感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 三巡目 第3回 その3
昔の霊場、今の霊場 (平成22年3月20日)
竹林寺は昨日お参りを済ませていますので、宿より直接禅師峰寺に向います。
竹林寺から禅師峰寺への道は、へんろ地図では下田川を越えて県道247号を南下する道ですが、昔の道はどうであったのでしょうか。
真念「道指南」によると、「・・川有 舟わたし→下田村→坂→十市村→すこし坂・・」の手順となっています。
県道247号の東側にある、団地を通って十市小学校に向う道がそれに近いように思われます。この道をゆきます。
十市小の前を通過すると、山際に遍路道の標示があります。
ちょっとした山道(標高50mほど)を登ると、へんろ石も残っており、広い墓地の中に出ます。墓地の中を進むと、すぐ禅師峰寺の門前です。
32番札所禅師峰寺。
地元ではこの寺の名前を言っても「えっ・・」と問い返されます。「峰寺(みねんじ)」なのですね。
それと、禅師というから禅宗のお寺と思いがちですが、禅師というのは昔は辺路修行をする人のことをそう呼んだのだそうですね。
追記「峰寺とその奥院について」
八葉山求聞持院禅師峰寺。開基は行基菩薩、本尊十一面観音、鎌倉時代の立派な二王を有します。院号に示すように弘法大師が虚空蔵求聞持法を修した所と伝わります。
二巡目の日記(二巡目 第3回その2)に記したように、寺では奥院は介良の岩屋観音堂であると言われます。しかし「南路志」には「・・当山の西、石土の神社の側に福蛇毒蛇の二穴有、往古、毒蛇の穴より火災出て一山是が為に焼失す。・・」とあり他に奥院の記述はありません。
寂本の「霊場記」にも同様の記述があります。(寺の五町ばかり西に石土山(今は丸山とも云う)、石土神社があり、丸山という地名も残る。)
五来重は、石土神社傍の龍穴が奥院であると判断しているようです。(「四国遍路の寺」)
禅師峰寺
禅師峰寺より種崎の渡船場までは6k。
へんろ地図にフェリーの時刻表は載っていたのですが、ついつい見落とし、渡船場に着いたのは9時30分。次の発船は10時10分。
仕方なく待っていると、ちょうど良い時間に、昨日も出合った大阪のAさんがやってきて「やあー、やあー」。さすが。
次の雪蹊寺までかけ連れとなりました。Aさんは山登りが趣味、34番くらいまで歩いて区切り、高知に戻り高速バスで帰宅するとのこと。
33番札所雪蹊寺。こここそ臨済宗のお寺。88ケ所霊場の中では2ケ寺の内の一つです。
失明に近い眼病ながら17回の遍路をし、何回目かに目が開いたと言われる名僧、山本玄峰住職は特に有名です。山門の左に胸像があります。
次の種間寺までの道は、特に山際の道を歩くとき、見事な桜に出合ったり、古いへんろ石があったり趣のある道です。
ああ、懐かしいお地蔵さん。秋にはこの周り彼岸花がいっぱいだった・・。
山の桜
桜
懐かしいお地蔵さん
34番札所種間寺。
今は平地にある寺ですが、寂本「霊場記」の絵図を見ると、本堂は山上にあります。山号の本尾山の山頂ということ。
この本尾山というのは、現在の種間寺と海岸との間にある山です。寺は東向き、参道の前に川、これが新川川、そして山の下の朱雀院の位置が今に残る本尾山奥の院に当てはまるのではないか・・と想像されます。
さてさて、当たっているでしょうか。そうだとすると現在の種間寺より3kほども南東にあったということになるのですが・・。
種間寺門前名物のアイスクリン屋さん。今回はお会いできませんでした。ちょっと気温が低いから、まだお休みかも。
新川のめがね橋
仁淀川を渡る
仁淀川
