カナ文字文庫(漢字廃止論)

日本文学の名作などをカナ書きに改めて掲載。

ジンセイロン ノート 1

2017-12-22 | ミキ キヨシ
 ジンセイロン ノート

 ミキ キヨシ

 シ に ついて

 チカゴロ ワタシ は シ と いう もの を そんな に おそろしく おもわなく なった。 ネンレイ の せい で あろう。 イゼン は あんな に シ の キョウフ に ついて かんがえ、 また かいた ワタシ では ある が。
 おもいがけなく くる ツウシン に クロワク の もの が しだいに おおく なる ネンレイ に ワタシ も たっした の で ある。 この スウネン の アイダ に ワタシ は イチド ならず キンシン の シ に あった。 そして ワタシ は どんな に くるしんで いる ビョウニン にも シ の シュンカン には ヘイワ が くる こと を モクゲキ した。 ハカ に もうでて も、 ムカシ の よう に インサン な キモチ に なる こと が なくなり、 ハカバ を フリードホーフ (ヘイワ の ニワ―― ただし ゴゲンガク には カンケイ が ない) と よぶ こと が カンカクテキ な ジッカン を ぴったり いいあらわして いる こと を おもう よう に なった。
 ワタシ は あまり ビョウキ を しない の で ある が、 ビョウショウ に ヨコ に なった とき には、 フシギ に ココロ の オチツキ を おぼえる の で ある。 ビョウキ の バアイ の ホカ シンジツ に ココロ の オチツキ を かんじる こと が できない と いう の は、 ゲンダイジン の ヒトツ の ケンチョ な トクチョウ、 すでに ゲンダイジン に きわめて トクチョウテキ な ビョウキ の ヒトツ で ある。

 じっさい、 コンニチ の ニンゲン の オオク は コンヴァレサンス (ビョウキ の カイフク) と して しか ケンコウ を かんじる こと が できない の では なかろう か。 これ は セイネン の ケンコウカン とは ちがって いる。 カイフクキ の ケンコウカン は ジカクテキ で あり、 フアンテイ で ある。 ケンコウ と いう の は ゲンキ な ワカモノ に おいて の よう に ジブン が ケンコウ で ある こと を ジカク しない ジョウタイ で ある と すれば、 これ は ケンコウ と いう こと も できぬ よう な もの で ある。 すでに ルネサンス には そのよう な ケンコウ が なかった。 ペトラルカ など が あじわった の は ビョウキ カイフクキ の ケンコウ で ある。 そこ から しょうずる リリシズム が ルネサンス-テキ ニンゲン を トクチョウ-づけて いる。 だから コテン を フッコウ しよう と した ルネサンス は コテンテキ で あった の では なく、 むしろ ロウマンテキ で あった の で ある。 あたらしい コテン シュギ は その ジダイ に おいて あらた に おこりつつ あった カガク の セイシン に よって のみ カノウ で あった。 ルネサンス の コテン シュギシャ は ラファエロ で なくて リオナルド ダ ヴィンチ で あった。 ケンコウ が カイフクキ の ケンコウ と して しか かんじられない ところ に ゲンダイ の コンポンテキ な ジョジョウテキ、 ロウマンテキ セイカク が ある。 イマ もし ゲンダイ が あたらしい ルネサンス で ある と した なら、 そこ から でて くる あたらしい コテン シュギ の セイシン は いかなる もの で あろう か。

 あいする モノ、 したしい モノ の しぬる こと が おおく なる に したがって、 シ の キョウフ は ハンタイ に うすらいで ゆく よう に おもわれる。 うまれて くる モノ より も しんで いった モノ に いっそう ちかく ジブン を かんじる と いう こと は、 ネンレイ の エイキョウ に よる で あろう。 30 ダイ の モノ は 40 ダイ の モノ より も 20 ダイ の モノ に、 しかし 40 ダイ に はいった モノ は 30 ダイ の モノ より も 50 ダイ の モノ に、 いっそう ちかく かんじる で あろう。 40 サイ を もって ショロウ と する こと は トウヨウ の チエ を しめして いる。 それ は たんに シンタイ の ロウスイ を イミ する の で なく、 むしろ セイシン の ロウジュク を イミ して いる。 この ネンレイ に たっした モノ に とって は シ は ナグサメ と して さえ かんじられる こと が カノウ に なる。 シ の キョウフ は つねに ビョウテキ に、 コチョウ して かたられて いる、 イマ も ワタシ の ココロ を とらえて はなさない パスカル に おいて さえ も。 シンジツ は シ の ヘイワ で あり、 この カンカク は ロウジュク した セイシン の ケンコウ の チョウヒョウ で ある。 どんな バアイ にも わらって しんで ゆく と いう シナジン は セカイジュウ で もっとも ケンコウ な コクミン で ある の では ない か と おもう。 ゲーテ が テイギ した よう に、 ロウマン シュギ と いう の は イッサイ の ビョウテキ な もの の こと で あり、 コテン シュギ と いう の は イッサイ の ケンコウ な もの の こと で ある と すれば、 シ の キョウフ は ロウマンテキ で あり、 シ の ヘイワ は コテンテキ で ある と いう こと も できる で あろう。 シ の ヘイワ が かんじられる に いたって はじめて セイ の リアリズム に たっする とも いわれる で あろう。 シナジン が セカイ の いずれ の コクミン より も リアリスト で ある と かんがえられる こと にも イミ が ある。 ワレ いまだ セイ を しらず、 いずくんぞ シ を しらん、 と いった コウシ の コトバ も、 この シナジン の セイカク を ハイケイ に して ジッカン が にじみでて くる よう で ある。 パスカル は モンテーニュ が シ に たいして ムカンシン で ある と いって ヒナン した が、 ワタシ は モンテーニュ を よんで、 カレ には ナニ か トウヨウ の チエ に ちかい もの が ある の を かんじる。 サイジョウ の シ は あらかじめ かんがえられなかった シ で ある、 と カレ は かいて いる。 シナジン と フランスジン との ルイジ は ともかく チュウモク す べき こと で ある。

