カナ文字文庫(漢字廃止論)

日本文学の名作などをカナ書きに改めて掲載。

ジンセイロン ノート 1

2017-12-22 | ミキ キヨシ
 ジンセイロン ノート

 ミキ キヨシ

 シ に ついて

 チカゴロ ワタシ は シ と いう もの を そんな に おそろしく おもわなく なった。 ネンレイ の せい で あろう。 イゼン は あんな に シ の キョウフ に ついて かんがえ、 また かいた ワタシ では ある が。
 おもいがけなく くる ツウシン に クロワク の もの が しだいに おおく なる ネンレイ に ワタシ も たっした の で ある。 この スウネン の アイダ に ワタシ は イチド ならず キンシン の シ に あった。 そして ワタシ は どんな に くるしんで いる ビョウニン にも シ の シュンカン には ヘイワ が くる こと を モクゲキ した。 ハカ に もうでて も、 ムカシ の よう に インサン な キモチ に なる こと が なくなり、 ハカバ を フリードホーフ (ヘイワ の ニワ―― ただし ゴゲンガク には カンケイ が ない) と よぶ こと が カンカクテキ な ジッカン を ぴったり いいあらわして いる こと を おもう よう に なった。
 ワタシ は あまり ビョウキ を しない の で ある が、 ビョウショウ に ヨコ に なった とき には、 フシギ に ココロ の オチツキ を おぼえる の で ある。 ビョウキ の バアイ の ホカ シンジツ に ココロ の オチツキ を かんじる こと が できない と いう の は、 ゲンダイジン の ヒトツ の ケンチョ な トクチョウ、 すでに ゲンダイジン に きわめて トクチョウテキ な ビョウキ の ヒトツ で ある。

 じっさい、 コンニチ の ニンゲン の オオク は コンヴァレサンス (ビョウキ の カイフク) と して しか ケンコウ を かんじる こと が できない の では なかろう か。 これ は セイネン の ケンコウカン とは ちがって いる。 カイフクキ の ケンコウカン は ジカクテキ で あり、 フアンテイ で ある。 ケンコウ と いう の は ゲンキ な ワカモノ に おいて の よう に ジブン が ケンコウ で ある こと を ジカク しない ジョウタイ で ある と すれば、 これ は ケンコウ と いう こと も できぬ よう な もの で ある。 すでに ルネサンス には そのよう な ケンコウ が なかった。 ペトラルカ など が あじわった の は ビョウキ カイフクキ の ケンコウ で ある。 そこ から しょうずる リリシズム が ルネサンス-テキ ニンゲン を トクチョウ-づけて いる。 だから コテン を フッコウ しよう と した ルネサンス は コテンテキ で あった の では なく、 むしろ ロウマンテキ で あった の で ある。 あたらしい コテン シュギ は その ジダイ に おいて あらた に おこりつつ あった カガク の セイシン に よって のみ カノウ で あった。 ルネサンス の コテン シュギシャ は ラファエロ で なくて リオナルド ダ ヴィンチ で あった。 ケンコウ が カイフクキ の ケンコウ と して しか かんじられない ところ に ゲンダイ の コンポンテキ な ジョジョウテキ、 ロウマンテキ セイカク が ある。 イマ もし ゲンダイ が あたらしい ルネサンス で ある と した なら、 そこ から でて くる あたらしい コテン シュギ の セイシン は いかなる もの で あろう か。

 あいする モノ、 したしい モノ の しぬる こと が おおく なる に したがって、 シ の キョウフ は ハンタイ に うすらいで ゆく よう に おもわれる。 うまれて くる モノ より も しんで いった モノ に いっそう ちかく ジブン を かんじる と いう こと は、 ネンレイ の エイキョウ に よる で あろう。 30 ダイ の モノ は 40 ダイ の モノ より も 20 ダイ の モノ に、 しかし 40 ダイ に はいった モノ は 30 ダイ の モノ より も 50 ダイ の モノ に、 いっそう ちかく かんじる で あろう。 40 サイ を もって ショロウ と する こと は トウヨウ の チエ を しめして いる。 それ は たんに シンタイ の ロウスイ を イミ する の で なく、 むしろ セイシン の ロウジュク を イミ して いる。 この ネンレイ に たっした モノ に とって は シ は ナグサメ と して さえ かんじられる こと が カノウ に なる。 シ の キョウフ は つねに ビョウテキ に、 コチョウ して かたられて いる、 イマ も ワタシ の ココロ を とらえて はなさない パスカル に おいて さえ も。 シンジツ は シ の ヘイワ で あり、 この カンカク は ロウジュク した セイシン の ケンコウ の チョウヒョウ で ある。 どんな バアイ にも わらって しんで ゆく と いう シナジン は セカイジュウ で もっとも ケンコウ な コクミン で ある の では ない か と おもう。 ゲーテ が テイギ した よう に、 ロウマン シュギ と いう の は イッサイ の ビョウテキ な もの の こと で あり、 コテン シュギ と いう の は イッサイ の ケンコウ な もの の こと で ある と すれば、 シ の キョウフ は ロウマンテキ で あり、 シ の ヘイワ は コテンテキ で ある と いう こと も できる で あろう。 シ の ヘイワ が かんじられる に いたって はじめて セイ の リアリズム に たっする とも いわれる で あろう。 シナジン が セカイ の いずれ の コクミン より も リアリスト で ある と かんがえられる こと にも イミ が ある。 ワレ いまだ セイ を しらず、 いずくんぞ シ を しらん、 と いった コウシ の コトバ も、 この シナジン の セイカク を ハイケイ に して ジッカン が にじみでて くる よう で ある。 パスカル は モンテーニュ が シ に たいして ムカンシン で ある と いって ヒナン した が、 ワタシ は モンテーニュ を よんで、 カレ には ナニ か トウヨウ の チエ に ちかい もの が ある の を かんじる。 サイジョウ の シ は あらかじめ かんがえられなかった シ で ある、 と カレ は かいて いる。 シナジン と フランスジン との ルイジ は ともかく チュウモク す べき こと で ある。

 シ に ついて かんがえる こと が ムイミ で ある など と ワタシ は いおう と して いる の では ない。 シ は カンネン で ある。 そして カンネン-らしい カンネン は シ の タチバ から うまれる、 ゲンジツ あるいは セイ に タイリツ して シソウ と いわれる よう な シソウ は その タチバ から でて くる の で ある。 セイ と シ と を するどい タイリツ に おいて みた ヨーロッパ ブンカ の ジバン ――そこ には キリスト-キョウ の ふかい エイキョウ が ある―― に おいて シソウ と いう もの が つくられた。 これ に たいして トウヨウ には シソウ が ない と いわれる で あろう。 もちろん ここ にも シソウ が なかった の では ない、 ただ その シソウ と いう もの の イミ が ちがって いる。 セイヨウ シソウ に たいして トウヨウ シソウ を シュチョウ しよう と する バアイ、 シソウ とは ナニ か と いう ニンシキロンテキ モンダイ から ギンミ して かかる こと が ヒツヨウ で ある。

 ワタシ に とって シ の キョウフ は いかに して うすらいで いった か。 ジブン の したしかった モノ と シベツ する こと が しだいに おおく なった ため で ある。 もし ワタシ が カレラ と サイカイ する こと が できる ――これ は ワタシ の サイダイ の キボウ で ある―― と すれば、 それ は ワタシ の シ に おいて の ホカ フカノウ で あろう。 かりに ワタシ が 100 マン-ネン いきながらえる と して も、 ワタシ は コノヨ に おいて ふたたび カレラ と あう こと の ない の を しって いる。 その プロバビリティ は ゼロ で ある。 ワタシ は もちろん ワタシ の シ に おいて カレラ に あいうる こと を カクジツ には しって いない。 しかし その プロバビリティ が ゼロ で ある とは ダレ も ダンゲン しえない で あろう、 シシャ の クニ から かえって きた モノ は ない の で ある から。 フタツ の プロバビリティ を ヒカク する とき、 コウシャ が ゼンシャ より も おおきい と いう カノウセイ は ソンザイ する。 もし ワタシ が いずれ か に かけねば ならぬ と すれば、 ワタシ は コウシャ に かける の ホカ ない で あろう。

 かりに ダレ も しなない もの と する。 そう すれば、 オレ だけ は しんで みせる ぞ と いって シ を くわだてる モノ が きっと でて くる に ちがいない と おもう。 ニンゲン の キョエイシン は シ をも タイショウ と する こと が できる まで に おおきい。 そのよう な ニンゲン が キョエイテキ で ある こと は ナンピト も ただちに リカイ して チョウショウ する で あろう。 しかるに ヨノナカ には これ に おとらぬ キョエイ の デキゴト が おおい こと に ヒト は ヨウイ に きづかない の で ある。

 シュウチャク する ナニモノ も ない と いった キョム の ココロ では ニンゲン は なかなか しねない の では ない か。 シュウチャク する もの が ある から しにきれない と いう こと は、 シュウチャク する もの が ある から しねる と いう こと で ある。 ふかく シュウチャク する もの が ある モノ は、 シゴ ジブン の かえって ゆく べき ところ を もって いる。 それだから シ に たいする ジュンビ と いう の は、 どこまでも シュウチャク する もの を つくる と いう こと で ある。 ワタシ に しんに あいする もの が ある なら、 その こと が ワタシ の エイセイ を ヤクソク する。

 シ の モンダイ は デントウ の モンダイ に つながって いる。 シシャ が よみがえり また いきながらえる こと を しんじない で、 デントウ を しんじる こと が できる で あろう か。 よみがえり また いきながらえる の は ギョウセキ で あって、 サクシャ では ない と いわれる かも しれない。 しかしながら つくられた もの が つくる もの より も イダイ で ある と いう こと は カノウ で ある か。 ゲンイン は ケッカ に すくなくとも ひとしい か、 もしくは より おおきい と いう の が、 シゼン の ホウソク で ある と かんがえられて いる。 その ヒト の つくった もの が よみがえり また いきながらえる と すれば、 その ヒト ジシン が よみがえり また いきながらえる チカラ を それ イジョウ に もって いない と いう こと が かんがえられうる で あろう か。 もし ワレワレ が プラトン の フシ より も カレ の サクヒン の フメツ を のぞむ と すれば、 それ は ワレワレ の ココロ の キョエイ を かたる もの で なければ ならぬ。 しんじつ ワレワレ は、 ワレワレ の あいする モノ に ついて、 その モノ の エイセイ より イジョウ に その モノ の なした こと が エイゾクテキ で ある こと を ねがう で あろう か。
 ゲンイン は すくなくとも ケッカ に ひとしい と いう の は シゼン の ホウソク で あって、 レキシ に おいて は ギャク に ケッカ は つねに ゲンイン より も おおきい と いう の が ホウソク で ある と いわれる かも しれない。 もし そう で ある と すれば、 それ は レキシ の より ユウエツ な ゲンイン が ワレワレ ジシン で なくて ワレワレ を こえた もの で ある と いう こと を イミ する の で なければ ならぬ。 この ワレワレ を こえた もの は、 レキシ に おいて つくられた もの が よみがえり また いきながらえる こと を ほっして、 それ を つくる に あずかって ゲンイン で あった もの が よみがえり また いきながらえる こと は けっして ほっしない と かんがえられうる で あろう か。 もし また ワレワレ ジシン が カコ の もの を よみがえらせ、 いきながらえさせる の で ある と すれば、 かよう な チカラ を もって いる ワレワレ に とって つくられた もの より も つくる もの を よみがえらせ、 いきながらえさせる こと が いっそう ヨウイ で ない と いう こと が かんがえられうる で あろう か。
 ワタシ は イマ ニンゲン の フシ を リッショウ しよう とも、 あるいは また ヒテイ しよう とも する の では ない。 ワタシ の いおう と ほっする の は、 シシャ の セイメイ を かんがえる こと は セイジャ の セイメイ を かんがえる こと より も ロンリテキ に いっそう コンナン で ある こと は ありえない と いう こと で ある。 シ は カンネン で ある。 それだから カンネン の チカラ に たよって ジンセイ を いきよう と する モノ は シ の シソウ を つかむ こと から シュッパツ する の が ツネ で ある。 スベテ の シュウキョウ が そう で ある。