春野町新川のめがね橋を見て、仁淀川大橋を渡り土佐の市街に。
今夜の宿ビジネスホテルに荷を置いて清滝寺にお参りします。
仁淀川を越えて清滝寺に参るルートについて、真念「道指南」にちょっとおもしろい記述がありますので書いておきます。
「・・二淀川といふ大河有。舟わたし、わたしば川上に有時ハ、荷物をかけきよたきへ行。わたしば大道筋川しもに有時ハ、荷物を高おか町にをき、札所へゆきてよし。」 なるほど、親切な案内書であることよ・・。
35番札所清滝寺への登りは短いけれど、けっこうきつい道です。
辿りついた仁王門の天井の龍の絵、今回初めて気がつきました。
境内は桜も咲き始め、本堂裏の山つつじも一際美しく感じられます。
お参りは全部車の方のよう。歩き遍路には会いません。
本堂向拝の下、不思議なものに気がつきました。方位盤でしょうか。
天候は急激に下り坂。寺から土佐の街の眺望は全く望めません。
清滝寺山門の龍
清滝寺本堂
清滝寺境内
山道を下ったところで青い作務衣を着た遍路に会います。
前山へんろサロンのバッジを二つも付けている・・ベテランらしい。
「種崎の渡し、何時に乗りましたー、歩きへんろいましたー・・」「あーそー、私より一便前ですなー、歩きへんろに全く合わないので不思議に思いましてねー・・」
私も同感、歩き遍路は例年に比べづっと少ないという印象ですね。
青龍寺に上る山道で (平成22年3月21日)
黄砂の朝
すざましい声をあげていた夜来の風は、まだ止む気配もありません。
それに、天気は良さそうなのに、窓の外は何やら霧のようなものが覆っていて変な様子。
昨夜、今晩の宿を予約したのですが、26k先の宿は電話不通、18k先の宿は満員、仕方なく15k先の宿になってしまったのです。前回もここはこんな具合だったような。この辺は宿探しの鬼門かもしれませんな。
外に出て見てニュースを思い出しました。これは中国からの黄砂です。太陽もまるで朧月です。
風も相変わらずだし、陰気な雰囲気。
4kほど歩くと、塚地峠の入口。休憩所があります。
屋根の下にテントを張った人、ベンチで野宿した人、休憩所は荷物でいっぱい、座る所もありません。
仕方なく休憩なしで、そのまま山道へ。
塚地峠は標高190m、それほど急坂でもなく気持ちの良い山道です。ただ峠からの眺望は今日に限ってダメです。
塚地峠への道
塚地峠
峠を下り宇佐湾沿いの県道に出れば、宇佐大橋は目の前です。
さて、また寄り道を・・。土佐市街から宇佐までのこの道、昔からの遍路道なのでしょうか。
真念「道指南」では「・・井せき村(井関)、此間小川有(波介川)、つかち村(塚地)、宇佐村・・」とありますから、ほぼ現在の塚地峠越えの道でしょう。
しかし、それより30年前、澄禅「遍路日記」では、清滝に参ったあと、渡しのある仁淀川の河畔まで戻って、新村という所から「浦伝ニ一里往テ福島ト云所ニ至ル・・」とありますから、海岸伝いで宇佐に行ったようです。
笠を必死で抑えて、強風の宇佐大橋を渡ります。
この先の青龍寺への道は、インターネットのサイトでTさんが紹介されていた旧遍路道を通ります。
澄禅「遍路日記」、「寺ヘ上ル事廿五町也。先七八町上テ少シ平カナル所ヲ往テ、又谷エ下ル事七八町、谷ハ平地ニテ田畠在リ、人家モ有。夫ヨリ奥ニ寺在リ。前二方二町ノ蓮池在。是ハ大師御作ノ池ト云。」と大変詳しい。
寺前の池とは今の蟹ケ池のことでしょうか。
また、真念「道指南」では、「いのしり村(井尻)、此所に荷物を置札所へ行。此間りう坂(竜)、りう村(竜)」とあります。