 シ に ついて かんがえる こと が ムイミ で ある など と ワタシ は いおう と して いる の では ない。 シ は カンネン で ある。 そして カンネン-らしい カンネン は シ の タチバ から うまれる、 ゲンジツ あるいは セイ に タイリツ して シソウ と いわれる よう な シソウ は その タチバ から でて くる の で ある。 セイ と シ と を するどい タイリツ に おいて みた ヨーロッパ ブンカ の ジバン ――そこ には キリスト-キョウ の ふかい エイキョウ が ある―― に おいて シソウ と いう もの が つくられた。 これ に たいして トウヨウ には シソウ が ない と いわれる で あろう。 もちろん ここ にも シソウ が なかった の では ない、 ただ その シソウ と いう もの の イミ が ちがって いる。 セイヨウ シソウ に たいして トウヨウ シソウ を シュチョウ しよう と する バアイ、 シソウ とは ナニ か と いう ニンシキロンテキ モンダイ から ギンミ して かかる こと が ヒツヨウ で ある。

 ワタシ に とって シ の キョウフ は いかに して うすらいで いった か。 ジブン の したしかった モノ と シベツ する こと が しだいに おおく なった ため で ある。 もし ワタシ が カレラ と サイカイ する こと が できる ――これ は ワタシ の サイダイ の キボウ で ある―― と すれば、 それ は ワタシ の シ に おいて の ホカ フカノウ で あろう。 かりに ワタシ が 100 マン-ネン いきながらえる と して も、 ワタシ は コノヨ に おいて ふたたび カレラ と あう こと の ない の を しって いる。 その プロバビリティ は ゼロ で ある。 ワタシ は もちろん ワタシ の シ に おいて カレラ に あいうる こと を カクジツ には しって いない。 しかし その プロバビリティ が ゼロ で ある とは ダレ も ダンゲン しえない で あろう、 シシャ の クニ から かえって きた モノ は ない の で ある から。 フタツ の プロバビリティ を ヒカク する とき、 コウシャ が ゼンシャ より も おおきい と いう カノウセイ は ソンザイ する。 もし ワタシ が いずれ か に かけねば ならぬ と すれば、 ワタシ は コウシャ に かける の ホカ ない で あろう。

 かりに ダレ も しなない もの と する。 そう すれば、 オレ だけ は しんで みせる ぞ と いって シ を くわだてる モノ が きっと でて くる に ちがいない と おもう。 ニンゲン の キョエイシン は シ をも タイショウ と する こと が できる まで に おおきい。 そのよう な ニンゲン が キョエイテキ で ある こと は ナンピト も ただちに リカイ して チョウショウ する で あろう。 しかるに ヨノナカ には これ に おとらぬ キョエイ の デキゴト が おおい こと に ヒト は ヨウイ に きづかない の で ある。

 シュウチャク する ナニモノ も ない と いった キョム の ココロ では ニンゲン は なかなか しねない の では ない か。 シュウチャク する もの が ある から しにきれない と いう こと は、 シュウチャク する もの が ある から しねる と いう こと で ある。 ふかく シュウチャク する もの が ある モノ は、 シゴ ジブン の かえって ゆく べき ところ を もって いる。 それだから シ に たいする ジュンビ と いう の は、 どこまでも シュウチャク する もの を つくる と いう こと で ある。 ワタシ に しんに あいする もの が ある なら、 その こと が ワタシ の エイセイ を ヤクソク する。

 シ の モンダイ は デントウ の モンダイ に つながって いる。 シシャ が よみがえり また いきながらえる こと を しんじない で、 デントウ を しんじる こと が できる で あろう か。 よみがえり また いきながらえる の は ギョウセキ で あって、 サクシャ では ない と いわれる かも しれない。 しかしながら つくられた もの が つくる もの より も イダイ で ある と いう こと は カノウ で ある か。 ゲンイン は ケッカ に すくなくとも ひとしい か、 もしくは より おおきい と いう の が、 シゼン の ホウソク で ある と かんがえられて いる。 その ヒト の つくった もの が よみがえり また いきながらえる と すれば、 その ヒト ジシン が よみがえり また いきながらえる チカラ を それ イジョウ に もって いない と いう こと が かんがえられうる で あろう か。 もし ワレワレ が プラトン の フシ より も カレ の サクヒン の フメツ を のぞむ と すれば、 それ は ワレワレ の ココロ の キョエイ を かたる もの で なければ ならぬ。 しんじつ ワレワレ は、 ワレワレ の あいする モノ に ついて、 その モノ の エイセイ より イジョウ に その モノ の なした こと が エイゾクテキ で ある こと を ねがう で あろう か。
 ゲンイン は すくなくとも ケッカ に ひとしい と いう の は シゼン の ホウソク で あって、 レキシ に おいて は ギャク に ケッカ は つねに ゲンイン より も おおきい と いう の が ホウソク で ある と いわれる かも しれない。 もし そう で ある と すれば、 それ は レキシ の より ユウエツ な ゲンイン が ワレワレ ジシン で なくて ワレワレ を こえた もの で ある と いう こと を イミ する の で なければ ならぬ。 この ワレワレ を こえた もの は、 レキシ に おいて つくられた もの が よみがえり また いきながらえる こと を ほっして、 それ を つくる に あずかって ゲンイン で あった もの が よみがえり また いきながらえる こと は けっして ほっしない と かんがえられうる で あろう か。 もし また ワレワレ ジシン が カコ の もの を よみがえらせ、 いきながらえさせる の で ある と すれば、 かよう な チカラ を もって いる ワレワレ に とって つくられた もの より も つくる もの を よみがえらせ、 いきながらえさせる こと が いっそう ヨウイ で ない と いう こと が かんがえられうる で あろう か。
 ワタシ は イマ ニンゲン の フシ を リッショウ しよう とも、 あるいは また ヒテイ しよう とも する の では ない。 ワタシ の いおう と ほっする の は、 シシャ の セイメイ を かんがえる こと は セイジャ の セイメイ を かんがえる こと より も ロンリテキ に いっそう コンナン で ある こと は ありえない と いう こと で ある。 シ は カンネン で ある。 それだから カンネン の チカラ に たよって ジンセイ を いきよう と する モノ は シ の シソウ を つかむ こと から シュッパツ する の が ツネ で ある。 スベテ の シュウキョウ が そう で ある。

