ニンゲン の ジョウケン に ついて
どんな ホウホウ でも よい、 ジコ を シュウチュウ しよう と すれば する ほど、 ワタシ は ジコ が ナニ か の ウエ に ういて いる よう に かんじる。 いったい なんの ウエ に で あろう か。 キョム の ウエ に と いう の ホカ ない。 ジコ は キョム の ナカ の ヒトツ の テン で ある。 この テン は かぎりなく シュクショウ される こと が できる。 しかし それ は どんな に ちいさく なって も、 ジコ が その ナカ に うきあがって いる キョム と ヒトツ の もの では ない。 セイメイ は キョム で なく、 キョム は むしろ ニンゲン の ジョウケン で ある。 けれども この ジョウケン は、 あたかも ヒトツ の ナミ、 ヒトツ の ホウマツ で さえ も が、 ウミ と いう もの を はなれて かんがえられない よう に、 それ なし には ニンゲン が かんがえられぬ もの で ある。 ジンセイ は ホウマツ の ごとし と いう シソウ は、 その ホウマツ の ジョウケン と して の ナミ、 そして ウミ を かんがえない バアイ、 まちがって いる。 しかし また ホウマツ や ナミ が ウミ と ヒトツ の もの で ある よう に、 ニンゲン も その ジョウケン で ある ところ の キョム と ヒトツ の もの で ある。 セイメイ とは キョム を かきあつめる チカラ で ある。 それ は キョム から の ケイセイリョク で ある。 キョム を かきあつめて かたちづくられた もの は キョム では ない。 キョム と ニンゲン とは シ と セイ との よう に ことなって いる。 しかし キョム は ニンゲン の ジョウケン で ある。
ニンゲン の ジョウケン と して タ の ムスウ の もの が かんがえられる で あろう。 たとえば、 この ヘヤ、 この ツクエ、 この ショモツ、 あるいは この ショモツ が あたえる チシキ、 また この イエ の ニワ、 ゼンタイ の シゼン、 あるいは カゾク、 そして ゼンタイ の シャカイ…… セカイ。 この イクツ か の コトバ で あらわされた もの は さらに ムスウ の ヨウソ に ブンカイ する こと が できる。 それら ムスウ の ヨウソ は たがいに カンケイ して いる。 また ニンゲン と いう もの も、 その シンタイ も、 その セイシン も、 それら の ヨウソ と おなじ チツジョ の もの に かぎりなく ブンカイ する こと が カノウ で ある。 そして ヒトツ の サイボウ に とって タ の スベテ の サイボウ は ジョウケン で あり、 ヒトツ の シンショウ に とって タ の スベテ の シンショウ は ジョウケン で ある。 これら の ジョウケン は タ の あらゆる ジョウケン と カンケイ して いる。 かよう に どこまでも ブンカイ を すすめて ゆく ならば、 ジョウケン イガイ に なんらか ニンゲン ソノモノ を ハッケン する こと は フカノウ で ある よう に おもわれる。 ワタシ は ジコ が セカイ の ヨウソ と おなじ ヨウソ に ブンカイ されて しまう の を みる。 しかしながら それ にも かかわらず ワタシ が セカイ と ことなる ある もの と して ソンザイ する こと は たしか で ある。 ニンゲン と ニンゲン の ジョウケン とは どこまでも ことなって いる。 この こと は いかに して カノウ で あろう か。
モノ が ニンゲン の ジョウケン で ある と いう の は、 それ が キョム の ナカ に おいて はじめて そのよう な もの と して あらわれる と いう こと に よって で ある。 いいかえる と、 セカイ ――それ を ムゲン に おおきく かんがえる に せよ、 ムゲン に ちいさく かんがえる に せよ―― が ニンゲン の ジョウケン で ある こと に とって キョム は その アプリオリ で ある。 キョム と いう ニンゲン の コンポンテキ ジョウケン に セイヤク された もの と して、 それ ジシン キョム に きしうる もの、 いな、 キョム で ある もの と して、 セカイ の もの は ニンゲン の ジョウケン で ある。 かよう に して はじめて、 ニンゲン は セカイ と おなじ ヨウソ に、 それら の ヨウソ の カンケイ に、 かぎりなく ブンカイ されうる に して も、 ニンゲン と セカイ との アイダ に、 ニンゲン と ニンゲン の ジョウケン との アイダ に、 どこまでも クベツ が ソンザイ しうる の で ある。 キョム が ニンゲン の ジョウケン の ジョウケン で ない ならば、 いかに して ワタシ の ジコ は セカイ の ヨウソ と コンポンテキ に クベツ される ある もの で ありうる で あろう か。
キョム が ニンゲン の ジョウケン あるいは ニンゲン の ジョウケン で ある もの の ジョウケン で ある ところ から、 ジンセイ は ケイセイ で ある と いう こと が したがって くる。 ジコ は ケイセイリョク で あり、 ニンゲン は ケイセイ された もの で ある と いう のみ では ない、 セカイ も ケイセイ された もの と して はじめて ニンゲンテキ セイメイ に とって ゲンジツテキ に カンキョウ の イミ を もつ こと が できる の で ある。 セイメイ は みずから カタチ と して ソト に カタチ を つくり、 モノ に カタチ を あたえる こと に よって ジコ に カタチ を あたえる。 かよう な ケイセイ は ニンゲン の ジョウケン が キョム で ある こと に よって カノウ で ある。
セカイ は ヨウソ に ブンカイ され、 ニンゲン も この ヨウソテキ セカイ の ウチ へ ブンカイ され、 そして ヨウソ と ヨウソ との アイダ には カンケイ が みとめられ、 ヨウソ ソノモノ も カンケイ に ブンカイ されて しまう こと が できる で あろう。 この カンケイ は イクツ か の ホウソク に おいて テイシキカ する こと が できる で あろう。 しかし かよう な セカイ に おいて は セイメイ は セイリツ する こと が できない。 なにゆえ で ある か。 セイメイ は チュウショウテキ な ホウソク で なく、 たんなる カンケイ でも、 カンケイ の ワ でも セキ でも なく、 セイメイ は カタチ で あり、 しかるに かよう な セカイ に おいて は カタチ と いう もの は かんがえられない から で ある。 ケイセイ は どこ か タ の ところ から、 すなわち キョム から かんがえられねば ならぬ。 ケイセイ は つねに キョム から の ケイセイ で ある。 カタチ の セイリツ も、 カタチ と カタチ との カンケイ も、 カタチ から カタチ への ヘンカ も ただ キョム を コンテイ と して リカイ する こと が できる。 そこ に カタチ と いう もの の ホンシツテキ な トクチョウ が ある。
コダイ は ジッタイ ガイネン に よって シコウ し、 キンダイ は カンケイ ガイネン あるいは キノウ ガイネン (カンスウ ガイネン) に よって シコウ した。 あたらしい シコウ は カタチ の シコウ で なければ ならぬ。 カタチ は たんなる ジッタイ で なく、 たんなる カンケイ ないし キノウ でも ない。 カタチ は いわば リョウシャ の ソウゴウ で ある。 カンケイ ガイネン と ジッタイ ガイネン と が ヒトツ で あり、 ジッタイ ガイネン と キノウ ガイネン と が ヒトツ で ある ところ に カタチ が かんがえられる。
イゼン の ニンゲン は ゲンテイ された セカイ の ウチ に セイカツ して いた。 その すむ チイキ は ハシ から ハシ まで ミトオシ の できる もの で あった。 その もちいる ドウグ は どこ の ナニガシ が つくった もの で あり、 その ギリョウ は どれほど の もの で ある か が わかって いた。 また カレ が うる ホウドウ や チシキ に して も、 どこ の ナニガシ から でた もの で あり、 その ヒト が どれほど シンヨウ の できる オトコ で ある か が しられて いた。 このよう に カレ の セイカツ ジョウケン、 カレ の カンキョウ が ゲンテイ された もの で あった ところ から、 したがって カタチ の みえる もの で あった ところ から、 ニンゲン ジシン も、 その セイシン に おいて も、 その ヒョウジョウ に おいて も、 その フウボウ に おいて も、 はっきり した カタチ の ある もの で あった。 つまり イゼン の ニンゲン には セイカク が あった。