この旧遍路道、真新しい道標も出来ていて迷うことはありません。宇佐大橋を渡った所から右へ450mが峠の入口。標高100mの峠で520m上り、680m下ります。多少荒れた所もありますが、全般に歩き易い道です。
峠には、竜の一本松跡(松の巨木で中学生が両手で六人分あったと書いてある)があり、樹木の間から宇佐湾を越えて萩岬辺りが見えます。幸い黄砂は少し薄らいできたようです。
地元のおじさんにお会いします。
「ワシは毎日歩いちゅうから、腹も引っ込んできたよ・・」と腹を撫ぜます。
峠のすぐ下に一つの墓がありました。
日向国那珂郡小内海村 代右衛門 天明4年5月・・とあります。
あとでちょっと調べてみました。宮崎市の南、日南市との境に小内海という所があります。ここの代右衛門さんは遍路に来てここで亡くなったのでしょうか。
旧遍路道の標式
峠前の道から見える宇佐大橋
峠からの眺め
峠の墓
峠を下った所は、もう青龍寺の参道近く、六地蔵や四国88ケ所本尊石仏が並ぶ道です。
峠越えの所要時間は、ゆっくりで35分でした。
余談ながら・・。この日の夜、宿でこの道のことを話しましたら、同宿の修験系のお坊様に、どうせ大した道じゃない・・とバカにされました。健脚の専門家は得てしてそうです。困ったものです。
青龍寺参道の石仏
青龍寺本堂
奥の院不動堂
36番札所青龍寺。
長い石段を上ってお参りします。本堂の横から少々山道を上り、スカイラインを越えて奥の院不動堂へも。ここ靴を脱いでのお参りです。
不動堂の後は崖で樹の間から覗くと遥か下、波が騒ぐのが見えます。
(追記)独鈷山青龍寺について
「四国遍礼霊場記」には「・・大師もろこしにて投ふ独股杵此山に留りあるが故に、独股山といふなん・・堂より四町許西に奥院といふあり。九尺四方の石龕あり、不動の石像長六尺大師の御作なり。」とあります。
この辺り三つの山があり、今は独鈷山に奥の院、如意山に寺(青龍寺)、摩尼山に庫裡、客殿があります。元々は独鈷山の不動堂が札所であり、摩尼山の麓に本坊があったといわれます。
奥之院の南の断崖の下に青龍窟があり、ここは昔からの修行の場。やがて如意山中腹、そこにあった薬師堂(光明法寺)、鎮守の白山権現を横に移して不動明王を祀る本堂が移ってきます。大師堂もまたここに建立され(江戸時代以降)今に見る青龍寺の形態になったといわれます。それは修行の場所から詣でる場所への変化を物語っているのかもしれません。
また、青龍寺より次の札所への行道は、江戸期の案内書、日記に共通して、井ノ尻までもどり横波への間、舟で行くのが常であったことが伺えます。澄禅も「・・是ヨリ三里入江ノ川ノ様ナル所ヲ船ニテ往也。陸路モ三里ナレドモ難所ニテ昔ヨリ舟路ヲ行也。・・」と記します。(参考文献:五来重 「四国遍路の寺」、他)
四国遍礼霊場記 青龍寺
(令和5年9月追記)
宇佐への打ちもどりは、海岸の道を通ります。
またまた、強風に笠を飛ばされないよう抑えるのが精一杯。
その夜、宿で件のお坊様にこの話をしたら、「私らの網代笠はしっかり出来ていて・・」と、またバカにされ申した・・。
宇佐町福島の宿の前に着いたのは、午後1時よりも前。
ひとまず荷物を置かせていただいて、ちょっと目的もあって、先の道を歩こうと思っておりました。
女将が出てきて、昼飯がまだなら近くの食堂まで主人に案内させると言って聞かない。私は昼食はどっちでもよかったのですが、ご主人の軽トラで食堂まで。
食事を済ませて歩きます。
実は浦ノ内灰方の奥の土居山から浦ノ内塩間の高祖へ通じる山道の旧道があると聞いていたもので、それを探りに・・。
3、4k歩いて、土居山の畑で働いておられる、おばちゃんの邪魔をして道の様子を聞きます。