 デントウ の モンダイ は シシャ の セイメイ の モンダイ で ある。 それ は いきて いる モノ の セイチョウ の モンダイ では ない。 ツウゾク の デントウ シュギ の ゴビュウ ――この ゴビュウ は しかし シェリング や ヘーゲル の ごとき ドイツ の サイダイ の テツガクシャ で さえ も が ともに して いる―― は、 スベテ の もの は カコ から しだいに セイチョウ して きた と かんがえる こと に よって デントウ シュギ を かんがえよう と する ところ に ある。 かよう な コンポン に おいて シゼン テツガクテキ な ミカタ から は ゼッタイテキ な シンリ で あろう と する デントウ シュギ の イミ は リカイ される こと が できぬ。 デントウ の イミ が ジブン ジシン で ジブン ジシン の ナカ から セイセイ する もの の ウチ に もとめられる かぎり、 それ は ソウタイテキ な もの に すぎない。 ゼッタイテキ な デントウ シュギ は、 いける もの の セイチョウ の ロンリ で なくて しせる もの の セイメイ の ロンリ を キソ と する の で ある。 カコ は しにきった もの で あり、 それ は すでに シ で ある と いう イミ に おいて、 ゲンザイ に いきて いる もの に とって ゼッタイテキ な もの で ある。 なかば いき なかば しんで いる か の よう に フツウ に ばくぜん と ヒョウショウ されて いる カコ は、 いきて いる ゲンザイ に とって ゼッタイテキ な もの で ありえない。 カコ は ナニ より も まず しせる もの と して ゼッタイテキ な もの で ある。 この ゼッタイテキ な もの は、 ただ ゼッタイテキ な シ で ある か、 それとも ゼッタイテキ な セイメイ で ある か。 しせる もの は イマ いきて いる もの の よう に セイチョウ する こと も なければ ロウスイ する こと も ない。 そこで シシャ の セイメイ が しんぜられる ならば、 それ は ゼッタイテキ な セイメイ で なければ ならぬ。 この ゼッタイテキ な セイメイ は シンリ に ほかならない。 したがって いいかえる と、 カコ は シンリ で ある か、 それとも ム で ある か。 デントウ シュギ は まさに この ニシャ タクイツ に たいする ワレワレ の ケツイ を ヨウキュウ して いる の で ある。 それ は ワレワレ の ナカ へ シゼンテキ に ながれこみ、 シゼンテキ に ワレワレ の セイメイ の イチブブン に なって いる と かんがえられる よう な カコ を モンダイ に して いる の では ない。
 かよう な デントウ シュギ は いわゆる レキシ シュギ とは ゲンミツ に クベツ されねば ならぬ。 レキシ シュギ は シンカ シュギ と ドウヨウ キンダイ シュギ の ヒトツ で あり、 それ ジシン シンカ シュギ に なる こと が できる。 かよう な デントウ シュギ は キリスト-キョウ、 とくに その ゲンザイセツ を ハイケイ に して かんがえる と、 ヨウイ に リカイ する こと が できる わけ で ある が、 もし そのよう な ゲンザイ の カンネン が そんしない か あるいは うしなわれた と すれば どう で あろう。 すでに ペトラルカ の ごとき ルネサンス の ヒューマニスト は ゲンザイ を ゲンザイ と して で なく むしろ ビョウキ と して タイケン した。 ニーチェ は もちろん、 ジード の ごとき コンニチ の ヒューマニスト に おいて みいだされる の も、 ドウヨウ の イミ に おける ビョウキ の タイケン で ある。 ビョウキ の タイケン が ゲンザイ の タイケン に かわった ところ に キンダイ シュギ の ハジメ と オワリ が ある。 ヒューマニズム は ツミ の カンネン で なくて ビョウキ の カンネン から シュッパツ する の で あろう か。 ツミ と ビョウキ との サイ は どこ に ある の で あろう か。 ツミ は シ で あり、 ビョウキ は なお セイ で ある の か。 シ は カンネン で あり、 ビョウキ は ケイケン で ある の か。 ともかく ビョウキ の カンネン から デントウ シュギ を みちびきだす こと は フカノウ で ある。 それでは ツミ の カンネン の そんしない と いわれる トウヨウ シソウ に おいて、 デントウ シュギ と いう もの は、 そして また ヒューマニズム と いう もの は、 いかなる もの で あろう か。 モンダイ は シ の ミカタ に かかわって いる。

