モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

半眼で見るということ

2020年09月12日 | 「‶見ること″の優位」
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ブログタイトル:「侘びのたたずまい——WABism事始め」


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仏教の経典を読んでいると、「見」とか「観」という漢字がよく出てきます。
よく知られているところでは、たとえば「見性」とか「観音」とかあります。
「見性」というのは、自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること。
特に禅宗系の修行の目標を言うときに、「見性成仏」と言ったりします。
自己の本性を見極めたとき、心性が仏性そのものであると悟って成仏する、のだそうです。
「観音」は「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」を略している場合が多いですが、
意味としては「音を観る」ということで、人の話を聞いて煩悩から救い出してくれる菩薩のことを言ったりします。
人の話を聞くということを、「音を観る」というふうに表現するわけですね。

私は、仏教というのは「みるはたらき」ということを重視する宗教であると思っています。
「み(見・観)る」というのを「感覚する」に置き換えると、感覚のはたらきを仏教は重視しています。
「空」や「無」という言葉は、単純に感覚を否定しているのではなく、事象の本質は空性であること、
あるいは「見ること(感覚のはたらき)」を超えて「空・無」に至る、というニュアンスがあるようです。

大仏や如来の眼は、まぶたが半分ほど下がっていて半眼の形になっています。
座禅を組むときには、眼は半眼にして、と言われます。
なぜ半眼なのか、その正確な理由は分からないそうです。
昔、私が座禅道場でお試しをさせてもらったときには、お寺の人は「眼をつむると眠くなるから、少し開けて」と言ってました。



私が経験したところでは、半眼状態を維持することは結構難しいようです。
まぶたがブルブルと震えて、視野が安定しません。
眼を瞑ったほうが気持ちが落ち着きます。
眠くなることはありません。むしろ半眼にしたほうが眠くなりやすいです、私の場合。

私は座禅を自己流で試みているにすぎませんが、最近分かってきたことは、
少し座禅に馴れてきて持続力がついてくると、半眼状態もある程度持続できるようになるということです。
半眼で視線の先(単なる板壁ですが)を固定した状態を維持することは、ある意味で視線の先の壁をしっかりと見るということにつながります。
しっかりと見る(眼球はできるだけ動かさない)ことで、意識の中に生じる雑念や妄念を消し去ったり、起こさせなかったりすることができるようです。

初心段階では、眼を瞑って自分の呼吸(身体への空気の出入り)に意識を向けていけばいいでしょう。
目前の壁を見続けようとしても退屈感に苛まれるのがオチでしょう。
ある程度馴れてきて、半眼状態が維持できるようになると、外(視線の先)の壁の一点と内側の呼吸の両方に意識を向けます。
当ブログの前回に書いた「部分と全体を同時に見る」のと似たようなニュアンスで、外の世界と内側の世界(呼吸作用)の両方を同時に見るわけです。
これを続けていくと、予測としてはおそらく外の世界と内側の世界との区別が無くなります。

つまり「内外・自他の区別が無くなる」「心の世界と物質の世界は一如である」に通じていく修行法ということです。
これが半眼の意味ではないかと、今のところ私的にはそう憶測しています。



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