 デントウ の モンダイ は シシャ の セイメイ の モンダイ で ある。 それ は いきて いる モノ の セイチョウ の モンダイ では ない。 ツウゾク の デントウ シュギ の ゴビュウ ――この ゴビュウ は しかし シェリング や ヘーゲル の ごとき ドイツ の サイダイ の テツガクシャ で さえ も が ともに して いる―― は、 スベテ の もの は カコ から しだいに セイチョウ して きた と かんがえる こと に よって デントウ シュギ を かんがえよう と する ところ に ある。 かよう な コンポン に おいて シゼン テツガクテキ な ミカタ から は ゼッタイテキ な シンリ で あろう と する デントウ シュギ の イミ は リカイ される こと が できぬ。 デントウ の イミ が ジブン ジシン で ジブン ジシン の ナカ から セイセイ する もの の ウチ に もとめられる かぎり、 それ は ソウタイテキ な もの に すぎない。 ゼッタイテキ な デントウ シュギ は、 いける もの の セイチョウ の ロンリ で なくて しせる もの の セイメイ の ロンリ を キソ と する の で ある。 カコ は しにきった もの で あり、 それ は すでに シ で ある と いう イミ に おいて、 ゲンザイ に いきて いる もの に とって ゼッタイテキ な もの で ある。 なかば いき なかば しんで いる か の よう に フツウ に ばくぜん と ヒョウショウ されて いる カコ は、 いきて いる ゲンザイ に とって ゼッタイテキ な もの で ありえない。 カコ は ナニ より も まず しせる もの と して ゼッタイテキ な もの で ある。 この ゼッタイテキ な もの は、 ただ ゼッタイテキ な シ で ある か、 それとも ゼッタイテキ な セイメイ で ある か。 しせる もの は イマ いきて いる もの の よう に セイチョウ する こと も なければ ロウスイ する こと も ない。 そこで シシャ の セイメイ が しんぜられる ならば、 それ は ゼッタイテキ な セイメイ で なければ ならぬ。 この ゼッタイテキ な セイメイ は シンリ に ほかならない。 したがって いいかえる と、 カコ は シンリ で ある か、 それとも ム で ある か。 デントウ シュギ は まさに この ニシャ タクイツ に たいする ワレワレ の ケツイ を ヨウキュウ して いる の で ある。 それ は ワレワレ の ナカ へ シゼンテキ に ながれこみ、 シゼンテキ に ワレワレ の セイメイ の イチブブン に なって いる と かんがえられる よう な カコ を モンダイ に して いる の では ない。
 かよう な デントウ シュギ は いわゆる レキシ シュギ とは ゲンミツ に クベツ されねば ならぬ。 レキシ シュギ は シンカ シュギ と ドウヨウ キンダイ シュギ の ヒトツ で あり、 それ ジシン シンカ シュギ に なる こと が できる。 かよう な デントウ シュギ は キリスト-キョウ、 とくに その ゲンザイセツ を ハイケイ に して かんがえる と、 ヨウイ に リカイ する こと が できる わけ で ある が、 もし そのよう な ゲンザイ の カンネン が そんしない か あるいは うしなわれた と すれば どう で あろう。 すでに ペトラルカ の ごとき ルネサンス の ヒューマニスト は ゲンザイ を ゲンザイ と して で なく むしろ ビョウキ と して タイケン した。 ニーチェ は もちろん、 ジード の ごとき コンニチ の ヒューマニスト に おいて みいだされる の も、 ドウヨウ の イミ に おける ビョウキ の タイケン で ある。 ビョウキ の タイケン が ゲンザイ の タイケン に かわった ところ に キンダイ シュギ の ハジメ と オワリ が ある。 ヒューマニズム は ツミ の カンネン で なくて ビョウキ の カンネン から シュッパツ する の で あろう か。 ツミ と ビョウキ との サイ は どこ に ある の で あろう か。 ツミ は シ で あり、 ビョウキ は なお セイ で ある の か。 シ は カンネン で あり、 ビョウキ は ケイケン で ある の か。 ともかく ビョウキ の カンネン から デントウ シュギ を みちびきだす こと は フカノウ で ある。 それでは ツミ の カンネン の そんしない と いわれる トウヨウ シソウ に おいて、 デントウ シュギ と いう もの は、 そして また ヒューマニズム と いう もの は、 いかなる もの で あろう か。 モンダイ は シ の ミカタ に かかわって いる。

 コウフク に ついて

 コンニチ の ニンゲン は コウフク に ついて ほとんど かんがえない よう で ある。 こころみに キンネン あらわれた リンリガクショ、 とりわけ ワガクニ で かかれた リンリ の ホン を ひらいて みたまえ。 ただ の 1 カショ も コウフク の モンダイ を とりあつかって いない ショモツ を ハッケン する こと は ショクン に とって はなはだ ヨウイ で あろう。 かよう な ショモツ を リンリ の ホン と しんじて よい の か どう か、 その チョシャ を リンリ ガクシャ と みとめる べき で ある の か どう か、 ワタシ には わからない。 ウタガイ なく たしか な こと は、 カコ の スベテ の ジダイ に おいて つねに コウフク が リンリ の チュウシン モンダイ で あった と いう こと で ある。 ギリシア の コテンテキ な リンリガク が そう で あった し、 ストア の ゲンシュク シュギ の ごとき も コウフク の ため に セツヨク を といた の で あり、 キリスト-キョウ に おいて も、 アウグスティヌス や パスカル など は、 ニンゲン は どこまでも コウフク を もとめる と いう ジジツ を コンポン と して カレラ の シュウキョウロン や リンリガク を シュッタツ した の で ある。 コウフク に ついて かんがえない こと は コンニチ の ニンゲン の トクチョウ で ある。 ゲンダイ に おける リンリ の コンラン は シュジュ に ろんじられて いる が、 リンリ の ホン から コウフクロン が ソウシツ した と いう こと は この コンラン を ダイヒョウ する ジジツ で ある。 あらた に コウフクロン が セッテイ される まで は リンリ の コンラン は すくわれない で あろう。
 コウフク に ついて かんがえる こと は すでに ヒトツ の、 おそらく サイダイ の、 フコウ の キザシ で ある と いわれる かも しれない。 ケンゼン な イ を もって いる モノ が イ の ソンザイ を かんじない よう に、 コウフク で ある モノ は コウフク に ついて かんがえない と いわれる で あろう。 しかしながら コンニチ の ニンゲン は はたして コウフク で ある ため に コウフク に ついて かんがえない の で ある か。 むしろ ワレワレ の ジダイ は ヒトビト に コウフク に ついて かんがえる キリョク を さえ うしなわせて しまった ほど フコウ なの では あるまい か。 コウフク を かたる こと が すでに ナニ か フドウトク な こと で ある か の よう に かんじられる ほど イマ の ヨノナカ は フコウ に みちて いる の では あるまい か。 しかしながら コウフク を しらない モノ に フコウ の ナン で ある か が リカイ される で あろう か。 コンニチ の ニンゲン も あらゆる バアイ に いわば ホンノウテキ に コウフク を もとめて いる に ソウイ ない。 しかも コンニチ の ニンゲン は ジイシキ の カジョウ に くるしむ とも いわれて いる。 その きわめて ジイシキテキ な ニンゲン が コウフク に ついて は ほとんど かんがえない の で ある。 これ が ゲンダイ の セイシンテキ ジョウキョウ の セイカク で あり、 これ が ゲンダイジン の フコウ を トクチョウ-づけて いる。

 リョウシン の ギム と コウフク の ヨウキュウ と を タイリツテキ に かんがえる の は キンダイテキ リゴリズム で ある。 これ に はんして ワタシ は かんがえる。 コンニチ の リョウシン とは コウフク の ヨウキュウ で ある、 と。 シャカイ、 カイキュウ、 ジンルイ、 -トウトウ、 あらゆる もの の ナ に おいて ニンゲンテキ な コウフク の ヨウキュウ が マッサツ されよう と して いる バアイ、 コウフク の ヨウキュウ ほど リョウシンテキ な もの が ある で あろう か。 コウフク の ヨウキュウ と むすびつかない かぎり、 コンニチ リンリ の ガイネン と して たえず リュウヨウ されて いる シャカイ、 カイキュウ、 ジンルイ、 -トウトウ も、 なんら リンリテキ な イミ を ゆうしえない で あろう。 あるいは リンリ の モンダイ が コウフク の モンダイ から ブンリ される と ともに、 あらゆる ニンイ の もの を リンリ の ガイネン と して リュウヨウ する こと が カノウ に なった の で ある。 コウフク の ヨウキュウ が コンニチ の リョウシン と して フッケン されねば ならぬ。 ヒト が ヒューマニスト で ある か どう か は、 しゅとして この テン に かかって いる。
 コウフク の モンダイ が リンリ の モンダイ から マッサツ される に したがって オオク の リンリテキ クウゴ を しょうじた。 たとえば、 リンリテキ と いう こと と シュタイテキ と いう こと と が イッショ に かたられる の は ただしい。 けれども シュタイテキ と いう こと も コンニチ では コウフク の ヨウキュウ から チュウショウ される こと に よって ヒトツ の リンリテキ クウゴ と なって いる。 そこで また ゲンダイ の リンリガク から マッサツ されよう と して いる の は ドウキロン で あり、 シュタイテキ と いう ゴ の リュウコウ と ともに リンリガク は かえって キャッカンロン に おちいる に いたった。 コウフク の ヨウキュウ が スベテ の コウイ の ドウキ で ある と いう こと は、 イゼン の リンリガク の キョウツウ の シュッパツテン で あった。 ゲンダイ の テツガク は かよう な カンガエカタ を シンリ シュギ と なづけて ハイセキ する こと を まなんだ の で ある が、 その とき タホウ に おいて ゲンダイジン の シンリ の ムチツジョ が はじまった の で ある。 この ムチツジョ は、 ジブン の コウイ の ドウキ が コウフク の ヨウキュウ で ある の か どう か が わからなく なった とき に はじまった。 そして それ と ドウジ に シンリ の リアリティ が うたがわしく なり、 ニンゲン カイシャク に ついて あらゆる シュルイ の カンネン シュギ が しょうじた。 シンリ の リアリティ は シンリ の ウチ に チツジョ が ソンザイ する バアイ に アカシ される。 コウフク の ヨウキュウ は その チツジョ の キテイ で あり、 シンリ の リアリティ は コウフク の ヨウキュウ の ジジツ の ウチ に あたえられて いる。 コウフクロン を マッサツ した リンリ は、 イッケン いかに ロンリテキ で ある に して も、 その ナイジツ に おいて キョム シュギ に ほかならぬ。

 イゼン の シンリガク は シンリ ヒヒョウ の ガク で あった。 それ は ゲイジュツ ヒヒョウ など と いう ヒヒョウ の イミ に おける シンリ ヒヒョウ を モクテキ と して いた。 ニンゲン セイシン の モロモロ の カツドウ、 モロモロ の ソクメン を ヒョウカ する こと に よって これ を チツジョ-づける と いう の が シンリガク の シゴト で あった。 この シゴト に おいて テツガクシャ は ブンガクシャ と おなじ で あった。 かよう な カチ ヒヒョウ と して の シンリガク が シゼン カガクテキ ホウホウ に もとづく シンリガク に よって ハカイ されて しまう キケン の しょうじた とき、 これ に ハンコウ して あらわれた の が ニンゲンガク と いう もの で ある。 しかるに この ニンゲンガク も コンニチ では サイショ の ドウキ から イツダツ して ニンゲン シンリ の ヒヒョウ と いう コユウ の イミ を ホウキ し、 あらゆる ニンイ の もの が ニンゲンガク と しょうせられる よう に なって いる。 テツガク に おける ゲイジュツカ-テキ な もの が うしなわれて しまい、 シンリ ヒヒョウ の シゴト は ただ ブンガクシャ に のみ ゆだねられる よう に なった。 そこ に シンリガク を もたない こと が イッパンテキ に なった コンニチ の テツガク の チュウショウセイ が ある。 その サイ みのがして ならぬ こと は、 この ゲンダイ テツガク の ヒトツ の トクチョウ が コウフクロン の マッサツ と カンレン して いる と いう こと で ある。