 コウフク に ついて

 コンニチ の ニンゲン は コウフク に ついて ほとんど かんがえない よう で ある。 こころみに キンネン あらわれた リンリガクショ、 とりわけ ワガクニ で かかれた リンリ の ホン を ひらいて みたまえ。 ただ の 1 カショ も コウフク の モンダイ を とりあつかって いない ショモツ を ハッケン する こと は ショクン に とって はなはだ ヨウイ で あろう。 かよう な ショモツ を リンリ の ホン と しんじて よい の か どう か、 その チョシャ を リンリ ガクシャ と みとめる べき で ある の か どう か、 ワタシ には わからない。 ウタガイ なく たしか な こと は、 カコ の スベテ の ジダイ に おいて つねに コウフク が リンリ の チュウシン モンダイ で あった と いう こと で ある。 ギリシア の コテンテキ な リンリガク が そう で あった し、 ストア の ゲンシュク シュギ の ごとき も コウフク の ため に セツヨク を といた の で あり、 キリスト-キョウ に おいて も、 アウグスティヌス や パスカル など は、 ニンゲン は どこまでも コウフク を もとめる と いう ジジツ を コンポン と して カレラ の シュウキョウロン や リンリガク を シュッタツ した の で ある。 コウフク に ついて かんがえない こと は コンニチ の ニンゲン の トクチョウ で ある。 ゲンダイ に おける リンリ の コンラン は シュジュ に ろんじられて いる が、 リンリ の ホン から コウフクロン が ソウシツ した と いう こと は この コンラン を ダイヒョウ する ジジツ で ある。 あらた に コウフクロン が セッテイ される まで は リンリ の コンラン は すくわれない で あろう。
 コウフク に ついて かんがえる こと は すでに ヒトツ の、 おそらく サイダイ の、 フコウ の キザシ で ある と いわれる かも しれない。 ケンゼン な イ を もって いる モノ が イ の ソンザイ を かんじない よう に、 コウフク で ある モノ は コウフク に ついて かんがえない と いわれる で あろう。 しかしながら コンニチ の ニンゲン は はたして コウフク で ある ため に コウフク に ついて かんがえない の で ある か。 むしろ ワレワレ の ジダイ は ヒトビト に コウフク に ついて かんがえる キリョク を さえ うしなわせて しまった ほど フコウ なの では あるまい か。 コウフク を かたる こと が すでに ナニ か フドウトク な こと で ある か の よう に かんじられる ほど イマ の ヨノナカ は フコウ に みちて いる の では あるまい か。 しかしながら コウフク を しらない モノ に フコウ の ナン で ある か が リカイ される で あろう か。 コンニチ の ニンゲン も あらゆる バアイ に いわば ホンノウテキ に コウフク を もとめて いる に ソウイ ない。 しかも コンニチ の ニンゲン は ジイシキ の カジョウ に くるしむ とも いわれて いる。 その きわめて ジイシキテキ な ニンゲン が コウフク に ついて は ほとんど かんがえない の で ある。 これ が ゲンダイ の セイシンテキ ジョウキョウ の セイカク で あり、 これ が ゲンダイジン の フコウ を トクチョウ-づけて いる。

 リョウシン の ギム と コウフク の ヨウキュウ と を タイリツテキ に かんがえる の は キンダイテキ リゴリズム で ある。 これ に はんして ワタシ は かんがえる。 コンニチ の リョウシン とは コウフク の ヨウキュウ で ある、 と。 シャカイ、 カイキュウ、 ジンルイ、 -トウトウ、 あらゆる もの の ナ に おいて ニンゲンテキ な コウフク の ヨウキュウ が マッサツ されよう と して いる バアイ、 コウフク の ヨウキュウ ほど リョウシンテキ な もの が ある で あろう か。 コウフク の ヨウキュウ と むすびつかない かぎり、 コンニチ リンリ の ガイネン と して たえず リュウヨウ されて いる シャカイ、 カイキュウ、 ジンルイ、 -トウトウ も、 なんら リンリテキ な イミ を ゆうしえない で あろう。 あるいは リンリ の モンダイ が コウフク の モンダイ から ブンリ される と ともに、 あらゆる ニンイ の もの を リンリ の ガイネン と して リュウヨウ する こと が カノウ に なった の で ある。 コウフク の ヨウキュウ が コンニチ の リョウシン と して フッケン されねば ならぬ。 ヒト が ヒューマニスト で ある か どう か は、 しゅとして この テン に かかって いる。
 コウフク の モンダイ が リンリ の モンダイ から マッサツ される に したがって オオク の リンリテキ クウゴ を しょうじた。 たとえば、 リンリテキ と いう こと と シュタイテキ と いう こと と が イッショ に かたられる の は ただしい。 けれども シュタイテキ と いう こと も コンニチ では コウフク の ヨウキュウ から チュウショウ される こと に よって ヒトツ の リンリテキ クウゴ と なって いる。 そこで また ゲンダイ の リンリガク から マッサツ されよう と して いる の は ドウキロン で あり、 シュタイテキ と いう ゴ の リュウコウ と ともに リンリガク は かえって キャッカンロン に おちいる に いたった。 コウフク の ヨウキュウ が スベテ の コウイ の ドウキ で ある と いう こと は、 イゼン の リンリガク の キョウツウ の シュッパツテン で あった。 ゲンダイ の テツガク は かよう な カンガエカタ を シンリ シュギ と なづけて ハイセキ する こと を まなんだ の で ある が、 その とき タホウ に おいて ゲンダイジン の シンリ の ムチツジョ が はじまった の で ある。 この ムチツジョ は、 ジブン の コウイ の ドウキ が コウフク の ヨウキュウ で ある の か どう か が わからなく なった とき に はじまった。 そして それ と ドウジ に シンリ の リアリティ が うたがわしく なり、 ニンゲン カイシャク に ついて あらゆる シュルイ の カンネン シュギ が しょうじた。 シンリ の リアリティ は シンリ の ウチ に チツジョ が ソンザイ する バアイ に アカシ される。 コウフク の ヨウキュウ は その チツジョ の キテイ で あり、 シンリ の リアリティ は コウフク の ヨウキュウ の ジジツ の ウチ に あたえられて いる。 コウフクロン を マッサツ した リンリ は、 イッケン いかに ロンリテキ で ある に して も、 その ナイジツ に おいて キョム シュギ に ほかならぬ。

 イゼン の シンリガク は シンリ ヒヒョウ の ガク で あった。 それ は ゲイジュツ ヒヒョウ など と いう ヒヒョウ の イミ に おける シンリ ヒヒョウ を モクテキ と して いた。 ニンゲン セイシン の モロモロ の カツドウ、 モロモロ の ソクメン を ヒョウカ する こと に よって これ を チツジョ-づける と いう の が シンリガク の シゴト で あった。 この シゴト に おいて テツガクシャ は ブンガクシャ と おなじ で あった。 かよう な カチ ヒヒョウ と して の シンリガク が シゼン カガクテキ ホウホウ に もとづく シンリガク に よって ハカイ されて しまう キケン の しょうじた とき、 これ に ハンコウ して あらわれた の が ニンゲンガク と いう もの で ある。 しかるに この ニンゲンガク も コンニチ では サイショ の ドウキ から イツダツ して ニンゲン シンリ の ヒヒョウ と いう コユウ の イミ を ホウキ し、 あらゆる ニンイ の もの が ニンゲンガク と しょうせられる よう に なって いる。 テツガク に おける ゲイジュツカ-テキ な もの が うしなわれて しまい、 シンリ ヒヒョウ の シゴト は ただ ブンガクシャ に のみ ゆだねられる よう に なった。 そこ に シンリガク を もたない こと が イッパンテキ に なった コンニチ の テツガク の チュウショウセイ が ある。 その サイ みのがして ならぬ こと は、 この ゲンダイ テツガク の ヒトツ の トクチョウ が コウフクロン の マッサツ と カンレン して いる と いう こと で ある。