しかるに コンニチ の ニンゲン の ジョウケン は ことなって いる。 ゲンダイジン は ムゲンテイ な セカイ に すんで いる。 ワタシ は ワタシ の つかって いる ドウグ が どこ の ナニガシ の つくった もの で ある か を しらない し、 ワタシ が ヨリドコロ に して いる ホウドウ や チシキ も どこ の ナニガシ から でた もの で ある か を しらない。 スベテ が アノニム (ムメイ) の もの で ある と いう のみ で ない。 スベテ が アモルフ (ムテイケイ) の もの で ある。 かよう な セイカツ ジョウケン の ウチ に いきる もの と して ゲンダイジン ジシン も ムメイ な、 ムテイケイ な もの と なり、 ムセイカク な もの と なって いる。
ところで ゲンダイジン の セカイ が かよう に ムゲンテイ な もの で ある の は、 じつは、 それ が もっとも ゲンテイ された ケッカ と して しょうじた こと で ある。 コウツウ の ハッタツ に よって セカイ の スミズミ まで たがいに カンケイ-づけられて いる。 ワタシ は みえない ムスウ の もの に つながれて いる。 コリツ した もの は ムスウ の カンケイ に はいる こと に よって きわめて よく ゲンテイ された もの と なった。 ジッタイテキ な もの は カンケイ に ブンカイ される こと に よって もっとも ゲンミツ に ゲンテイ された もの と なった。 この ゲンテイ された セカイ に たいして イゼン の セカイ が むしろ ムゲンテイ で ある と いわねば ならぬ で あろう。 しかしながら それ にも かかわらず コンニチ の セカイ は ムゲンテイ で ある。 カンケイテキ ないし カンスウテキ には ゲンテイ されて いる に して も、 あるいは むしろ そのよう に ゲンテイ されつくした ケッカ、 カタチ と して は かえって ムゲンテイ な もの に なって いる。 この ムゲンテイ が じつは トクテイ の ゲンテイ の シカタ の ハッタツ した ケッカ しょうじた もの で ある ところ に、 ゲンダイジン の ムセイカク と いわれる もの の トクシュ な フクザツサ が ある。
コンニチ の ニンゲン の サイダイ の モンダイ は、 かよう に カタチ の ない もの から いかに して カタチ を つくる か と いう こと で ある。 この モンダイ は ナイザイテキ な タチバ に おいて は カイケツ されない。 なぜなら この ムテイケイ な ジョウタイ は ゲンテイ の ハッタツ しつくした ケッカ しょうじた もの で ある から。 そこ に ゲンダイ の あらゆる チョウエツテキ な カンガエカタ の イギ が ある。 ケイセイ は キョム から の ケイセイ、 カガク を こえた ゲイジュツテキ とも いう べき ケイセイ で なければ ならぬ。 イッシュ ゲイジュツテキ な セカイカン、 しかも カンショウテキ で なくて ケイセイテキ な セカイカン が シハイテキ に なる に いたる まで は、 ゲンダイ には キュウサイ が ない と いえる かも しれない。
ゲンダイ の コンラン と いわれる もの に おいて、 あらゆる もの が コンゴウ しつつ ある。 タイリツ する もの が ソウゴウ されて ゆく と いう より も むしろ タイリツ する もの が コンゴウ されて ゆく と いう の が ジッサイ に ちかい。 この コンゴウ から あたらしい カタチ が でて くる で あろう。 カタチ の セイセイ は ソウゴウ の ベンショウホウ で ある より も コンゴウ の ベンショウホウ で ある。 ワタシ の いう コウソウリョク の ロンリ は コンゴウ の ベンショウホウ と して トクチョウ-づけられねば ならぬ で あろう。 コンゴウ は フテイ な もの の ケツゴウ で あり、 その フテイ な もの の フテイセイ の コンキョ は キョム の ソンザイ で ある。 あらゆる もの は キョム に おいて あり、 かつ それぞれ トクシュテキ に キョム を いだいて いる ところ から コンゴウ が かんがえられる。 キョム は イッパンテキ な ソンザイ を ゆうする のみ で なく、 ソレゾレ に おいて トクシュテキ な ソンザイ を ゆうする。 コンゴウ の ベンショウホウ は キョム から の ケイセイ で なければ ならぬ。 カオス から コスモス への セイセイ を といた コダイジン の テツガク には ふかい シンリ が ふくまれて いる。 ジュウヨウ なの は その イミ を どこまでも シュタイテキ に ハアク する こと で ある。
コドク に ついて
「この ムゲン の クウカン の エイエン の チンモク は ワタシ を センリツ させる」 (パスカル)。
コドク が おそろしい の は、 コドク ソノモノ の ため で なく、 むしろ コドク の ジョウケン に よって で ある。 あたかも、 シ が おそろしい の は、 シ ソノモノ の ため で なく、 むしろ シ の ジョウケン に よって で ある の と おなじ で ある。 しかし コドク の ジョウケン イガイ に コドク ソノモノ が ある の か。 シ の ジョウケン イガイ に シ ソノモノ が ある で あろう か。 その ジョウケン イガイ に その ジッタイ を とらえる こと の できぬ もの、 ――シ も、 コドク も、 まことに かく の ごとき もの で あろう と おもわれる。 しかも、 ジッタイセイ の ない もの は ジツザイセイ の ない もの と いえる か、 また いわねば ならない の で ある か。
コダイ テツガク は ジッタイセイ の ない ところ に ジツザイセイ を かんがえる こと が できなかった。 したがって そこ では、 シ も、 そして コドク も、 あたかも ヤミ が ヒカリ の ケツボウ と かんがえられた よう に、 たんに ケツボウ (ステレーシス) を イミ する に すぎなかった で あろう。 しかるに キンダイジン は ジョウケン に よって シコウ する。 ジョウケン に よって シコウ する こと を おしえた の は キンダイ カガク で ある。 だから キンダイ カガク は シ の キョウフ や コドク の キョウフ の キョモウセイ を あきらか に した の で なく、 むしろ その ジツザイセイ を しめした の で ある。
コドク と いう の は ドッキョ の こと では ない。 ドッキョ は コドク の ヒトツ の ジョウケン に すぎず、 しかも その ガイテキ な ジョウケン で ある。 むしろ ヒト は コドク を のがれる ため に ドッキョ し さえ する の で ある。 イントンシャ と いう もの は しばしば かよう な ヒト で ある。
コドク は ヤマ に なく、 マチ に ある。 ヒトリ の ニンゲン に ある の で なく、 オオゼイ の ニンゲン の 「アイダ」 に ある の で ある。 コドク は 「アイダ」 に ある もの と して クウカン の ごとき もの で ある。 「シンクウ の キョウフ」 ――それ は ブッシツ の もの で なくて ニンゲン の もの で ある。
コドク は ウチ に とじこもる こと では ない。 コドク を かんじる とき、 こころみに、 ジブン の テ を のばして、 じっと みつめよ。 コドク の カンジ は キュウ に せまって くる で あろう。
コドク を あじわう ため に、 セイヨウジン なら マチ に でる で あろう。 ところが トウヨウジン は シゼン の ナカ に はいった。 カレラ には シゼン が シャカイ の ごとき もの で あった の で ある。 トウヨウジン に シャカイ イシキ が ない と いう の は、 カレラ には ニンゲン と シゼン と が タイリツテキ に かんがえられない ため で ある。
トウヨウジン の セカイ は ハクメイ の セカイ で ある。 しかるに セイヨウジン の セカイ は ヒル の セカイ と ヨル の セカイ で ある。 ヒル と ヨル との タイリツ の ない ところ が ハクメイ で ある。 ハクメイ の サビシサ は ヒル の サビシサ とも ヨル の サビシサ とも セイシツテキ に ちがって いる。
コドク には ビテキ な ユウワク が ある。 コドク には アジワイ が ある。 もし ダレ も が コドク を このむ と したら、 この アジワイ の ため で ある。 コドク の ビテキ な ユウワク は オンナ の コ も しって いる。 コドク の より たかい リンリテキ イギ に たっする こと が モンダイ で ある の だ。
その イッショウ が コドク の リンリテキ イギ の タンキュウ で あった と いいうる キェルケゴール で さえ、 その ビテキ な ユウワク に しばしば まけて いる の で ある。
カンジョウ は シュカンテキ で チセイ は キャッカンテキ で ある と いう フツウ の ケンカイ には ゴビュウ が ある。 むしろ その ギャク が いっそう シンリ に ちかい。 カンジョウ は オオク の バアイ キャッカンテキ な もの、 シャカイカ された もの で あり、 チセイ こそ シュカンテキ な もの、 ジンカクテキ な もの で ある。 しんに シュカンテキ な カンジョウ は チセイテキ で ある。 コドク は カンジョウ で なく チセイ に ぞくする の で なければ ならぬ。
