四国遍路の旅記録  平成28年春  その3

阿波の昔の遍路道 (地図遊び)

徳島大学附属図書館のHPを見ていて、一つの古地図が目に留まりました。それを基に、地図遊びをすることを思いつきました。
「阿波国那賀海部二郡全図」


                                 (この地図は拡大不能、判読不能です)

一見すると絵図仕立てが稚拙ですが、それまでの阿波国全体の絵地図等に比べ海岸線、川、山地の形状かなり正確に表示されており、注目すべき地図であると思われます。
解説に依れば、これは写図であると見られますが、元図は徳島藩が享和2年(1802)~天保2年(1831)に、磁石や矢倉を用いて距離を実測する近代的な方法により作成したものと見られるということです。
この地図に当時の主要道が赤線で示されているのです。江戸時代(「藩政期」と呼ぶべきか)この地域(鶴林寺から土佐国境まで)において多くの遍路が通行したと思われる主要な道筋を確認してみたいと思います。
その前に、江戸時代に数度その作成が実施された阿波国大絵図の内、慶長版(1609頃)、寛永版(1640頃)、元禄版(1700頃)(以上、徳島大学附属図書館蔵)天保版(1838)(国立公文書館蔵)において、徳島城下を出て立江から土佐国境に至る主道が如何に記されているかを見ておきましょう。
(これらの地図は、文字通り絵図であり地図としての正確さはもとむべくもありませんが・・敢えて正確さをもとめなかったという節も・・)
絵図に示されている道は「土佐街道」(土佐浜街道、または土佐東街道とも)と呼ばれる道です。もっとも、江戸時代、この地方では「街道」という呼名は用いていなかったとも言われます。「・・往還」(あるいは「・・道」、「・・大道」)と呼ぶ方がよいのかもしれませんんが、ここでは便宜的に街道の呼称を用います。
さてそれはともかく、道筋を辿ってみましょう。(街道の一里松があった場所には〇を付します。)
徳島を出た道は、〇日開野、〇田野を経て立江村辺りから阿千田越の道へ。
この道、私は立江寺から取星寺へ行く道として歩きました。(平成24年春その1 h24.4)今も地元の方々の努力で古道の雰囲気が保存されている楽しい道です。しかしこの街道の道筋、山越えの不便さからいつの頃からか東方の山裾を迂回、〇宮倉経由に付け替えられたようです。
岩脇村から那賀川を渡り、南島、〇岡、西方、本庄の各村を経て、桑野川に沿った荒井、〇明谷、〇桑野の村へ。ここより、ほぼ今のJR牟岐線に沿う道。廿枝、〇動々原、鉦打(鐘打)。ここで新野の平等寺から南下しきた道(遍路道)と合流します。〇小野村、(松坂)、田井村、〇木岐浦、〇日和佐田井、(小田坂)、北河内村、〇西河内村、(丹前坂)。(日和佐浦、潟村、(横川坂(横子峠))あるいは日和佐川沿いに落合を経る道は脇道。)〇山河内村、(かんば坂)、〇橘村、〇河内村赤水、牟岐浦。(大坂)、(松坂)、〇内妻村、古江村、福良村、鯖瀬村、(東ノ浦坂)、(伊勢田川)、〇浅川村、(からうと坂)、〇四方原村、大川(海部川)、〇高園村、(母川)、(馬路坂)、那佐村、〇宍喰浦(久保)、国境峠、甲浦。(大絵図には、山を越える峠の名は記入されていません。適宜追加しました。)
この土佐街道の道筋は大絵図の慶長版、元禄版、天保版では共通していますが、寛永版においては、鐘打の先、星越峠、九毛村(九望)を経て北河内村に出る道(現在の国道55号線に近接した道筋。)が示されています。