 コウフク を たんに カンセイテキ な もの と かんがえる こと は まちがって いる。 むしろ シュチ シュギ が リンリジョウ の コウフクセツ と むすびつく の が ツネ で ある こと を シソウ の レキシ は しめして いる。 コウフク の モンダイ は シュチ シュギ に とって サイダイ の シチュウ で ある と さえ いう こと が できる。 もし コウフクロン を マッサツ して かかる なら、 シュチ シュギ を ヤクサツ する こと は ヨウイ で ある。 じっさい、 コンニチ の ハン-シュチ シュギ の シソウ の ほとんど スベテ は このよう に コウフクロン を マッサツ する こと から シュッパツ して いる の で ある。 そこ に コンニチ の ハン-シュチ シュギ の ヒミツ が ある。

 コウフク は トク に はんする もの で なく、 むしろ コウフク ソノモノ が トク で ある。 もちろん、 タニン の コウフク に ついて かんがえねば ならぬ と いう の は ただしい。 しかし ワレワレ は ワレワレ の あいする モノ に たいして、 ジブン が コウフク で ある こと より なお イジョウ の よい こと を なしうる で あろう か。

 あいする もの の ため に しんだ ゆえ に カレラ は コウフク で あった の で なく、 ハンタイ に、 カレラ は コウフク で あった ゆえ に あいする もの の ため に しぬる チカラ を ゆうした の で ある。 ニチジョウ の ちいさな シゴト から、 よろこんで ジブン を ギセイ に する と いう に いたる まで、 あらゆる コトガラ に おいて、 コウフク は チカラ で ある。 トク が チカラ で ある と いう こと は コウフク の ナニ より も よく しめす ところ で ある。

 シ は カンネン で ある、 と ワタシ は かいた。 これ に たいして セイ は ナン で ある か。 セイ とは ソウゾウ で ある、 と ワタシ は いおう と おもう。 いかに セイ の ゲンジツセイ を シュチョウ する モノ も、 ひるがえって これ を シ と ヒカク する とき、 セイ が いかに ソウゾウテキ な もの で ある か を リカイ する で あろう。 ソウゾウテキ な もの は ヒ-ゲンジツテキ で ある の で なく、 かえって ゲンジツテキ な もの は ソウゾウテキ な もの で ある の で ある。 ゲンジツ は ワタシ の いう コウソウリョク (ソウゾウリョク) の ロンリ に したがって いる。 ジンセイ は ユメ で ある と いう こと を ダレ が かんじなかった で あろう か。 それ は たんなる ヒユ では ない、 それ は ジッカン で ある。 この ジッカン の コンキョ が あきらか に されねば ならぬ、 いいかえる と、 ユメ あるいは クウソウテキ な もの の ゲンジツセイ が しめされなければ ならない。 その ショウメイ を あたえる もの は コウソウリョク の ケイセイ サヨウ で ある。 セイ が ソウゾウテキ な もの で ある と いう イミ に おいて コウフク も ソウゾウテキ な もの で ある と いう こと が できる。

 ニンゲン を イッパンテキ な もの と して リカイ する には、 シ から リカイ する こと が ヒツヨウ で ある。 シ は もとより まったく グタイテキ な もの で ある。 しかし この まったく グタイテキ な シ は それ にも かかわらず イッパンテキ な もの で ある。 「ヒト は ただ ヒトリ しぬる で あろう」、 と パスカル は いった。 カクジン が ミナ ベツベツ に しんで ゆく、 けれども その シ は それ にも かかわらず シ と して イッパンテキ な もの で ある。 ジンソ アダム と いう シソウ は ここ に コンキョ を もって いる。 シ の ゆうする この フシギ な イッパンセイ こそ ワレワレ を コンワク させる もの で ある。 シ は その イッパンセイ に おいて ニンゲン を ブンリ する。 ヒトビト は ただ ヒトリ しぬる ゆえ に コドク で ある の では なく、 シ が イッパンテキ な もの で ある ゆえ に ヒトビト は シ に あって コドク で ある の で ある。 ワタシ が いきのこり、 ナンジ が ただ ヒトリ しんで ゆく と して も、 もし ナンジ の シ が イッパンテキ な もの で ない ならば、 ワタシ は ナンジ の シ に おいて コドク を かんじない で あろう。
 しかるに セイ は つねに トクシュテキ な もの で ある。 イッパンテキ な シ が ブンリ する に はんして、 トクシュテキ な セイ は ケツゴウ する。 シ は イッパンテキ な もの と いう イミ に おいて カンネン と かんがえられる に たいして、 セイ は トクシュテキ な もの と いう イミ に おいて ソウゾウ と かんがえられる。 ワレワレ の ソウゾウリョク は トクシュテキ な もの に おいて の ホカ たのしまない。 (ゲイジュツカ は ホンセイジョウ タシンロンシャ で ある)。 もとより ニンゲン は たんに トクシュテキ な もの で なく ドウジ に イッパンテキ な もの で ある。 しかし セイ の ゆうする イッパンセイ は シ の ゆうする イッパンセイ とは ことなって いる。 シ の イッパンセイ が カンネン の ゆうする イッパンセイ に るいする と すれば、 セイ の イッパンセイ は ソウゾウリョク に かかわる ところ の タイプ の イッパンセイ と ドウヨウ の もの で ある。 コセイ とは ベツ に タイプ が ある の で なく、 タイプ は コセイ で ある。 シ ソノモノ には タイプ が ない。 シ の タイプ を かんがえる の は シ を なお セイ から かんがえる から で ある。 コセイ は タヨウ の トウイツ で ある が、 アイムジュン する タヨウ な もの を トウイツ して ヒトツ の カタチ に ケイセイ する もの が コウソウリョク に ほかならない。 カンセイ から も チセイ から も かんがえられない コセイ は コウソウリョク から かんがえられねば ならぬ。 セイ と おなじく コウフク が ソウゾウ で ある と いう こと は、 コセイ が コウフク で ある こと を イミ して いる。

 シゼン は その ハッテン の ダンカイ を のぼる に したがって ますます オオク の コセイ に ブンカ する。 その こと は ヤミ から ヒカリ を もとめて ソウゾウ する シゼン の コンゲンテキ な ヨッキュウ が いかなる もの で ある か を かたって いる。

 ジンカク は チ の コ ら の サイコウ の コウフク で ある と いう ゲーテ の コトバ ほど、 コウフク に ついて の カンゼン な テイギ は ない。 コウフク に なる と いう こと は ジンカク に なる と いう こと で ある。
 コウフク は ニクタイテキ カイラク に ある か セイシンテキ カイラク に ある か、 カツドウ に ある か ソンザイ に ある か と いう が ごとき トイ は、 ワレワレ を ただ フンキュウ に ひきいれる だけ で ある。 かよう な トイ に たいして は、 その いずれ でも ある と こたえる の ホカ ない で あろう。 なぜなら、 ジンカク は ニクタイ で ある と ともに セイシン で あり、 カツドウ で ある と ともに ソンザイ で ある から。 そして かかる こと は ジンカク と いう もの が ケイセイ される もの で ある こと を イミ して いる。

 コンニチ ヒト が コウフク に ついて かんがえない の は、 ジンカク の ブンカイ の ジダイ と よばれる ゲンダイ の トクチョウ に ソウオウ して いる。 そして この ジジツ は ギャク に コウフク が ジンカク で ある と いう メイダイ を いわば セカイシ-テキ キボ に おいて ショウメイ する もの で ある。

 コウフク は ジンカク で ある。 ヒト が ガイトウ を ぬぎすてる よう に いつでも キラク に ホカ の コウフク は ぬぎすてる こと の できる モノ が もっとも コウフク な ヒト で ある。 しかし シン の コウフク は、 カレ は これ を すてさらない し、 すてさる こと も できない。 カレ の コウフク は カレ の セイメイ と おなじ よう に カレ ジシン と ヒトツ の もの で ある。 この コウフク を もって カレ は あらゆる コンナン と たたかう の で ある。 コウフク を ブキ と して たたかう モノ のみ が たおれて も なお コウフク で ある。

 キゲン が よい こと、 テイネイ な こと、 シンセツ な こと、 カンダイ な こと、 -トウトウ、 コウフク は つねに ソト に あらわれる。 うたわぬ シジン と いう もの は シン の シジン で ない ごとく、 たんに ナイメンテキ で ある と いう よう な コウフク は シン の コウフク では ない で あろう。 コウフク は ヒョウゲンテキ な もの で ある。 トリ の うたう が ごとく おのずから ソト に あらわれて タ の ヒト を コウフク に する もの が シン の コウフク で ある。

 カイギ に ついて

 カイギ の イミ を セイカク に ハンダン する こと は ヨウイ で ない よう に みえる。 ある バアイ には カイギ は シンピカ され、 それ から ヒトツ の シュウキョウ が しょうずる まで に いたって いる。 あらゆる シンピ を はらいのける こと が カイギ の シゴト で ある で あろう に。 ハンタイ に タ の バアイ には いかなる カイギ も カイギ で ある と いう リユウ で ヨウシャ なく フドウトク と して へんせられて いる。 カイギ は チセイ の ヒトツ の トク で ありうる で あろう に。 マエ の バアイ、 カイギ ソノモノ が ヒトツ の ドクダン と なる。 アト の バアイ、 カイギ を アタマ から たたきつけよう と する の も やはり ドクダン で ある。
 いずれ に して も たしか な こと は、 カイギ が とくに ニンゲンテキ な もの で ある と いう こと で ある。 カミ には カイギ は ない で あろう、 また ドウブツ にも カイギ は ない で あろう。 カイギ は テンシ でも なく ケモノ でも ない ニンゲン に コユウ な もの で ある。 ニンゲン は チセイ に よって ドウブツ に まさる と いわれる ならば、 それ は カイギ に よって トクショク-づけられる こと が できる で あろう。 じっさい、 タショウ とも カイギテキ で ない よう な チセイジン が ある で あろう か。 そして ドクダンカ は ある バアイ には テンシ の ごとく みえ、 ある バアイ には ケモノ の ごとく みえない で あろう か。

 ニンゲンテキ な チセイ の ジユウ は さしあたり カイギ の ウチ に ある。 ジユウジン と いわれる モノ で カイギテキ で なかった よう な ヒト を ワタシ は しらない。 あの honnête homme (マニンゲン) と いわれた モノ には ミナ カイギテキ な ところ が あった し、 そして それ は ジユウジン を イミ した の で ある。 しかるに テツガクシャ が ジユウ の ガイネン を どのよう に キテイ する に して も、 ゲンジツ の ニンゲンテキ な ジユウ は セツド の ウチ に ある。 コテンテキ な ヒューマニズム に おいて もっとも ジュウヨウ な トク で あった この セツド と いう もの は ゲンダイ の シソウ に おいて は まれ に なって いる。 カイギ が チセイ の トク で ある ため には セツド が なければ ならぬ。 イッパン に シソウカ の セツド と いう もの が モンダイ で ある。 モンテーニュ の サイダイ の チエ は カイギ に おいて セツド が ある と いう こと で あった。 また じつに、 セツド を しらない よう な カイギ は シン の カイギ では ない で あろう。 ド を こえた カイギ は ジュンスイ に カイギ に とどまって いる の で なく、 ヒトツ の テツガクセツ と して の カイギロン に なって いる か、 それとも カイギ の シンピカ、 シュウキョウカ に おちいって いる の で ある。 その いずれ も もはや カイギ では なく、 ヒトツ の ドクダン で ある。