 コウフク を たんに カンセイテキ な もの と かんがえる こと は まちがって いる。 むしろ シュチ シュギ が リンリジョウ の コウフクセツ と むすびつく の が ツネ で ある こと を シソウ の レキシ は しめして いる。 コウフク の モンダイ は シュチ シュギ に とって サイダイ の シチュウ で ある と さえ いう こと が できる。 もし コウフクロン を マッサツ して かかる なら、 シュチ シュギ を ヤクサツ する こと は ヨウイ で ある。 じっさい、 コンニチ の ハン-シュチ シュギ の シソウ の ほとんど スベテ は このよう に コウフクロン を マッサツ する こと から シュッパツ して いる の で ある。 そこ に コンニチ の ハン-シュチ シュギ の ヒミツ が ある。

 コウフク は トク に はんする もの で なく、 むしろ コウフク ソノモノ が トク で ある。 もちろん、 タニン の コウフク に ついて かんがえねば ならぬ と いう の は ただしい。 しかし ワレワレ は ワレワレ の あいする モノ に たいして、 ジブン が コウフク で ある こと より なお イジョウ の よい こと を なしうる で あろう か。

 あいする もの の ため に しんだ ゆえ に カレラ は コウフク で あった の で なく、 ハンタイ に、 カレラ は コウフク で あった ゆえ に あいする もの の ため に しぬる チカラ を ゆうした の で ある。 ニチジョウ の ちいさな シゴト から、 よろこんで ジブン を ギセイ に する と いう に いたる まで、 あらゆる コトガラ に おいて、 コウフク は チカラ で ある。 トク が チカラ で ある と いう こと は コウフク の ナニ より も よく しめす ところ で ある。

 シ は カンネン で ある、 と ワタシ は かいた。 これ に たいして セイ は ナン で ある か。 セイ とは ソウゾウ で ある、 と ワタシ は いおう と おもう。 いかに セイ の ゲンジツセイ を シュチョウ する モノ も、 ひるがえって これ を シ と ヒカク する とき、 セイ が いかに ソウゾウテキ な もの で ある か を リカイ する で あろう。 ソウゾウテキ な もの は ヒ-ゲンジツテキ で ある の で なく、 かえって ゲンジツテキ な もの は ソウゾウテキ な もの で ある の で ある。 ゲンジツ は ワタシ の いう コウソウリョク (ソウゾウリョク) の ロンリ に したがって いる。 ジンセイ は ユメ で ある と いう こと を ダレ が かんじなかった で あろう か。 それ は たんなる ヒユ では ない、 それ は ジッカン で ある。 この ジッカン の コンキョ が あきらか に されねば ならぬ、 いいかえる と、 ユメ あるいは クウソウテキ な もの の ゲンジツセイ が しめされなければ ならない。 その ショウメイ を あたえる もの は コウソウリョク の ケイセイ サヨウ で ある。 セイ が ソウゾウテキ な もの で ある と いう イミ に おいて コウフク も ソウゾウテキ な もの で ある と いう こと が できる。

 ニンゲン を イッパンテキ な もの と して リカイ する には、 シ から リカイ する こと が ヒツヨウ で ある。 シ は もとより まったく グタイテキ な もの で ある。 しかし この まったく グタイテキ な シ は それ にも かかわらず イッパンテキ な もの で ある。 「ヒト は ただ ヒトリ しぬる で あろう」、 と パスカル は いった。 カクジン が ミナ ベツベツ に しんで ゆく、 けれども その シ は それ にも かかわらず シ と して イッパンテキ な もの で ある。 ジンソ アダム と いう シソウ は ここ に コンキョ を もって いる。 シ の ゆうする この フシギ な イッパンセイ こそ ワレワレ を コンワク させる もの で ある。 シ は その イッパンセイ に おいて ニンゲン を ブンリ する。 ヒトビト は ただ ヒトリ しぬる ゆえ に コドク で ある の では なく、 シ が イッパンテキ な もの で ある ゆえ に ヒトビト は シ に あって コドク で ある の で ある。 ワタシ が いきのこり、 ナンジ が ただ ヒトリ しんで ゆく と して も、 もし ナンジ の シ が イッパンテキ な もの で ない ならば、 ワタシ は ナンジ の シ に おいて コドク を かんじない で あろう。
 しかるに セイ は つねに トクシュテキ な もの で ある。 イッパンテキ な シ が ブンリ する に はんして、 トクシュテキ な セイ は ケツゴウ する。 シ は イッパンテキ な もの と いう イミ に おいて カンネン と かんがえられる に たいして、 セイ は トクシュテキ な もの と いう イミ に おいて ソウゾウ と かんがえられる。 ワレワレ の ソウゾウリョク は トクシュテキ な もの に おいて の ホカ たのしまない。 (ゲイジュツカ は ホンセイジョウ タシンロンシャ で ある)。 もとより ニンゲン は たんに トクシュテキ な もの で なく ドウジ に イッパンテキ な もの で ある。 しかし セイ の ゆうする イッパンセイ は シ の ゆうする イッパンセイ とは ことなって いる。 シ の イッパンセイ が カンネン の ゆうする イッパンセイ に るいする と すれば、 セイ の イッパンセイ は ソウゾウリョク に かかわる ところ の タイプ の イッパンセイ と ドウヨウ の もの で ある。 コセイ とは ベツ に タイプ が ある の で なく、 タイプ は コセイ で ある。 シ ソノモノ には タイプ が ない。 シ の タイプ を かんがえる の は シ を なお セイ から かんがえる から で ある。 コセイ は タヨウ の トウイツ で ある が、 アイムジュン する タヨウ な もの を トウイツ して ヒトツ の カタチ に ケイセイ する もの が コウソウリョク に ほかならない。 カンセイ から も チセイ から も かんがえられない コセイ は コウソウリョク から かんがえられねば ならぬ。 セイ と おなじく コウフク が ソウゾウ で ある と いう こと は、 コセイ が コウフク で ある こと を イミ して いる。