シンリ と キャッカンセイ、 したがって ヒ-ジンカクセイ と を ドウイツシ する テツガクテキ ケンカイ ほど ユウガイ な もの は ない。 かよう な ケンカイ は シンリ の ナイメンセイ のみ で なく、 また とくに その ヒョウゲンセイ を リカイ しない の で ある。
いかなる タイショウ も ワタシ を して コドク を こえさせる こと は できぬ。 コドク に おいて ワタシ は タイショウ の セカイ を ゼンタイ と して こえて いる の で ある。
コドク で ある とき、 ワレワレ は モノ から ほろぼされる こと は ない。 ワレワレ が モノ に おいて ほろぶ の は コドク を しらない とき で ある。
モノ が しんに ヒョウゲンテキ な もの と して ワレワレ に せまる の は コドク に おいて で ある。 そして ワレワレ が コドク を こえる こと が できる の は その ヨビカケ に こたえる ジコ の ヒョウゲン カツドウ に おいて の ホカ ない。 アウグスティヌス は、 ショクブツ は ニンゲン から みられる こと を もとめて おり、 みられる こと が それ に とって キュウサイ で ある と いった が、 ヒョウゲン する こと は モノ を すくう こと で あり、 モノ を すくう こと に よって ジコ を すくう こと で ある。 かよう に して、 コドク は もっとも ふかい アイ に ねざして いる。 そこ に コドク の ジツザイセイ が ある。
シット に ついて
もし ワタシ に ニンゲン の セイ の ゼン で ある こと を うたがわせる もの が ある と したら、 それ は ニンゲン の ココロ に おける シット の ソンザイ で ある。 シット こそ ベーコン が いった よう に アクマ に もっとも ふさわしい ゾクセイ で ある。 なぜなら シット は コウカツ に、 ヤミ の ナカ で、 よい もの を がいする こと に むかって はたらく の が イッパン で ある から。
どのよう な ジョウネン でも、 テンシン ランマン に あらわれる バアイ、 つねに ある ウツクシサ を もって いる。 しかるに シット には テンシン ランマン と いう こと が ない。 アイ と シット とは、 シュジュ の テン で にた ところ が ある が、 まず この イッテン で まったく ちがって いる。 すなわち アイ は ジュンスイ で ありうる に はんして、 シット は つねに インケン で ある。 それ は コドモ の シット に おいて すら そう で ある。
アイ と シット とは あらゆる ジョウネン の ウチ もっとも ジュッサクテキ で ある。 それら は タ の ジョウネン に ひして はるか に ジゾクテキ な セイシツ の もの で あり、 したがって そこ に リチ の ジュッサク が はいって くる こと が できる。 また ギャク に リチ の ジュッサク に よって それら の ジョウネン は ジゾクセイ を ます の で ある。 いかなる ジョウネン も アイ と シット と ほど ニンゲン を くるしめない、 なぜなら タ の ジョウネン は それほど ジゾクテキ で ない から。 この クルシミ の ナカ から あらゆる ジュッサク が うまれて くる。 しかも アイ は シット の コンニュウ に よって ジュッサクテキ に なる こと が いかに おおい か。 だから ジュッサクテキ な アイ に よって の ホカ たのしまない モノ は、 アイテ に シット を おこさせる よう な シュダン を もちいる。
シット は ヘイゼイ は 「かんがえ」 ない ニンゲン にも 「かんがえ」 させる。
アイ と シット との ツヨサ は、 それら が はげしく ソウゾウリョク を はたらかせる こと に もとづいて いる。 ソウゾウリョク は マジュツテキ な もの で ある。 ヒト は ジブン の ソウゾウリョク で つくりだした もの に たいして シット する。 アイ と シット と が ジュッサクテキ で ある と いう こと も、 それら が ソウゾウリョク を かりたて、 ソウゾウリョク に かりたてられて うごく ところ から しょうずる。 しかも シット に おいて ソウゾウリョク が はたらく の は その ナカ に コンニュウ して いる なんらか の アイ に よって で ある。 シット の ソコ に アイ が なく、 アイ の ウチ に アクマ が いない と、 ダレ が しろう か。
シット は ジブン より も たかい チイ に ある モノ、 ジブン より も コウフク な ジョウタイ に ある モノ に たいして おこる。 だが その サイ が ゼッタイテキ で なく、 ジブン も カレ の よう に なりうる と かんがえられる こと が ヒツヨウ で ある。 まったく イシツテキ で なく、 キョウツウ な もの が なければ ならぬ。 しかも シット は、 シット される モノ の イチ に ジブン を たかめよう と する こと なく、 むしろ カレ を ジブン の イチ に ひくめよう と する の が フツウ で ある。 シット が より たかい もの を めざして いる よう に みえる の は ヒョウメンジョウ の こと で ある、 それ は ホンシツテキ には ヘイキンテキ な もの に むかって いる の で ある。 この テン、 アイ が その ホンセイ に おいて つねに より たかい もの に あこがれる の と ことなって いる。
かよう に して シット は、 アイ と あいはんする セイシツ の もの と して、 ニンゲンテキ な アイ に ナニ か おぎなわねば ならぬ もの が ある か の ごとく、 たえず その ナカ に カンショウ して くる の で ある。
おなじ ショクギョウ の モノ が シン の トモダチ に なる こと は ちがった ショクギョウ の モノ の アイダ に おいて より も はるか に コンナン で ある。
シット は セイシツテキ な もの の ウエ に はたらく の で なく、 リョウテキ な もの の ウエ に はたらく の で ある。 トクシュテキ な もの、 コセイテキ な もの は、 シット の タイショウ とは ならぬ。 シット は タ を コセイ と して みとめる こと、 ジブン を コセイ と して リカイ する こと を しらない。 イッパンテキ な もの に かんして ヒト は シット する の で ある。 これ に はんして アイ の タイショウ と なる の は イッパンテキ な もの で なくて トクシュテキ な もの、 コセイテキ な もの で ある。
シット は ココロ の おくふかく もえる の が ツネ で ある にも かかわらず、 なんら ナイメンセイ を しらぬ。
シット とは スベテ の ニンゲン が カミ の マエ に おいて は ビョウドウ で ある こと を しらぬ モノ の ニンゲン の セカイ に おいて ヘイキンカ を もとめる ケイコウ で ある。
シット は であるいて、 イエ を まもらない。 それ は ジブン に とどまらない で たえず ソト へ でて ゆく コウキシン の ヒトツ の おおきな ゲンイン に なって いる。 シット の まじらない ムジャキ な コウキシン と いう もの は いかに まれ で ある か。
ヒトツ の ジョウネン は チセイ に よって より も タ の ジョウネン に よって いっそう よく せいする こと が できる と いう の は、 イッパンテキ な シンリ で ある。 エイユウ は シットテキ で ない と いう コトバ が もし ホント で ある と したら、 カレラ に おいて は コウミョウシン とか キョウソウシン とか いう タ の ジョウネン が シット より も つよく、 そして ジュウヨウ な こと は、 いっそう ジゾクテキ な チカラ に なって いる と いう こと で ある。
コウミョウシン や キョウソウシン は しばしば シット と まちがえられる。 しかし リョウシャ の サイ は メイリョウ で ある。 まず コウミョウシン や キョウソウシン は コウキョウテキ な バショ を しって いる に はんし、 シット は それ を しらない。 シット は スベテ の コウジ を シジ と かいして かんがえる。 シット が コウミョウシン や キョウソウシン に テンカ される こと は、 その ギャク の バアイ より も はるか に コンナン で ある。
シット は つねに タボウ で ある。 シット の ごとく タボウ で、 しかも フセイサンテキ な ジョウネン の ソンザイ を ワタシ は しらない。
もし ムジャキ な ココロ と いう もの を テイギ しよう と する なら、 シットテキ で ない ココロ と いう の が ナニ より も テキトウ で あろう。