 カイギ は チセイ の トク と して ニンゲン セイシン を ジョウカ する。 ちょうど なく こと が セイリテキ に ワレワレ の カンジョウ を ジョウカ する よう に。 しかし カイギ ソノモノ は なく こと に るいする より も わらう こと に るいする で あろう。 ワライ は ドウブツ には ない ニンゲンテキ な ヒョウジョウ で ある と すれば、 カイギ と ワライ との アイダ に ルイジ が ソンザイ する の は シゼン で ある。 ワライ も ワレワレ の カンジョウ を ジョウカ する こと が できる。 カイギカ の ヒョウジョウ は ジュウメン ばかり では ない。 チセイ に コユウ な カイカツサ を ゆうしない カイギ は シン の カイギ では ない で あろう。
 シン の カイギカ は ソフィスト では なくて ソクラテス で あった。 ソクラテス は カイギ が ムゲン の タンキュウ に ほかならぬ こと を しめした。 その カレ は また シン の ヒゲキカ は シン の キゲキカ で ある こと を しめした の で ある。

 ジュウライ の テツガク の ウチ エイゾクテキ な セイメイ を ゆうする もの で なんらか カイギテキ な ところ を ふくまない もの が ある で あろう か。 ただ ヒトツ の イダイ な レイガイ は ヘーゲル で ある。 その ヘーゲル の テツガク は、 レキシ の しめす よう に、 イチジ は ネッキョウテキ な シンポウシャ を つくる が、 やがて まったく かえりみられなく なる と いう トクシツ を そなえて いる。 この ジジツ の ウチ に おそらく ヘーゲル の テツガク の ヒミツ が ある。

 ロンリ ガクシャ は ロンリ の コンテイ に チョッカン が ある と いう。 ヒト は ムゲン に ショウメイ して ゆく こと が できぬ、 あらゆる ロンショウ は もはや それ ジシン は ロンショウ する こと の できぬ もの、 チョッカンテキ に カクジツ な もの を ゼンテイ し、 それ から シュッタツ して スイロン する と いわれる。 しかし ロンリ の コンテイ に ある チョッカンテキ な もの が つねに カクジツ な もの で ある と いう ショウメイ は ソンザイ する で あろう か。 もし それ が つねに カクジツ な もの で ある と すれば、 なにゆえに ヒト は その チョッカン に とどまらない で、 なお ロンリ を ヒツヨウ と する で あろう か。 カクジツ な もの の チョッカン が ある ばかり で なく、 フカクジツ な もの の チョッカン が ある よう に おもわれる。 チョッカン を つねに うたがう の は おろか な こと で あり、 チョッカン を つねに しんじる の も いたらぬ こと で ある。 そして フツウ に いわれる の とは ギャク に、 カンセイテキ な チョッカン が それ ジシン の シュルイ に おいて カクジツ な もの の チョッカン で ある の に たいして、 チセイテキ な チョッカン の トクチョウ は むしろ フカクジツ な もの の チョッカン に そんする よう に さえ おもわれる。 カクジツ な もの の チョッカン は ――カンセイテキ な もの で ある に せよ、 チョウ-カンセイテキ な もの で ある に せよ、―― それ ジタイ に おいて は ロンリ の ショウメイ を ようしない の に はんして、 フカクジツ な もの の チョッカン ――カイギテキ チョッカン もしくは チョッカンテキ カイギ―― こそ ロンリ を ヒツヨウ と する もの、 ロンリ を うごかす もの で ある。 ロンリ に よって カイギ が でて くる の で なく、 カイギ から ロンリ が もとめられて くる の で ある。 かよう に ロンリ を もとめる ところ に チセイ の キョウジ が あり、 ジコ ソンチョウ が ある。 いわゆる ロンリカ は コウシキ シュギシャ で あり、 ドクダンカ の ヒトツ の シュルイ に すぎない。
 フカクジツ な もの が カクジツ な もの の キソ で ある。 テツガクシャ は ジコ の ウチ に カイギ が いきて いる かぎり テツガク し、 モノ を かく。 もとより カレ は フカクジツ な もの の ため に はたらく の では ない。 ―― 「ヒト は フカクジツ な もの の ため に はたらく」、 と パスカル は かいて いる。 けれども セイカク に いう と、 ヒト は フカクジツ な もの の ため に はたらく の で なく、 むしろ フカクジツ な もの から はたらく の で ある。 ジンセイ が ただ はたらく こと で なくて つくる こと で あり、 たんなる ソンザイ で なくて ケイセイ サヨウ で あり、 また そう で なければ ならぬ ユエン で ある。 そして ヒト は フカクジツ な もの から はたらく と いう ところ から、 あらゆる ケイセイ サヨウ の コンテイ に カケ が ある と いわれうる。

 ドクダン に たいする カイギ の チカラ と ムリョク とは、 ジョウネン に たいする チセイ の チカラ と ムリョク と で ある。 ドクダン は、 それ が ヒトツ の カケ で ある バアイ に のみ、 チセイテキ で ありうる。 ジョウネン は つねに ただ たんに コウテイテキ で あり、 ドクダン の オオク は ジョウネン に もとづいて いる。

 オオク の カイギカ は ガイケン に あらわれる ほど カイギカ では ない。 また オオク の ドクダンカ は ガイケン に あらわれる ほど ドクダンカ では ない。

 ヒト は ときとして タ に たいする キョエイ から カイギテキ に なる が、 さらに より おおく タ に たいする キョエイ の ため に ドクダンテキ に なる。 そして それ は タメン、 ニンゲン に おいて セイジテキ ヨクボウ すなわち タ に たいする シハイ の ヨクボウ が フヘンテキ で ある こと を しめす と ともに、 カレ に おいて また キョウイクテキ ヨクボウ が フヘンテキ で ある こと を しめして いる。 セイジ に とって は ドクダン も ヒツヨウ で あろう。 けれども キョウイク に とって ドウヨウ に ドクダン が ヒツヨウ で ある か どう か は ギモン で ある。 ただ、 セイジテキ ヨクボウ を ふくまない よう な キョウイクテキ ヨクボウ が まれ で ある こと は たしか で ある。

 いかなる ヒト も タ を しんじさせる こと が できる ほど オノレ を しんじさせる こと が できない。 タニン を シンコウ に みちびく シュウキョウカ は かならずしも ゼッタイ に カイギ の ない ニンゲン では ない。 カレ が タ の ヒト に シントウ する チカラ は むしろ その イッパン を カレ の ウチ に なお いきて いる カイギ に おうて いる。 すくなくとも、 そう で ない よう な シュウキョウカ は シソウカ とは いわれない で あろう。

 ジブン では うたがいながら ハッピョウ した イケン が タニン に よって ジブン の うたがって いない もの の よう に しんじられる バアイ が ある。 そのよう な バアイ には ついに ジブン でも その イケン を しんじる よう に なる もの で ある。 シンコウ の コンゲン は タシャ に ある。 それ は シュウキョウ の バアイ でも そう で あって、 シュウキョウカ は ジブン の シンコウ の コンゲン は カミ に ある と いって いる。

 カイギ と いう もの は サンブン で しか あらわす こと の できない もの で ある。 その こと は カイギ の セイシツ を しめす と ともに、 ギャク に サンブン の コユウ の オモシロサ、 また その ムズカシサ が どこ に ある か を しめして いる。

 シン の カイギカ は ロンリ を ツイキュウ する。 しかるに ドクダンカ は まったく ロンショウ しない か、 ただ ケイシキテキ に ロンショウ する のみ で ある。 ドクダンカ は はなはだ しばしば ハイボク シュギシャ、 チセイ の ハイボク シュギシャ で ある。 カレ は ガイケン に あらわれる ほど けっして つよく は ない、 カレ は タニン に たいして も ジコ に たいして も つよがらねば ならぬ ヒツヨウ を かんじる ほど よわい の で ある。
 ヒト は ハイボク シュギ から ドクダンカ に なる。 また ヒト は ゼツボウ から ドクダンカ に なる。 ゼツボウ と カイギ とは おなじ で ない。 ただ チセイ の くわわる バアイ に のみ ゼツボウ は カイギ に かわりうる の で ある が、 これ は ソウゾウ される よう に ヨウイ な こと では ない。

 ジュンスイ に カイギ に とどまる こと は コンナン で ある。 ヒト が カイギ しはじめる や いなや、 ジョウネン が カレ を とらえる ため に まって いる。 だから シン の カイギ は セイシュン の もの で なく、 むしろ すでに セイシン の セイジュク を しめす もの で ある。 セイシュン の カイギ は たえず カンショウ に ともなわれ、 カンショウ に かわって ゆく。

 カイギ には セツド が なければ ならず、 セツド の ある カイギ のみ が しんに カイギ の ナ に あたいする と いう こと は、 カイギ が ホウホウ で ある こと を イミ して いる。 カイギ が ホウホウ で ある こと は デカルト に よって カクニン された シンリ で ある。 デカルト の カイギ は イッケン かんがえられる よう に キョクタン な もの で なく、 つねに チュウイ-ぶかく セツド を まもって いる。 この テン に おいて も カレ は ヒューマニスト で あった。 カレ が ホウホウ ジョセツ ダイ 3 ブ に おける ドウトクロン を ザンテイテキ な あるいは イチジシノギ の もの と しょうした こと は きわめて トクチョウテキ で ある。
 ホウホウ に ついて の ジュクタツ は キョウヨウ の ウチ もっとも ジュウヨウ な もの で ある が、 カイギ に おいて セツド が ある と いう こと より も ケッテイテキ な キョウヨウ の シルシ を ワタシ は しらない。 しかるに ヨノナカ には もはや カイギ する チカラ を うしなって しまった キョウヨウジン、 あるいは イチド カイギテキ に なる と もはや なんら ホウホウテキ に かんがえる こと の できぬ キョウヨウジン が おおい の で ある。 いずれ も ディレッタンティズム の おちて ゆく キョウヨウ の デカダンス で ある。

 カイギ が ホウホウ で ある こと を リカイ した モノ で あって はじめて ドクダン も また ホウホウ で ある こと を リカイ しうる。 マエ の こと を まず リカイ しない で、 アト の こと を のみ シュチョウ する モノ が ある と したら、 カレ は いまだ ホウホウ の ナニモノ で ある か を リカイ しない もの で ある。

 カイギ は ヒトツ の ところ に とどまる と いう の は まちがって いる。 セイシン の シュウカンセイ を やぶる もの が カイギ で ある。 セイシン が シュウカンテキ に なる と いう こと は セイシン の ウチ に シゼン が ながれこんで いる こと を イミ して いる。 カイギ は セイシン の オートマティズム を やぶる もの と して すでに シゼン に たいする チセイ の ショウリ を あらわして いる。 フカクジツ な もの が コンゲン で あり、 カクジツ な もの は モクテキ で ある。 すべて カクジツ な もの は ケイセイ された もの で あり、 ケッカ で あって、 タンショ と して の ゲンリ は フカクジツ な もの で ある。 カイギ は コンゲン への カンケイヅケ で あり、 ドクダン は モクテキ への カンケイヅケ で ある。 リロンカ が カイギテキ で ある の に たいして ジッセンカ は ドクダンテキ で あり、 ドウキロンシャ が カイギカ で ある の に たいして ケッカロンシャ は ドクダンカ で ある と いう の が ツネ で ある こと は、 これ に よる の で ある。 しかし ドクダン も カイギ も ともに ホウホウ で ある べき こと を リカイ しなければ ならぬ。

 コウテイ が ヒテイ に おいて ある よう に、 ブッシツ が セイシン に おいて ある よう に、 ドクダン は カイギ に おいて ある。

 スベテ の カイギ にも かかわらず ジンセイ は カクジツ な もの で ある。 なぜなら、 ジンセイ は ケイセイ サヨウ で ある ゆえ に、 たんに ある もの で なく、 つくられる もの で ある ゆえ に。
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ジンセイロン ノート 2