さて、前記の「阿波国那賀海部二郡全図」に示された細赤線(主要道)に拠って鶴林寺以降の道筋(遍路道)を確認してゆきましょう。(因みに赤太線は郡境、黒線は村境です。)道連れに、江戸時代の遍路記、案内書等の内4つ(①澄禅「四国遍路日記(1653)、②真念「四国遍路道指南」(1687)、③細田周英「四国遍礼絵図」(1763)、④「四国遍礼名所図会」(1800写))を適宜参照させていただきます。

地図(1)(「阿波国那賀海部二郡全図」の一部)


鶴林寺から大井に下る道は18丁、那賀川を舟で渡り水井村(若杉)から谷川に沿って18丁余、山道18丁余、以上計1里半で太龍寺。ここまでは遍路記の②③④で共通しています。
②「道指南」で「大師御行脚のすちハ加茂村、其ほど二里・・」と示す「かも道」も地図上に表示されています。①澄禅が記す「細谷川ヲ付テ行事一里半、・・大坂五十丁・・鶴ヨリ太龍寺まで二里」は、ちょっと計算も合わず、いずれの道を行ったのか・・判断し兼ねます。
太龍寺からの下りは「岩屋」があった「いわや道」で各遍路記とも共通しているように思えます。阿瀬比村、大根坂を経由して荒田野村、平等寺まで二里強。
大根坂を通らない古の道は②に「本道ハ山口村かかる三里」と紹介する桑野川に沿った道と思えます。
地図に目を凝らすと阿瀬比から上る道が見られます(後の平等寺道か)。この道、いわや道に繋がっていないように見えますが・・さて。
遍路道は、平等寺から月夜村を経て鉦打で前記の土佐街道に合流します。ただし、月夜御水庵(大師堂)より先の旧道は、現在の遍路道ではなく西側の尾根を通る道であったようです。それは現在の遍路道と外れた鉦打への下り口に徳右衛門標石が残されていることからも裏付けられます。
遍路記④では「月夜庵大師安置、腰掛石・・、閼伽井・・、月夜坂打ちこし、金打村茶屋二て支度。金打坂打越し・・ゆるぎ石・・逆瀬川・・」とあります。③②でもほぼ同様の記述がみられます。
なお、前記の土佐街道の経路もこの地図で確認できます。

地図(2)(「阿波国那賀海部二郡全図」の一部)


