四国遍路の旅記録  三巡目 第4回 その1

宇和島から四国の南端の海を巡って

三巡目第4回の区切り打ちは、ちょっととんでもない思いつきを実行することになりました。
3月に区切った高知県須崎の先を打ち継ぐのではなく、何と宇和島から逆打ちで、宿毛、月山神社、足摺をまわって、できれば須崎までと・・。結果は、途中で所用が出来、土佐佐賀までしか行けませんでしたけど。

今回の旅には、札所をや霊場を参拝するということの他に、大きく3つの目的がありました。
一つめ。宇和島と40番札所観自在寺の間の、昔からの遍路道を歩くということ。
二つめ。月山神社周辺の海の辺を歩くこと。高知の海の辺の道のなかでも、ここはやはり特別の世界、「不思議の国」なのだと思います。私は1巡目で既に魅了された世界でした。それをもう一度味わいたいものだと・・。
そして、三つめ。ちょっと前、ある遍路サイトでも話題になっていた、旧清水往還道伊豆田越えの道を歩くこと。そう、あの長い伊豆田トンネルの上にあるという旧遍路道です。

さて、目的の一つめ、観自在寺と宇和島の間の旧い遍路道。江戸時代の文献ではどうなっているでしょうか。見てみましょう。
例によって澄禅「遍路日記」と真念「道指南」から。
まず「遍路日記」。
「・・夫ヨリ(観自在寺のこと)二里斗往テ柏ト云所ニ至、夫ヨリ上下二里ノ大坂ヲ越テ、ハタジ(畑地)ト云所ニ至ル、此所ノ民屋ニ一宿ス。・・宿ヲ出テ津島ト云所ニ至、夫ヨリ野井ト云坂ヲ越テ宇和島ニ至ル。・・」
とあり、灘道(現在の遍路道である柏坂)を越えて畑地、津島へ。野井坂を越えて宇和島に入っていることがわかります。
「道指南」ではどうでしょう。
「これ(観自在寺のこと)いなり(現在の41番龍光寺)へ道すじ三有。一すじ、なだ(灘)道、のり十三里。一すじ中道大がんだう(岩道)越、のり十三里。一すじささ山(篠山)越、のり十四里半。三すじともに岩ぶち(淵)満願寺ニ至ル。先灘道・・(略)・・次に中道、つづき、くわんじざいし。〇なが月(長月)〇大かんどう坂二里。〇さうず(僧都)村〇しょうかんどう坂三里。〇ひでまつ村〇岩淵まんぐハんじ。次にささ山越、くハんじざいよりひろみ(広見)村へもどり、〇いたお村〇まさき(正木)村・・(略)・・〇はらい川、垢離してささやまへかくる。篠山観世音寺、本尊十一面立像五尺。〇寺より三町に天狗堂。其上三所権現、此所に札おさむ。・・(略)・・〇まき(槇)川村〇みうち(御内)村〇さんざい(山財)村〇岩淵村、満願寺・・(略)・・〇野井村、くハン音堂有。〇のいのさか〇いわゐのもり(祝森)村、地蔵堂〇ひえ(保)田〇よりまつ(寄松)村、毘沙門。これより宇和島城下迄なミ松、よき道也。・・」
すなわち、宇和島から行くと野井坂越えの道。満願寺から道は三つ。灘道(柏坂越え)、中道(小岩道、大岩道越え)、篠山越えがあるということ。
その後、遍路道としても一般の街道としても、中道(野井坂道を含む)、篠山道が廃れ、もっぱら松尾峠道を含む灘道が利用されるようになった、ということのようです。

灘道については、既に過去二度歩かせていただいていますから、今回は省略。あとの三つの道を歩こうという算段です。
さてさて、どうなりますことやら・・。それでは宇和島を発つことにしましょう。
結果的には、失敗あり成功あり、まあまあ7、8分の出来というところでしょうか。よしとしましょう。
(平成22年4月6日~4月16日)





野井坂越え失敗、野井山越えとなる     (平成22年4月6日)

上に記しましたような次第で、この日は朝、宇和島を発って野井坂を越え、満願寺を経て岩松まで。そこからは、バスで40番観自在寺前まで。観自在寺にお参りした後、御荘の宿に泊まります。