2017-12-07 | ミキ キヨシ
 シュウカン に ついて

 ジンセイ に おいて ある イミ では シュウカン が スベテ で ある。 と いう の は つまり、 あらゆる セイメイ ある もの は カタチ を もって いる、 セイメイ とは カタチ で ある と いう こと が できる、 しかるに シュウカン は それ に よって コウイ に カタチ が できて くる もの で ある。 もちろん シュウカン は たんに クウカンテキ な カタチ では ない。 たんに クウカンテキ な カタチ は しんだ もの で ある。 シュウカン は これ に はんして いきた カタチ で あり、 かよう な もの と して たんに クウカンテキ な もの で なく、 クウカンテキ で ある と ドウジ に ジカンテキ、 ジカンテキ で ある と ドウジ に クウカンテキ な もの、 すなわち ベンショウホウテキ な カタチ で ある。 ジカンテキ に うごいて ゆく もの が ドウジ に クウカンテキ に とまって いる と いう ところ に セイメイテキ な カタチ が できて くる。 シュウカン は キカイテキ な もの で なくて どこまでも セイメイテキ な もの で ある。 それ は カタチ を つくる と いう セイメイ に ナイテキ な ホンシツテキ な サヨウ に ぞくして いる。
 フツウ に シュウカン は おなじ コウイ を ハンプク する こと に よって しょうずる と かんがえられて いる。 けれども ゲンミツ に いう と、 ニンゲン の コウイ に おいて まったく ドウイツ の もの は ない で あろう。 ココ の コウイ には つねに グウゼンテキ な ところ が ある。 ワレワレ の コウイ は グウゼンテキ な、 ジユウ な もの で ある ゆえ に シュウカン も つくられる の で ある。 シュウカン は おなじ こと の ハンプク の ブツリテキ な ケッカ では ない。 カクテイテキ な もの は フカクテイ な もの から でて くる。 ココ の コウイ が グウゼンテキ で ある から シュウカン も できる の で あって、 シュウカン は タスウ の グウゼンテキ な コウイ の いわば トウケイテキ な キソクセイ で ある。 シゼン の ホウソク も トウケイテキ な セイシツ の もの で ある かぎり、 シュウカン は シゼン で ある と いう こと が できる。 シュウカン が シゼン と かんがえられる よう に、 シゼン も シュウカン で ある。 ただ、 シュウカン と いう バアイ、 シゼン は グタイテキ に カタチ と して みられなければ ならぬ。

 モホウ と シュウカン とは ある イミ に おいて あいはんする もの で あり、 ある イミ に おいて ヒトツ の もの で ある。 モホウ は とくに ガイブ の もの、 あたらしい もの の モホウ と して リュウコウ の ゲンイン で ある と いわれる。 リュウコウ に たいして シュウカン は デントウテキ な もの で あり、 シュウカン を やぶる もの は リュウコウ で ある。 リュウコウ より も ヨウイ に シュウカン を やぶりうる もの は ない で あろう。 しかし シュウカン も それ ジシン ヒトツ の モホウ で ある。 それ は ナイブ の もの、 ふるい もの の モホウ で ある。 シュウカン に おいて ジコ は ジコ を モホウ する。 ジコ が ジコ を モホウ する ところ から シュウカン が つくられて くる。 リュウコウ が ヨコ の モホウ で ある と すれば、 シュウカン は タテ の モホウ で ある。 ともかく シュウカン も すでに モホウ で ある イジョウ、 シュウカン に おいて も ワレワレ の ヒトツ の コウイ は タ の コウイ に たいして ガイブ に ある もの の ごとく ドクリツ で なければ ならぬ。 シュウカン を たんに レンゾクテキ な もの と かんがえる こと は アヤマリ で ある。 ヒ-レンゾクテキ な もの が ドウジ に レンゾクテキ で あり、 レンゾクテキ な もの が ドウジ に ヒ-レンゾクテキ で ある ところ に シュウカン は しょうずる。 つまり シュウカン は セイメイ の ホウソク を あらわして いる。
 シュウカン と おなじく リュウコウ も セイメイ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 セイメイ は ケイセイ サヨウ で あり、 モホウ は ケイセイ サヨウ に とって ヒトツ の コンポンテキ な ホウホウ で ある。 セイメイ が ケイセイ サヨウ (ビルドゥング) で ある と いう こと は、 それ が キョウイク (ビルドゥング) で ある こと を イミ して いる。 キョウイク に たいする モホウ の イギ に ついて は コライ しばしば かたられて いる。 その サイ、 シュウカン が ヒトツ の モホウ で ある こと を かんがえる と ともに、 リュウコウ が また モホウ と して いかに おおきな キョウイクテキ カチ を もって いる か に ついて かんがえる こと が タイセツ で ある。
 リュウコウ が カンキョウ から キテイ される よう に、 シュウカン も カンキョウ から キテイ されて いる。 シュウカン は シュタイ の カンキョウ に たいする サギョウテキ テキオウ と して しょうずる。 ただ、 リュウコウ に おいて は シュタイ は カンキョウ に たいして より おおく ジュドウテキ で ある の に はんして、 シュウカン に おいて は より おおく ノウドウテキ で ある。 シュウカン の この チカラ は カタチ の チカラ で ある。 しかし リュウコウ が シュウカン を やぶりうる と いう こと は、 その シュウカン の カタチ が シュタイ と カンキョウ との カンケイ から しょうじた ベンショウホウテキ な もの で ある ため で ある。 リュウコウ の この チカラ は、 それ が シュウカン と あいはんする ホウコウ の もの で ある と いう こと に もとづいて いる。 リュウコウ は サイダイ の テキオウリョク を ゆうする と いわれる ニンゲン に トクチョウテキ で ある。 シュウカン が シゼンテキ な もの で ある の に たいして、 リュウコウ は チセイテキ な もの で ある と さえ かんがえる こと が できる で あろう。
 シュウカン は ジコ に よる ジコ の モホウ と して ジコ の ジコ に たいする テキオウ で ある と ドウジ に、 ジコ の カンキョウ に たいする テキオウ で ある。 リュウコウ は カンキョウ の モホウ と して ジコ の カンキョウ に たいする テキオウ から しょうずる もの で ある が、 リュウコウ にも ジコ が ジコ を モホウ する と いう ところ が ある で あろう。 ワレワレ が リュウコウ に したがう の は、 ナニ か ジコ に こびる もの が ある から で ある。 ただ、 リュウコウ が カタチ と して は フアンテイ で あり、 リュウコウ には カタチ が ない とも いわれる の に たいして、 シュウカン は カタチ と して アンテイ して いる。 しかるに シュウカン が カタチ と して アンテイ して いる と いう こと は、 シュウカン が ギジュツ で ある こと を イミ して いる。 その カタチ は ギジュツテキ に できて くる もの で ある。 ところが リュウコウ には かよう な ギジュツテキ な ノウドウセイ が かけて いる。

 ヒトツ の ジョウネン を シハイ しうる の は リセイ で なくて タ の ジョウネン で ある と いわれる。 しかし ジツ を いう と、 シュウカン こそ ジョウネン を シハイ しうる もの で ある。 ヒトツ の ジョウネン を シハイ しうる の は リセイ で なくて タ の ジョウネン で ある と いわれる よう な、 その ジョウネン の チカラ は どこ に ある の で ある か。 それ は たんに ジョウネン の ウチ に ある の で なく、 むしろ ジョウネン が シュウカン に なって いる ところ に ある。 ワタシ が おそれる の は カレ の ニクシミ では なくて、 ワタシ に たいする カレ の ニクシミ が シュウカン に なって いる と いう こと で ある。 シュウカン に かたちづくられる の で なければ ジョウネン も チカラ が ない。 ヒトツ の シュウカン は タ の シュウカン を つくる こと に よって やぶられる。 シュウカン を シハイ しうる の は リセイ で なくて タ の シュウカン で ある。 いいかえる と、 ヒトツ の カタチ を しんに コクフク しうる もの は タ の カタチ で ある。 リュウコウ も シュウカン に なる まで は フアンテイ な チカラ に すぎない。 ジョウネン は それ ジシン と して は カタチ の そなわらぬ もの で あり、 シュウカン に たいする ジョウネン の ムリョク も そこ に ある。 ヒトツ の ジョウネン が タ の ジョウネン を シハイ しうる の も、 チセイ が くわわる こと に よって つくられる チツジョ の チカラ に もとづいて いる。 ジョウネン は カタチ の そなわらぬ もの と して シゼンテキ な もの と かんがえられる。 ジョウネン に たいする カタチ の シハイ は シゼン に たいする セイシン の シハイ で ある。 シュウカン も カタチ と して たんなる シゼン で なく、 すでに セイシン で ある。

 カタチ を たんに クウカンテキ な カタチ と して しか、 したがって ブッシツテキ な カタチ と して しか ヒョウショウ しえない と いう の は キンダイ の キカイテキ な ゴセイ の こと で ある。 むしろ セイシン こそ カタチ で ある。 ギリシア の コテンテキ テツガク は ブッシツ は ムゲンテイ な シツリョウ で あって セイシン は ケイソウ で ある と かんがえた。 ゲンダイ の セイ の テツガク は ギャク に セイシンテキ セイメイ ソノモノ を ムゲンテイ な リュウドウ の ごとく かんがえて いる。 この テン に おいて セイ の テツガク も カタチ に かんする キンダイ の キカイテキ な カンガエカタ に エイキョウ されて いる。 しかし セイシン を ケイソウ と かんがえた ギリシア テツガク は ケイソウ を なお クウカンテキ に ヒョウショウ した。 トウヨウ の デントウテキ ブンカ は シュウカン の ブンカ で ある と いう こと が できる。 シュウカン が シゼン で ある よう に、 トウヨウ ブンカ の コンテイ に ある の は ある シゼン で ある。 また シュウカン が たんなる シゼン で なく ブンカ で ある よう に、 トウヨウテキ シゼン は ドウジ に ブンカ の イミ を もって いる。 ブンカ シュギテキ な セイヨウ に おいて カタチ が クウカンテキ に ヒョウショウ された の に たいして、 シゼン シュギテキ な トウヨウ の ブンカ は かえって セイシン の しんに セイシンテキ な カタチ を ツイキュウ した。 しかし すでに カタチ と いう イジョウ、 それ は ジュンスイ な セイシン で ある こと が できる か。 シュウカン が シゼン と みられる よう に、 セイシン の カタチ と いって も ドウジ に シゼン の イミ が なければ ならぬ。 シュウカン は たんなる セイシン でも たんなる シンタイ でも ない グタイテキ な セイメイ の ナイテキ な ホウソク で ある。 シュウカン は ジュンスイ に セイシンテキ と いわれる カツドウ の ウチ にも みいだされる シゼンテキ な もの で ある。

 シイ の ハンチュウ と いう もの を ヒューム が シュウカン から セツメイ した の は、 ゲンダイ の ニンシキロン の ヒヒョウ する よう に、 それほど わらう べき こと で ある か どう か、 ワタシ は しらない。 ハンチュウ の たんに ロンリテキ な イミ で なくて その ソンザイロンテキ な イミ を かんがえよう と する バアイ、 それ を シュウカン から セツメイ する より も いっそう テキセツ に セツメイ する シカタ が ある か どう か、 ワタシ は しらない。 ただ その サイ、 シュウカン を たんなる ケイケン から しょうずる もの の よう に かんがえる キカイテキ な ミカタ を はいする こと が ヒツヨウ で ある。 ケイケンロン は キカイロン で ある こと に よって まちがって いる。 ケイケン の ハンプク と いう こと は シュウカン の ホンシツ の セツメイ に とって つねに フジュウブン で ある。 イシ は たとい ヒャクマンベン おなじ ホウコウ に おなじ ソクド で なげられた に して も その ため に シュウカン を うる こと が ない、 シュウカン は セイメイ の ナイテキ な ケイコウ に ぞくして いる。 ケイケンロン に ハンタイ する センケンロン は フツウ に、 ケイケン を シュウカン の エイキョウ の まったく ない カンカク と ドウイツシ して いる。 カンカク を よびおこす サヨウ の ウチ に あらわれる シュウカン から エイキョウ されない よう な チシキ の 「ナイヨウ」 と いう もの が ソンザイ する で あろう か。 シュウカン は シイ の ウチ にも サヨウ する。

 シャカイテキ シュウカン と して の カンシュウ が ドウトク で あり、 ケンイ を もって いる の は、 たんに それ が シャカイテキ な もの で ある と いう こと に よる の では なく、 かえって それ が ヒョウゲンテキ な もの と して カタチ で ある こと に もとづく の で ある。 いかなる カタチ も つねに チョウエツテキ な イミ を もって いる。 カタチ を つくる と いう セイメイ に ホンシツテキ な サヨウ は セイメイ に ナイザイ する チョウエツテキ ケイコウ を しめして いる。 しかし カタチ を つくる こと は ドウジ に セイメイ が ジコ を ヒテイ する こと で ある。 セイメイ は カタチ に よって いき、 カタチ に おいて しぬる。 セイメイ は シュウカン に よって いき、 シュウカン に おいて しぬる。 シ は シュウカン の キョクゲン で ある。