尾根を通る鉦打坂が表示され、弥谷観音への寄り道も示されているようです。
小野村(地図上では無記)の先で、九毛村(地図上では北川内村の内)を経るもう一つの土佐街道を分岐して、貝谷坂、松坂(江戸期の遍路記では「貝谷坂の名はみられません。松坂に含まれるようです。)松坂を越えて田井村に出ます。
遍路記②③④とも田井村を経由する道を紹介しており、九毛村経由の道については触れられていません。何れの道も古くから主要道であったと思われますが、江戸時代を通じて土佐街道と呼ばれたのは田井を経る道の方で、明治34年に、星越峠、九毛を経由する道が土佐街道と名称変更されたということ。江戸期の遍路記に登場する道筋の理由が分かったような気がします。
この道、②④で7里と記されていますが、やや長めの見積りと思われます。
①澄禅の記録には村名が殆ど登場しないことが、その道筋の判断を困難にしているのですが、「海」とか「波打ギワ」などの表現があるところから、田井経由であったと判断されることが多いようです。
九毛経由の土佐街道。この道、私は平成24年4月に手探りで歩いたところです(平成24年春 その2)が、気付いたことを一つ。現在国道55号線の一ノ坂トンネルが通っていますが、私はその上の峠を越える旧道があったと思っていました。しかし、この地図を見ると北河内川の蛇行に沿ってぐるっと迂回する道が示されています。峠道は無かったのかもしれません。
田井村から、苫越坂、木岐浦、大坂、日和佐田井村、小田坂、北河内村、日和佐浦、そして薬王寺へ。ここに「大坂」とある道筋は、現在の白浜から「俳句の小径」を通り山座峠から田井(日和佐田井)に下る道(「四国のみち」)ではなく、それとほぼ併行して西側の尾根を通る道でした。
田井に下った道は再び小田坂峠に向けて上ります。峠を越えれば北河内そして薬王寺です。
地図には、小田坂とともにその南、えびす洞辺りの海岸を通らない、おそらく尾根道で日和佐に通ずる道も表示されています。この尾根道、今はその一部が「四国のみち」になっていますが、昔は「後山越」(後山坂)と呼ばれていたようです。
田井から北河内までの道筋、②「道指南」では「○だい村、とまごえ坂、○きゝ浦、おほ坂、○ひわさ、たい村、をだ坂くだり川有。○北かわち村。」と案内し、また④では「鯛村浜辺というあり、苫越坂小坂也九曲、木岐浦・・・蛭子浦茶屋にて支度。後山坂此峠より、伊勢戸磯、茶たて岩、弁天じま、日和佐、川口、八幡の松原、絶景いわんかたなし。日和佐浦・・」と記し、小田坂ではなく後山坂を採ったと思われます。
現在風光明媚な遍路道となっている海岸の崖道、昔は一部存在したとしても主要道にはなりえなかったと思われます。
それに関して思い当たること。当然のことながら、今は車の道、昔は人、牛馬の道であったこと。前出の阿波国大絵図元禄版には国境の峠道に「・・牛馬通」とか「・・牛馬不通」などと注釈が付されているのです。
薬王寺から、潟村(地図では奥川内村の内)、横川坂(横子峠)を越え山河内村。薬王寺から日和佐川沿いに進み、丹前坂を通る道は、遍路記④に奥の院玉づし山(泰仙寺)に行く道として記されています。「本道は左、奥院右へ行。北河内村河原土手行く、丹前坂森の内社の側より登ル、西河内村谷川渡り。是より玉づしへ十丁、・・」
昔は日和佐川に沿って西河内、山河内へ行くのではなく、山越えの道が一般的であったのでしょう。
前記の土佐街道の一里松の存在場所からすると、丹前坂を経る道が主道であったと思われますが、遍路道としてはこの道を含め、潟村、横川坂(横子峠)を経る道を主に日和佐川に沿う道も適宜利用されたのでしょう。
山河内からは、かんば坂を通り橘村を経て牟岐浦に至るのが土佐街道の主道です。
この道、②「道指南」には「○かた村、よこかう坂、○山川内村・・かんばが坂、山越、たち花、○こま川、○ほとり、○かうち、○むぎ浦」と記されています。(③もほぼ共通。山河内村以降は④もほぼ同じ。)
遍路記①で澄禅は「寺より一里斗往テ一宿シ・・宿ヲ立テ又ヲリテハ海ニ掛ル・・草深き難所を上下シテ五里斗行テ、浅川ト云所ノ地蔵寺ニ一宿ス・・」と記しています。この記述より、山河内から白沢、ゲダノタオを越えて灘村を経る道をとったと解するむきもあるようですが、他に道が無いならともかく、この大坂(標高400m)を越えたとするのは如何なものでしょうか・・「・・草深き難所・・」の表現と遍路記④の寒婆坂(かんば坂)の「小坂しば山甚だけわし」の記述と符合を感じますし、それに「海ニ掛ル」の海は牟岐からの海だと思えます。

地図(3)(「阿波国那賀海部二郡全図」の一部)


牟岐から浅川まで二里は「八坂々中、八浜々中」と言われる坂と浜の繰り返し。道は土佐街道、主な枝道は、熟田(ずくだ)への道(長らく古道が残されていましたが、今は新道(車道))、海部川に沿って吉野、吉田、富田への道、母川沿いに櫛川への道など。
浅川の先は右に行き、からうと坂、四方原村を経て大川(海部川)、支流母川、渡る。高園村、なさ坂(馬路坂)を越え那佐村(地図では無記)へ出るのが主道。
四方原村の所、遍路記②③④には年貢放免の免許村の名を記します。また、奥浦、鞆浦という賑わった港は主道を外れるため、両浦の人が遍路の便を図り、直接那佐に抜ける道を開いた・・というようなことが②に記されています。