 シゼン は その ハッテン の ダンカイ を のぼる に したがって ますます オオク の コセイ に ブンカ する。 その こと は ヤミ から ヒカリ を もとめて ソウゾウ する シゼン の コンゲンテキ な ヨッキュウ が いかなる もの で ある か を かたって いる。

 ジンカク は チ の コ ら の サイコウ の コウフク で ある と いう ゲーテ の コトバ ほど、 コウフク に ついて の カンゼン な テイギ は ない。 コウフク に なる と いう こと は ジンカク に なる と いう こと で ある。
 コウフク は ニクタイテキ カイラク に ある か セイシンテキ カイラク に ある か、 カツドウ に ある か ソンザイ に ある か と いう が ごとき トイ は、 ワレワレ を ただ フンキュウ に ひきいれる だけ で ある。 かよう な トイ に たいして は、 その いずれ でも ある と こたえる の ホカ ない で あろう。 なぜなら、 ジンカク は ニクタイ で ある と ともに セイシン で あり、 カツドウ で ある と ともに ソンザイ で ある から。 そして かかる こと は ジンカク と いう もの が ケイセイ される もの で ある こと を イミ して いる。

 コンニチ ヒト が コウフク に ついて かんがえない の は、 ジンカク の ブンカイ の ジダイ と よばれる ゲンダイ の トクチョウ に ソウオウ して いる。 そして この ジジツ は ギャク に コウフク が ジンカク で ある と いう メイダイ を いわば セカイシ-テキ キボ に おいて ショウメイ する もの で ある。

 コウフク は ジンカク で ある。 ヒト が ガイトウ を ぬぎすてる よう に いつでも キラク に ホカ の コウフク は ぬぎすてる こと の できる モノ が もっとも コウフク な ヒト で ある。 しかし シン の コウフク は、 カレ は これ を すてさらない し、 すてさる こと も できない。 カレ の コウフク は カレ の セイメイ と おなじ よう に カレ ジシン と ヒトツ の もの で ある。 この コウフク を もって カレ は あらゆる コンナン と たたかう の で ある。 コウフク を ブキ と して たたかう モノ のみ が たおれて も なお コウフク で ある。

 キゲン が よい こと、 テイネイ な こと、 シンセツ な こと、 カンダイ な こと、 -トウトウ、 コウフク は つねに ソト に あらわれる。 うたわぬ シジン と いう もの は シン の シジン で ない ごとく、 たんに ナイメンテキ で ある と いう よう な コウフク は シン の コウフク では ない で あろう。 コウフク は ヒョウゲンテキ な もの で ある。 トリ の うたう が ごとく おのずから ソト に あらわれて タ の ヒト を コウフク に する もの が シン の コウフク で ある。

 カイギ に ついて

 カイギ の イミ を セイカク に ハンダン する こと は ヨウイ で ない よう に みえる。 ある バアイ には カイギ は シンピカ され、 それ から ヒトツ の シュウキョウ が しょうずる まで に いたって いる。 あらゆる シンピ を はらいのける こと が カイギ の シゴト で ある で あろう に。 ハンタイ に タ の バアイ には いかなる カイギ も カイギ で ある と いう リユウ で ヨウシャ なく フドウトク と して へんせられて いる。 カイギ は チセイ の ヒトツ の トク で ありうる で あろう に。 マエ の バアイ、 カイギ ソノモノ が ヒトツ の ドクダン と なる。 アト の バアイ、 カイギ を アタマ から たたきつけよう と する の も やはり ドクダン で ある。
 いずれ に して も たしか な こと は、 カイギ が とくに ニンゲンテキ な もの で ある と いう こと で ある。 カミ には カイギ は ない で あろう、 また ドウブツ にも カイギ は ない で あろう。 カイギ は テンシ でも なく ケモノ でも ない ニンゲン に コユウ な もの で ある。 ニンゲン は チセイ に よって ドウブツ に まさる と いわれる ならば、 それ は カイギ に よって トクショク-づけられる こと が できる で あろう。 じっさい、 タショウ とも カイギテキ で ない よう な チセイジン が ある で あろう か。 そして ドクダンカ は ある バアイ には テンシ の ごとく みえ、 ある バアイ には ケモノ の ごとく みえない で あろう か。

 ニンゲンテキ な チセイ の ジユウ は さしあたり カイギ の ウチ に ある。 ジユウジン と いわれる モノ で カイギテキ で なかった よう な ヒト を ワタシ は しらない。 あの honnête homme (マニンゲン) と いわれた モノ には ミナ カイギテキ な ところ が あった し、 そして それ は ジユウジン を イミ した の で ある。 しかるに テツガクシャ が ジユウ の ガイネン を どのよう に キテイ する に して も、 ゲンジツ の ニンゲンテキ な ジユウ は セツド の ウチ に ある。 コテンテキ な ヒューマニズム に おいて もっとも ジュウヨウ な トク で あった この セツド と いう もの は ゲンダイ の シソウ に おいて は まれ に なって いる。 カイギ が チセイ の トク で ある ため には セツド が なければ ならぬ。 イッパン に シソウカ の セツド と いう もの が モンダイ で ある。 モンテーニュ の サイダイ の チエ は カイギ に おいて セツド が ある と いう こと で あった。 また じつに、 セツド を しらない よう な カイギ は シン の カイギ では ない で あろう。 ド を こえた カイギ は ジュンスイ に カイギ に とどまって いる の で なく、 ヒトツ の テツガクセツ と して の カイギロン に なって いる か、 それとも カイギ の シンピカ、 シュウキョウカ に おちいって いる の で ある。 その いずれ も もはや カイギ では なく、 ヒトツ の ドクダン で ある。