 シュウカン を ジユウ に なしうる モノ は ジンセイ に おいて オオク の こと を なしうる。 シュウカン は ギジュツテキ な もの で ある ゆえ に ジユウ に する こと が できる。 もとより タイテイ の シュウカン は ムイシキテキ な ギジュツ で ある が、 これ を イシキテキ に ギジュツテキ に ジユウ に する ところ に ドウトク が ある。 シュウヨウ と いう もの は かよう な ギジュツ で ある。 もし シュウカン が ただ シゼン で ある ならば、 シュウカン が ドウトク で ある とは いいえない で あろう。 スベテ の ドウトク には ギジュツテキ な もの が ある と いう こと を リカイ する こと が タイセツ で ある。 シュウカン は ワレワレ に もっとも テヂカ な もの、 ワレワレ の チカラ の ウチ に ある シュダン で ある。
 シュウカン が ギジュツ で ある よう に、 スベテ の ギジュツ は シュウカンテキ に なる こと に よって しんに ギジュツ で ある こと が できる。 どのよう な テンサイ も シュウカン に よる の で なければ ナニゴト も ジョウジュ しえない。

 じゅうらい シュウヨウ と いわれる もの は ドウグ ジダイ の シャカイ に おける ドウトクテキ ケイセイ の ホウホウ で ある。 この ジダイ の シャカイ は ユウキテキ で、 ゲンテイ された もの で あった。 しかるに コンニチ では ドウグ ジダイ から キカイ ジダイ に かわり、 ワレワレ の セイカツ の カンキョウ も まったく ちがった もの に なって いる。 その ため に ドウトク に おいて も シュウヨウ と いう もの だけ では フジュウブン に なった。 ドウグ の ギジュツ に ひして キカイ の ギジュツ は シュウカン に イゾン する こと が すくなく、 チシキ に イゾン する こと が おおい よう に、 コンニチ では ドウトク に おいて も チシキ が とくに ジュウヨウ に なって いる の で ある。 しかし また ドウトク は ユウキテキ な シンタイ を はなれうる もの で なく、 そして チセイ の ウチ にも シュウカン が はたらく と いう こと に チュウイ しなければ ならぬ。

 デカダンス は ジョウネン の フテイ な カジョウ で ある の では ない。 デカダンス は ジョウネン の トクシュ な シュウカン で ある。 ニンゲン の コウイ が ギジュツテキ で ある ところ に デカダンス の コンゲン が ある。 ジョウネン が シュウカンテキ に なり、 ギジュツテキ に なる ところ から デカダンス が しょうずる。 シゼンテキ な ジョウネン の バクハツ は むしろ シュウカン を やぶる もの で あり、 デカダンス とは ハンタイ の もの で ある。 スベテ の シュウカン には なんらか デカダンス の ニオイ が かんじられない で あろう か。 シュウカン に よって ワレワレ が しぬる と いう の は、 シュウカン が デカダンス に なる ため で あって、 シュウカン が セイシ で ある ため では ない。

 シュウカン に よって ワレワレ は ジユウ に なる と ともに シュウカン に よって ワレワレ は ソクバク される。 しかし シュウカン に おいて おそる べき もの は、 それ が ワレワレ を ソクバク する こと で ある より も、 シュウカン の ウチ に デカダンス が ふくまれる こと で ある。
 あの モラリスト たち は ヨノナカ に いかに オオク の キカイ な シュウカン が ソンザイ する か に ついて つねに かたって いる。 その こと は いかに シュウカン が デカダンス に おちいりやすい か を しめす もの で ある。 オオク の キカイ な ゲイジュツ が ソンザイ する よう に オオク の キカイ な シュウカン が ソンザイ する。 しかるに その こと は また シュウカン が ゲイジュツ と ドウヨウ、 コウソウリョク に ぞくする こと を しめす で あろう。
 シュウカン に たいして リュウコウ は より チセイテキ で ある と いう こと が できる。 リュウコウ には おなじ よう な デカダンス が ない で あろう。 そこ に リュウコウ の セイメイテキ カチ が ある。 しかしながら リュウコウ ソノモノ が デカダンス に なる バアイ、 それ は もっとも おそる べき もの で ある。 リュウコウ は フアンテイ で、 それ を ささえる カタチ と いう もの が ない から。 リュウコウ は チョクセツ に キョム に つらなる ゆえ に、 その デカダンス には ソコ が ない。

 キョエイ に ついて

 Vanitati creatura subjecta est etiam nolens. ―― 「つくられたる もの の むなしき に ふくせし は、 オノ が ネガイ に よる に あらず、 ふくせしめたまいし モノ に よる なり」 ロマ ショ ダイ 8 ショウ 20 セツ。

 キョエイ は ニンゲンテキ シゼン に おける もっとも フヘンテキ な かつ もっとも コユウ な セイシツ で ある。 キョエイ は ニンゲン の ソンザイ ソノモノ で ある。 ニンゲン は キョエイ に よって いきて いる。 キョエイ は あらゆる ニンゲンテキ な もの の ウチ もっとも ニンゲンテキ な もの で ある。
 キョエイ に よって いきる ニンゲン の セイカツ は ジッタイ の ない もの で ある。 いいかえる と、 ニンゲン の セイカツ は フィクショナル な もの で ある。 それ は ゲイジュツテキ イミ に おいて も そう で ある。 と いう の は、 つまり ジンセイ は フィクション (ショウセツ) で ある。 だから どのよう な ヒト でも ヒトツ だけ は ショウセツ を かく こと が できる。 フツウ の ニンゲン と ゲイジュツカ との サイ は、 ただ ヒトツ しか ショウセツ を かく こと が できない か、 それとも シュジュ の ショウセツ を かく こと が できる か と いう テン に ある と いいうる で あろう。
 ジンセイ が フィクション で ある と いう こと は、 それ が なんら の ジツザイセイ を ゆうしない と いう こと では ない。 ただ その ジツザイセイ は ブッテキ ジツザイセイ と おなじ で なく、 むしろ ショウセツ の ジツザイセイ と ほぼ おなじ もの で ある。 すなわち ジッタイ の ない もの が いかに して ジツザイテキ で ありうる か と いう こと が ジンセイ に おいて、 ショウセツ に おいて と ドウヨウ、 コンポン モンダイ で ある。

 ジンセイ は フィクショナル な もの と して がんらい ただ カノウテキ な もの で ある。 その ゲンジツセイ は ワレワレ の セイカツ ソノモノ に よって はじめて ショウメイ されねば ならぬ。

 いかなる サッカ が カミ や ドウブツ に ついて フィクション を かこう と した で あろう か。 カミ や ドウブツ は、 ニンゲン の パッション が カレラ の ウチ に イニュウ された カギリ に おいて のみ、 フィクション の タイショウ と なる こと が できた の で ある。 ひとり ニンゲン の セイカツ のみ が フィクショナル な もの で ある。 ニンゲン は ショウセツテキ ドウブツ で ある と テイギ する こと が できる で あろう。

 シゼン は ゲイジュツ を モホウ する と いう の は よく しられた コトバ で ある。 けれども ゲイジュツ を モホウ する の は コユウ な イミ に おいて は シゼン の ウチ ニンゲン のみ で ある。 ニンゲン が ショウセツ を モホウ し また モホウ しうる の は、 ニンゲン が ホンセイジョウ ショウセツテキ な もの で ある から で なければ ならぬ。 ニンゲン は ニンゲンテキ に なりはじめる や いなや、 ジコ と ジコ の セイカツ を ショウセツカ しはじめる。

 スベテ の ニンゲンテキ と いわれる パッション は ヴァニティ から うまれる。 ニンゲン の あらゆる パッション は ニンゲンテキ で ある が、 かりに ニンゲン に ドウブツテキ な パッション が ある と して も、 それ が ただちに ヴァニティ に とらえられうる ところ に ニンゲンテキ な もの が みとめられる。

 ヴァニティ は いわば その ジッタイ に したがって かんがえる と キョム で ある。 ヒトビト が キョエイ と いって いる もの は いわば その ゲンショウ に すぎない。 ニンゲンテキ な スベテ の パッション は キョム から うまれ、 その ゲンショウ に おいて キョエイテキ で ある。 ジンセイ の ジツザイセイ を ショウメイ しよう と する モノ は キョム の ジツザイセイ を ショウメイ しなければ ならぬ。 あらゆる ニンゲンテキ ソウゾウ は かよう に して キョム の ジツザイセイ を ショウメイ する ため の もの で ある。

「キョエイ を あまり ゼンブ ジブン の ウチ に たくわえ、 そして それ に コクシ される こと に ならない よう に、 それ に たいして ワレメ を ひらいて おく の が よい。 いわば マイニチ の ハイスイ が ヒツヨウ なの で ある」 かよう に いった ジューベール は ジョウシキカ で あった。 しかし この ジョウシキ には ケンメイ な ショセイホウ が しめされて いる。 キョエイ に よって メツボウ しない ため に、 ニンゲン は その ヒビ の セイカツ に おいて、 あらゆる ショウジ に ついて、 キョエイテキ で ある こと が ヒツヨウ で ある。
 この テン に おいて エイユウ は レイガイ で ある。 エイユウ は その サイゴ に よって、 つまり メツボウ に よって ジコ を ショウメイ する。 キゲキ の シュジンコウ には エイユウ が ない、 エイユウ は ただ ヒゲキ の シュジンコウ で ある こと が できる。

 ニンゲン は キョエイ に よって いきる と いう こと こそ、 カレ の セイカツ に とって チエ が ヒツヨウ で ある こと を しめす もの で ある。 ジンセイ の チエ は すべて キョム に いたらなければ ならぬ。

 シヘイ は フィクショナル な もの で ある。 しかし また キンカ も フィクショナル な もの で ある。 けれども シヘイ と キンカ との アイダ には サベツ が かんがえられる。 ヨノナカ には フカン シヘイ と いう もの も ある の で ある。 スベテ が キョエイ で ある ジンセイ に おいて チエ と よばれる もの は キンカ と シヘイ と を、 とくに フカン シヘイ と を クベツ する ハンダンリョク で ある。 もっとも キンカ も それ ジシン フィクショナル な もの では ない。

 しかし ニンゲン が キョエイテキ で ある と いう こと は すでに ニンゲン の より たかい セイシツ を しめして いる。 キョエイシン と いう の は ジブン が ある より も イジョウ の もの で ある こと を しめそう と する ニンゲンテキ な パッション で ある。 それ は カソウ に すぎない かも しれない。 けれども イッショウ カソウ しとおした モノ に おいて、 その ヒト の ホンセイ と カセイ と を クベツ する こと は フカノウ に ちかい で あろう。 ドウトク も また フィクション では ない か。 それ は フカン シヘイ に たいする キンカ ほど の イミ を もって いる。

 ニンゲン が キョエイテキ で ある と いう こと は ニンゲン が シャカイテキ で ある こと を しめして いる。 つまり シャカイ も フィクション の ウエ に セイリツ して いる。 したがって シャカイ に おいて は シンヨウ が スベテ で ある。 あらゆる フィクション が キョエイ で ある と いう の では ない。 フィクション に よって セイカツ する ニンゲン が キョエイテキ で ありうる の で ある。

 ブンメイ の シンポ と いう の は ニンゲン の セイカツ が より おおく フィクション の ウエ に きずかれる こと で ある と すれば、 ブンメイ の シンポ と ともに キョエイ は ニチジョウ サハンジ と なる。 そして エイユウテキ な ヒゲキ も また すくなく なる。

