を取り出した。たばこを吸いたくなる衝動にそういう理由もあるのかと新しい発見。
一人暮らしの楽しみとして曝書がある。曝書は虫よけのために本を外で干すことだが、初め熟読した時分のことを回想し時勢と趣味との変遷を思い知る機会を作るから、楽しいらしい。これはわかる気がする。だから自分も本を買った日を記録し、読んだ日付も記録する。
ある時お雪から一緒にならないかと告白される。自分は年だし、過去に娼婦を家庭に入れようとして失敗したこともある。家庭に入った娼婦は懶婦(なまけもの)になるか、悍婦(気性の激しい)になるしかなく、どちらにもさせない器量は自分にはない。自分よりもっと前途ある人に託すべきではないかと自問する。
ふとしたきっかけで知り合った二人、年の差もあるのか激しく情熱的でない関係。まるで昔なじみの友達のような自然で平和な日々が続いていたのだが、お雪の告白をきっかけに少し現実に戻ってしまい、それこそわざとそうするでもなく自然消滅的に別れがやってくる。いや自然消滅だから別れという実際の事象があるわけではない。お互いの住所を知らせたわけでないので、分かれてしまったら合う手段がない。淡い思い出しか残らない。じんわりとせつなさの残る読後感。
4分の3くらいで本文は終わる。しかもメタ小説らしく、作者が登場し、小説的に面白く結末を書くこともできるが、そんな無粋なことはせず結論はあいまいにしておくのがよかろうと、突然中断する。そのあとは作後贅言ということでお雪とは全く関係のない、帚葉翁という老人との思い出や、消え去っていく古い時代と、新しい風俗への批判が語られる。それゆえ、もしかしたら濹東綺譚の全体像は古い伝統に対する愛着と新しい風俗に対する批判であって、大江とお雪の話はおまけのようなのかもしれない。さらには、むしろ小説というよりエッセイなのではなかろうか。
現代人は自己中心的で、出世のことしか考えていないということを不満に思っているらしい。面白いのは、「日曜日に物見遊山に出かけ汽車の空席を奪い取ろうがためには、プラットフォームに女子供を突き落すことを辞さないのも、こういう人たちである」「戦場において一番槍の手柄をなすのもこういう人たち」で同類なのだそうだ。
同じ新潮文庫だが今は木村荘八の表紙ではない。
今思えばこの木村荘八の挿画がいい。表紙こそ木村荘八だが、挿画は一切ない。オリジナルは挿画付きだったらしく、より味わい深いものになっていたのだろう。
 
この、1988年に買った本書と、ほぼ同じ厚さの2017年に買った「真田軍記」であるが、値段は220円に対して605円(税込)。文庫も高くなったものだ。
 
20180103読み始め
20180104読了