「うーん、確かに昔は道があったちゅうけど、今はだーれも通りゃーせん。最近は猪がでて道を荒らしちゅうし・・通れんと思いますよ・・」
目の前に峠が見えていて、高さも100mくらい、行って行けないこともないように見えますが、まあ、カマでも持ってないと無理かなー、と諦めたのでした。
宿に戻る道、ケイタイが鳴ります。宿の女将で、また主人にお迎えに行かせるという。いやいや、ご親切なことです。勝手に歩いてるというのに・・ね。
その夜のことは、ちょっと理由があって書きたくありません。えっ、もういくらか書いてるって・・。
浦ノ内湾夕暮れ
追記「江戸期土佐の大道、灘道について」
江戸期各藩において道の呼び名は統一されたものは無かったようですが、土佐藩いおいては「大道」と呼ばれた主要道と「山道」あるいは「小道」とよばれる山間の道があったと思われます。
また、大道の山側あるいは海側にある小道を「灘道」と呼んでいたようです。「南路志」ではこれらの道が記されていますが、そのうち東から西へつななる「大道」と「灘道」についてここにまとめて示しておくことにします。
道には渡る川や橋が示されており、その所在を測れます。なお(カッコ)内の記述は現代の呼び名です。
大道
・甲浦より野根迄 弐里半 此道阿州宍喰江出る半道有、白濱橋、河内川
・野根より奈半利川迄七里、皆坂也。 野根川 水出ニハ一両日モ渡なし
・奈半利より安喜(安芸)迄四里、奈半利川水出ニハ船渡り 安田川、名村川、伊尾木川、安喜川(安芸川)
・安喜より岸本(加賀美町岸本)迄四里
・岸本より高智(高知)迄五里 赤岡川(赤野川)、物部川水出ニハ渡なし、金丸川(香宗川)小橋あり、布師田橋、此嶋橋、山田橋
・高智山田橋より蓮池(土佐市蓮池)迄四里 鴈切川(鏡川)水出ニハ船渡し、海老が橋、二淀川水出ニハ渡なし
・蓮池より須崎迄五里、分切(フンキり)橋、戸波東渡水出渡あり、市野々渡水出渡有、土崎川水出渡有
・須崎より窪川迄七里、須崎川水出舟渡、久礼川無渡、日柄だ川無渡、平越枝川水出渡なし、かと屋坂廿七町、やけ坂拾七丁、そへみみず坂壱里、よふ坂五丁
・窪川より井田(伊田)迄六里、小黒川水出舟渡、佐賀川水出舟渡、片坂六丁、たかみこ坂壱里十丁
・井田より中村迄四里、川口川水出舟渡、入野川、佐岡枝川水出舟渡、入野大坂三十丁
・中村より宿毛迄六里、中村川水出舟渡、有岡枝川水出船渡、宿毛川水出船渡
・宿毛より大深浦境目迄壱里半、豫洲領小山村江出ル、
〆て 五拾六里
灘道
・甲浦より野根迄 弐里半、 白濱川、河内川、(元越の道か?)
・野根より崎濱(佐喜浜)迄四里、牛馬不通、野根川、崎濱川(山越の道か?)
・崎濱より奈半利迄拾壱里、牛馬不通、窪津川、吉良川(東ノ川)、吉良川西渡(西ノ川)、羽根川、須川
・奈半利より安喜(安芸)迄四里、奈半利川、安田川、安喜川、名村川、伊尾木川
・安喜より岸本(加賀美町岸本)迄四里、窪内川、赤野川、和食川、夜須川
・岸本より新居(土佐市新居)迄八里、古川、物部川、浦戸湊口、甲殿川、新居川口(仁淀川河口)(海岸の道)
・新居より須崎へ六里、土崎川
・須崎より上加江(四万十町上ノ加江)迄五里、須崎川、久礼川
・上加江より与津(四万十町与津地)へ五里、牛馬不通
・与津より入野へ七里、佐賀野川、川口、入野川
・入野より下田へ三里、
・下田より下茅(下ノ加江)へ四里、下田川(四万十川)舟渡し
・下茅より足摺へ六里、三原川 (遍路道)
・足摺より清水へ三里、清水渡舟渡し(遍路道)
・清水より頭集(大月町頭集)へ七里、三崎川、川口(往還道)
・頭集より宿毛へ六里、福良川、湊浦川口、宿毛川口 (遍路道)
・宿毛より藻津(宿毛市藻津)へ三里、 豫洲北山(小山?)村へ出る。
〆て 八拾七里半