ここで、地図上にもない一つの道について追記しておきましょう。
中山村と久保村の境の鈴ケ峰という山の上に、大師開山と伝える円通寺があって、1370年観音堂が建てられ参詣者で賑わったといいます。南側の久保から参道が通じています。久保には明和2年(1765)の道標(「是より十八町」と観音堂を案内します)も残ります。昔は、北側の櫛川から尾根伝いに落合へ通ずる峠(クレギトウ)を経て鈴ケ峰に達し、参道を下って大野から元越に至るのが往環道であったとの伝えもあるようです。
あるいは、馬路坂、居敷坂が開かれる以前のことであったのかもしれません。(この道は現在も歩くことが可能で、恰好なハイキングコースともなっているようです。)
(追記)鈴が峰付近の現在のルート図を載せておきます。

宍喰浦、ここより古目番所を経て、国境の甲浦越(古目坂とも呼ばれる)そして土佐の甲浦へ。もう一筋脇道、宍喰より元越を経て土佐の白浜へ。

以上、鶴林寺から土佐国境まで、江戸時代から明治まで多くの遍路が歩いたであろうと思われる道筋を追ってみました。(ここに掲載した地図は、徳島大学附属図書館の許可をいただきました。モニター画面をとり込んだため、不鮮明なところはお赦しください。なお、札所寺の寺名だけは貼り付けさせていただきました。)

ここに示した鶴林寺から土佐国境に至る道、私はこれまで4度か5度通ったことになるのですが、古道を意識して歩いた比較的新しい日記を列記すれば次の通りです。
平成24年春 その2 (鶴林寺から星越峠経由薬王寺)、平成24年春 その3 (薬王寺から那佐)、平成24年春 その4 (国境峠、小田坂峠他)  平成24年秋 その2 (貝谷峠、松坂峠から日和佐)、 平成27年夏 (かも道、いわや道、太龍寺道、平等寺道)
とは言え、旧道のいくつかは通ることができていません。旧道の入口近くの家にお邪魔して、道を問うても教えて戴けることは極めて稀です。これらの道が生活道で無くなってもう多くの年月が経っているのですから・・ 
これまで通っていない道をほぼ北から南へあげてゆけば、月夜から鉦打の尾根道、鉦打からの鉦打坂と呼ばれた尾根道、田井から木岐に至る苫越坂旧道、白浜から日和佐田井に至る旧山座峠の道、そこから北河内への小田坂峠越えの道といったところでしょうか。
これらの道のうちいくつかは、最近「阿波の峠を歩く会」のサイトで紹介されました。ありがたいことです。その情報は渋る足腰をふるい立たせることになりました。頑張って歩いてみましょう。
結果としては、「歩く会」で歩かれ、ルートを公開された道は歩くことができました。そうでない道は歩けませんでした。
歩けない道は歩く気がおきない道でもありました。「歩く会」で歩くために必要最小限の手が入っているということです。これが重要なことです。全く「歩く会」のお蔭さまなのでした。           
                                             (h28.3)

(追記)江戸時代の地図をもとに探った古い遍路道のうち、上記の未通区間のいくつかについてその後通ることができました。(次の日記「平成28年春 その4」)
そこで、鶴林寺から土佐国境までの現在の地図を載せて(リンク)おくことにします。旧道の地道の多くは地図上の赤点線で示されています。細赤点線のルートは通行不能または未確認の道を含んでいます。(追記h29.7)
 鶴林寺付近    太龍寺付近     平等寺付近    小野付近    由岐付近
 木岐・久望付近     日和佐付近    山河内付近   辺川・白沢付近
 牟岐付近     浅川付近     海部付近     宍喰付近     甲浦付近                                    

 

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