四国遍路の旅記録  平成28年春  その4

旧土佐街道の道、月夜から薬王寺まで

22番平等寺から23番薬王寺まで、「地図あそび」で見てきた旧土佐街道の遍路道を辿ってみたいと思います。
この度の旅は22番から23番まですっきり一方向に歩いたのではなく、行きつ戻りつした箇所もあるのですが、日記の方は原則、北から南へと記してゆきましょう。
平等寺から鉦打までは、土佐街道ではありませんが古くからの遍路道であったと思われます。特に、六度山善修寺のある広重と御水庵のある月夜は大師所縁の地と伝わる所。
月夜御水庵は遍路道上の番外霊場であるとともに、それ以上に地域の信仰を集める霊場としての位置を占めているように思えます。私は、善修寺の奥の峠道を歩いていて「月夜大師」と刻された手指し道標を見ています。

 月夜大師」の手指し道標

御水庵は桜の花の下でした。
大師堂の幽玄な雰囲気。六地蔵、それに台座に「月夜女講中」と刻まれた地蔵菩薩を中央に宝篋印塔と庚申塔が並びます。庚申塔は阿瀬比の専念庵で見たものと同形式のものと思われます。
御水庵から道に出た所、崖下に一体の不動明王があります。その謂れは知りません。

月夜御水庵大師堂


地蔵尊、庚申塔、宝篋印塔

 御水庵外の不動明王

月夜から鉦打に通ずる現在の遍路道は新しい道。古い道は、右側の尾根を通る「月夜坂」と呼ばれる道でした。
尾根に上る道は見当が付きます。新道を造るときに配慮されたと思われる立派な階段が設けられています。しかし、この階段を上って月夜坂を辿ってみるのは、ちょっと躊躇いがあります。新道を行きます。

 尾根道への階段

 竹林

右側の山の斜面には立派な竹林が見られます。この辺りは竹の産地です。たけのこ、竹製品、竹炭など阿南市の誇る特産品です。
鉦打側から逆に月夜坂を辿ってみることにします。
福井ダムに通ずる新しい道から右に外れ、谷の道に入ります。
谷に沿って山道を上ると、そこは予想通りの石造物の密集地でした。
先ず、顔面のない座姿の地蔵。(ふと、伊予笠置峠の地蔵を想い出しました。)その奥に多くの遍路墓。地蔵を載せた立派な墓には「備后國福山領沼隅郡長和邑俗名圭助」「文化十五寅三月・・」とあります。(この地名、現在は「福山市瀬戸町大字長和」として残っています。)
その横、安永、天明、文化、安政の年号を見る墓。文化三年銘の宝篋印塔。そして一番奥に「従是薬王寺五里半」の徳右衛門標石。珍しく左側面に歌が刻まれています。
「四つの国あゆみをはこぶくりき二て飛と阿しづつ尓きゆるつミとが」。
劣化の少ない美しい標石です。

 鉦打の地蔵

 遍路墓

徳右衛門標石

谷に沿った道を更に上ります。
今は通る人も殆ど絶えたような草に覆われた道ですが、最近までは峠を越えて隣村の平川内に通じていた生活道であったと思えます。峠で月夜からの尾根道に繋がり、これが月夜坂と呼ばれた遍路道。
谷には、それほど遠くない時に水田であった小さな廃田が点々と。右側の山裾には墓も。ここもまた消えていった村なのでしょうか。
谷の道は峠の前で竹林の中に消えていました。竹林を無理やり上がれば尾根に達することはできそうですが・・ 道を戻ります。