 カイギ は チセイ の トク と して ニンゲン セイシン を ジョウカ する。 ちょうど なく こと が セイリテキ に ワレワレ の カンジョウ を ジョウカ する よう に。 しかし カイギ ソノモノ は なく こと に るいする より も わらう こと に るいする で あろう。 ワライ は ドウブツ には ない ニンゲンテキ な ヒョウジョウ で ある と すれば、 カイギ と ワライ との アイダ に ルイジ が ソンザイ する の は シゼン で ある。 ワライ も ワレワレ の カンジョウ を ジョウカ する こと が できる。 カイギカ の ヒョウジョウ は ジュウメン ばかり では ない。 チセイ に コユウ な カイカツサ を ゆうしない カイギ は シン の カイギ では ない で あろう。
 シン の カイギカ は ソフィスト では なくて ソクラテス で あった。 ソクラテス は カイギ が ムゲン の タンキュウ に ほかならぬ こと を しめした。 その カレ は また シン の ヒゲキカ は シン の キゲキカ で ある こと を しめした の で ある。

 ジュウライ の テツガク の ウチ エイゾクテキ な セイメイ を ゆうする もの で なんらか カイギテキ な ところ を ふくまない もの が ある で あろう か。 ただ ヒトツ の イダイ な レイガイ は ヘーゲル で ある。 その ヘーゲル の テツガク は、 レキシ の しめす よう に、 イチジ は ネッキョウテキ な シンポウシャ を つくる が、 やがて まったく かえりみられなく なる と いう トクシツ を そなえて いる。 この ジジツ の ウチ に おそらく ヘーゲル の テツガク の ヒミツ が ある。

 ロンリ ガクシャ は ロンリ の コンテイ に チョッカン が ある と いう。 ヒト は ムゲン に ショウメイ して ゆく こと が できぬ、 あらゆる ロンショウ は もはや それ ジシン は ロンショウ する こと の できぬ もの、 チョッカンテキ に カクジツ な もの を ゼンテイ し、 それ から シュッタツ して スイロン する と いわれる。 しかし ロンリ の コンテイ に ある チョッカンテキ な もの が つねに カクジツ な もの で ある と いう ショウメイ は ソンザイ する で あろう か。 もし それ が つねに カクジツ な もの で ある と すれば、 なにゆえに ヒト は その チョッカン に とどまらない で、 なお ロンリ を ヒツヨウ と する で あろう か。 カクジツ な もの の チョッカン が ある ばかり で なく、 フカクジツ な もの の チョッカン が ある よう に おもわれる。 チョッカン を つねに うたがう の は おろか な こと で あり、 チョッカン を つねに しんじる の も いたらぬ こと で ある。 そして フツウ に いわれる の とは ギャク に、 カンセイテキ な チョッカン が それ ジシン の シュルイ に おいて カクジツ な もの の チョッカン で ある の に たいして、 チセイテキ な チョッカン の トクチョウ は むしろ フカクジツ な もの の チョッカン に そんする よう に さえ おもわれる。 カクジツ な もの の チョッカン は ――カンセイテキ な もの で ある に せよ、 チョウ-カンセイテキ な もの で ある に せよ、―― それ ジタイ に おいて は ロンリ の ショウメイ を ようしない の に はんして、 フカクジツ な もの の チョッカン ――カイギテキ チョッカン もしくは チョッカンテキ カイギ―― こそ ロンリ を ヒツヨウ と する もの、 ロンリ を うごかす もの で ある。 ロンリ に よって カイギ が でて くる の で なく、 カイギ から ロンリ が もとめられて くる の で ある。 かよう に ロンリ を もとめる ところ に チセイ の キョウジ が あり、 ジコ ソンチョウ が ある。 いわゆる ロンリカ は コウシキ シュギシャ で あり、 ドクダンカ の ヒトツ の シュルイ に すぎない。
 フカクジツ な もの が カクジツ な もの の キソ で ある。 テツガクシャ は ジコ の ウチ に カイギ が いきて いる かぎり テツガク し、 モノ を かく。 もとより カレ は フカクジツ な もの の ため に はたらく の では ない。 ―― 「ヒト は フカクジツ な もの の ため に はたらく」、 と パスカル は かいて いる。 けれども セイカク に いう と、 ヒト は フカクジツ な もの の ため に はたらく の で なく、 むしろ フカクジツ な もの から はたらく の で ある。 ジンセイ が ただ はたらく こと で なくて つくる こと で あり、 たんなる ソンザイ で なくて ケイセイ サヨウ で あり、 また そう で なければ ならぬ ユエン で ある。 そして ヒト は フカクジツ な もの から はたらく と いう ところ から、 あらゆる ケイセイ サヨウ の コンテイ に カケ が ある と いわれうる。

 ドクダン に たいする カイギ の チカラ と ムリョク とは、 ジョウネン に たいする チセイ の チカラ と ムリョク と で ある。 ドクダン は、 それ が ヒトツ の カケ で ある バアイ に のみ、 チセイテキ で ありうる。 ジョウネン は つねに ただ たんに コウテイテキ で あり、 ドクダン の オオク は ジョウネン に もとづいて いる。

 オオク の カイギカ は ガイケン に あらわれる ほど カイギカ では ない。 また オオク の ドクダンカ は ガイケン に あらわれる ほど ドクダンカ では ない。

 ヒト は ときとして タ に たいする キョエイ から カイギテキ に なる が、 さらに より おおく タ に たいする キョエイ の ため に ドクダンテキ に なる。 そして それ は タメン、 ニンゲン に おいて セイジテキ ヨクボウ すなわち タ に たいする シハイ の ヨクボウ が フヘンテキ で ある こと を しめす と ともに、 カレ に おいて また キョウイクテキ ヨクボウ が フヘンテキ で ある こと を しめして いる。 セイジ に とって は ドクダン も ヒツヨウ で あろう。 けれども キョウイク に とって ドウヨウ に ドクダン が ヒツヨウ で ある か どう か は ギモン で ある。 ただ、 セイジテキ ヨクボウ を ふくまない よう な キョウイクテキ ヨクボウ が まれ で ある こと は たしか で ある。

 いかなる ヒト も タ を しんじさせる こと が できる ほど オノレ を しんじさせる こと が できない。 タニン を シンコウ に みちびく シュウキョウカ は かならずしも ゼッタイ に カイギ の ない ニンゲン では ない。 カレ が タ の ヒト に シントウ する チカラ は むしろ その イッパン を カレ の ウチ に なお いきて いる カイギ に おうて いる。 すくなくとも、 そう で ない よう な シュウキョウカ は シソウカ とは いわれない で あろう。

 ジブン では うたがいながら ハッピョウ した イケン が タニン に よって ジブン の うたがって いない もの の よう に しんじられる バアイ が ある。 そのよう な バアイ には ついに ジブン でも その イケン を しんじる よう に なる もの で ある。 シンコウ の コンゲン は タシャ に ある。 それ は シュウキョウ の バアイ でも そう で あって、 シュウキョウカ は ジブン の シンコウ の コンゲン は カミ に ある と いって いる。

 カイギ と いう もの は サンブン で しか あらわす こと の できない もの で ある。 その こと は カイギ の セイシツ を しめす と ともに、 ギャク に サンブン の コユウ の オモシロサ、 また その ムズカシサ が どこ に ある か を しめして いる。

 シン の カイギカ は ロンリ を ツイキュウ する。 しかるに ドクダンカ は まったく ロンショウ しない か、 ただ ケイシキテキ に ロンショウ する のみ で ある。 ドクダンカ は はなはだ しばしば ハイボク シュギシャ、 チセイ の ハイボク シュギシャ で ある。 カレ は ガイケン に あらわれる ほど けっして つよく は ない、 カレ は タニン に たいして も ジコ に たいして も つよがらねば ならぬ ヒツヨウ を かんじる ほど よわい の で ある。
 ヒト は ハイボク シュギ から ドクダンカ に なる。 また ヒト は ゼツボウ から ドクダンカ に なる。 ゼツボウ と カイギ とは おなじ で ない。 ただ チセイ の くわわる バアイ に のみ ゼツボウ は カイギ に かわりうる の で ある が、 これ は ソウゾウ される よう に ヨウイ な こと では ない。

 ジュンスイ に カイギ に とどまる こと は コンナン で ある。 ヒト が カイギ しはじめる や いなや、 ジョウネン が カレ を とらえる ため に まって いる。 だから シン の カイギ は セイシュン の もの で なく、 むしろ すでに セイシン の セイジュク を しめす もの で ある。 セイシュン の カイギ は たえず カンショウ に ともなわれ、 カンショウ に かわって ゆく。

 カイギ には セツド が なければ ならず、 セツド の ある カイギ のみ が しんに カイギ の ナ に あたいする と いう こと は、 カイギ が ホウホウ で ある こと を イミ して いる。 カイギ が ホウホウ で ある こと は デカルト に よって カクニン された シンリ で ある。 デカルト の カイギ は イッケン かんがえられる よう に キョクタン な もの で なく、 つねに チュウイ-ぶかく セツド を まもって いる。 この テン に おいて も カレ は ヒューマニスト で あった。 カレ が ホウホウ ジョセツ ダイ 3 ブ に おける ドウトクロン を ザンテイテキ な あるいは イチジシノギ の もの と しょうした こと は きわめて トクチョウテキ で ある。
 ホウホウ に ついて の ジュクタツ は キョウヨウ の ウチ もっとも ジュウヨウ な もの で ある が、 カイギ に おいて セツド が ある と いう こと より も ケッテイテキ な キョウヨウ の シルシ を ワタシ は しらない。 しかるに ヨノナカ には もはや カイギ する チカラ を うしなって しまった キョウヨウジン、 あるいは イチド カイギテキ に なる と もはや なんら ホウホウテキ に かんがえる こと の できぬ キョウヨウジン が おおい の で ある。 いずれ も ディレッタンティズム の おちて ゆく キョウヨウ の デカダンス で ある。

 カイギ が ホウホウ で ある こと を リカイ した モノ で あって はじめて ドクダン も また ホウホウ で ある こと を リカイ しうる。 マエ の こと を まず リカイ しない で、 アト の こと を のみ シュチョウ する モノ が ある と したら、 カレ は いまだ ホウホウ の ナニモノ で ある か を リカイ しない もの で ある。

 カイギ は ヒトツ の ところ に とどまる と いう の は まちがって いる。 セイシン の シュウカンセイ を やぶる もの が カイギ で ある。 セイシン が シュウカンテキ に なる と いう こと は セイシン の ウチ に シゼン が ながれこんで いる こと を イミ して いる。 カイギ は セイシン の オートマティズム を やぶる もの と して すでに シゼン に たいする チセイ の ショウリ を あらわして いる。 フカクジツ な もの が コンゲン で あり、 カクジツ な もの は モクテキ で ある。 すべて カクジツ な もの は ケイセイ された もの で あり、 ケッカ で あって、 タンショ と して の ゲンリ は フカクジツ な もの で ある。 カイギ は コンゲン への カンケイヅケ で あり、 ドクダン は モクテキ への カンケイヅケ で ある。 リロンカ が カイギテキ で ある の に たいして ジッセンカ は ドクダンテキ で あり、 ドウキロンシャ が カイギカ で ある の に たいして ケッカロンシャ は ドクダンカ で ある と いう の が ツネ で ある こと は、 これ に よる の で ある。 しかし ドクダン も カイギ も ともに ホウホウ で ある べき こと を リカイ しなければ ならぬ。

 コウテイ が ヒテイ に おいて ある よう に、 ブッシツ が セイシン に おいて ある よう に、 ドクダン は カイギ に おいて ある。

 スベテ の カイギ にも かかわらず ジンセイ は カクジツ な もの で ある。 なぜなら、 ジンセイ は ケイセイ サヨウ で ある ゆえ に、 たんに ある もの で なく、 つくられる もの で ある ゆえ に。

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