宇和島市街から国道56号に沿って歩きます。
この野井坂越えの旧遍路道は、国土地理院25000地形図に点線の道として記されています。
宇和島から向って、国道56号の右側にあり、松尾トンネルの入口の上を右から左へ渡っています。国道の右側に新たに高速自動車道が出来たため、ここにあった道は無くなっていますので、国道の左側から松尾トンネル上の野井坂越えの道につながる道が出来ているはず・・という先入観。これが、先ず最初の感違い。
先入観に従って、国道の左側にある山男食堂とトンネルの間にある山道二つを上ってみました。果たしていずれも行きどまり。
山男食堂に戻って、ご主人にお聞きします。
「前にも聞かれたことあるけどねー・・この辺から山を越える道は無いよー。みんな行きどまり・・」
お若いご主人、旧遍路道なんぞと言っても通じません。いろいろ話をしているうちに、私は、インターネットの遍路サイトでYさんが「田圃の中の畦道を通って・・」と書かれていた情報を思い出したのです。
「うん、そー言やー、うちの田圃もこの先の高速道の側道の所にあるなー・・」
実はこの「高速道の側道を行く・・」がポイントだったのでした。
ありました、ありました、田圃の中の道が山の中に向っています。これが正解です。

野井坂の入口

山道(最初の所はこんな具合)

最初の所から暫くは掘割状のちゃんとした山道。しかし、200mほども上ると、倒木が転がる谷に道は消えています。
必死で目を凝らし道の痕跡を探しますが見当もつきません。下りならともかく、上りの道跡を探し当てるのは極めて困難です。
もうこうなりゃ樹に掴まって尾根を目指して強引に上るしかありません。どうにか尾根に達します。目印の送電線と送電鉄塔を探しますが、樹木に遮られて見つかりません。
ここから尾根を右に下れば峠、と見当をつけたのですが、これが誤り。
尾根を徘徊しながら、一度樹間から見えた高速自動車道の位置がどうも変だ・・とは思ったのですが。いつまで行っても峠は現れません。
こういう時には決まって石仏や道標の幻覚が現れるのです。目の悪い私にとっては、現実味のある幻覚です。あった・・、近づいて見ると木の切り株だったり、倒木だったり・・その繰り返し。
もう、我慢の限界です。尾根から上ったとは反対側に下れば、県道46号があることは分かっています。急斜面をジグザグに下ります。木の根っこに足を踏ん張り、手は木の幹を抱えます。
やがて、下方に道が。しかし崖です。出来るだけ勾配の緩いところを探し、最後は木にぶら下がって道に降ります。
暫く足が吊って動くことができません。1車線の簡易舗装の道の上に大の字になって七転八倒します。

舗装道(県道46号)へ出た所

県道46号を歩いて行くと、左側の木の枝に「へんろ道」と書いた札と赤いテープ。これが、先行者が付けた上り口(私の場合は、下り口)。
私が下りた所は、ここより2、300m西のようでした。入口マークの地点から東へ300mほど、地形図にある本来の野井坂越えの入口と思われる地点も確認しました。

満願寺に寄り、お参りします。
ご住職は、旧遍路道に詳しいと聞いています。明日の中道の様子を含め、お聞きしたいと思っていたのですが、ご不在でした。
このお寺、もう数度参っていますが、ご住職にお会いできたことは一度もありません。 

岩松川の畔

蓮華畑

長閑な岩松川の南側の道を歩きます。
明日の泊まりを予約している宿に寄って、荷物の半分ほどを置かせてもらうのです。(翌日はきつい山越えが予想されますので、少しでも荷物を減らしたいのですよ・・)

そして、前にも記したようにバスで平城札所前まで。40番札所観自在寺にお参りします。
本堂前のベンチで、よくお参りしているという地元の男性と長い話になりました。
「この本堂は、コンクリート製ですよね」が始まり。
「そうなんです。昔からしばしば火災でねー。一番最近は私が中学生だっと頃かなー、不注意でねー。それで今はコンクリート・・」話は展開・・。
「老人施設で働いてますが、難しくてねー。早く辞めて四国を歩いて回りたくて・・こうやって、歩きの遍路さんにいろいろ聞いているのですよ・・」
「いろいろ大変でしょうが、仕事辞めると寂しいもんですよ。勤められる内は・・」などと実感のお話をしたものです。

このお寺では、山門が好きです。大工さんが造ったと言われる素朴な仁王さんも。それに山門入ったところの十二支守り本尊八体仏。どこか、インドの香りがする仏さん・・私にはそう思えるのです。

観自在寺山門

観自在寺山門の遍路


観自在寺山門の山号額

山門の仁王

十二支守り本尊石仏

観自在寺境内で

寺から1.5k歩きます。
御荘の宿、磯屋さんには、毎回泊めていただいています。とっても気のいい女将さん。歓待していただきました。
4人の客で定員の小さな宿。今日も満員。後から車で来た大阪の常連の釣り客さんは泊まれません。
車の中で寝ることにして、私の室の隣のソファーで、女将さんと3人、文旦など食べながらお話しました。
この辺りは釣りの本場。この宿の屋号もそうですが、釣り客も多いのです。
45年も釣りをして日本全国回っているそうです。いろいろ専門的な話も出ましたが、釣りに興味のない私は全部忘れました。
「ワシは車ばかり・・日に何十キロも歩く人の気が知れんなー・・」はい、はい、強く印象に残った言葉でしたよ・・。

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