 フィクション で ある もの を シゼンテキ と おもわれる もの に する の は シュウカン の チカラ で ある。 むしろ シュウカンテキ に なる こと に よって フィクション は はじめて フィクション の イミ を ゆうする に いたる の で ある。 かくして ただ たんに キョエイ で ある もの は いまだ フィクション とは いわれない。 それゆえに フィクション は キョエイ で ある に して も、 すでに フィクション と して ダトウ する イジョウ、 たんなる キョエイ で ある こと から より たかい ニンゲンテキ な もの と なって いる。 シュウカン は すでに かよう な より たかい ニンゲンセイ を あらわして いる。 シュウカン は たんに シゼンテキ な もの で なく、 すでに チセイテキ な もの の ヒトツ の カタチ で ある。

 スベテ の ニンゲン の アク は コドク で ある こと が できない ところ から しょうずる。

 いかに して キョエイ を なくする こと が できる か。 キョム に きする こと に よって。 それとも キョム の ジツザイセイ を ショウメイ する こと に よって。 いいかえる と、 ソウゾウ に よって。 ソウゾウテキ な セイカツ のみ が キョエイ を しらない。 ソウゾウ と いう の は フィクション を つくる こと で ある、 フィクション の ジツザイセイ を ショウメイ する こと で ある。

 キョエイ は もっとも オオク の バアイ ショウヒ と むすびついて いる。

 ヒト に キ に いらん が ため に、 あるいは タ の モノ に たいして ジブン を こころよき もの に せん が ため に キョエイテキ で ある こと は、 ジューベール の いった ごとく、 すでに 「ハンブン の トク」 で ある。 スベテ の キョエイ は この ハンブン の トク の ため に ゆるされて いる。 キョエイ を はいする こと は それ ジシン ヒトツ の キョエイ で ありうる のみ で なく、 ココロ の ヤサシサ の テキ で ある ゴウマン に だして いる こと が しばしば で ある。

 その リソウコク から ゲイジュツカ を ツイホウ しよう と した プラトン には ヒトツ の チエ が ある。 しかし ジコ の セイカツ に ついて シン の ゲイジュツカ で ある と いう こと は、 ニンゲン の タチバ に おいて キョエイ を クチク する ため の サイコウ の もの で ある。

 キョエイ は セイカツ に おいて ソウゾウ から クベツ される ディレッタンティズム で ある。 キョエイ を ゲイジュツ に おける ディレッタンティズム に ひして かんがえる モノ は、 キョエイ の テキセツ な ショリホウ を ハッケン しうる で あろう。

 メイヨシン に ついて

 メイヨシン と キョエイシン と ほど コンドウ されやすい もの は ない。 しかも リョウシャ ほど クベツ の ヒツヨウ な もの は ない。 この フタツ の もの を クベツ する こと が ジンセイ に ついて の チエ の すくなくとも ハンブン で ある と さえ いう こと が できる で あろう。 メイヨシン が キョエイシン と ゴカイ される こと は はなはだ おおい、 しかし また メイヨシン は きわめて ヨウイ に キョエイシン に へんずる もの で ある。 ココ の バアイ に ついて リョウシャ を クベツ する には よい メ を もたねば ならぬ。

 ジンセイ に たいして どんな に ゲンカク な ニンゲン も メイヨシン を ホウキ しない で あろう。 ストイック と いう の は むしろ メイヨシン と キョエイシン と を クベツ して、 コウシャ に ユウワク されない モノ の こと で ある。 その クベツ が できない バアイ、 ストイック と いって も ヒトツ の キョエイ に すぎぬ。

 キョエイシン は まず シャカイ を タイショウ と して いる。 しかるに メイヨシン は まず ジコ を タイショウ と する。 キョエイシン が タイ-セケンテキ で ある の に はんして、 メイヨシン は ジコ の ヒンイ に ついて の ジカク で ある。
 スベテ の ストイック は ホンシツテキ に コジン シュギシャ で ある。 カレ の ストイシズム が ジコ の ヒンイ に ついて の ジカク に もとづく バアイ、 カレ は よき イミ に おける コジン シュギシャ で あり、 そして それ が キョエイ の イッシュ で ある バアイ、 カレ は あしき イミ に おける コジン シュギシャ に すぎぬ。 ストイシズム の カチ も ゲンカイ も、 それ が ホンシツテキ に コジン シュギ で ある ところ に ある。 ストイシズム は ジコ の もの で ある ショ-ジョウネン を ジコ とは カカワリ の ない シゼンブツ の ごとく みる こと に よって セイギョ する の で ある が、 それ に よって ドウジ に ジコ あるいは ジンカク と いう チュウショウテキ な もの を カクリツ した。 この チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ が その ドウトク の ホンシツ を なして いる。

 メイヨシン と コジン イシキ とは フカブン で ある。 ただ ニンゲン だけ が メイヨシン を もって いる と いわれる の も、 ニンゲン に おいて は ドウブツ に おいて より も はるか に おおく コセイ が ブンカ して いる こと に カンケイ する で あろう。 メイヨシン は コジン イシキ に とって いわば コウセイテキ で ある。 コジン で あろう と する こと、 それ が ニンゲン の サイシン の、 また サイコウ の メイヨシン で ある。
 メイヨシン も、 キョエイシン と ドウヨウ、 シャカイ に むかって いる と いわれる で あろう。 しかし それ に して も、 キョエイシン に おいて は アイテ は 「セケン」 と いう もの、 くわしく いう と、 コウ でも なく オツ でも ない と ドウジ に コウ でも あり オツ でも ある ところ の 「ヒト」、 アノニム な 「ヒト」 で ある の に はんして、 メイヨシン に おいて は アイテ は コウ で あり あるいは オツ で あり、 ソレゾレ の ニンゲン が コジン と して の ドクジセイ を うしなわない で いる ところ の シャカイ で ある。 キョエイシン は ホンシツテキ に アノニム で ある。
 キョエイシン の トリコ に なる とき、 ニンゲン は ジコ を うしない、 コジン の ドクジセイ の イシキ を うしなう の が ツネ で ある。 その とき カレ は アノニム な 「ヒト」 を タイショウ と する こと に よって カレ ジシン アノニム な 「ヒト」 と なり、 キョム に きする。 しかるに メイヨシン に おいて は、 それ が キョエイシン に へんずる こと なく しんに メイヨシン に とどまって いる かぎり、 ニンゲン は ジコ と ジコ の ドクジセイ の ジカク に たつ の で なければ ならぬ。
 ヒト は ナニ より も おおく キョエイシン から モホウ し、 リュウコウ に ミ を まかせる。 リュウコウ は アノニム な もの で ある。 それだから メイヨシン を もって いる ニンゲン が もっとも きらう の は リュウコウ の モホウ で ある。 メイヨシン と いう の は すべて アノニム な もの に たいする タタカイ で ある。

 ハッセイテキ に いう と、 ヨツアシ で チ に はう こと を やめた とき ニンゲン には メイヨシン が しょうじた。 カレ が チョクリツ して ホコウ する よう に なった と いう こと は、 カレ の メイヨシン の サイショ の、 サイダイ の コウイ で あった。
 チョクリツ する こと に よって ニンゲン は チュウショウテキ な ソンザイ に なった。 その とき カレ には テ と いう もの、 この あらゆる キカン の ウチ もっとも チュウショウテキ な キカン が できた、 それ は ドウジ に カレ に とって チュウショウテキ な シコウ が カノウ に なった こと で ある、 -トウトウ、 ――そして メイヨシン と いう の は すべて チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ で ある。
 チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ を もって いる か どう か が メイヨシン に とって キジュン で ある。 かくして ヨノナカ に おいて メイヨシン から でた もの の よう に いわれて いる こと も じつは キョエイシン に もとづく もの が いかに おおい で あろう。

 チュウショウテキ な ソンザイ に なった ニンゲン は もはや カンキョウ と チョクセツ に ユウゴウ して いきる こと が できず、 むしろ カンキョウ に タイリツ し、 これ と たたかう こと に よって いきねば ならぬ。 ――メイヨシン と いう の は あらゆる イミ に おける センシ の ココロ で ある。 キシドウ とか ブシドウ とか に おいて メイヨシン が コンポンテキ な トク と かんがえられた の も これ に カンレン して いる。

 たとえば、 ナ を おしむ と いう。 ナ と いう の は チュウショウテキ な もの で ある。 もし それ が チュウショウテキ な もの で ない なら、 そこ に メイヨシン は なく、 キョエイシン が ある だけ で ある。 イマ セケン の ヒョウバン と いう もの は アノニム な もの で ある。 したがって ヒョウバン を キ に する こと は メイヨシン で なくて キョエイシン に ぞくして いる。 アノニム な もの と チュウショウテキ な もの とは おなじ では ない。 リョウシャ を クベツ する こと が タイセツ で ある。
 スベテ の メイヨシン は なんらか の シカタ で エイエン を かんがえて いる。 この エイエン と いう もの は チュウショウテキ な もの で ある。 たとえば ナ を おしむ と いう バアイ、 ナ は コジン の ヒンイ の イシキ で あり、 しかも それ は チュウショウテキ な もの と して の エイエン に カンケイ-づけられて いる。 キョエイシン は しかるに ジカンテキ な もの の もっとも ジカンテキ な もの で ある。
 チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ に よって コジン と いう もっとも ゲンジツテキ な もの の イシキ が セイリツ する、 ――これ が ニンゲン の ソンザイ の ヒミツ で ある。 たとえば ジンルイ と いう の は チュウショウテキ な もの で ある。 ところで この ジンルイ と いう チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ なし には ニンゲン は シン の コジン と なる こと が できぬ。

 メイヨシン の チュウショウセイ の ウチ に その シンリ と ドウジ に その キョギ が ある。

 メイヨシン に おいて ほろぶ モノ は チュウショウテキ な もの に おいて ほろぶ モノ で あり、 そして この チュウショウテキ な もの に おいて ほろびうる と いう こと は ニンゲン に コユウ な こと で あり、 その こと が カレ の メイヨシン に ぞくして いる。
 メイヨシン は ジコ イシキ と フカブン の もの で ある が、 ジコ と いって も この バアイ チュウショウテキ な もの で ある。 したがって メイヨシン は ジコ に とどまる こと なく、 たえず ソト に むかって、 シャカイ に たいして でて ゆく。 そこ に メイヨシン の ムジュン が ある。

 メイヨシン は ハクジツ の ウチ に なければ ならない。 だが ハクジツ とは ナニ か。 チュウショウテキ な クウキ で ある。
 メイヨシン は アノニム な シャカイ を アイテ に して いる の では ない。 しかしながら それ は なお チュウショウテキ な コウ、 チュウショウテキ な オツ、 つまり チュウショウテキ な シャカイ を アイテ に して いる の で ある。

 アイ は グタイテキ な もの に たいして の ホカ うごかない。 この テン に おいて アイ は メイヨシン と タイセキテキ で ある。 アイ は ケンキョ で ある こと を もとめ、 そして メイヨシン は もっとも しばしば ゴウマン で ある。

 シュウキョウ の ヒミツ は エイエン とか ジンルイ とか いう チュウショウテキ な もの が そこ では もっとも グタイテキ な もの で ある と いう こと に ある。 シュウキョウ こそ メイヨシン の ゲンカイ を メイリョウ に する もの で ある。

 メイヨシン は チュウショウテキ な もの で ある に して も、 ムカシ の シャカイ は イマ の シャカイ ほど チュウショウテキ な もの で なかった ゆえ に、 メイヨシン は なお コンテイ の ある もの で あった。 しかるに コンニチ シャカイ が チュウショウテキ な もの に なる に したがって メイヨシン も また ますます チュウショウテキ な もの に なって いる。 ゲマインシャフト-テキ な グタイテキ な シャカイ に おいて は チュウショウテキ な ジョウネツ で ある ところ の メイヨシン は ヒトツ の おおきな トク で ある こと が できた。 ゲゼルシャフト-テキ な チュウショウテキ な シャカイ に おいて は このよう な メイヨシン は コンテイ の ない もの に され、 キョエイシン と メイヨシン との クベツ も みわけがたい もの に なって いる。

 イカリ に ついて

 Ira Dei (カミ の イカリ)、 ――キリスト-キョウ の ブンケン を みる たび に つねに かんがえさせられる の は これ で ある。 なんと いう おそろしい シソウ で あろう。 また なんと いう ふかい シソウ で あろう。
 カミ の イカリ は いつ あらわれる の で ある か、 ――セイギ の ジュウリン された とき で ある。 イカリ の カミ は セイギ の カミ で ある。
 カミ の イカリ は いかに あらわれる の で ある か、 ――テンペン チイ に おいて で ある か、 ヨゲンシャ の イカリ に おいて で ある か、 それとも タイシュウ の イカリ に おいて で ある か。 カミ の イカリ を おもえ!