ジシン が ない こと から シット が おこる と いう の は ただしい。 もっとも なんら の ジシン も なければ シット の オコリヨウ も ない わけ で ある が。 しかし シット は その タイショウ に おいて ジコ が シット して いる とうの テン を さけて タ の テン に ふれる の が ツネ で ある。 シット は サジュツテキ で ある。
シットシン を なくする ため に、 ジシン を もて と いわれる。 だが ジシン は いかに して しょうずる の で ある か。 ジブン で モノ を つくる こと に よって。 シット から は ナニモノ も つくられない。 ニンゲン は モノ を つくる こと に よって ジコ を つくり、 かくて コセイ に なる。 コセイテキ な ニンゲン ほど シットテキ で ない。 コセイ を はなれて コウフク が ソンザイ しない こと は この ジジツ から も リカイ される で あろう。
セイコウ に ついて
コンニチ の リンリガク の ほとんど スベテ に おいて おきわすれられた フタツ の もっとも いちじるしい もの は、 コウフク と セイコウ と いう もの で ある。 しかも それ は あいはんする イミ に おいて そのよう に なって いる の で ある。 すなわち コウフク は もはや ゲンダイテキ な もの で ない ゆえ に。 そして セイコウ は あまり に ゲンダイテキ な もの で ある ゆえ に。
コダイジン や チュウセイテキ ニンゲン の モラル の ウチ には、 ワレワレ の イミ に おける セイコウ と いう もの は どこ にも そんしない よう に おもう。 カレラ の モラル の チュウシン は コウフク で あった の に はんして、 ゲンダイジン の それ は セイコウ で ある と いって よい で あろう。 セイコウ する と いう こと が ヒトビト の おも な モンダイ と なる よう に なった とき、 コウフク と いう もの は もはや ヒトビト の ふかい カンシン で なくなった。
セイコウ の モラル が キンダイ に トクチョウテキ な もの で ある こと は、 シンポ の カンネン が キンダイ に トクチョウテキ な もの で ある の に にて いる で あろう。 じつは リョウシャ の アイダ に ミッセツ な カンケイ が ある の で ある。 キンダイ ケイモウ シュギ の リンリ に おける コウフクロン は コウフク の モラル から セイコウ の モラル への スイイ を カノウ に した。 セイコウ と いう もの は、 シンポ の カンネン と おなじく、 チョクセンテキ な コウジョウ と して かんがえられる。 しかるに コウフク には、 ほんらい、 シンポ と いう もの は ない。
チュウヨウ は ヒトツ の シュヨウ な トク で ある のみ で なく、 むしろ あらゆる トク の コンポンテキ な カタチ で ある と かんがえられて きた。 この カンテン を やぶった ところ に セイコウ の モラル の キンダイテキ な アタラシサ が ある。
セイコウ の モラル は およそ ヒ-シュウキョウテキ な もの で あり、 キンダイ の ヒ-シュウキョウテキ な セイシン に ソウオウ して いる。
セイコウ と コウフク と を、 フセイコウ と フコウ と を ドウイツシ する よう に なって イライ、 ニンゲン は シン の コウフク が ナン で ある か を リカイ しえなく なった。 ジブン の フコウ を フセイコウ と して かんがえて いる ニンゲン こそ、 まことに あわれむ べき で ある。
タニン の コウフク を シット する モノ は、 コウフク を セイコウ と おなじ に みて いる バアイ が おおい。 コウフク は カクジン の もの、 ジンカクテキ な、 セイシツテキ な もの で ある が、 セイコウ は イッパンテキ な もの、 リョウテキ に かんがえられうる もの で ある。 だから セイコウ は、 その ホンセイジョウ、 タニン の シット を ともないやすい。
コウフク が ソンザイ に かかわる の に はんして、 セイコウ は カテイ に かかわって いる。 だから、 タニン から は カレ の セイコウ と みられる こと に たいして、 ジブン では ジブン に カカワリ の ない こと で ある か の よう に ムカンシン で いる ニンゲン が ある。 かよう な ニンゲン は ニジュウ に タニン から シット される オソレ が あろう。
Streber―― この ドイツ-ゴ で もっとも テキセツ に あらわされる シュルイ の セイコウ シュギシャ こそ、 ゾクブツ-チュウ の ゾクブツ で ある。 タ の シュルイ の ゾクブツ は ときとして キマグレ に ゾクブツ で ある こと を やめる。 しかるに この ドリョクカ-ガタ の セイコウ シュギシャ は、 けっして キドウ を はずす こと が ない ゆえ に、 それだけ ゾクブツ と して カンゼン で ある。
シュトレーバー と いう の は、 いきる こと が そもそも ボウケン で ある と いう ケイジジョウガクテキ シンリ を いかなる バアイ にも リカイ する こと の ない ニンゲン で ある。 ソウゾウリョク の ケツボウ が この ドリョクカ-ガタ を トクチョウ-づけて いる。
セイコウ も ジンセイ に ホンシツテキ な ボウケン に ぞくする と いう こと を リカイ する とき、 セイコウ シュギ は イミ を なさなく なる で あろう。 セイコウ を ボウケン の ケンチ から リカイ する か、 ボウケン を セイコウ の ケンチ から リカイ する か は、 ホンシツテキ に ちがった こと で ある。 セイコウ シュギ は アト の バアイ で あり、 そこ には シン の ボウケン は ない。 ジンセイ は カケ で ある と いう コトバ ほど カッテ に リカイ されて ランヨウ されて いる もの は ない。
イッシュ の スポーツ と して セイコウ を ツイキュウ する モノ は ケンゼン で ある。
ジュンスイ な コウフク は カクジン に おいて オリジナル な もの で ある。 しかし セイコウ は そう では ない。 エピゴーネントゥム (ツイズイシャ-フウ) は オオク の バアイ セイコウ シュギ と むすびついて いる。
キンダイ の セイコウ シュギシャ は カタ と して は メイリョウ で ある が コセイ では ない。
コダイ に おいて は、 コジン イシキ は ハッタツ して いなかった が、 それ だけ に カタテキ な ニンゲン が コセイテキ で ある と いう こと が あった。 コジン イシキ の ハッタツ した ゲンダイ に おいて は かえって、 カタテキ な ニンゲン は リョウテキ な ヘイキンテキ な ニンゲン で あって コセイテキ で ない と いう こと が しょうじた。 ゲンダイ ブンカ の ヒゲキ、 あるいは むしろ キゲキ は、 カタ と コセイ との ブンリ に ある。 そこ に コセイ と して は カタテキ な ツヨサ が なく、 カタ と して は コセイテキ な アザヤカサ の ない ニンゲン が できた の で ある。
セイコウ の モラル は オプティミズム に ささえられて いる。 それ が ジンセイ に たいする イギ は しゅとして この オプティミズム の イギ で ある。 オプティミズム の コンテイ には ゴウリ シュギ あるいは シュチ シュギ が なければ ならぬ。 しかるに オプティミズム が この ホウコウ に センレン された バアイ、 なお なんらか セイコウ シュギ と いう もの が のこりうる で あろう か。
セイコウ シュギシャ が ヒゴウリ シュギシャ で ある バアイ、 カレ は おそる べき で ある。
キンダイテキ な ボウケンシン と、 ゴウリ シュギ と、 オプティミズム と、 シンポ の カンネン との コンゴウ から うまれた サイコウ の もの は キギョウカ-テキ セイシン で ある。 コダイ の ニンゲン リソウ が ケンジャ で あり、 チュウセイ の それ が セイジャ で あった よう に、 キンダイ の それ は キギョウカ で ある と いいうる で あろう。 すくなくとも そのよう に かんがえらる べき オオク の リユウ が ある。 しかるに それ が イッパン には そのよう に ジュンスイ に ハアク されなかった の は キンダイ の ハイキン シュギ の ケッカ で ある。
もし ヒト が いくらか の ケンリョク を もって いる と したら、 セイコウ シュギシャ ほど ぎょしやすい もの は ない で あろう。 ブカ を ぎょして ゆく テヂカ な ミチ は、 カレラ に リッシン シュッセ の イデオロギー を ふきこむ こと で ある。
ワタシ は イマ ニーチェ の モラル の コンポン が セイコウ シュギ に たいする キョクタン な ハンカン に あった こと を しる の で ある。