 谷に沿う道

 竹林で行き止り

福井川を渡り少々南へ、鉦打坂の入口へ向います。
新国道沿いに薬師堂があります。
堂横の案内板には様々なことが記されて」います。旧土佐街道中屈指の難所であった鉦打坂で病に倒れた旅人のため里人は養生所を建て、また病没者を弔うため供養塔を建立したこと。その後、享保4年(1717)に薬師瑠璃光如来を祀ったのがこの薬師堂の始まりと伝えること。
堂内には3体の仏が安置され、左が立姿、右2体が座姿でいずれも薬師如来と思われます。
立姿の薬師には享保四年と刻まれ、右2体の台座には延享四年(1747)の銘があります、伝えられる最初の薬師は左の一体ということになると思われます。
薬師堂の隣に大師堂があります。
このお堂は大師が修行の場とした弥谷渓谷(後に平等寺奥の院弥谷観音)に係わりの深いもので弥谷観音の前堂として弘化2年(1845)に建立したものと伝えます。
鉦打坂はここから少し行った所から山に入る道と思われます。
竹林の中の道で、倒れた竹が道を塞ぐように置かれています。(以前来た時は、倒竹はなく少なくともここは通れたように記憶しています。或いは入口の場所を間違えたかもしれません。)
とても入って行く気にはなれません。諦めます。
難所であったとは言え鉦打坂は標高差100ほどの山、尾根道は残っていると思われます。
福井トンネルを出た所に山から下る斜面があります。鉦打坂の出口はこの辺りと思われます。

 薬師堂と大師堂

 薬師如来

 鉦打坂の入口

 鉦打坂の出口

弥谷観音に寄ります。
大師はここで如意輪観音を刻み、修行の後、不二地蔵、笠地蔵、四寸通し、硯石、ゆるぎ石、日天月天、胎内くぐりの七不思議が遺されたと伝わります。実際の修行の場と伝わるのは今は福井ダムの水の下に沈み、観音堂を含めすべて高地に移設されたものです。
ダム湖は新たな観光地となり、近隣からけっこうな人が車で訪れる地となったようです。
霊地は観光地に様変わりしたように思われます。

 弥谷の笠地蔵

 弥谷観音堂

県道25号に入り、土佐街道の小野の一里松跡、茂兵衛標石(153度目、明治30年)を見て貝谷へ。
貝谷から田井に行く、土佐街道貝谷坂、松坂は、2012年11月(平成24年秋 その2)に通りました。当時は藪漕ぎの箇所もある道でしたが、最近「阿波の峠を歩く会」が通り、手を加えられており通行し易い道となっていると思われます。
この日は、現在の遍路道である由岐坂峠越えの道を行きます。
峠には那賀郡と海部郡の郡界標があります。今では二車線立派な車道になって、その雰囲気は想像できませんが、この道は古くからの道です。この道を歩いていても殆ど車に会いません。交通量は少ないように思えます。道の拡張整備が終了した途端に、自動車専用の日和佐道路が完成したということ。道路行政の矛盾を感じないと言ったら正直ではなさそうですね。
由岐坂峠から分岐して東由岐に下る道は、旧いみちの風情を残す道です。

 由岐坂峠の郡境標


 由岐坂峠から東由岐に行く道、鉄道も見える

田井ノ浜は美しい砂浜です。季節、天候により様々な顔を見せてくれる海ですが、今はのっぺりとして矢鱈に広い。浜を歩く人影は二つ三つ。

 田井ノ浜


田井ノ浜


田井ノ浜


田井ノ浜

木岐トンネルの手前の道を左に下り、苫越坂を見ておきます。
白い標柱に「土佐街道苫越登り口、一里松跡と薬王寺二里の道しるべ(この上三十米)」とあります。
道しるべとは徳右衛門標石を指すと思われます。
荒れた道を上り30m辺りを探しますが、何も見つかりません。
トンネルの上辺り、荒れた道は続いていますが、深追いは止めておきます。

 苫越坂

木岐小学校の前を通ります。
いつかの日、「おへんろさーん、がんばってー・・」の大合唱が聞こえてきたことを想い出します。今は春休み。静かな校庭でした。
小学校の傍に古い(延宝7年(1679))六地蔵があります。
木岐の街では、手造りのフクロウの接待を戴きました。そう・・Nさんの家の前です。
木岐駅近くの照蓮標石にも始めて出会います。今の遍路道から少し外れていますのでいつも見落としていました。