 しかし セイギ とは ナニ か。 いかる カミ は かくれたる カミ で ある。 セイギ の ホウソク と かんがえられる よう に なった とき、 ニンゲン に とって カミ の イカリ は わすれられて しまった。 イカリ は ケイジ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 いかる カミ は ホウソク の カミ では ない。
 いかる カミ には デモーニッシュ な ところ が なければ ならぬ。 カミ は もと デモーニッシュ で あった の で ある。 しかるに イマ では カミ は ニンゲンテキ に されて いる、 デーモン も また ニンゲンテキ な もの に されて いる。 ヒューマニズム と いう の は イカリ を しらない こと で あろう か。 そう だ と した なら、 コンニチ ヒューマニズム に どれほど の イミ が ある で あろう か。
 アイ の カミ は ニンゲン を ニンゲンテキ に した。 それ が アイ の イミ で ある。 しかるに セカイ が ニンゲンテキ に、 あまり に ニンゲンテキ に なった とき ヒツヨウ なの は イカリ で あり、 カミ の イカリ を しる こと で ある。
 コンニチ、 アイ に ついて は ダレ も かたって いる。 ダレ が イカリ に ついて シンケン に かたろう と する の で ある か。 イカリ の イミ を わすれて ただ アイ に ついて のみ かたる と いう こと は コンニチ の ニンゲン が ムセイカク で ある と いう こと の シルシ で ある。
 せつに ギジン を おもう。 ギジン とは ナニ か、 ――いかる こと を しれる モノ で ある。

 コンニチ、 イカリ の リンリテキ イミ ほど おおく わすれられて いる もの は ない。 イカリ は ただ さく べき もの で ある か の よう に かんがえられて いる。 しかしながら、 もし ナニモノ か が あらゆる バアイ に さく べき で ある と すれば、 それ は ニクシミ で あって イカリ では ない。 ニクシミ も イカリ から チョクセツ に はっした バアイ には イミ を もつ こと が できる、 つまり イカリ は ニクシミ の リンリセイ を キソ-づけうる よう な もの で ある。 イカリ と ニクシミ とは ホンシツテキ に ことなる にも かかわらず きわめて しばしば コンドウ されて いる、 ――イカリ の イミ が わすれられて いる ショウコ で ある と いえよう。
 イカリ は より ふかい もの で ある。 イカリ は ニクシミ の チョクセツ の ゲンイン と なる こと が できる の に はんし、 ニクシミ は ただ フタイテキ に しか イカリ の ゲンイン と なる こと が できぬ。

 スベテ の イカリ は トッパツテキ で ある。 その こと は イカリ の ジュンスイセイ あるいは タンジュンセイ を しめして いる。 しかるに ニクシミ は ほとんど すべて シュウカンテキ な もの で あり、 シュウカンテキ に エイゾク する ニクシミ のみ が ニクシミ と かんがえられる ほど で ある。 ニクシミ の シュウカンセイ が その シゼンセイ を あらわす と すれば、 イカリ の トッパツセイ は その セイシンセイ を あらわして いる。 イカリ が トッパツテキ な もの で ある と いう こと は その ケイジテキ な フカサ を かたる もの で なければ ならぬ。 しかるに ニクシミ が ナニ か ふかい もの の よう に みえる と すれば、 それ は ニクシミ が シュウカンテキ な エイゾクセイ を もって いる ため で ある。

 イカリ ほど セイカク な ハンダン を みだす もの は ない と いわれる の は ただしい で あろう。 しかし いかる ニンゲン は イカリ を あらわさない で にくんで いる ニンゲン より も つねに じょせらる べき で ある。

 ヒト は アイ に シュルイ が ある と いう。 アイ は カミ の アイ (アガペ)、 リソウ に たいする アイ (プラトン-テキ エロス)、 そして ニクタイテキ な アイ と いう ミッツ の ダンカイ に クベツ されて いる。 そう で ある なら、 それ に ソウオウ して イカリ にも、 カミ の イカリ、 メイヨシン から の イカリ、 キブンテキ な イカリ と いう ミッツ の シュルイ を クベツ する こと が できる で あろう。 イカリ に ダンカイ が かんがえられる と いう こと は イカリ の フカサ を しめす もの で ある。 ところが ニクシミ に ついて は ドウヨウ の ダンカイ を クベツ しうる で あろう か。 イカリ の ナイメンセイ が リカイ されねば ならぬ。
 アイ と ニクシミ と を つねに タイリツテキ に かんがえる こと は キカイテキ に すぎる と いいうる で あろう。 すくなくとも カミ の ベンショウホウ は アイ と ニクシミ の ベンショウホウ で なくて アイ と イカリ の ベンショウホウ で ある。 カミ は にくむ こと を しらず、 いかる こと を しって いる。 カミ の イカリ を わすれた オオク の アイ の セツ は カミ の アイ をも ニンゲンテキ な もの に して しまった。

 ワレワレ の イカリ の オオク は キブンテキ で ある。 キブンテキ な もの は セイリテキ な もの に むすびついて いる。 したがって イカリ を しずめる には セイリテキ な シュダン に うったえる の が よい。 イッパン に セイリ は ドウトク に ふかい カンケイ が ある。 ムカシ の ヒト は その こと を よく しって おり、 しって よく ジッコウ した が、 イマ では その チエ は しだいに とぼしく なって いる。 セイリガク の ない リンリガク は、 ニクタイ を もたぬ ニンゲン と ドウヨウ、 チュウショウテキ で ある。 その セイリガク は ヒトツ の ギジュツ と して タイソウ で なければ ならない。 タイソウ は シンタイ の ウンドウ に たいする ただしい ハンダン の シハイ で あり、 それ に よって セイシン の ムチツジョ も ととのえられる こと が できる。 ジョウネン の うごく まま に まかされよう と して いる シンタイ に たいして テキトウ な タイソウ を こころえて いる こと は ジョウネン を シハイ する に カンヨウ な こと で ある。

 イカリ を しずめる サイジョウ の シュダン は トキ で ある と いわれる で あろう。 イカリ は とりわけ トッパツテキ な もの で ある から。
 カミ は トキ に みじめ な ニンゲン を なぐさめる よう に メイレイ した。 しかし トキ は ニンゲン を すくう で あろう か。 トキ に よって なぐさめられる と いう こと は ニンゲン の ハカナサ イッパン に ぞくして いる。 トキ とは ショウメツセイ で ある。

 ワレワレ の イカリ の オオク は シンケイ の ウチ に ある。 それだから シンケイ を いらだたせる ゲンイン に なる よう な こと、 たとえば、 クウフク とか スイミン-ブソク とか いう こと が さけられねば ならぬ。 すべて ちいさい こと に よって しょうずる もの は ちいさい こと に よって しょうじない よう に する こと が できる。 しかし きわめて ちいさい こと に よって に せよ いったん しょうじた もの は きわめて おおきな ワザワイ を ひきおこす こと が カノウ で ある。
 シャカイ と ブンカ の ゲンジョウ は ニンゲン を はなはだ シンケイシツ に して いる。 そこで イカリ も ジョウシュウテキ に なり、 ジョウシュウテキ に なる こと に よって イカリ は ホンライ の セイシツ を うしなおう と して いる。 イカリ と ショウソウ と が たえず コンコウ して いる。 おなじ リユウ から、 コンニチ では イカリ と ニクシミ との クベツ も アイマイ に なって いる。 いかる ヒト を みる とき、 ワタシ は なんだか コフウ な ニンゲン に あった よう に かんじる。

 イカリ は フクシュウシン と して エイゾク する こと が できる。 フクシュウシン は ニクシミ の カタチ を とった イカリ で ある。 しかし イカリ は エイゾク する バアイ その ジュンスイセイ を たもつ こと が コンナン で ある。 イカリ から はっした フクシュウシン も たんなる ニクシミ に てんじて しまう の が ほとんど ツネ で ある。

 ニクヨクテキ な アイ も エイゾク する バアイ しだいに ジョウカ されて いっそう コウジ の アイ に たかまって ゆく こと が できる。 そこ に アイ と いう もの の シンピ が ある。 アイ の ミチ は ジョウショウ の ミチ で あり、 その こと が ヒューマニズム の カンネン と イッチ しやすい。 スベテ の ヒューマニズム の コンテイ には エロティシズム が ある と いえる で あろう。
 しかるに イカリ に おいて は エイゾク する こと に よって いっそう コウジ の イカリ に たかまる と いう こと が ない。 しかし それだけ ふかく カミ の イカリ と いう もの の シンピ が かんじられる の で ある。 イカリ には ただ カコウ の ミチ が ある だけ で ある。 そして それだけ イカリ の コンゲン の フカサ を おもわねば ならない の で ある。
 アイ は トウイツ で あり、 ユウゴウ で あり、 レンゾク で ある。 イカリ は ブンリ で あり、 ドクリツ で あり、 ヒレンゾク で ある。 カミ の イカリ を かんがえる こと なし に カミ の アイ と ニンゲンテキ な アイ との クベツ を かんがえうる で あろう か。 ユダヤ の ヨゲンシャ なし に キリスト は かんがえうる で あろう か。 キュウヤク なし に シンヤク は かんがえうる で あろう か。

 カミ で さえ ジコ が ドクリツ の ジンカク で ある こと を イカリ に よって しめさねば ならなかった。

 とくに ニンゲンテキ と いわれうる イカリ は メイヨシン から の イカリ で ある。 メイヨシン は コジン イシキ と フカブン で ある。 イカリ に おいて ニンゲン は ムイシキテキ に せよ ジコ が コジン で ある こと、 ドクリツ の ジンカク で ある こと を しめそう と する の で ある。 そこ に イカリ の リンリテキ イミ が かくされて いる。
 コンニチ、 イカリ と いう もの が アイマイ に なった の は、 この シャカイ に おいて メイヨシン と キョエイシン との クベツ が アイマイ に なった と いう ジジョウ に ソウオウ して いる。 それ は また この シャカイ に おいて ムセイカク な ニンゲン が おおく なった と いう ジジツ を ハンエイ して いる。 いかる ニンゲン は すくなくとも セイカクテキ で ある。

 ヒト は ケイベツ された と かんじた とき もっとも よく いかる。 だから ジシン の ある モノ は あまり いからない。 カレ の メイヨシン は カレ の イカリ が タンキ で ある こと を ふせぐ で あろう。 ホント に ジシン の ある モノ は しずか で、 しかも イゲン を そなえて いる。 それ は カンセイ した セイカク の こと で ある。

 アイテ の イカリ を ジブン の ココロ に おいて さけよう と して ジブン の ユウエツ を しめそう と する の は おろか で ある。 その バアイ ジブン が ユウエツ を しめそう と すれば する ほど アイテ は さらに ケイベツ された の を かんじ、 その イカリ は つのる。 ホント に ジシン の ある モノ は ジブン の ユウエツ を しめそう など とは しない で あろう。

 イカリ を さける サイジョウ の シュダン は キチ で ある。

 イカリ には どこ か キゾク シュギテキ な ところ が ある。 よい イミ に おいて も、 わるい イミ に おいて も。

 コドク の ナン で ある か を しって いる モノ のみ が しんに いかる こと を しって いる。

 アイロニー と いう ヒトツ の チテキ セイシツ は ギリシアジン の いわゆる ヒュブリス (オゴリ) に タイオウ する。 ギリシアジン の ヒュブリス は カレラ の いかりやすい セイシツ を はなれて そんしなかった で あろう。 メイヨシン と キョエイシン との クベツ が アイマイ に なり、 イカリ の イミ が アイマイ に なった コンニチ に おいて は、 たとい アイロニー は まれ に なって いない と して も、 すくなくとも その コウヨウ の ダイブブン を うしなった。
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