どんな ホウホウ でも よい、 ジコ を シュウチュウ しよう と すれば する ほど、 ワタシ は ジコ が ナニ か の ウエ に ういて いる よう に かんじる。 いったい なんの ウエ に で あろう か。 キョム の ウエ に と いう の ホカ ない。 ジコ は キョム の ナカ の ヒトツ の テン で ある。 この テン は かぎりなく シュクショウ される こと が できる。 しかし それ は どんな に ちいさく なって も、 ジコ が その ナカ に うきあがって いる キョム と ヒトツ の もの では ない。 セイメイ は キョム で なく、 キョム は むしろ ニンゲン の ジョウケン で ある。 けれども この ジョウケン は、 あたかも ヒトツ の ナミ、 ヒトツ の ホウマツ で さえ も が、 ウミ と いう もの を はなれて かんがえられない よう に、 それ なし には ニンゲン が かんがえられぬ もの で ある。 ジンセイ は ホウマツ の ごとし と いう シソウ は、 その ホウマツ の ジョウケン と して の ナミ、 そして ウミ を かんがえない バアイ、 まちがって いる。 しかし また ホウマツ や ナミ が ウミ と ヒトツ の もの で ある よう に、 ニンゲン も その ジョウケン で ある ところ の キョム と ヒトツ の もの で ある。 セイメイ とは キョム を かきあつめる チカラ で ある。 それ は キョム から の ケイセイリョク で ある。 キョム を かきあつめて かたちづくられた もの は キョム では ない。 キョム と ニンゲン とは シ と セイ との よう に ことなって いる。 しかし キョム は ニンゲン の ジョウケン で ある。
ニンゲン の ジョウケン と して タ の ムスウ の もの が かんがえられる で あろう。 たとえば、 この ヘヤ、 この ツクエ、 この ショモツ、 あるいは この ショモツ が あたえる チシキ、 また この イエ の ニワ、 ゼンタイ の シゼン、 あるいは カゾク、 そして ゼンタイ の シャカイ…… セカイ。 この イクツ か の コトバ で あらわされた もの は さらに ムスウ の ヨウソ に ブンカイ する こと が できる。 それら ムスウ の ヨウソ は たがいに カンケイ して いる。 また ニンゲン と いう もの も、 その シンタイ も、 その セイシン も、 それら の ヨウソ と おなじ チツジョ の もの に かぎりなく ブンカイ する こと が カノウ で ある。 そして ヒトツ の サイボウ に とって タ の スベテ の サイボウ は ジョウケン で あり、 ヒトツ の シンショウ に とって タ の スベテ の シンショウ は ジョウケン で ある。 これら の ジョウケン は タ の あらゆる ジョウケン と カンケイ して いる。 かよう に どこまでも ブンカイ を すすめて ゆく ならば、 ジョウケン イガイ に なんらか ニンゲン ソノモノ を ハッケン する こと は フカノウ で ある よう に おもわれる。 ワタシ は ジコ が セカイ の ヨウソ と おなじ ヨウソ に ブンカイ されて しまう の を みる。 しかしながら それ にも かかわらず ワタシ が セカイ と ことなる ある もの と して ソンザイ する こと は たしか で ある。 ニンゲン と ニンゲン の ジョウケン とは どこまでも ことなって いる。 この こと は いかに して カノウ で あろう か。
モノ が ニンゲン の ジョウケン で ある と いう の は、 それ が キョム の ナカ に おいて はじめて そのよう な もの と して あらわれる と いう こと に よって で ある。 いいかえる と、 セカイ ――それ を ムゲン に おおきく かんがえる に せよ、 ムゲン に ちいさく かんがえる に せよ―― が ニンゲン の ジョウケン で ある こと に とって キョム は その アプリオリ で ある。 キョム と いう ニンゲン の コンポンテキ ジョウケン に セイヤク された もの と して、 それ ジシン キョム に きしうる もの、 いな、 キョム で ある もの と して、 セカイ の もの は ニンゲン の ジョウケン で ある。 かよう に して はじめて、 ニンゲン は セカイ と おなじ ヨウソ に、 それら の ヨウソ の カンケイ に、 かぎりなく ブンカイ されうる に して も、 ニンゲン と セカイ との アイダ に、 ニンゲン と ニンゲン の ジョウケン との アイダ に、 どこまでも クベツ が ソンザイ しうる の で ある。 キョム が ニンゲン の ジョウケン の ジョウケン で ない ならば、 いかに して ワタシ の ジコ は セカイ の ヨウソ と コンポンテキ に クベツ される ある もの で ありうる で あろう か。
キョム が ニンゲン の ジョウケン あるいは ニンゲン の ジョウケン で ある もの の ジョウケン で ある ところ から、 ジンセイ は ケイセイ で ある と いう こと が したがって くる。 ジコ は ケイセイリョク で あり、 ニンゲン は ケイセイ された もの で ある と いう のみ では ない、 セカイ も ケイセイ された もの と して はじめて ニンゲンテキ セイメイ に とって ゲンジツテキ に カンキョウ の イミ を もつ こと が できる の で ある。 セイメイ は みずから カタチ と して ソト に カタチ を つくり、 モノ に カタチ を あたえる こと に よって ジコ に カタチ を あたえる。 かよう な ケイセイ は ニンゲン の ジョウケン が キョム で ある こと に よって カノウ で ある。
セカイ は ヨウソ に ブンカイ され、 ニンゲン も この ヨウソテキ セカイ の ウチ へ ブンカイ され、 そして ヨウソ と ヨウソ との アイダ には カンケイ が みとめられ、 ヨウソ ソノモノ も カンケイ に ブンカイ されて しまう こと が できる で あろう。 この カンケイ は イクツ か の ホウソク に おいて テイシキカ する こと が できる で あろう。 しかし かよう な セカイ に おいて は セイメイ は セイリツ する こと が できない。 なにゆえ で ある か。 セイメイ は チュウショウテキ な ホウソク で なく、 たんなる カンケイ でも、 カンケイ の ワ でも セキ でも なく、 セイメイ は カタチ で あり、 しかるに かよう な セカイ に おいて は カタチ と いう もの は かんがえられない から で ある。 ケイセイ は どこ か タ の ところ から、 すなわち キョム から かんがえられねば ならぬ。 ケイセイ は つねに キョム から の ケイセイ で ある。 カタチ の セイリツ も、 カタチ と カタチ との カンケイ も、 カタチ から カタチ への ヘンカ も ただ キョム を コンテイ と して リカイ する こと が できる。 そこ に カタチ と いう もの の ホンシツテキ な トクチョウ が ある。
コダイ は ジッタイ ガイネン に よって シコウ し、 キンダイ は カンケイ ガイネン あるいは キノウ ガイネン (カンスウ ガイネン) に よって シコウ した。 あたらしい シコウ は カタチ の シコウ で なければ ならぬ。 カタチ は たんなる ジッタイ で なく、 たんなる カンケイ ないし キノウ でも ない。 カタチ は いわば リョウシャ の ソウゴウ で ある。 カンケイ ガイネン と ジッタイ ガイネン と が ヒトツ で あり、 ジッタイ ガイネン と キノウ ガイネン と が ヒトツ で ある ところ に カタチ が かんがえられる。
イゼン の ニンゲン は ゲンテイ された セカイ の ウチ に セイカツ して いた。 その すむ チイキ は ハシ から ハシ まで ミトオシ の できる もの で あった。 その もちいる ドウグ は どこ の ナニガシ が つくった もの で あり、 その ギリョウ は どれほど の もの で ある か が わかって いた。 また カレ が うる ホウドウ や チシキ に して も、 どこ の ナニガシ から でた もの で あり、 その ヒト が どれほど シンヨウ の できる オトコ で ある か が しられて いた。 このよう に カレ の セイカツ ジョウケン、 カレ の カンキョウ が ゲンテイ された もの で あった ところ から、 したがって カタチ の みえる もの で あった ところ から、 ニンゲン ジシン も、 その セイシン に おいて も、 その ヒョウジョウ に おいて も、 その フウボウ に おいて も、 はっきり した カタチ の ある もの で あった。 つまり イゼン の ニンゲン には セイカク が あった。
しかるに コンニチ の ニンゲン の ジョウケン は ことなって いる。 ゲンダイジン は ムゲンテイ な セカイ に すんで いる。 ワタシ は ワタシ の つかって いる ドウグ が どこ の ナニガシ の つくった もの で ある か を しらない し、 ワタシ が ヨリドコロ に して いる ホウドウ や チシキ も どこ の ナニガシ から でた もの で ある か を しらない。 スベテ が アノニム (ムメイ) の もの で ある と いう のみ で ない。 スベテ が アモルフ (ムテイケイ) の もの で ある。 かよう な セイカツ ジョウケン の ウチ に いきる もの と して ゲンダイジン ジシン も ムメイ な、 ムテイケイ な もの と なり、 ムセイカク な もの と なって いる。
ところで ゲンダイジン の セカイ が かよう に ムゲンテイ な もの で ある の は、 じつは、 それ が もっとも ゲンテイ された ケッカ と して しょうじた こと で ある。 コウツウ の ハッタツ に よって セカイ の スミズミ まで たがいに カンケイ-づけられて いる。 ワタシ は みえない ムスウ の もの に つながれて いる。 コリツ した もの は ムスウ の カンケイ に はいる こと に よって きわめて よく ゲンテイ された もの と なった。 ジッタイテキ な もの は カンケイ に ブンカイ される こと に よって もっとも ゲンミツ に ゲンテイ された もの と なった。 この ゲンテイ された セカイ に たいして イゼン の セカイ が むしろ ムゲンテイ で ある と いわねば ならぬ で あろう。 しかしながら それ にも かかわらず コンニチ の セカイ は ムゲンテイ で ある。 カンケイテキ ないし カンスウテキ には ゲンテイ されて いる に して も、 あるいは むしろ そのよう に ゲンテイ されつくした ケッカ、 カタチ と して は かえって ムゲンテイ な もの に なって いる。 この ムゲンテイ が じつは トクテイ の ゲンテイ の シカタ の ハッタツ した ケッカ しょうじた もの で ある ところ に、 ゲンダイジン の ムセイカク と いわれる もの の トクシュ な フクザツサ が ある。
コンニチ の ニンゲン の サイダイ の モンダイ は、 かよう に カタチ の ない もの から いかに して カタチ を つくる か と いう こと で ある。 この モンダイ は ナイザイテキ な タチバ に おいて は カイケツ されない。 なぜなら この ムテイケイ な ジョウタイ は ゲンテイ の ハッタツ しつくした ケッカ しょうじた もの で ある から。 そこ に ゲンダイ の あらゆる チョウエツテキ な カンガエカタ の イギ が ある。 ケイセイ は キョム から の ケイセイ、 カガク を こえた ゲイジュツテキ とも いう べき ケイセイ で なければ ならぬ。 イッシュ ゲイジュツテキ な セカイカン、 しかも カンショウテキ で なくて ケイセイテキ な セカイカン が シハイテキ に なる に いたる まで は、 ゲンダイ には キュウサイ が ない と いえる かも しれない。
ゲンダイ の コンラン と いわれる もの に おいて、 あらゆる もの が コンゴウ しつつ ある。 タイリツ する もの が ソウゴウ されて ゆく と いう より も むしろ タイリツ する もの が コンゴウ されて ゆく と いう の が ジッサイ に ちかい。 この コンゴウ から あたらしい カタチ が でて くる で あろう。 カタチ の セイセイ は ソウゴウ の ベンショウホウ で ある より も コンゴウ の ベンショウホウ で ある。 ワタシ の いう コウソウリョク の ロンリ は コンゴウ の ベンショウホウ と して トクチョウ-づけられねば ならぬ で あろう。 コンゴウ は フテイ な もの の ケツゴウ で あり、 その フテイ な もの の フテイセイ の コンキョ は キョム の ソンザイ で ある。 あらゆる もの は キョム に おいて あり、 かつ それぞれ トクシュテキ に キョム を いだいて いる ところ から コンゴウ が かんがえられる。 キョム は イッパンテキ な ソンザイ を ゆうする のみ で なく、 ソレゾレ に おいて トクシュテキ な ソンザイ を ゆうする。 コンゴウ の ベンショウホウ は キョム から の ケイセイ で なければ ならぬ。 カオス から コスモス への セイセイ を といた コダイジン の テツガク には ふかい シンリ が ふくまれて いる。 ジュウヨウ なの は その イミ を どこまでも シュタイテキ に ハアク する こと で ある。
コドク に ついて
「この ムゲン の クウカン の エイエン の チンモク は ワタシ を センリツ させる」 (パスカル)。
コドク が おそろしい の は、 コドク ソノモノ の ため で なく、 むしろ コドク の ジョウケン に よって で ある。 あたかも、 シ が おそろしい の は、 シ ソノモノ の ため で なく、 むしろ シ の ジョウケン に よって で ある の と おなじ で ある。 しかし コドク の ジョウケン イガイ に コドク ソノモノ が ある の か。 シ の ジョウケン イガイ に シ ソノモノ が ある で あろう か。 その ジョウケン イガイ に その ジッタイ を とらえる こと の できぬ もの、 ――シ も、 コドク も、 まことに かく の ごとき もの で あろう と おもわれる。 しかも、 ジッタイセイ の ない もの は ジツザイセイ の ない もの と いえる か、 また いわねば ならない の で ある か。
コダイ テツガク は ジッタイセイ の ない ところ に ジツザイセイ を かんがえる こと が できなかった。 したがって そこ では、 シ も、 そして コドク も、 あたかも ヤミ が ヒカリ の ケツボウ と かんがえられた よう に、 たんに ケツボウ (ステレーシス) を イミ する に すぎなかった で あろう。 しかるに キンダイジン は ジョウケン に よって シコウ する。 ジョウケン に よって シコウ する こと を おしえた の は キンダイ カガク で ある。 だから キンダイ カガク は シ の キョウフ や コドク の キョウフ の キョモウセイ を あきらか に した の で なく、 むしろ その ジツザイセイ を しめした の で ある。
コドク と いう の は ドッキョ の こと では ない。 ドッキョ は コドク の ヒトツ の ジョウケン に すぎず、 しかも その ガイテキ な ジョウケン で ある。 むしろ ヒト は コドク を のがれる ため に ドッキョ し さえ する の で ある。 イントンシャ と いう もの は しばしば かよう な ヒト で ある。
コドク は ヤマ に なく、 マチ に ある。 ヒトリ の ニンゲン に ある の で なく、 オオゼイ の ニンゲン の 「アイダ」 に ある の で ある。 コドク は 「アイダ」 に ある もの と して クウカン の ごとき もの で ある。 「シンクウ の キョウフ」 ――それ は ブッシツ の もの で なくて ニンゲン の もの で ある。
コドク は ウチ に とじこもる こと では ない。 コドク を かんじる とき、 こころみに、 ジブン の テ を のばして、 じっと みつめよ。 コドク の カンジ は キュウ に せまって くる で あろう。
コドク を あじわう ため に、 セイヨウジン なら マチ に でる で あろう。 ところが トウヨウジン は シゼン の ナカ に はいった。 カレラ には シゼン が シャカイ の ごとき もの で あった の で ある。 トウヨウジン に シャカイ イシキ が ない と いう の は、 カレラ には ニンゲン と シゼン と が タイリツテキ に かんがえられない ため で ある。
トウヨウジン の セカイ は ハクメイ の セカイ で ある。 しかるに セイヨウジン の セカイ は ヒル の セカイ と ヨル の セカイ で ある。 ヒル と ヨル との タイリツ の ない ところ が ハクメイ で ある。 ハクメイ の サビシサ は ヒル の サビシサ とも ヨル の サビシサ とも セイシツテキ に ちがって いる。
コドク には ビテキ な ユウワク が ある。 コドク には アジワイ が ある。 もし ダレ も が コドク を このむ と したら、 この アジワイ の ため で ある。 コドク の ビテキ な ユウワク は オンナ の コ も しって いる。 コドク の より たかい リンリテキ イギ に たっする こと が モンダイ で ある の だ。
その イッショウ が コドク の リンリテキ イギ の タンキュウ で あった と いいうる キェルケゴール で さえ、 その ビテキ な ユウワク に しばしば まけて いる の で ある。
カンジョウ は シュカンテキ で チセイ は キャッカンテキ で ある と いう フツウ の ケンカイ には ゴビュウ が ある。 むしろ その ギャク が いっそう シンリ に ちかい。 カンジョウ は オオク の バアイ キャッカンテキ な もの、 シャカイカ された もの で あり、 チセイ こそ シュカンテキ な もの、 ジンカクテキ な もの で ある。 しんに シュカンテキ な カンジョウ は チセイテキ で ある。 コドク は カンジョウ で なく チセイ に ぞくする の で なければ ならぬ。
シンリ と キャッカンセイ、 したがって ヒ-ジンカクセイ と を ドウイツシ する テツガクテキ ケンカイ ほど ユウガイ な もの は ない。 かよう な ケンカイ は シンリ の ナイメンセイ のみ で なく、 また とくに その ヒョウゲンセイ を リカイ しない の で ある。
いかなる タイショウ も ワタシ を して コドク を こえさせる こと は できぬ。 コドク に おいて ワタシ は タイショウ の セカイ を ゼンタイ と して こえて いる の で ある。
コドク で ある とき、 ワレワレ は モノ から ほろぼされる こと は ない。 ワレワレ が モノ に おいて ほろぶ の は コドク を しらない とき で ある。
モノ が しんに ヒョウゲンテキ な もの と して ワレワレ に せまる の は コドク に おいて で ある。 そして ワレワレ が コドク を こえる こと が できる の は その ヨビカケ に こたえる ジコ の ヒョウゲン カツドウ に おいて の ホカ ない。 アウグスティヌス は、 ショクブツ は ニンゲン から みられる こと を もとめて おり、 みられる こと が それ に とって キュウサイ で ある と いった が、 ヒョウゲン する こと は モノ を すくう こと で あり、 モノ を すくう こと に よって ジコ を すくう こと で ある。 かよう に して、 コドク は もっとも ふかい アイ に ねざして いる。 そこ に コドク の ジツザイセイ が ある。
シット に ついて
もし ワタシ に ニンゲン の セイ の ゼン で ある こと を うたがわせる もの が ある と したら、 それ は ニンゲン の ココロ に おける シット の ソンザイ で ある。 シット こそ ベーコン が いった よう に アクマ に もっとも ふさわしい ゾクセイ で ある。 なぜなら シット は コウカツ に、 ヤミ の ナカ で、 よい もの を がいする こと に むかって はたらく の が イッパン で ある から。
どのよう な ジョウネン でも、 テンシン ランマン に あらわれる バアイ、 つねに ある ウツクシサ を もって いる。 しかるに シット には テンシン ランマン と いう こと が ない。 アイ と シット とは、 シュジュ の テン で にた ところ が ある が、 まず この イッテン で まったく ちがって いる。 すなわち アイ は ジュンスイ で ありうる に はんして、 シット は つねに インケン で ある。 それ は コドモ の シット に おいて すら そう で ある。
アイ と シット とは あらゆる ジョウネン の ウチ もっとも ジュッサクテキ で ある。 それら は タ の ジョウネン に ひして はるか に ジゾクテキ な セイシツ の もの で あり、 したがって そこ に リチ の ジュッサク が はいって くる こと が できる。 また ギャク に リチ の ジュッサク に よって それら の ジョウネン は ジゾクセイ を ます の で ある。 いかなる ジョウネン も アイ と シット と ほど ニンゲン を くるしめない、 なぜなら タ の ジョウネン は それほど ジゾクテキ で ない から。 この クルシミ の ナカ から あらゆる ジュッサク が うまれて くる。 しかも アイ は シット の コンニュウ に よって ジュッサクテキ に なる こと が いかに おおい か。 だから ジュッサクテキ な アイ に よって の ホカ たのしまない モノ は、 アイテ に シット を おこさせる よう な シュダン を もちいる。
シット は ヘイゼイ は 「かんがえ」 ない ニンゲン にも 「かんがえ」 させる。
アイ と シット との ツヨサ は、 それら が はげしく ソウゾウリョク を はたらかせる こと に もとづいて いる。 ソウゾウリョク は マジュツテキ な もの で ある。 ヒト は ジブン の ソウゾウリョク で つくりだした もの に たいして シット する。 アイ と シット と が ジュッサクテキ で ある と いう こと も、 それら が ソウゾウリョク を かりたて、 ソウゾウリョク に かりたてられて うごく ところ から しょうずる。 しかも シット に おいて ソウゾウリョク が はたらく の は その ナカ に コンニュウ して いる なんらか の アイ に よって で ある。 シット の ソコ に アイ が なく、 アイ の ウチ に アクマ が いない と、 ダレ が しろう か。
シット は ジブン より も たかい チイ に ある モノ、 ジブン より も コウフク な ジョウタイ に ある モノ に たいして おこる。 だが その サイ が ゼッタイテキ で なく、 ジブン も カレ の よう に なりうる と かんがえられる こと が ヒツヨウ で ある。 まったく イシツテキ で なく、 キョウツウ な もの が なければ ならぬ。 しかも シット は、 シット される モノ の イチ に ジブン を たかめよう と する こと なく、 むしろ カレ を ジブン の イチ に ひくめよう と する の が フツウ で ある。 シット が より たかい もの を めざして いる よう に みえる の は ヒョウメンジョウ の こと で ある、 それ は ホンシツテキ には ヘイキンテキ な もの に むかって いる の で ある。 この テン、 アイ が その ホンセイ に おいて つねに より たかい もの に あこがれる の と ことなって いる。
かよう に して シット は、 アイ と あいはんする セイシツ の もの と して、 ニンゲンテキ な アイ に ナニ か おぎなわねば ならぬ もの が ある か の ごとく、 たえず その ナカ に カンショウ して くる の で ある。
おなじ ショクギョウ の モノ が シン の トモダチ に なる こと は ちがった ショクギョウ の モノ の アイダ に おいて より も はるか に コンナン で ある。
シット は セイシツテキ な もの の ウエ に はたらく の で なく、 リョウテキ な もの の ウエ に はたらく の で ある。 トクシュテキ な もの、 コセイテキ な もの は、 シット の タイショウ とは ならぬ。 シット は タ を コセイ と して みとめる こと、 ジブン を コセイ と して リカイ する こと を しらない。 イッパンテキ な もの に かんして ヒト は シット する の で ある。 これ に はんして アイ の タイショウ と なる の は イッパンテキ な もの で なくて トクシュテキ な もの、 コセイテキ な もの で ある。
シット は ココロ の おくふかく もえる の が ツネ で ある にも かかわらず、 なんら ナイメンセイ を しらぬ。
シット とは スベテ の ニンゲン が カミ の マエ に おいて は ビョウドウ で ある こと を しらぬ モノ の ニンゲン の セカイ に おいて ヘイキンカ を もとめる ケイコウ で ある。
シット は であるいて、 イエ を まもらない。 それ は ジブン に とどまらない で たえず ソト へ でて ゆく コウキシン の ヒトツ の おおきな ゲンイン に なって いる。 シット の まじらない ムジャキ な コウキシン と いう もの は いかに まれ で ある か。
ヒトツ の ジョウネン は チセイ に よって より も タ の ジョウネン に よって いっそう よく せいする こと が できる と いう の は、 イッパンテキ な シンリ で ある。 エイユウ は シットテキ で ない と いう コトバ が もし ホント で ある と したら、 カレラ に おいて は コウミョウシン とか キョウソウシン とか いう タ の ジョウネン が シット より も つよく、 そして ジュウヨウ な こと は、 いっそう ジゾクテキ な チカラ に なって いる と いう こと で ある。
コウミョウシン や キョウソウシン は しばしば シット と まちがえられる。 しかし リョウシャ の サイ は メイリョウ で ある。 まず コウミョウシン や キョウソウシン は コウキョウテキ な バショ を しって いる に はんし、 シット は それ を しらない。 シット は スベテ の コウジ を シジ と かいして かんがえる。 シット が コウミョウシン や キョウソウシン に テンカ される こと は、 その ギャク の バアイ より も はるか に コンナン で ある。
シット は つねに タボウ で ある。 シット の ごとく タボウ で、 しかも フセイサンテキ な ジョウネン の ソンザイ を ワタシ は しらない。
もし ムジャキ な ココロ と いう もの を テイギ しよう と する なら、 シットテキ で ない ココロ と いう の が ナニ より も テキトウ で あろう。
ジシン が ない こと から シット が おこる と いう の は ただしい。 もっとも なんら の ジシン も なければ シット の オコリヨウ も ない わけ で ある が。 しかし シット は その タイショウ に おいて ジコ が シット して いる とうの テン を さけて タ の テン に ふれる の が ツネ で ある。 シット は サジュツテキ で ある。
シットシン を なくする ため に、 ジシン を もて と いわれる。 だが ジシン は いかに して しょうずる の で ある か。 ジブン で モノ を つくる こと に よって。 シット から は ナニモノ も つくられない。 ニンゲン は モノ を つくる こと に よって ジコ を つくり、 かくて コセイ に なる。 コセイテキ な ニンゲン ほど シットテキ で ない。 コセイ を はなれて コウフク が ソンザイ しない こと は この ジジツ から も リカイ される で あろう。
セイコウ に ついて
コンニチ の リンリガク の ほとんど スベテ に おいて おきわすれられた フタツ の もっとも いちじるしい もの は、 コウフク と セイコウ と いう もの で ある。 しかも それ は あいはんする イミ に おいて そのよう に なって いる の で ある。 すなわち コウフク は もはや ゲンダイテキ な もの で ない ゆえ に。 そして セイコウ は あまり に ゲンダイテキ な もの で ある ゆえ に。
コダイジン や チュウセイテキ ニンゲン の モラル の ウチ には、 ワレワレ の イミ に おける セイコウ と いう もの は どこ にも そんしない よう に おもう。 カレラ の モラル の チュウシン は コウフク で あった の に はんして、 ゲンダイジン の それ は セイコウ で ある と いって よい で あろう。 セイコウ する と いう こと が ヒトビト の おも な モンダイ と なる よう に なった とき、 コウフク と いう もの は もはや ヒトビト の ふかい カンシン で なくなった。
セイコウ の モラル が キンダイ に トクチョウテキ な もの で ある こと は、 シンポ の カンネン が キンダイ に トクチョウテキ な もの で ある の に にて いる で あろう。 じつは リョウシャ の アイダ に ミッセツ な カンケイ が ある の で ある。 キンダイ ケイモウ シュギ の リンリ に おける コウフクロン は コウフク の モラル から セイコウ の モラル への スイイ を カノウ に した。 セイコウ と いう もの は、 シンポ の カンネン と おなじく、 チョクセンテキ な コウジョウ と して かんがえられる。 しかるに コウフク には、 ほんらい、 シンポ と いう もの は ない。
チュウヨウ は ヒトツ の シュヨウ な トク で ある のみ で なく、 むしろ あらゆる トク の コンポンテキ な カタチ で ある と かんがえられて きた。 この カンテン を やぶった ところ に セイコウ の モラル の キンダイテキ な アタラシサ が ある。
セイコウ の モラル は およそ ヒ-シュウキョウテキ な もの で あり、 キンダイ の ヒ-シュウキョウテキ な セイシン に ソウオウ して いる。
セイコウ と コウフク と を、 フセイコウ と フコウ と を ドウイツシ する よう に なって イライ、 ニンゲン は シン の コウフク が ナン で ある か を リカイ しえなく なった。 ジブン の フコウ を フセイコウ と して かんがえて いる ニンゲン こそ、 まことに あわれむ べき で ある。
タニン の コウフク を シット する モノ は、 コウフク を セイコウ と おなじ に みて いる バアイ が おおい。 コウフク は カクジン の もの、 ジンカクテキ な、 セイシツテキ な もの で ある が、 セイコウ は イッパンテキ な もの、 リョウテキ に かんがえられうる もの で ある。 だから セイコウ は、 その ホンセイジョウ、 タニン の シット を ともないやすい。
コウフク が ソンザイ に かかわる の に はんして、 セイコウ は カテイ に かかわって いる。 だから、 タニン から は カレ の セイコウ と みられる こと に たいして、 ジブン では ジブン に カカワリ の ない こと で ある か の よう に ムカンシン で いる ニンゲン が ある。 かよう な ニンゲン は ニジュウ に タニン から シット される オソレ が あろう。
Streber―― この ドイツ-ゴ で もっとも テキセツ に あらわされる シュルイ の セイコウ シュギシャ こそ、 ゾクブツ-チュウ の ゾクブツ で ある。 タ の シュルイ の ゾクブツ は ときとして キマグレ に ゾクブツ で ある こと を やめる。 しかるに この ドリョクカ-ガタ の セイコウ シュギシャ は、 けっして キドウ を はずす こと が ない ゆえ に、 それだけ ゾクブツ と して カンゼン で ある。
シュトレーバー と いう の は、 いきる こと が そもそも ボウケン で ある と いう ケイジジョウガクテキ シンリ を いかなる バアイ にも リカイ する こと の ない ニンゲン で ある。 ソウゾウリョク の ケツボウ が この ドリョクカ-ガタ を トクチョウ-づけて いる。
セイコウ も ジンセイ に ホンシツテキ な ボウケン に ぞくする と いう こと を リカイ する とき、 セイコウ シュギ は イミ を なさなく なる で あろう。 セイコウ を ボウケン の ケンチ から リカイ する か、 ボウケン を セイコウ の ケンチ から リカイ する か は、 ホンシツテキ に ちがった こと で ある。 セイコウ シュギ は アト の バアイ で あり、 そこ には シン の ボウケン は ない。 ジンセイ は カケ で ある と いう コトバ ほど カッテ に リカイ されて ランヨウ されて いる もの は ない。
イッシュ の スポーツ と して セイコウ を ツイキュウ する モノ は ケンゼン で ある。
ジュンスイ な コウフク は カクジン に おいて オリジナル な もの で ある。 しかし セイコウ は そう では ない。 エピゴーネントゥム (ツイズイシャ-フウ) は オオク の バアイ セイコウ シュギ と むすびついて いる。
キンダイ の セイコウ シュギシャ は カタ と して は メイリョウ で ある が コセイ では ない。
コダイ に おいて は、 コジン イシキ は ハッタツ して いなかった が、 それ だけ に カタテキ な ニンゲン が コセイテキ で ある と いう こと が あった。 コジン イシキ の ハッタツ した ゲンダイ に おいて は かえって、 カタテキ な ニンゲン は リョウテキ な ヘイキンテキ な ニンゲン で あって コセイテキ で ない と いう こと が しょうじた。 ゲンダイ ブンカ の ヒゲキ、 あるいは むしろ キゲキ は、 カタ と コセイ との ブンリ に ある。 そこ に コセイ と して は カタテキ な ツヨサ が なく、 カタ と して は コセイテキ な アザヤカサ の ない ニンゲン が できた の で ある。
セイコウ の モラル は オプティミズム に ささえられて いる。 それ が ジンセイ に たいする イギ は しゅとして この オプティミズム の イギ で ある。 オプティミズム の コンテイ には ゴウリ シュギ あるいは シュチ シュギ が なければ ならぬ。 しかるに オプティミズム が この ホウコウ に センレン された バアイ、 なお なんらか セイコウ シュギ と いう もの が のこりうる で あろう か。
セイコウ シュギシャ が ヒゴウリ シュギシャ で ある バアイ、 カレ は おそる べき で ある。
キンダイテキ な ボウケンシン と、 ゴウリ シュギ と、 オプティミズム と、 シンポ の カンネン との コンゴウ から うまれた サイコウ の もの は キギョウカ-テキ セイシン で ある。 コダイ の ニンゲン リソウ が ケンジャ で あり、 チュウセイ の それ が セイジャ で あった よう に、 キンダイ の それ は キギョウカ で ある と いいうる で あろう。 すくなくとも そのよう に かんがえらる べき オオク の リユウ が ある。 しかるに それ が イッパン には そのよう に ジュンスイ に ハアク されなかった の は キンダイ の ハイキン シュギ の ケッカ で ある。
もし ヒト が いくらか の ケンリョク を もって いる と したら、 セイコウ シュギシャ ほど ぎょしやすい もの は ない で あろう。 ブカ を ぎょして ゆく テヂカ な ミチ は、 カレラ に リッシン シュッセ の イデオロギー を ふきこむ こと で ある。
ワタシ は イマ ニーチェ の モラル の コンポン が セイコウ シュギ に たいする キョクタン な ハンカン に あった こと を しる の で ある。