木岐の六地蔵

 木岐の照蓮標石

 木岐の照蓮標石

 木岐浦

南白浜の海岸にある安政南海地震の津波の様子が刻まれている石燈籠。今は注目度が高いですね。その前を通り「俳句の小径」を経て山座峠へ行くルートが今の遍路道。
旧土佐街道はそれより高い尾根に近い場所を通っていました。この道は石燈籠の裏の王子神社の境内から始まります。
その細道を山に向っていると、地元のご夫婦が速足で追ってきて
「おへんろさーん、道ちがうよー・・」 「昔の土佐街道の道を・・」と言うと
「とのさま道か・・あれは通れん・・」 行けるとこまで・・とか何とかの押し問答の末、やっと許してもらう始末。
それほど悪い道ではありませんが、旧土佐街道という雰囲気はありません。
所々、枝を落とした跡。急坂の所にはトラロープと赤テープ。「歩く会」の手が入っています。ロープが無いと登れないというほどではないのですが、それで進む道が示されているのが一番ありがたいことです。一度車道を横断します。
人工的な石積みがある所が峠と思われます。
下って行くとやがて樹木の間から車道が見えてきます。車道に下りた所は今の山座峠から西へ5、600m行った所。
ここからヘアピンカーブする車道を2度横断して、田井(日和佐田井)の集落の道に下るのですが、この道は最悪。車道が昔の道を破壊していますし、不法投棄の大型ゴミも多く見られます。
今の山座峠まで車道を歩き現在の遍路道を下った方がよいかもしれません。とにかく四苦八苦で田井の田圃の中の道へ。


旧土佐街道旧山座峠越


旧土佐街道旧山座峠越


旧土佐街道旧山座峠越


旧土佐街道旧山座峠越


峠(旧山座峠)

 車道に出る


田井の村の道へ、後方が越えてきた山

そこから旧土佐街道の二つ目の峠道、小田坂に入るのです。
小田坂の入口は、以前少し奥の八坂神社の辺りを探ったことがありましたが、見付けられませんでした。今回も「歩く会」の札とトラロープが無ければ、その入口を見付けることはできなかったでしょう。
入口の坂を上れば後は一つ目の道とはうって変わった良い道。旧土佐街道を想わせる掘割状の道も随所に残っています。
二度ほど峠状の地形を越えて上り下りし、猪のヌタ場、まだ使えそうな程の炭焼窯を見、椿の下を歩いて峠に着きます。
そこには「一本松」と書かれた標柱があります。昔、峠には一本松があったのでしょう。開けた場所があります。


旧土佐街道小田坂越


旧土佐街道小田坂越

 炭焼窯

 落ち椿

 峠近く

 小田坂峠

峠からの下りは北斜面をトラ
バースする道。
「花折地蔵」と呼ばれる、この道で唯一の地蔵があります。「明治八年・・」(?)の銘が読みとれます。
やがて、北河内の井上の集落に通ずる一般道へ。
その出口は、水路に木材を渡した仮橋。
私は2012年4月、北河内側から小田坂を探り失敗しています。その時はこの前の道を左折したのを覚えています。その時はこの仮橋は無かったかも・・ とてもここが小田坂の入口であるとは気付きませんね。

 花折地蔵

 下り道


小田坂越の出口

井上の住宅の間を抜け、河畔の桜がチラホラの河内谷川を渡って、北河内駅近くの真念石も見ることができました。
判然とはしませんが「右大く巳んみち 左やく巳う寺みち」と彫られているようです。左は薬王寺道と明らかですが、右は往還道とでも読むのでしょうか。
今の遍路道から少し外れた道の傍の草の中。寂しそうに佇んでいる真念石でした。


河内谷川畔の桜


北河内本村の真念石

 真念石

ここから河内谷川の畔の道を通って薬王寺まで行きました。

 薬王寺

こうして、旧土佐街道の道を追って、木岐から北河内まで二つの峠を越えることができました。
そしてその道の素晴らしさを感じるとともに、木岐から日和佐までの現在の遍路道が如何に素晴らしい道であるか・・その恵比須の浜、日和佐の浜の情景ゆえに・・を確認させられることにもなりました。
せっかくここまで来たのですからと、田井から日和佐までの浜の道を歩き直してみました。海の風景は季節により、天候により、時刻により千変万化です。
この日の海は、どちらかと言うと薄墨のモノトーンの世界でした。それはそれなりの美しさです。何か
言うより、写真を貼っておいただけがよいでしょうけれど。
打ちよせ、渦巻き、帰ってゆく波の繰り返し・・


浜の波


浜の波


浜の波


浜の波


浜の人


地図(平等寺付近)

地図(鉦打付近)

地図(由岐付近)

地図(木岐付近)

地図(日和佐付近)

                                          (3月29日、30日)


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )