カナ文字文庫(漢字廃止論)

日本文学の名作などをカナ書きに改めて掲載。

ジンセイロン ノート 5

2017-10-23 | ミキ キヨシ
 チツジョ に ついて

 たとえば はじめて きた カセイフ に ジブン の ショサイ の ソウジ を まかせる と する。 カノジョ は ツクエ の ウエ や マワリ に ランザツ に おかれた ホン や ショルイ や ブンボウグ など を セイトン して きれい に ならべる で あろう。 そして カノジョ は マンゾク する。 ところで イマ ワタシ が ツクエ に むかって シゴト を しよう と する バアイ、 ワタシ は ナニ か ととのわない もの、 おちつかない もの を かんじ、 1 ジカン も たたない うち に、 せっかく きちんと セイトン されて いる もの を ひっくりかえし、 モト の よう に ランザツ に して しまう で あろう。
 これ は チツジョ と いう もの が ナン で ある か を しめす ヒトツ の タンジュン な バアイ で ある。 ガイケンジョウ きわめて よく セイリ されて いる もの かならずしも チツジョ の ある もの で なく、 むしろ イッケン ムチツジョ に みえる ところ に かえって チツジョ が ソンザイ する の で ある。 この バアイ チツジョ と いう もの が、 ココロ の チツジョ に カンケイ して いる こと は あきらか で ある。 どのよう な ガイテキ チツジョ も ココロ の チツジョ に ガッチ しない かぎり シン の チツジョ では ない。 ココロ の チツジョ を ドガイシ して どのよう に ガイメン の チツジョ を ととのえた に して も クウソ で ある。

 チツジョ は セイメイ あらしめる ゲンリ で ある。 そこ には つねに アタタカサ が なければ ならぬ。 ヒト は アタタカサ に よって セイメイ の ソンザイ を カンチ する。

 また チツジョ は ジュウジツ させる もの で なければ ならぬ。 たんに きりすてたり とりはらったり する だけ で チツジョ が できる もの では ない。 キョム は あきらか に チツジョ とは ハンタイ の もの で ある。

 しかし チツジョ は つねに ケイザイテキ な もの で ある。 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ゲンソク は チツジョ の ゲンソク でも ある。 これ は きわめて テヂカ な ジジツ に よって ショウメイ される。 セツヤク ――フツウ の ケイザイテキ な イミ での―― は チツジョ ソンチョウ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 この バアイ セツヤク は おおきな キョウヨウ で ある のみ で なく、 シュウキョウテキ な ケイケン に さえ ちかづく で あろう。 ギャク に いう と、 セツヤク は チツジョ スウハイ の ヒトツ の ケイシキ で ある と いう イミ に おいて のみ リンリテキ な イミ を もって いる。 ムチツジョ は オオク の バアイ ロウヒ から くる。 それ は、 ココロ の チツジョ に かんして、 キンセン の ランピ に おいて すでに そう で ある。

 トキ の リヨウ と いう もの は チツジョ の アイ の アラワレ で ある。

 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク が ドウジ に ココロ の チツジョ の ホウソク でも ある と いう こと は、 この ケイザイ の ホウソク が じつは ビガク の ホウソク でも ある から で ある。
 ビガク の ホウソク は セイジジョウ の チツジョ に かんして さえ モハンテキ で ありうる。 「ジダイ の セイジテキ モンダイ を ビガク に よって カイケツ する」 と いう シルレル の コトバ は、 ナニ より も チツジョ の モンダイ に かんして ダトウ する で あろう。

 チシキ だけ では たりない、 ノウリョク が モンダイ で ある。 ノウリョク は ギジュツ と いいかえる こと が できる。 チツジョ は、 ココロ の チツジョ に かんして も、 キジュツ の モンダイ で ある。 この こと が リカイ される のみ で なく、 ノウリョク と して カクトク されねば ならぬ。
 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク は じつは ケイザイテキ ホウソク で ある より も ギジュツテキ ホウソク で あり、 かよう な もの と して それ は ビガク の ナカ にも はいりこむ の で ある。

 プラトン の ナカ で ソクラテス は、 トク は ココロ の チツジョ で ある と いって いる。 これ より も グタイテキ で ジッショウテキ な トク の キテイ を ワタシ は しらない。 コンニチ もっとも わすれられて いる の は トク の このよう な カンガエカタ で ある。 そして トク は ココロ の チツジョ で ある と いう テイギ の ロンショウ に あたって ソクラテス が もちいた ホウホウ は、 チュウイ す べき こと に、 ケンチクジュツ、 ゾウセンジュツ-トウ、 モロモロ の ギジュツ との ヒロン で あった。 これ は ヒロン イジョウ の ジュウヨウ な イミ を もって いる こと で ある。

 ココロ と いう ジッタイセイ の ない もの に ついて いかに して ギジュツ は カノウ で ある か、 と ヒト は いう で あろう。
 ゲンダイ ブツリガク は エレクトロン の セツ イライ ブッシツ と いう もの から ブッタイセイ を うばいさった。 この セツ は ゼン-ブッシツカイ を カンゼン に ジッタイセイ の ない もの に する よう に みえる。 ワレワレ は 「ジッタイ」 の ガイネン を さけて、 それ を 「サヨウ」 の ガイネン で おきかえなければ ならぬ と いわれて いる。 スウガクテキ に キジュツ された ブッシツ は あらゆる ニチジョウテキ な シタシサ を うしなった。
 フシギ な こと は、 この ブッシツカン の ヘンカク に ソウオウ する ヘンカク が、 それ に なんら カンケイ も ない ニンゲン の ココロ の ナカ で ジュンビ され、 ジツゲン された と いう こと で ある。 ゲンダイジン の シンリ ――かならずしも ゲンソン の シンリガク を いわない―― と ゲンダイ ブツリガク との ヘイコウ を ヒヒョウテキ に あきらか に する こと は、 あたらしい リンリガク の シュッパツテン で なければ ならぬ。

 チシキジン と いう の は、 ゲンシテキ な イミ に おいて は、 モノ を つくりうる ニンゲン の こと で あった。 タ の ニンゲン の つくりえない もの を つくりうる ニンゲン が チシキジン で あった。 チシキジン の この ゲンシテキ な イミ を ワレワレ は もう イチド はっきり ワレワレ の ココロ に おもいうかべる こと が ヒツヨウ で ある と おもう。
 ホメロス の エイユウ たち は ジブン で シュコウギョウ を おこなった。 エウマイオス は ジブン で カワ を セツダン して ハキモノ を つくった と いわれ、 オデュッセウス は ヒジョウ に キヨウ な ダイク で サシモノシ で あった よう に しるされて いる。 ワレワレ に とって これ は センボウ に あたいする こと では ない で あろう か。

 ドウトク の ナカ にも シュコウギョウテキ な もの が ある。 そして これ が ドウトク の キソテキ な もの で ある。
 しかし コンナン は、 コンニチ ブッテキ ギジュツ に おいて 「ドウグ」 の ギジュツ から 「キカイ」 の ギジュツ に ヘンカ した よう な おおきな ヘンカク が、 ドウトク の リョウイキ に おいて も ヨウキュウ されて いる ところ に ある。

 つくる こと に よって しる と いう こと が タイセツ で ある。 これ が キンダイ カガク に おける ジッショウテキ セイシン で あり、 ドウトク も その イミ に おいて まったく ジッショウテキ で なければ ならぬ。

 プラトン が ココロ の チツジョ に ソウオウ して コッカ の チツジョ を かんがえた こと は キタイ な こと では ない。 この コウソウ には ふかい チエ が ふくまれて いる。
 あらゆる チツジョ の コウソウ の コンテイ には カチ タイケイ の セッテイ が なければ ならぬ。 しかるに コンニチ リュウコウ の シンチツジョロン の キソ に どのよう な カチ タイケイ が ソンザイ する で あろう か。 リンリガク で さえ コンニチ では カチ タイケイ の セッテイ を ホウテキ して しかも コウカツ にも へいぜん と して いる ジョウタイ で ある。
 ニーチェ が イッサイ の カチ の テンカン を となえて イゴ、 まだ どのよう な ショウニン された カチ タイケイ も ソンザイ しない。 それ イゴ、 シンチツジョ の セッテイ は つねに なんらか ドクサイテキ な カタチ を とらざる を えなかった。 イッサイ の カチ の テンカン と いう ニーチェ の シソウ ソノモノ が じつは キンダイ シャカイ の たどりついた カチ の アナーキー の ヒョウゲン で あった。 キンダイ デモクラシー は ナイメンテキ には いわゆる カチ の タシンロン から ムシンロン に、 すなわち キョム シュギ に おちて ゆく キケン が あった。 これ を もっとも ふかく リカイ した の が ニーチェ で あった。 そして かよう な キョム シュギ、 ナイメンテキ な アナーキー こそ ドクサイ セイジ の ジバン で ある。 もし ドクサイ を のぞまない ならば、 キョム シュギ を コクフク して ウチ から たちなおらなければ ならない。 しかるに コンニチ ワガクニ の オオク の インテリゲンチャ は ドクサイ を キョクタン に きらいながら ジブン ジシン は どうしても ニヒリズム から ダッシュツ する こと が できない で いる。

 ガイテキ チツジョ は キョウリョク に よって も つくる こと が できる。 しかし ココロ の チツジョ は そう では ない。

 ジンカク とは チツジョ で ある、 ジユウ と いう もの も チツジョ で ある。 ……かよう な こと が リカイ されねば ならぬ。 そして それ が リカイ される とき、 シュカン シュギ は フジュウブン と なり、 なんらか キャッカンテキ な もの を みとめなければ ならなく なる で あろう。 キンダイ の シュカン シュギ は チツジョ の シソウ の ソウシツ に よって キョム シュギ に おちいった。 いわゆる ム の テツガク も、 チツジョ の シソウ、 とくに また カチ タイケイ の セッテイ なし には、 その ゼッタイ シュギ の キョム シュギ と おなじ に なる キケン が おおきい。

 カンショウ に ついて

 セイシン が ナン で ある か は シンタイ に よって しられる。 ワタシ は うごきながら よろこぶ こと が できる、 ヨロコビ は ワタシ の ウンドウ を カッパツ に し さえ する で あろう。 ワタシ は うごきながら いかる こと が できる、 イカリ は ワタシ の ウンドウ を ゲキレツ に し さえ する で あろう。 しかるに カンショウ の バアイ、 ワタシ は たちどまる、 すくなくとも セイシ に ちかい ジョウタイ が ワタシ に ヒツヨウ で ある よう に おもわれる。 うごきはじめる や いなや、 カンショウ は やむ か、 もしくは タ の もの に かわって ゆく。 ゆえに ヒト を カンショウ から だっしさせよう と する には、 まず カレ を たたせ、 カレ に うごく こと を キョウヨウ する の で ある。 かく の ごとき こと が カンショウ の シンリテキ セイシツ ソノモノ を しめして いる。 ニホンジン は トクベツ に カンショウテキ で ある と いう こと が ただしい と すれば、 それ は ワレワレ の ひさしい アイダ の セイカツ ヨウシキ に カンケイ が ある と かんがえられない で あろう か。

 カンショウ の バアイ、 ワタシ は すわって ながめて いる、 たって そこ まで うごいて ゆく の では ない。 いな、 ワタシ は ホント には ながめて さえ いない で あろう。 カンショウ は、 ナニ に ついて カンショウ する に して も、 けっきょく ジブン ジシン に とどまって いる の で あって、 モノ の ナカ に はいって ゆかない。 ヒヒョウ と いい、 カイギ と いう も、 モノ の ナカ に はいって ゆかない かぎり、 イッコ の カンショウ に すぎぬ。 シン の ヒヒョウ は、 シン の カイギ は、 モノ の ナカ に はいって ゆく の で ある。

 カンショウ は アイ、 ニクシミ、 カナシミ、 -トウ、 タ の ジョウネン から クベツ されて それら と ならぶ ジョウネン の ヒトツ の シュルイ では ない。 むしろ カンショウ は あらゆる ジョウネン の とりうる ヒトツ の ケイシキ で ある。 スベテ の ジョウネン は、 もっとも ソヤ な もの から もっとも チテキ な もの に いたる まで、 カンショウ の ケイシキ に おいて ソンザイ し ないし サヨウ する こと が できる。 アイ も カンショウ と なる こと が できる し、 ニクシミ も カンショウ と なる こと が できる。 カンタン に いう と、 カンショウ は ジョウネン の ヒトツ の フヘンテキ な ケイシキ で ある。 それ が ナニ か ジッタイ の ない もの の よう に おもわれる の も、 それ が ジョウネン の ヒトツ の シュルイ で なくて ヒトツ の ソンザイ ヨウソウ で ある ため で ある。

 カンショウ は スベテ の ジョウネン の いわば ヒョウメン に ある。 かよう な もの と して それ は スベテ の ジョウネン の イリグチ で ある と ともに デグチ で ある。 まず アト の バアイ が チュウイ される。 ヒトツ の ジョウネン は その カツドウ を やめる とき、 カンショウ と して アト を ひき、 カンショウ と して おわる。 なく こと が ジョウネン を しずめる こと で ある リユウ も そこ に ある。 なく こと は はげしい ジョウネン の カツドウ を カンショウ に かえる ため の テヂカ な シュダン で ある。 しかし なく だけ では たりない で あろう。 なきくずれなければ ならぬ、 つまり セイシ が ヒツヨウ で ある。 ところで とくに カンショウテキ と いわれる ニンゲン は、 あらゆる ジョウネン に その コユウ の カツドウ を あたえない で、 ヒョウメン の イリグチ で カクサン させて しまう ニンゲン の こと で ある。 だから カンショウテキ な ニンゲン は けっして ふかい とは いわれない が ムガイ な ニンゲン で ある。

 カンショウ は ムジュン を しらない。 ヒト は アイ と ニクシミ と に ココロ が ブンレツ する と いう。 しかし それ が カンショウ に なる と、 アイ も ニクシミ も ヒトツ に とけあう。 ウンドウ は ムジュン から しょうずる と いう イミ に おいて も、 カンショウ は うごく もの とは かんがえられない で あろう。 それ は ただ ながれる、 むしろ ただ ただよう。 カンショウ は ワカイ の テヂカ な シュダン で ある。 だから また それ は しばしば シュウキョウテキ な ココロ、 くだかれた ココロ と いう もの と コンドウ される。 ワレワレ の カンショウテキ な ココロ は ブッキョウ の ムジョウカン に エイキョウ されて いる ところ が すくなく ない で あろう。 それ だけ に リョウシャ を ゲンカク に クベツ する こと が カンヨウ で ある。

 カンショウ は ただ カンショウ を よびおこす、 そう で なければ ただ きえて ゆく。

 ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって ソウゾウ する、 ないしは ハカイ する。 しかし カンショウ は そう では ない。 ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって イマジネーション を よびおこす。 しかし カンショウ に ともなう の は ドゥリーム で しか ない。 イマジネーション は ソウゾウテキ で ありうる。 しかし ドゥリーム は そう では ない。 そこ には うごく もの と うごかぬ もの との アイダ の サイ が ある で あろう。

 カンショウテキ で ある こと が ゲイジュツテキ で ある か の よう に かんがえる の は、 ヒトツ の カンショウ で しか ない。 カンショウテキ で ある こと が シュウキョウテキ で ある か の よう に かんがえる モノ に いたって は、 さらに それ イジョウ カンショウテキ で ある と いわねば ならぬ。 シュウキョウ は もとより、 ゲイジュツ も、 カンショウ から の ダッシュツ で ある。

 メイソウ は オオク の バアイ カンショウ から でて くる、 すくなくとも カンショウ を ともない、 あるいは カンショウ に かわって ゆく。 シサク する モノ は カンショウ の ユウワク に まけて は ならぬ。
 カンショウ は シュミ に なる こと が でき、 また しばしば そう なって いる。 カンショウ は そのよう に カンミ な もの で あり、 ユウワクテキ で ある。 メイソウ が シュミ に なる の は、 それ が カンショウテキ に なる ため で ある。

 スベテ の シュミ と おなじ よう に、 カンショウ は ホンシツテキ には ただ カコ の もの の ウエ に のみ はたらく の で ある。 それ は できつつ ある もの に たいして で なく できあがった もの に たいして はたらく の で ある。 すべて すぎさった もの は カンショウテキ に うつくしい。 カンショウテキ な ニンゲン は カイコ する こと を このむ。 ヒト は ミライ に ついて カンショウ する こと が できぬ。 すくなくとも カンショウ の タイショウ で ある よう な ミライ は シン の ミライ では ない。

 カンショウ は セイサクテキ で なくて カンショウテキ で ある。 しかし ワタシ は カンショウ に よって ナニ を カンショウ する の で あろう か。 モノ の ナカ に はいらない で ワタシ は モノ を カンショウ しうる で あろう か。 カンショウ に おいて ワタシ は モノ を あじわって いる の で なく ジブン ジシン を あじわって いる の で ある。 いな、 セイカク に いう と、 ワタシ は ジブン ジシン を あじわって いる の で さえ なく、 ただ カンショウ ソノモノ を あじわって いる の で ある。
 カンショウ は シュカン シュギ で ある。 セイネン が カンショウテキ で ある の は この ジダイ が シュカンテキ な ジキ で ある ため で ある。 シュカン シュギシャ は、 どれほど ガイネンテキ あるいは ロンリテキ に よそおう とも、 ナイジツ は カンショウカ で しか ない こと が おおい。

 あらゆる ジョウネン の ウチ ヨロコビ は カンショウテキ に なる こと が もっとも すくない ジョウネン で ある。 そこ に ヨロコビ の もつ トクシュ な セッキョクセイ が ある。

 カンショウ には コセイ が ない、 それ は シン の シュカンセイ では ない から。 その イミ で カンショウ は タイシュウテキ で ある。 だから タイシュウ ブンガク と いう もの は ホンシツテキ に カンショウテキ で ある。 タイシュウ ブンガク の サッカ は カコ の ジンブツ を とりあつかう の が ツネ で ある の も、 これ に カンケイ する で あろう。 カレラ と ジュンブンガク の サッカ との サイ は、 カレラ が ゲンダイ の ジンブツ を おなじ よう に たくみ に えがく こと が できない テン に ある。 この カンタン な コトガラ の ウチ に ゲイジュツロン に おける シュジュ の ジュウヨウ な モンダイ が ふくまれて いる。

 カンショウ は タイテイ の バアイ マンネリズム に おちいって いる。

 シンタイ の ガイカン が セイシン の ジョウタイ と かならずしも イッチ しない こと は、 イッケン きわめて ガンジョウ な ニンゲン が はなはだ カンショウテキ で ある バアイ が ソンザイ する こと に よって しられる。

 タビ は ヒト を カンショウテキ に する と いう。 カレ は うごく こと に よって カンショウテキ に なる の で あろう か。 もし そう で ある と すれば、 ワタシ の サイショ の テイギ は まちがって いる こと に なる。 だが そう では ない。 タビ に おいて ヒト が カンショウテキ に なりやすい の は、 むしろ カレ が その ニチジョウ の カツドウ から ぬけだす ため で あり、 ムイ に なる ため で ある。 カンショウ は ワタシ の ウィークエンド で ある。

 コウドウテキ な ニンゲン は カンショウテキ で ない。 シソウカ は コウドウジン と して の ごとく シサク しなければ ならぬ。 キンベン が シソウカ の トク で ある と いう の は、 カレ が カンショウテキ に なる ユウワク の おおい ため で ある。

 あらゆる もの が ルテン する の を みて カンショウテキ に なる の は、 モノ を とらえて その ナカ に はいる こと の できぬ ジコ を かんじる ため で ある。 ジコ も また ルテン の ナカ に ある の を しる とき、 ワタシ は たんなる カンショウ に とどまりうる で あろう か。

 カンショウ には つねに なんらか の キョエイ が ある。

 カセツ に ついて

 シソウ が ナン で ある か は、 これ を セイカツ に たいして かんがえて みる と メイリョウ に なる で あろう。 セイカツ は ジジツ で ある、 どこまでも ケイケンテキ な もの で ある。 それ に たいして シソウ には つねに カセツテキ な ところ が ある。 カセツテキ な ところ の ない よう な シソウ は シソウ とは いわれない で あろう。 シソウ が ジュンスイ に シソウ と して もって いる チカラ は カセツ の チカラ で ある。 シソウ は その カセツ の オオイサ に したがって イダイ で ある。 もし シソウ に カセツテキ な ところ が ない と すれば、 いかに して それ は セイカツ から クベツ されうる で あろう か。 かんがえる と いう こと も それ ジシン と して は あきらか に ワレワレ の セイカツ の イチブブン で あって、 これ と ベツ の もの では ない。 しかるに その もの が なお セイカツ から クベツ される の は、 かんがえる と いう こと が ホンシツテキ には カセツテキ に かんがえる こと で ある ため で ある。
 かんがえる と いう こと は カテイテキ に かんがえる こと で ある。 カテイテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 しかるに シコウ が カテイテキ で ある の は カセツテキ に かんがえる から で ある。 すなわち カセツテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 カイギ に して も ホウホウテキ で ある ため には カセツ に よらねば ならぬ こと は、 デカルト の カイギ に おいて モハンテキ に しめされて いる。
 カセツテキ に かんがえる と いう こと は ロンリテキ に かんがえる と いう こと と タンジュン に おなじ では ない。 カセツ は ある イミ で ロンリ より も コンゲンテキ で あり、 ロンリ は むしろ そこ から でて くる。 ロンリ ソノモノ が ヒトツ の カセツ で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は ジコ ジシン から ロンリ を つくりだす チカラ を さえ もって いる。 ロンリ より も フカクジツ な もの から ロンリ が でて くる の で ある。 ロンリ も カセツ を つくりだす もの と かんがえられる かぎり それ ジシン カセツテキ な もの と かんがえられねば ならぬ。
 すべて カクジツ な もの は フカクジツ な もの から でて くる の で あって、 その ギャク で ない と いう こと は、 ふかく かんがう べき こと で ある。 つまり カクジツ な もの は あたえられた もの で なくて ケイセイ される もの で あり、 カセツ は この ケイセイテキ な チカラ で ある。 ニンシキ は モシャ で なくて ケイセイ で ある。 セイシン は ゲイジュツカ で あり、 カガミ では ない。

 しかし シソウ のみ が カセツテキ で あって、 ジンセイ は カセツテキ で ない の で あろう か。 ジンセイ も ある カセツテキ な もの で ある。 それ が カセツテキ で ある の は、 それ が キョム に つながる ため で ある。 カクジン は いわば ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため に うまれて いる。 いきて いる こと は、 ただ いきて いる と いう こと を ショウメイ する ため では ない で あろう、 ――そのよう な ショウメイ は およそ フヨウ で ある、―― じつに、 ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため で ある。 だから ジンセイ は ジッケン で ある と かんがえられる。 ――カセツ なし に ジッケン と いう もの は ありえない。―― もとより それ は、 なんでも カッテ に やって みる こと では なく、 ジブン が それ を ショウメイ する ため に うまれた コユウ の カセツ を ツイキュウ する こと で ある。

 ジンセイ が カセツテキ な もの で ある と すれば、 シソウ が ジンセイ に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される の と おなじ シカタ で、 ジンセイ が その もの に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される ある もの が ある の で なければ ならぬ。

 カセツ が たんに ロンリテキ な もの で ない こと は、 それ が ブンガク の シコウ など の ウチ にも ある と いう こと に よって あきらか で ある。 ショウセツカ の ソウサク コウドウ は ただ ヒトスジ に カレ の カセツ を ショウメイ する こと で ある。 ジンセイ が カセツ の ショウメイ で ある と いう イミ は これ に ルイジ して いる。 カセツ は すくなくとも この バアイ たんなる シイ に ぞくする の で なく、 コウソウリョク に ぞくして いる。 それ は フィクション で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある。 だから それ を ショウメイ する こと が モンダイ で ある。 それ が フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある と いう の は たんに ロンリテキ イミ に おいて で なく、 むしろ ソンザイロンテキ イミ に おいて で ある。 いいかえる と、 それ は ニンゲン の ソンザイ が キョム を ジョウケン と する のみ で なく キョム と コンゴウ されて いる こと を イミ して いる。 したがって カセツ の ショウメイ が ソウゾウテキ ケイセイ で なければ ならぬ こと は ショウセツ に おける と おなじ で ある。 ジンセイ に おいて ジッケン と いう の は かよう な ケイセイ を いう の で ある。

 ジョウシキ を シソウ から クベツ する もっとも ジュウヨウ な トクチョウ は、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない と いう こと で ある。

 シソウ は カセツ で なくて シンネン で なければ ならぬ と いわれる かも しれない。 しかるに シソウ が シンネン で なければ ならぬ と いう こと こそ、 シソウ が カセツ で ある こと を しめす もの で ある。 ジョウシキ の バアイ には ことさら シンコウ は いらない。 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない から で ある。 ジョウシキ は すでに ある シンコウ で ある、 これ に はんして シソウ は シンネン に ならねば ならぬ。

 スベテ の シソウ-らしい シソウ は つねに キョクタン な ところ を もって いる。 なぜなら それ は カセツ の ツイキュウ で ある から。 これ に たいして ジョウシキ の もって いる おおきな トク は チュウヨウ と いう こと で ある。 しかるに シン の シソウ は コウドウ に うつす と いきる か しぬる か と いった セイシツ を もって いる。 シソウ の この キケン な セイシツ は、 コウドウジン は リカイ して いる が、 シソウ に ジュウジ する モノ に おいて は かえって わすれられて いる。 ただ イダイ な シソウカ のみ は その こと を コウドウジン より も ふかく しって いる。 ソクラテス が しょうよう と して シ に ついた の は その ため で あった で あろう。

 ゴカイ を うける こと が シソウカ の ツネ の ウンメイ の よう に なって いる の は、 ヨノナカ には カレ の シソウ が ヒトツ の カセツ で ある こと を リカイ する モノ が すくない ため で ある。 しかし その ツミ の イッパン は タイテイ の バアイ シソウカ ジシン にも ある の で あって、 カレ ジシン その シソウ が カセツテキ な もの で ある こと を わすれる の で ある。 それ は カレ の タイダ に よる こと が おおい。 タンキュウ の つづいて いる かぎり シソウ の カセツテキ セイシツ は たえず あらわ で ある。

 セッチュウ シュギ が シソウ と して ムリョク で ある の は、 そこ では カセツ の ジュンスイサ が うしなわれる ため で ある。 それ は このむ と このまない と に かかわらず ジョウシキ に ちかづく、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない。

 カセツ と いう シソウ は キンダイ カガク の もたらした おそらく サイダイ の シソウ で ある。 キンダイ カガク の ジッショウセイ に たいする ゴカイ は、 その ナカ に ふくまれる カセツ の セイシン を まったく みのがした か、 ただしく ハアク しなかった ところ から しょうじた。 かよう に して ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちいらねば ならなかった。 カセツ の セイシン を しらない ならば、 ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちて ゆく の ホカ ない。

 ギゼン に ついて

「ニンゲン は うまれつき ウソツキ で ある」、 と ラ ブリュイエール は いった。 「シンリ は タンジュン で あり、 そして ニンゲン は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 シンリ は ニンゲン に ぞくしない、 それ は いわば できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 テン から くる。 そして ニンゲン は ジブン ジシン の サクヒン、 ツクリゴト と オトギバナシ の ホカ あいしない」 ニンゲン が うまれつき ウソツキ で ある と いう の は、 キョエイ が カレ の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある ため で ある。 そこで カレ は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 キョエイ は その ジッタイ に したがって いう と キョム で ある。 だから ニンゲン は ツクリゴト や オトギバナシ を つくる の で あり、 そのよう な ジブン ジシン の サクヒン を あいする の で ある。 シンリ は ニンゲン の シゴト では ない。 それ は できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 ニンゲン とは カンケイ なく、 そこ に ある もの で ある。

 その ホンセイ に おいて キョエイテキ で ある ニンゲン は ギゼンテキ で ある。 シンリ とは ベツ に ゼン が ある の で ない よう に、 キョエイ とは ベツ に ギゼン が ある の では ない。 ゼン が シンリ と ヒトツ の もの で ある こと を リカイ した モノ で あって ギゼン が ナン で ある か を リカイ する こと が できる。 キョエイ が ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる よう に、 ギゼン も ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる。 ギゼン が キョエイ と ホンシツテキ に おなじ もの で ある こと を リカイ しない モノ は、 ギゼン に たいする ハンカン から と しょうして ジブン ジシン ヒトツ の キョエイ の トリコ に なって いる。 ギゼン に たいして ギアク と いう ミョウ な コトバ で よばれる もの が それ で ある。 その ギアク と いう もの こそ あきらか に ニンゲン の おぼつかない キョエイ では ない か。 その もの は ギゼン が キョエイ に ほかならぬ こと を タメン から メイリョウ に する の で ある。 かよう な ギアクカ の トクチョウ は カンショウテキ で ある と いう こと で ある。 かつて ワタシ は ギアクカ と しょうする モノ で カンショウカ で ない よう な ニンゲン を みた こと が ない。 ギゼン に ハンカン を かんじる カレ の モラル も センチメンタリズム で しか ない。 ギアクカ は とかく ジブン で ソウゾウ して いる よう に ふかい ニンゲン では ない。 その カレ の ソウゾウ が また ヒトツ の センチメンタリズム に ぞくして いる。 もし カレ が ムガイ な ニンゲン で ある と した なら、 それ は イッパン に カンショウテキ な ニンゲン は ふかく は ない が ムガイ で ある と いう こと に よる の で ある。

 ヒト は ただ タ の ニンゲン に たいする カンケイ に おいて のみ ギゼンテキ に なる と かんがえる の は まちがって いる。 ギゼン は キョエイ で あり、 キョエイ の ジッタイ は キョム で ある、 そして キョム は ニンゲン の ソンザイ ソノモノ で ある。 あらゆる トク が ほんらい ジコ に おける もの で ある よう に、 あらゆる アクトク も また ほんらい ジコ に おける もの で ある。 その ジコ を わすれて、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ を のみ アイテ に かんがえる ところ から ギゼンシャ と いう もの が しょうじる。 それだから ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき こと が リキセツ される よう に なって イライ、 いかに オオク の ギゼンシャ が しょうじた で あろう か。 あるいは むしろ ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき リロン は ゲンダイ に トクチョウテキ な ギゼン を かばう ため に ことさら のべられて いる よう に さえ みえる の で ある。
 ワレワレ の ダレ が ギゼンテキ で ない で あろう か。 キョエイ は ニンゲン の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある。 ギゼンシャ が おそろしい の は、 カレ が ギゼンテキ で ある ため で ある と いう より も、 カレ が イシキテキ な ニンゲン で ある ため で ある。 しかし カレ が イシキ して いる の は ジコ で なく、 キョム でも なく、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ と いう もの で ある。

 キョム に ねざす ジンセイ は フィクショナル な もの で ある。 ニンゲン の ドウトク も また フィクショナル な もの で ある。 それだから ギゼン も ソンザイ しうる の で あり、 ジャッカン の コウヨウ を さえ もちうる の で ある。 しかるに フィクショナル な もの は、 それ に とどまる こと なく、 その ジツザイセイ が ショウメイ されねば ならぬ。 ギゼンシャ と そう で ない ニンゲン との クベツ は、 その ショウメイ の セイイ と ネツジョウ を もって いる か どう か に ある。 ジンセイ に おいて ショウメイ する と いう こと は ケイセイ する こと で あり、 ケイセイ する と いう こと は ナイブ と ガイブ と が ヒトツ に なる こと で ある。 ところが ギゼンシャ に あって は ナイブ と ガイブ と が ベツ で ある。 ギゼンシャ には ソウゾウ と いう もの が ない。

 キョゲン の ソンザイ する こと が カノウ で ある の は、 あらゆる ヒョウゲン が シンリ と して うけとられる セイシツ を それ ジシン に おいて もって いる ため で ある。 モノ は ヒョウゲン される と ワレワレ に ムカンケイ に なる。 ヒョウゲン と いう もの は そのよう に おそろしい もの で ある。 コイ を する ニンゲン は コトバ と いう もの、 ヒョウゲン と いう もの が いかに おそろしい もの で ある か を かんがえて おののいて いる。 コンニチ どれ だけ の チョサクカ が ヒョウゲン の オソロシサ を ホント に リカイ して いる か。

 たえず タ の ヒト を アイテ に イシキ して いる ギゼンシャ が アユテキ で ない こと は まれ で ある。 ギゼン が タ の ヒト を ハメツ させる の は、 ギゼン ソノモノ に よって より も、 その ウチ に ふくまれる アユ に よって で ある。 ギゼンシャ と そう で ない モノ との クベツ は、 アユテキ で ある か どう か に ある と いう こと が できる で あろう。 ヒト に おもねる こと は まちがった こと を いう より も はるか に わるい。 コウシャ は タニン を フハイ させ は しない が、 ゼンシャ は タニン を フハイ させ、 その ココロ を かどわかして シンリ の ニンシキ に たいして ムノウリョク に する の で ある。 ウソ つく こと で さえ も が おもねる こと より も ドウトクテキ に まさって いる。 キョゲン の ガイ で さえ も が しゅとして その ウチ に コンニュウ する アユ に よる の で ある。 シンリ は タンジュン で ソッチョク で ある。 しかるに その ウラ は セン の ソウボウ を そなえて いる。 ギゼン が おもねる ため に とる スガタ も また ムゲン で ある。

 タショウ とも ケンリョク を ゆうする チイ に ある モノ に もっとも ヒツヨウ な トク は、 おもねる モノ と ジュンシン な ニンゲン と を ヒトメ で シキベツ する チカラ で ある。 これ は ちいさい こと では ない。 もし カレ が この トク を もって いる なら、 カレ は あらゆる タ の トク を もって いる と みとめて も よい で あろう。

「よく かくれる モノ は よく いきる」 と いう コトバ には、 セイカツ に おける ふかい チエ が ふくまれて いる。 かくれる と いう の は ギゼン でも ギアク でも ない、 かえって シゼン の まま に いきる こと で ある。 シゼン の まま に いきる こと が かくれる と いう こと で ある ほど、 ヨノナカ は キョエイテキ で ある と いう こと を しっかり と みぬいて いきる こと で ある。

 ゲンダイ の ドウトクテキ タイハイ に トクチョウテキ な こと は、 ギゼン が その タイハイ の フヘンテキ な ケイシキ で ある と いう こと で ある。 これ は タイハイ の あたらしい ケイシキ で ある。 タイハイ と いう の は フツウ に カタチ が くずれて ゆく こと で ある が、 この バアイ ヒョウメン の カタチ は まことに よく ととのって いる。 そして その カタチ は けっして ふるい もの では なく まったく あたらしい もの で さえ ある。 しかも その カタチ の オク には なんら の セイメイ も ない、 カタチ が あって も ココロ は その カタチ に ささえられて いる の で なく、 キョム で ある。 これ が ゲンダイ の キョム シュギ の セイカク で ある。
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ジンセイロン ノート 6

2017-10-08 | ミキ キヨシ
 ゴラク に ついて

 セイカツ を たのしむ こと を しらねば ならぬ。 「セイカツジュツ」 と いう の は それ イガイ の もの で ない。 それ は ギジュツ で あり、 トク で ある。 どこまでも モノ の ナカ に いて しかも モノ に たいして ジリツテキ で ある と いう こと が あらゆる ギジュツ の ホンシツ で ある。 セイカツ の ギジュツ も ドウヨウ で ある。 どこまでも セイカツ の ナカ に いて しかも セイカツ を こえる こと に よって セイカツ を たのしむ と いう こと は カノウ に なる。

 ゴラク と いう カンネン は おそらく キンダイテキ な カンネン で ある。 それ は キカイ ギジュツ の ジダイ の サンブツ で あり、 この ジダイ の あらゆる トクチョウ を そなえて いる。 ゴラク と いう もの は セイカツ を たのしむ こと を しらなく なった ニンゲン が その カワリ に かんがえだした もの で ある。 それ は コウフク に たいする キンダイテキ な ダイヨウヒン で ある。 コウフク に ついて ホント に かんがえる こと を しらない キンダイジン は ゴラク に ついて かんがえる。

 ゴラク と いう もの は、 カンタン に テイギ する と、 タ の シカタ に おける セイカツ で ある。 この タ とは ナン で ある か が モンダイ で ある。 この タ とは がんらい シュウキョウテキ な もの を イミ して いた。 したがって ニンゲン に とって ゴラク は マツリ と して のみ カノウ で あった。
 かよう な カンネン が うしなわれた とき、 ゴラク は ただ たんに、 はたらいて いる ジカン に たいする あそんで いる ジカン、 マジメ な カツドウ に たいする キョウラクテキ な カツドウ、 つまり 「セイカツ」 とは ベツ の ある もの と かんがえられる よう に なった。 タノシミ は セイカツ ソノモノ の ウチ に なく、 セイカツ の タ の もの すなわち ゴラク の ウチ に ある と かんがえられる。 ヒトツ の セイカツ に ほかならぬ ゴラク が セイカツ と タイリツ させられる。 セイカツ の ブンレツ から ゴラク の カンネン が しょうじた。 ゴラク を もとめる ゲンダイジン は おおかれ すくなかれ ニジュウ セイカツシャ と して それ を もとめて いる。 キンダイテキ セイカツ は そのよう に ヒ-ニンゲンテキ に なった。 セイカツ を クツウ と して のみ かんじる ニンゲン は セイカツ の タ の もの と して ゴラク を もとめる が、 その ゴラク と いう もの は おなじ よう に ヒ-ニンゲンテキ で ある の ホカ ない。
 ゴラク は セイカツ の フカブツ で ある か の よう に かんがえられる ところ から、 それ は また ダンネン されて も よい もの、 むしろ ダンネン さる べき もの とも かんがえられる の で ある。

 マツリ は タ の チツジョ の もの、 より たかい チツジョ の もの と むすびついて いる。 しかるに セイカツ と ゴラク とは おなじ チツジョ の もの で ある のに タイリツ させられて いる。 むしろ ゲンダイ に おける チツジョ の シソウ の ソウシツ が それら の タイリツテキ に みられる コンゲン で ある。

 タ の、 より たかい チツジョ から みる と、 ジンセイ の あらゆる イトナミ は、 マジメ な シゴト も ドウラク も、 すべて イギ (divertissement) に すぎない で あろう。 パスカル は そのよう に かんがえた。 イチド この シソウ に まで もどって かんがえる こと が、 セイカツ と ゴラク と いう タイリツ を フッショク する ため に ヒツヨウ で ある。 ゴラク の カンネン の コンテイ にも ケイジジョウガク が なければ ならぬ。

 たとえば、 ジブン の センモン は ゴラク で なく、 ゴラク と いう の は ジブン の センモン イガイ の もの で ある。 エ は ガカ に とって は ゴラク で なく、 カイシャイン に とって は ゴラク で ある。 オンガク は オンガクカ に とって は ゴラク で なく、 タイピスト に とって は ゴラク で ある。 かよう に して あらゆる ブンカ に ついて、 ゴラクテキ な タイシカタ と いう もの が できた。 そこ に ゲンダイ の ブンカ の ダラク の ヒトツ の ゲンイン が ある と いえる で あろう。

 ゲンダイ の キョウヨウ の ケッカン は、 キョウヨウ と いう もの が ゴラク の ケイシキ に おいて もとめられる こと に もとづいて いる。 センモン は 「セイカツ」 で あって、 キョウヨウ は センモン とは ベツ の もの で あり、 この もの は けっきょく ゴラク で ある と おもわれて いる の で ある。

 センモン と いう ケンチ から セイカツ と ゴラク が クベツ される に したがって、 ゴラク を センモン と する モノ が しょうじた。 カレ に とって は もちろん ゴラク は セイカツ で あって ゴラク で ある こと が できぬ。 そこ に ジュンスイ な ゴラク ソノモノ が つくられ、 ゴラク は いよいよ セイカツ から はなれて しまった。
 ゴラク を センモン と する モノ が しょうじ、 ジュンスイ な ゴラク ソノモノ が つくられる に したがって、 イッパン の ヒトビト に とって ゴラク は ジブン が それ を つくる の に サンカ する もの で なく、 ただ ソト から みて キョウラク する もの と なった。 カレラ が サンカ して いる と いう の は ただ、 カレラ が タ の カンシュウ とか チョウシュウ の ナカ に くわわって いる と いう イミ で ある。 マツリ が ゴラク の ユイイツ の ケイシキ で あった ジダイ に ヒカク して かんがえる と、 タイシュウ が、 もしくは ジュンスイ な ゴラク ソノモノ が、 もしくは キョウラク が、 カミ の チイ を しめる よう に なった の で ある。 コンニチ ゴラク の タイシュウセイ と いう もの は がいして かく の ごとき もの で ある。

 セイカツ と ゴラク とは クベツ されながら ヒトツ の もの で ある。 それら を チュウショウテキ に タイリツ させる ところ から、 ゴラク に ついて の、 また セイカツ に ついて の、 シュジュ の まちがった カンネン が しょうじて いる。
 ゴラク が セイカツ に なり セイカツ が ゴラク に ならなければ ならない。 セイカツ と ゴラク と が ジンカクテキ トウイツ に もたらされる こと が ヒツヨウ で ある。 セイカツ を たのしむ と いう こと、 したがって コウフク と いう もの が その サイ コンポン の カンネン で なければ ならぬ。
 ゴラク が ゲイジュツ に なり、 セイカツ が ゲイジュツ に ならなければ ならない。 セイカツ の ギジュツ は セイカツ の ゲイジュツ で なければ ならぬ。
 ゴラク は セイカツ の ナカ に あって セイカツ の スタイル を つくる もの で ある。 ゴラク は たんに ショウヒテキ、 キョウジュテキ な もの で なく、 セイサンテキ、 ソウゾウテキ な もの で なければ ならぬ。 たんに みる こと に よって たのしむ の で なく、 つくる こと に よって たのしむ こと が タイセツ で ある。

 ゴラク は タ の シカタ に おける セイカツ と して ワレワレ の ヘイゼイ つかわれて いない キカン や ノウリョク を はたらかせる こと に よって キョウヨウ と なる こと が できる。 この バアイ もちろん ゴラク は ただ タ の シカタ に おける セイカツ で あって、 セイカツ の タ の もの で ある の では ない。
 セイカツ の タ の もの と して の ゴラク と いう チュウショウテキ な カンネン が しょうじた の は キンダイ ギジュツ が ニンゲン セイカツ に およぼした エイキョウ に よる もの と すれば、 この キカイ ギジュツ を シハイ する ギジュツ が ヒツヨウ で ある。 ギジュツ を シハイ する ギジュツ と いう もの が ゲンダイ ブンカ の コンポン モンダイ で ある。

 コンニチ ゴラク と いわれる もの の もって いる ユイイツ の イギ は セイリテキ な もの で ある。 「ケンゼン な ゴラク」 と いう アイコトバ が それ を しめして いる。 だから ワタシ は コンニチ ゴラク と いわれる もの の ウチ タイソウ と スポーツ だけ は シンヨウ する こと が できる。 ゴラク は エイセイ で ある。 ただ、 それ は シンタイ の エイセイ で ある のみ で なく、 セイシン の エイセイ でも なければ ならぬ。 そして シンタイ の エイセイ が ケツエキ の ウンコウ を よく する こと に ある ごとく、 セイシン の エイセイ は カンネン の ウンコウ を よく する こと に ある。 ギョウケツ した カンネン が コンニチ かくも おおい と いう こと は、 ゴラク の イギ と その ホウホウ が ホント に リカイ されて いない ショウコ で ある。

 セイカツ を たのしむ モノ は リアリスト で なければ ならぬ。 しかし その リアリズム は ギジュツ の リアリズム で なければ ならない。 すなわち セイカツ の ギジュツ の センタン には つねに イマジネーション が なければ ならない。 あらゆる ちいさな コトガラ に いたる まで、 クフウ と ハツメイ が ヒツヨウ で ある。 しかも わすれて ならない の は、 ハツメイ は たんに シュダン の ハツメイ に とどまらない で、 モクテキ の ハツメイ でも なければ ならぬ と いう こと で ある。 ダイイッキュウ の ハツメイ は、 いわゆる ギジュツ に おいて も、 あたらしい ギジュツテキ シュダン の ハツメイ で ある と ともに あたらしい ギジュツテキ モクテキ の ハツメイ で あった。 しんに セイカツ を たのしむ には、 セイカツ に おいて ハツメイテキ で ある こと、 とりわけ あたらしい セイカツ イヨク を ハツメイ する こと が タイセツ で ある。

 エピキュリアン と いう の は セイカツ の ゲイジュツ に おける ディレッタント で ある。 しんに セイカツ を たのしむ モノ は ディレッタント とは クベツ される ソウゾウテキ な ゲイジュツカ で ある。

 キボウ に ついて

 ジンセイ に おいて は ナニゴト も グウゼン で ある。 しかし また ジンセイ に おいて は ナニゴト も ヒツゼン で ある。 このよう な ジンセイ を ワレワレ は ウンメイ と しょうして いる。 もし イッサイ が ヒツゼン で ある なら ウンメイ と いう もの は かんがえられない で あろう。 だが もし イッサイ が グウゼン で ある なら ウンメイ と いう もの は また かんがえられない で あろう。 グウゼン の もの が ヒツゼン の、 ヒツゼン の もの が グウゼン の イミ を もって いる ゆえ に、 ジンセイ は ウンメイ なの で ある。
 キボウ は ウンメイ の ごとき もの で ある。 それ は いわば ウンメイ と いう もの の フゴウ を ギャク に した もの で ある。 もし イッサイ が ヒツゼン で ある なら キボウ と いう もの は ありえない で あろう。 しかし イッサイ が グウゼン で ある なら キボウ と いう もの は また ありえない で あろう。
 ジンセイ は ウンメイ で ある よう に、 ジンセイ は キボウ で ある。 ウンメイテキ な ソンザイ で ある ニンゲン に とって いきて いる こと は キボウ を もって いる こと で ある。

 ジブン の キボウ は F と いう オンナ と ケッコン する こと で ある。 ジブン の キボウ は V と いう マチ に すむ こと で ある。 ジブン の キボウ は P と いう チイ を うる こと で ある。 -トウトウ。 ヒト は このよう に かたって いる。 しかし なにゆえに それ が キボウ で ある の か。 それ は ヨクボウ と いう もの で ない の か。 モクテキ と いう もの で ない の か。 あるいは キタイ と いう もの で ない の か。 キボウ は ヨクボウ とも、 モクテキ とも、 キタイ とも おなじ では ない で あろう。 ジブン が カノジョ に あった の は ウンメイ で あった。 ジブン が この トチ に きた の は ウンメイ で あった。 ジブン が イマ の チイ に いる の は ウンメイ で あった。 ココ の デキゴト が ワタシ に とって ウンメイ で ある の は、 ワタシ の ソンザイ が ゼンタイ と して ほんらい ウンメイ で ある ため で ある。 キボウ に ついて も おなじ よう に かんがえる こと が できる で あろう。 ココ の ナイヨウ の もの が キボウ と かんがえられる の は、 ジンセイ が ゼンタイ と して ほんらい キボウ で ある ため で ある。

 それ は ウンメイ だ から ゼツボウテキ だ と いわれる。 しかるに それ は ウンメイ で ある から こそ、 そこ に また キボウ も ありうる の で ある。

 キボウ を もつ こと は やがて シツボウ する こと で ある、 だから シツボウ の クルシミ を あじわいたく ない モノ は ハジメ から キボウ を もたない の が よい、 と いわれる。 しかしながら、 うしなわれる キボウ と いう もの は キボウ で なく、 かえって キタイ と いう ごとき もの で ある。 ココ の ナイヨウ の キボウ は うしなわれる こと が おおい で あろう。 しかも けっして うしなわれる こと の ない もの が ホンライ の キボウ なの で ある。
 たとえば シツレン とは あいして いない こと で ある か。 もし カレ あるいは カノジョ が もはや まったく あいして いない と すれば、 カレ あるいは カノジョ は もはや シツレン の ジョウタイ に ある の で なく すでに タ の ジョウタイ に うつって いる の で ある。 シツボウ に ついて も おなじ よう に かんがえる こと が できる で あろう。 また じっさい、 アイ と キボウ との アイダ には ミッセツ な カンケイ が ある。 キボウ は アイ に よって しょうじ、 アイ は キボウ に よって そだてられる。
 アイ も また ウンメイ では ない か。 ウンメイ が ヒツゼン と して ジコ の チカラ を あらわす とき、 アイ も ヒツゼン に しばられなければ ならぬ。 かよう な ウンメイ から カイホウ される ため には アイ は キボウ と むすびつかなければ ならない。

 キボウ と いう もの は セイメイ の ケイセイリョク イガイ の ナニモノ で ある か。 ワレワレ は いきて いる かぎり キボウ を もって いる と いう の は、 いきる こと が ケイセイ する こと で ある ため で ある。 キボウ は セイメイ の ケイセイリョク で あり、 ワレワレ の ソンザイ は キボウ に よって カンセイ に たっする。 セイメイ の ケイセイリョク が キボウ で ある と いう の は、 この ケイセイ が ム から の ケイセイ と いう イミ を もって いる こと に よる で あろう。 ウンメイ とは そのよう な ム では ない の か。 キボウ は そこ から でて くる イデー-テキ な チカラ で ある。 キボウ と いう もの は ニンゲン の ソンザイ の ケイジジョウガクテキ ホンシツ を あらわす もの で ある。

 キボウ に いきる モノ は つねに わかい。 いな セイメイ ソノモノ が ホンシツテキ に ワカサ を イミ して いる。

 アイ は ワタシ に ある の でも アイテ に ある の でも なく、 いわば その アイダ に ある。 アイダ に ある と いう の は フタリ の いずれ より も また その カンケイ より も コンゲンテキ な もの で ある と いう こと で ある。 それ は フタリ が あいする とき いわば ダイサン の もの すなわち フタリ の アイダ の デキゴト と して ジカク される。 しかも この ダイサン の もの は ゼンタイテキ に フタリ の いずれ の ヒトリ の もの でも ある。 キボウ にも これ に にた ところ が ある で あろう。 キボウ は ワタシ から しょうずる の で なく、 しかも まったく ワタシ の ナイブ の もの で ある。 シン の キボウ は ゼツボウ から しょうじる と いわれる の は、 まさに その こと すなわち キボウ が ジコ から しょうじる もの で ない こと を イミ して いる。 ゼツボウ とは ジコ を ホウキ する こと で ある から。

 ゼツボウ に おいて ジコ を すてる こと が できず、 キボウ に おいて ジコ を もつ こと が できぬ と いう こと、 それ は キンダイ の シュカンテキ ニンゲン に とって トクチョウテキ な ジョウタイ で ある。

 ジブン の もって いる もの は うしなう こと の できない もの で ある と いう の が ジンカク シュギ の コンポン の ロンリ で ある。 しかし むしろ その ギャク で なければ ならぬ。 ジブン に よる の で なく どこまでも タ から あたえられる もの で ある ゆえ に ワタシ は それ を うしなう こと が できない の で ある。 キンダイ の ジンカク シュギ は シュカン シュギ と なる こと に よって カイタイ しなければ ならなかった。

 キボウ と ゲンジツ と を コンドウ して は ならぬ と いわれる。 たしか に その とおり で ある。 だが キボウ は ふたしか な もの で ある か。 キボウ は つねに ジンセイ と いう もの ほど の タシカサ は もって いる。
 もし イッサイ が ホショウ されて いる ならば キボウ と いう もの は ない で あろう。 しかし ニンゲン は つねに それほど カクジツ な もの を もとめて いる で あろう か。 あらゆる コトガラ に たいして ホショウ される こと を ほっする ニンゲン ――ヒト は センソウ に たいして さえ ホケン-ガイシャ を セツリツ する―― も、 カケ に ネッチュウ する。 いいかえる と、 カレ は ハツメイ された グウゼン、 しいて つくられた ウンメイ に ココロ を くだこう と する の で ある。 キョウフ あるいは フアン に よって キボウ を シゲキ しよう と する の で ある。
 キボウ の カクジツセイ は イマジネーション の カクジツセイ と おなじ セイシツ の もの で ある。 セイセイ する もの の ロンリ は コケイタイ の ロンリ とは ことなって いる。

 ジンセイ モンダイ の カイケツ の カギ は カクジツセイ の あたらしい キジュン を ハッケン する こと に ある よう に おもわれる。

 キボウ が ムゲンテイ な もの で ある か の よう に かんじられる の は、 それ が ゲンテイ する チカラ ソノモノ で ある ため で ある。
 スピノザ の いった よう に、 あらゆる ゲンテイ は ヒテイ で ある。 ダンネン する こと は ホント に しって いる モノ のみ が ホント に キボウ する こと が できる。 ナニモノ も ダンネン する こと を ほっしない モノ は シン の キボウ を もつ こと も できぬ。
 ケイセイ は ダンネン で ある と いう こと が ゲーテ の たっした ふかい ケイジジョウガクテキ チエ で あった。 それ は ゲイジュツテキ セイサク に ついて のみ いわれる こと では ない。 それ は ジンセイ の チエ で ある。

 タビ に ついて

 ヒト は サマザマ の リユウ から タビ に のぼる で あろう。 ある モノ は ショウヨウ の ため に、 タ の モノ は シサツ の ため に、 さらに タ の モノ は キュウヨウ の ため に、 また ある ヒトリ は シンセキ の フコウ を みまう ため に、 そして タ の ヒトリ は ユウジン の ケッコン を いわう ため に、 と いう よう に。 ジンセイ が サマザマ で ある よう に、 タビ も サマザマ で ある。 しかしながら、 どのよう な リユウ から タビ に でる に して も、 スベテ の タビ には タビ と して の キョウツウ の カンジョウ が ある。 イッパク の タビ に でる モノ にも、 1 ネン の タビ に でる モノ にも、 タビ には あいにた カンカイ が ある。 あたかも、 ジンセイ は サマザマ で ある に して も、 みじかい イッショウ の モノ にも、 ながい イッショウ の モノ にも、 スベテ の ジンセイ には ジンセイ と して の キョウツウ の カンジョウ が ある よう に。
 タビ に でる こと は ニチジョウ の セイカツ カンキョウ を ぬける こと で あり、 ヘイゼイ の シュウカンテキ な カンケイ から のがれる こと で ある。 タビ の ウレシサ は かよう に カイホウ される こと の ウレシサ で ある。 ことさら カイホウ を もとめて する タビ で なくて も、 タビ に おいて は ダレ も なんらか カイホウ された キモチ に なる もの で ある。 ある モノ は じつに ジンセイ から ダッシュツ する モクテキ を もって さえ タビ に のぼる の で ある。 ことさら ダッシュツ を ほっして する タビ で なくて も、 タビ に おいて は ダレ も なんらか ダッシュツ に るいする キモチ に なる もの で ある。 タビ の タイショウ と して ヒト の このんで えらぶ もの が オオク の バアイ シゼン で あり、 ニンゲン の セイカツ で あって も ゲンシテキ な、 シゼンテキ な セイカツ で ある と いう の も、 これ に カンケイ する と かんがえる こと が できる で あろう。 タビ に おける かよう な カイホウ ないし ダッシュツ の カンジョウ には つねに ある タ の カンジョウ が ともなって いる。 すなわち タビ は スベテ の ヒト に おおかれ すくなかれ ヒョウハク の カンジョウ を いだかせる の で ある。 カイホウ も ヒョウハク で あり、 ダッシュツ も ヒョウハク で ある。 そこ に タビ の カンショウ が ある。
 ヒョウハク の カンジョウ は ある ウンドウ の カンジョウ で あって、 タビ は イドウ で ある こと から しょうずる と いわれる で あろう。 それ は たしか に ある ウンドウ の カンジョウ で ある。 けれども ワレワレ が タビ の ヒョウハク で ある こと を ミ に しみて かんじる の は、 クルマ に のって うごいて いる とき では なく、 むしろ ヤド に おちついた とき で ある。 ヒョウハク の カンジョウ は たんなる ウンドウ の カンジョウ では ない。 タビ に でる こと は ニチジョウ の シュウカンテキ な、 したがって アンテイ した カンケイ を だっする こと で あり、 その ため に しょうずる フアン から ヒョウハク の カンジョウ が わいて くる の で ある。 タビ は なんとなく フアン な もの で ある。 しかるに また ヒョウハク の カンジョウ は トオサ の カンジョウ なし には かんがえられない で あろう。 そして タビ は、 どのよう な タビ も、 トオサ を かんじさせる もの で ある。 この トオサ は ナン-キロ と はかられる よう な キョリ に カンケイ して いない。 マイニチ エンポウ から キシャ で ジムショ へ ツウキン して いる モノ で あって も、 カレ は この シュ の トオサ を かんじない で あろう。 ところが たとい それ より も みじかい キョリ で あって も、 イチニチ カレ が タビ に でる と なる と、 カレ は その トオサ を あじわう の で ある。 タビ の ココロ は はるか で あり、 この ハルケサ が タビ を タビ に する の で ある。 それだから タビ に おいて ワレワレ は つねに おおかれ すくなかれ ロウマンテキ に なる。 ロウマンテキ シンジョウ と いう の は トオサ の カンジョウ に ほかならない。 タビ の オモシロサ の ナカバ は かよう に して ソウゾウリョク の つくりだす もの で ある。 タビ は ジンセイ の ユートピア で ある と さえ いう こと が できる で あろう。 しかしながら タビ は たんに はるか な もの では ない。 タビ は あわただしい もの で ある。 カバン ヒトツ で でかける カンタン な タビ で あって も、 タビ には タビ の アワタダシサ が ある。 キシャ に のる タビ にも、 トホ で ゆく タビ にも、 タビ の アワタダシサ が ある で あろう。 タビ は つねに とおくて、 しかも つねに あわただしい もの で ある。 それだから そこ に ヒョウハク の カンジョウ が わいて くる。 ヒョウハク の カンジョウ は たんに トオサ の カンジョウ では ない。 とおくて、 しかも あわただしい ところ から、 ワレワレ は ヒョウハク を かんじる の で ある。 とおい と さだまって いる もの なら、 なにゆえに あわただしく する ヒツヨウ が ある で あろう か。 それ は とおい もの で なくて ちかい もの で ある かも しれない。 いな、 タビ は つねに とおくて ドウジ に つねに ちかい もの で ある。 そして これ は タビ が カテイ で ある と いう こと を イミ する で あろう。 タビ は カテイ で ある ゆえ に ヒョウハク で ある。 シュッパツテン が タビ で ある の では ない、 トウチャクテン が タビ で ある の でも ない、 タビ は たえず カテイ で ある。 ただ モクテキチ に つく こと を のみ モンダイ に して、 トチュウ を あじわう こと が できない モノ は、 タビ の シン の オモシロサ を しらぬ モノ と いわれる の で ある。 ニチジョウ の セイカツ に おいて ワレワレ は つねに しゅとして トウタツテン を、 ケッカ を のみ モンダイ に して いる、 これ が コウドウ とか ジッセン とか いう もの の ホンセイ で ある。 しかるに タビ は ホンシツテキ に カンソウテキ で ある。 タビ に おいて ワレワレ は つねに みる ヒト で ある。 ヘイゼイ の ジッセンテキ セイカツ から ぬけだして ジュンスイ に カンソウテキ に なりうる と いう こと が タビ の トクショク で ある。 タビ が ジンセイ に たいして ゆうする イギ も そこ から かんがえる こと が できる で あろう。
 なにゆえに タビ は とおい もの で ある か。 ミチ の もの に むかって ゆく こと で ある ゆえ に。 ニチジョウ の ケイケン に おいて も、 しらない ミチ を はじめて あるく とき には ジッサイ より も とおく かんじる もの で ある。 かりに スベテ の こと が まったく よく しられて いる と した なら、 ニチジョウ の ツウキン の よう な もの は あって も ホンシツテキ に タビ と いう べき もの は ない で あろう。 タビ は ミチ の もの に ひかれて ゆく こと で ある。 それだから タビ には ヒョウハク の カンジョウ が ともなって くる。 タビ に おいて は あらゆる もの が キチ で ある と いう こと は ありえない で あろう。 なぜなら、 そこ では たんに トウチャクテン あるいは ケッカ が モンダイ で ある の で なく、 むしろ カテイ が シュヨウ なの で ある から。 トチュウ に チュウイ して いる モノ は かならず ナニ か あたらしい こと、 おもいもうけぬ こと に であう もの で ある。 タビ は シュウカンテキ に なった セイカツ ケイシキ から ぬけでる こと で あり、 かよう に して ワレワレ は おおかれ すくなかれ あたらしく なった メ を もって モノ を みる こと が できる よう に なって おり、 その ため に また ワレワレ は モノ に おいて おおかれ すくなかれ あたらしい もの を ハッケン する こと が できる よう に なって いる。 ヘイゼイ みなれた もの も タビ に おいて は めあたらしく かんじられる の が ツネ で ある。 タビ の リエキ は たんに まったく みた こと の ない もの を はじめて みる こと に ある の で なく、 ――まったく あたらしい と いいうる もの が ヨノナカ に ある で あろう か―― むしろ ヘイソ ジメイ の もの、 キチ の もの の よう に かんがえて いた もの に キョウイ を かんじ、 あらた に みなおす ところ に ある。 ワレワレ の ニチジョウ の セイカツ は コウドウテキ で あって トウチャクテン あるいは ケッカ に のみ カンシン し、 ソノタ の もの、 トチュウ の もの、 カテイ は、 キチ の もの の ごとく ゼンテイ されて いる。 マイニチ シュウカンテキ に ツウキン して いる モノ は、 その ヒ イエ を でて ジムショ に くる まで の アイダ に、 カレ が ナニ を なし、 ナニ に あった か を おそらく おもいおこす こと が できない で あろう。 しかるに タビ に おいて は ワレワレ は ジュンスイ に カンソウテキ に なる こと が できる。 たびする モノ は なす モノ で なくて みる ヒト で ある。 かよう に ジュンスイ に カンソウテキ に なる こと に よって、 ヘイゼイ キチ の もの、 ジメイ の もの と ゼンテイ して いた もの に たいして ワレワレ は あらた に キョウイ を おぼえ、 あるいは コウキシン を かんじる。 タビ が ケイケン で あり、 キョウイク で ある の も、 これ に よる の で ある。
 ジンセイ は タビ、 とは よく いわれる こと で ある。 バショウ の オク の ホソミチ の ユウメイ な ク を ひく まで も なく、 これ は ダレ にも イッサイ ならず せまって くる ジッカン で あろう。 ジンセイ に ついて ワレワレ が いだく カンジョウ は、 ワレワレ が タビ に おいて もつ カンジョウ と あいつうずる もの が ある。 それ は なにゆえ で あろう か。
 どこ から どこ へ、 と いう こと は、 ジンセイ の コンポン モンダイ で ある。 ワレワレ は どこ から きた の で ある か、 そして どこ へ ゆく の で ある か。 これ が つねに ジンセイ の コンポンテキ な ナゾ で ある。 そう で ある かぎり、 ジンセイ が タビ の ごとく かんじられる こと は ワレワレ の ジンセイ カンジョウ と して かわる こと が ない で あろう。 いったい ジンセイ に おいて、 ワレワレ は どこ へ ゆく の で ある か。 ワレワレ は それ を しらない。 ジンセイ は ミチ の もの への ヒョウハク で ある。 ワレワレ の ゆきつく ところ は シ で ある と いわれる で あろう。 それにしても シ が ナン で ある か は、 ダレ も メイリョウ に こたえる こと の できぬ もの で ある。 どこ へ ゆく か と いう トイ は、 ひるがえって、 どこ から きた か と とわせる で あろう。 カコ に たいする ハイリョ は ミライ に たいする ハイリョ から しょうじる の で ある。 ヒョウハク の タビ には つねに さだか に とらえがたい ノスタルジヤ が ともなって いる。 ジンセイ は とおい、 しかも ジンセイ は あわただしい。 ジンセイ の コウロ は とおくて、 しかも ちかい。 シ は こっこく に ワレワレ の アシモト に ある の で ある から。 しかも かく の ごとき ジンセイ に おいて ニンゲン は ゆめみる こと を やめない で あろう。 ワレワレ は ワレワレ の ソウゾウ に したがって ジンセイ を いきて いる。 ヒト は ダレ でも おおかれ すくなかれ ユートピアン で ある。 タビ は ジンセイ の スガタ で ある。 タビ に おいて ワレワレ は ニチジョウテキ な もの から はなれ、 そして ジュンスイ に カンソウテキ に なる こと に よって、 ヘイゼイ は ナニ か ジメイ の もの、 キチ の もの の ごとく ゼンテイ されて いた ジンセイ に たいして あらた な カンジョウ を もつ の で ある。 タビ は ワレワレ に ジンセイ を あじわさせる。 あの トオサ の カンジョウ も、 あの チカサ の カンジョウ も、 あの ウンドウ の カンジョウ も、 ワタシ は それら が キャッカンテキ な トオサ や チカサ や ウンドウ に カンケイ する もの で ない こと を のべて きた。 タビ に おいて であう の は つねに ジコ ジシン で ある。 シゼン の ナカ を ゆく タビ に おいて も、 ワレワレ は たえず ジコ ジシン に であう の で ある。 タビ は ジンセイ の ホカ に ある の で なく、 むしろ ジンセイ ソノモノ の スガタ で ある。
 すでに いった よう に、 ヒト は しばしば カイホウ される こと を もとめて タビ に でる。 タビ は たしか に カレ を カイホウ して くれる で あろう。 けれども それ に よって カレ が しんに ジユウ に なる こと が できる と かんがえる なら、 マチガイ で ある。 カイホウ と いう の は ある もの から の ジユウ で あり、 このよう な ジユウ は ショウキョクテキ な ジユウ に すぎない。 タビ に でる と、 ダレ でも デキゴコロ に なりやすい もの で あり、 キマグレ に なりがち で ある。 ヒト の デキゴコロ を リヨウ しよう と する モノ には、 その ヒト を タビ に つれだす の が テヂカ な ホウホウ で ある。 タビ は ヒト を おおかれ すくなかれ ボウケンテキ に する、 しかし この ボウケン と いえど も デキゴコロ で あり、 キマグレ で ある で あろう。 タビ に おける ヒョウハク の カンジョウ が そのよう な デキゴコロ の コンテイ に ある。 しかしながら キマグレ は シン の ジユウ では ない。 キマグレ や デキゴコロ に したがって のみ コウドウ する モノ は、 タビ に おいて しんに ケイケン する こと が できぬ。 タビ は ワレワレ の コウキシン を カッパツ に する。 けれども コウキシン は シン の ケンキュウシン、 シン の チシキヨク とは ちがって いる。 コウキシン は キマグレ で あり、 ヒトツ の ところ に とどまって みよう とは しない で、 ツギ から ツギ へ たえず うつって ゆく。 ヒトツ の ところ に とどまり、 ヒトツ の もの の ナカ に ふかく はいって ゆく こと なし に、 いかに して しんに モノ を しる こと が できる で あろう か。 コウキシン の コンテイ に ある もの も さだめなき ヒョウハク の カンジョウ で ある。 また タビ は ニンゲン を カンショウテキ に する もの で ある。 しかしながら ただ カンショウ に ひたって いて は、 なにひとつ ふかく ニンシキ しない で、 なにひとつ ドクジ の カンジョウ を もたない で しまわねば ならぬ で あろう。 シン の ジユウ は モノ に おいて の ジユウ で ある。 それ は たんに うごく こと で なく、 うごきながら とまる こと で あり、 とまりながら うごく こと で ある。 ドウ そく セイ、 セイ そく ドウ と いう もの で ある。 ニンゲン いたる ところ に セイザン あり、 と いう。 この コトバ は やや カンショウテキ な キライ は ある が、 その イギ に てっした モノ で あって しんに タビ を あじわう こと が できる で あろう。 しんに タビ を あじわいうる ヒト は しんに ジユウ な ヒト で ある。 たびする こと に よって、 かしこい モノ は ますます かしこく なり、 おろか な モノ は ますます おろか に なる。 ニチジョウ コウサイ して いる モノ が いかなる ニンゲン で ある か は、 イッショ に たびして みる と よく わかる もの で ある。 ヒト は その ヒト ソレゾレ の タビ を する。 タビ に おいて しんに ジユウ な ヒト は ジンセイ に おいて しんに ジユウ な ヒト で ある。 ジンセイ ソノモノ が じつに タビ なの で ある。

 コセイ に ついて

 コセイ の おくぶかい デンドウ に いたる ミチ は テーバイ の マチ の モン の カズ の よう に おおい。 ワタシ の イチイチ の セイカツ は ワタシ の シンコウ の いける コクハク で あり、 ワタシ の ココ の コウイ は ワタシ の シュウキョウ の かたらざる デンドウ で ある。 ワタシ の ウチ に キョライ する モロモロ の ココロ は ジコ の ドウオウ に まつられたる もの の チョクセツテキ な ニンシキ を ワタシ に よびおこさせる ため に セイセイ し、 ハッテン し、 ショウメツ する。 それゆえに ユウゲン な もの を とおして ムゲン な もの を ホソク しうる モノ は、 ワタシ の ただ ヒトツ の シソウ カンジョウ もしくは コウイ を しる こと に よって さえ、 ワタシ が マコト の カミ の シンジャ で ある か、 それとも バール の ソウリョ で ある か を ドウサツ しうる で あろう。 しかしながら オオク の ミチ が ある と いう こと は その イミ を つかみえない モノ に とって は たんに メイロ が ある と いう に すぎない。
 ワタシ は ワタシ の ウチ に ムスウ の シンゾウ が はてしなく キョライ する の を イシキ する。 ワタシ と いう もの は ワタシ の ノウリ に しょうずる ヒョウショウ や カンジョウ や イヨク の totum discretum で ある の か。 それ は 「カンネン の タバ」 で でも ある の か。 けれども ワタシ は イッサイ の カツドウ が ただ ワタシ に おいて おこる こと を しって いる。 ワタシ と いう もの は ムスウ の シンゾウ が その ウエ に あらわれて は きえつつ サマザマ な ヒキゲキ を えんずる ブタイ で ある の か。 それ は スベテ の もの が そこ へ はいって ゆく が ナニモノ も そこ から でて こない ところ の 「シシ の すむ ホラアナ」 で でも ある の か。 しかし ワタシ は ワタシ の セイシン カテイ の セイセイ と ショウメツ、 セイサン と スイボウ の イッサイ が ただ ワタシ に よって おこる こと を しって いる。
 もし ワタシ と いう もの が ワタシ の あらゆる ウンドウ と ヘンカ が その マエ で えんじられる ハイケイ で ある と すれば、 それ は じつに キカイ で ブキミ な Unding で ある と いわねば ならぬ。 ワタシ は それ に いかなる シジ しう べき ナイヨウ をも あたえる こと が できない。 なぜなら ワタシ が それ に ついて ヒョウショウ する セイシツ は ことごとく この ハイケイ を まって カノウ なの で あって ハイケイ ソノモノ では ない から。 したがって それ は もはや コセイ で ある こと を やめねば ならない。 ワタシ は かよう な もの を ただ ナニモノ で でも なく また、 ナニモノ から も しょうじない チュウショウテキ ジッタイ と して かんがえうる のみ で ある。 かくして ワタシ は キョムカン の マエ に たたずむ。 ワタシ に よって けっして タイケン される こと が ない この アクマテキ な Unding は、 ワタシ が ケイケン する イロ あり ヒビキ ある スベテ の ヨロコビ と カナシミ を なめつくし、 くいつくして しまう。 しかし ワタシ は この もの から ふたたび シチサイ の コウサク する うつくしい セカイ へ かえる べき スベ を しらない の で ある。
 ワタシ も また 「マン の ココロ を もつ ヒト」 で ある。 ワタシ は ワタシ の ナイブ に たえず せめぎあい、 いがみあい、 アイハンタイ し、 アイムジュン する オオク の ココロ を みいだす の で ある。 しかしながら ワタシ は これら ムスウ の あいしあい、 たすけあう、 そして じつに しばしば にくしみあい、 いどみあう ココロ の aggregatum per accidens では ない で あろう。 あるいは それら の シンゾウ が たんに シンリガクテキ ホウソク に したがって ケツゴウ した もの で ない で あろう。 ワタシ に して 「カンネン の タバ」 に すぎない と すれば、 シンリ ガクシャ が ワタシ を リカイ しよう と して こころみる セツメイ は セイトウ で ある。 カレラ は ワタシ の ウチ に あらわれる セイシン ゲンショウ を イッテイ の ハンチュウ と ホウソク と に したがって ブンルイ し、 ソウカツ し、 また ワタシ の キオク が シカクガタ に ぞくする か、 チョウカクガタ に ぞくする か、 さらに ワタシ の セイカク が タケツシツ で ある か、 タンジュウシツ で ある か、 -トウトウ、 を ケッテイ する。 けれども チュウショウテキ な ガイネン と ゲンゴ は スベテ の もの から コセイ を うばって イチヨウ に コッカイ を つくり、 ピーター と ポール と を おなじ に する あしき デモクラシー を おこなう もの で ある。 ワタシ は フヘンテキ な ルイケイ や ホウソク の ヒョウホン もしくは デンタツキ と して ソンザイ する の で ある か。 しからば ワタシ も また いわねば ならない、 「ワタシ は ホウソク の ため に では なく レイガイ の ため に つくられた よう な ニンゲン の ヒトリ で ある」 と。 ナナツ の テン を はかりうる とも、 ダレ が いったい ニンゲン の タマシイ の キドウ を はかる こと が できよう。 ワタシ は ワタシ の コセイ が いっそう おおく キジュツ され テイギ される こと が できれば できる ほど、 その カチ が げんじて ゆく よう に かんじる の で ある。
 ヒト は ワタシ に コセイ が ムゲン な ソンザイ で ある こと を おしえ、 ワタシ も また そう しんじて いる。 チキュウ の チュウシン と いう もの の よう に たんに イチ あって ニ ない もの が コセイ では ない。 1 ゴウ、 2 ゴウ と いう よう に クベツ される キャッカンテキ な コベツセイ あるいは タ との ヒカク の ウエ での ドクジセイ を もって いる もの が コセイ で ある の では ない。 コセイ とは かえって ムゲン な ソンザイ で ある。 ワタシ が ムゲン な ソンザイ で ある と いう の は、 ワタシ の シンリ に ムスウ の ヒョウショウ、 カンジョウ、 イヨク が はてしなく コウタイ する と いう イミ で あろう か。 しかし もし ワタシ に して それら の セイシン カテイ の たんに グウゼンテキ な もしくは ガイメンテキ な ケツゴウ に すぎない ならば、 ワタシ は ただ ゲンショウ と して ソンザイ しうる ばかり で ある。 ワタシ に して ゲンショウ で ある イジョウ の イミ を もつ こと が できない ならば エイゴウ の トキ の ナガレ の ヒトツ の テン に うかびでる ホウマツ にも ひす べき ワタシ の セイ に おいて いかに オオク の もの が その ウチ に やどされよう とも、 いずれ は シュユ に して きえゆく ワタシ の ウンメイ では ない か。 モロモロ の タイヨウ をも ヨウシャ しない トキ の ケイカ は、 ワタシ の ノウリ に セイキ する シンゾウ の ムゲン を ヒトタマリ も なく かたづけて しまう で あろう。 それゆえに ワタシ に して しんに ムゲン な ソンザイ で ある べき ならば、 ワタシ の ウチ に トキ の しょうじえず、 また トキ の めっしえざる ある もの が ソンザイ する の で なければ ならない。
 けれども ワタシ は ジカン を はなれて コベツカ の ゲンリ を かんがえうる で あろう か。 コセイ と いう の は イッカイテキ な もの、 くりかえさない もの の こと では ない で あろう か。 しかし ワタシ は たんに ジカンテキ ジュンジョ に よって のみ クベツ される メトロノーム の あいついで なる ヒトツヒトツ の オト を コセイ と かんがえる こと を チュウチョ する。
 ジカン は コセイ の ユイイツセイ の ガイメンテキ な チョウヒョウ に すぎない の で あって、 ホンシツテキ には コセイ は コセイ ジシン の ハタラキ ソノモノ に おいて クベツ される の で なければ ならぬ。 コセイ の ユイイツセイ は それ が ドクリツ な ソンザイ と して 「タ の ナニモノ の シュツニュウ す べき マド を ゆうせず」、 ジソクテキ な ナイメンテキ ハッテン を とげる ところ に セイリツ する の で あって、 コセイ は ジコ カツドウテキ な もの で ある ゆえ に ジコ クベツテキ な もの と して ジコ の ユイイツセイ を シュチョウ しうる の で ある。 もとより ワタシ が セカイ カテイ の いかなる とき に セイ を うける か と いう こと は、 あたかも オンガク の ヒトツ の キョク の いかなる シュンカン に ある オト が くる か と いう こと が グウゼン で ない よう に、 グウゼン では ない で あろう。 それ は ワタシ と いう コセイ の ナイメンテキ な イミ の カンケイ に よって ケッテイ される こと で ある。 しかし ワタシ は ジカン の ケイシキ に よって オンガク を リカイ する の で なく、 むしろ オンガク に おいて シン の ジカン ソノモノ を タイケン する の で ある。 「シゼン を リカイ しよう と する モノ は シゼン の ごとく もくして これ を リカイ しなければ ならぬ」 と いわれた よう に、 コセイ を リカイ しよう と ほっする モノ は トキ の ナガレ の ザワメキ を チョウエツ しなければ ならない。 カレ は ノウベン を とらえて その クビ を ねじなければ ならない。 けれども ワタシ が トキ の ナガレ を リダツ する の は トキ の ケイカ の かんがえつくす こと が できぬ はるか の ノチ に おいて では なく、 ワタシ が ながれる トキ の ナカ に ジコ を ひたして しんに トキ ソノモノ に なった とき で ある。 たんなる ニンシキ の ケイシキ と して の ジカン から カイホウ されて、 ジュンスイ ジゾク に ジユウ に ミ を まかせた とき で ある。 ながめる ところ に コセイ の リカイ の ミチ は ない。 ワタシ は ただ はたらく こと に よって ワタシ の ナン で ある か を リカイ しうる の で ある。
 イチヨウ に スイイ し リュウカ する くろい マク の よう な トキ の ソクバク と キハン から のがれでる とき、 ワタシ は ムゲン を カクトク する の で ない か。 なぜなら ジコ カツドウテキ な もの は ムゲン な もの で なければ ならない から。 たんに ムスウ の ブブン から ゴウセイ された もの が ムゲン で ある の では なく、 ムゲン な もの に おいて は ブブン は ゼンタイ が ゲンテイ されて しょうずる もの と して つねに ゼンタイ を ヒョウゲン して いる。 そして ワタシ が スベテ の タマシイ を なげだして はたらく とき、 ワタシ の ココ の コウイ には ワタシ の コセイ の ゼンタイ が ゲンジツテキ な もの と して つねに ヒョウゲン されて いる の で ある。 ムゲン な もの は ヒトツ の モクテキ、 または キト に トウイツ された もの で あって、 その ハッテン の ヒトツ の ダンカイ は ヒツゼンテキ に ツギ の ダンカイ へ うつりゆく べき ケイキ を その ウチ に ふくんで いる。 リチ の ギコウ を はなれて ジュンスイ な ガクモンテキ シサク に ふける とき、 カンジョウ の ホウトウ を さって ジュンスイ な ゲイジュツテキ セイサク に したがう とき、 ヨクボウ の ダサン を しりぞけて ジュンスイ な ドウトクテキ コウイ を おこなう とき、 ワタシ は かよう な ムゲン を タイケン する。 シイ される こと が できず ただ タイケン される こと が できる ムゲン は、 つねに カチ に みちた もの すなわち エイエン な もの で ある。 それ は イシキ される に せよ イシキ されぬ に せよ、 キハン イシキ に よって ヒトツ の カテイ から ツギ の カテイ へ ヒツゼンテキ に みちびかれる かぎりなき ソウゾウテキ カツドウ で ある。 かよう な ヒツゼンセイ は もとより インガリツ の ヒツゼンセイ では なく、 チョウ-ジカンテキ で コセイテキ な ナイメンテキ ヒツゼンセイ で ある。
 しかしながら ワタシ は ワタシ が ムゲン を タイケン する こと すなわち しんに ジュンスイ に なる こと が きわめて まれ で ある こと を コクハク しなければ ならない。 ワタシ は オオク の バアイ 「ヒト は それ を リセイ と なづけて ただ あらゆる ドウブツ より も いっそう ドウブツテキ に なる ため に もちいて いる」 と メフィスト が あざけった よう な リセイ の シヨウシャ で ある。 ワタシ の カンジョウ は タイテイ の とき セイサンテキ ソウゾウテキ で ある こと を やめて、 タイダ に なり オウチャク に なって、 コビ と シバイギ に みちた ドウラク を しよう と する。 ワタシ の イシ は じつに しばしば リコテキ な ダサン が つむぐ アミ の ナカ に まきこまれて しまう の で ある。
 かよう に して ワタシ は、 コセイ が ヨウラン と ともに ワタシ に おくられた オクリモノ では なく、 ワタシ が タタカイ を もって カクトク しなければ ならない リネン で ある こと を しった。 しかし ワタシ は この はかりがたい タカラ が ジコ の ソト に たずねらる べき もの では なくて、 ただ ジコ の コンゲン に かえって もとめらる べき もの で ある こと も しった。 もとめる と いう こと は ある が まま の ジコ に しゅうしつつ タ の ナニモノ か を それ に つけくわえる こと では ない。 ヒト は ジコ を めっする こと に よって かえって ジコ を カクトク する。 それゆえに ワタシ は イダイ な シュウキョウカ が 「ワレ もはや いける に あらず、 キリスト ワレ に おいて いける なり」 と いった とき、 カレ が キリスト に なった の で なく、 カレ が しんに カレ ジシン に なった の で ある こと を リカイ する。 ワタシ の コセイ は コウセイ に よって のみ ワタシ の ウチ に うまれる こと が できる の で ある。
 テツガクシャ は コセイ が ムゲン な ソンザイ で ある こと を ツギ の よう に セツメイ した。 コセイ は ウチュウ の いける カガミ で あって、 イツ に して イッサイ なる ソンザイ で ある。 あたかも あいあつまる チョクセン が つくる ムゲン の カク が かいする タンイツ な チュウシン の ごとき もの で ある。 スベテ の コベツテキ ジッタイ は カミ が ゼンウチュウ に ついて なした ケツイ を あらわして いる の で あって、 イッコ の コセイ は ゼンセカイ の イミ を ユイイツ の シカタ で ゲンジツカ し ヒョウゲン する ミクロコスモス で ある。 コセイ は ジコ ジシン の ウチ に タ との ムゲン の カンケイ を ふくみつつ しかも ゼンタイ の ナカ に おいて しめる ならびなき イチ に よって コセイ なの で ある。 しからば ワタシ は いかに して ゼンウチュウ と ムゲン の カンケイ に たつ の で ある か。 コノヨ に セイ を うけた、 または うけつつ ある、 または うけん と する ムスウ の ドウホウ の ナカ で、 ジクウ と インガ と に ソクバク された もの と して ワタシ の しりうる ニンゲン は まことに すくない では ない か。 この ショウスウ の ニンゲン に ついて さえ、 カレラ の スベテ と たえず コウショウ する こと は、 ワタシ を ニンゲンギライ に して しまう で あろう、 ワタシ は むしろ コドク を もとめる。 しかしながら ヒト は にぎやか な チマタ を さけて うすぐらい ジブン の ヘヤ に かえった とき しんに コドク に なる の では なく、 かえって 「ヒト は ホシ を ながめる とき もっとも コドク で ある」 の で ある。 エイエン な もの の カンソウ の ウチ に ジコ を うしなう とき、 ワタシ は うつくしい ゼッタイ の コドク に はいる こと が できる。
 しからば ワタシ は テツガクシャ が おしえた よう に カミ の ヨテイ チョウワ に あって タ との ムゲン の カンケイ に はいって いる の で あろう か。 ワタシ は カミ の イシ ケッテイ に セイヤク されて ゼンセカイ と フヘン の キソクテキ カンケイ に たって いる の でも あろう か。 しからば ワタシ は ヒトツ の ヒツゼン に キカイテキ に したがって いる の で あり、 ワタシ の カチ は ワタシ ジシン に では なく ワタシ を こえて フヘンテキ な もの に イゾン して いる の では ない か。 ワタシ は むしろ ジユウ を もとめる。 そして ワタシ が ホント に ジユウ で ある こと が できる の は、 ワタシ が リチ の サイク や カンジョウ の ユウギ や ヨクボウ の ダサン を すてて ジュンスイ に ソウゾウテキ に なった とき で ある。 かよう な コドク と かよう な ソウゾウ との ウチ に ふかく ひそみいる とき、 シジン が “Voll milden Ernsts, in thatenreicher Stille” と うたった ジカン に おいて、 ワタシ は ウチュウ と ムゲン の カンケイ に たち、 イッサイ の タマシイ と うつくしい チョウワ に だきあう の では ない で あろう か。 なぜなら その とき ワタシ は どのよう な ムゲン の もの も その ナカ では あたえられない ジカンテキ セカイ を チョウエツ して、 ウチュウ の ソウゾウ の チュウシン に ジコ の チュウシン を よこたえて いる の で ある から。 ジユウ な ソンザイ すなわち イッコ の ブンカジン と して のみ ワタシ は、 いわゆる シャカイ の ナカ で カツドウ する に せよ しない に せよ、 ゼンウチュウ と ムゲン の カンケイ に はいる の で ある。 かよう に して また コセイ の ユイイツセイ は それ が ゼンタイ の シゼン の ナカ で しめる イチ の ユイイツセイ に そんする の では なく、 ホンシツテキ には それ が ゼンタイ の ブンカ の ナカ で かせられて いる ニンム の ユイイツセイ に キソ-づけられる もの で ある こと を ワタシ は しる の で ある。
 コセイ を リカイ しよう と ほっする モノ は ムゲン の ココロ を しらねば ならぬ。 ムゲン の ココロ を しろう と おもう モノ は アイ の ココロ を しらねば ならない。 アイ とは ソウゾウ で あり、 ソウゾウ とは タイショウ に おいて ジコ を みいだす こと で ある。 あいする モノ は ジコ に おいて ジコ を ヒテイ して タイショウ に おいて ジコ を いかす の で ある。 「イツ に して イッサイ なる カミ は オノレ ジシン にも ヒミツ で あった、 それゆえに カミ は オノレ を みん が ため に ソウゾウ せざる を えなかった」 カミ の ソウゾウ は カミ の アイ で あり、 カミ は ソウゾウ に よって ジコ ジシン を みいだした の で ある。 ヒト は アイ に おいて ジュンスイ な ソウゾウテキ カツドウ の ウチ に ぼっする とき、 ジコ を ドクジ の ある もの と して すなわち ジコ の コセイ を みいだす。 しかしながら あいせん と ほっする モノ には つねに あいしえざる ナゲキ が あり、 うまん と する モノ は たえず ウミ の ナヤミ を ケイケン しなければ ならぬ。 カレ は カレ が ジュンスイ な セイカツ に はいろう と すれば する ほど、 リコテキ な クフウ や カンショウテキ な タワムレ や こざかしい ギコウ が いよいよ オオク の ユウワク と キョウヨウ を もって カレ を さまたげる の を ツウカン しなければ ならない。 そこで カレ は 「ワレ は ツミビト の クビ なり」 と さけばざる を えない の で ある。 ワタシタチ は アク と ゴビュウ との クルシミ に チ を ながす とき、 ザンゲ と イノリ との ため に ダイチ に なみだする とき、 しんに ジコ ジシン を しる こと が できる。 タイダ と ガシュウ と ゴウマン と ほど、 ワタシタチ を ジコ の ホンシツ の リカイ から とおざける もの は ない。
 ジコ を しる こと は やがて タニン を しる こと で ある。 ワタシタチ が ワタシタチ の タマシイ が みずから たっした タカサ に おうじて、 ワタシタチ の シュウイ に しだいに オオク の コセイ を ハッケン して ゆく。 ジコ に たいして モウモク な ヒト の みる セカイ は ただ イチヨウ の ハイイロ で ある。 ジコ の タマシイ を マタタキ せざる メ を もって ギョウシ しえた ヒト の マエ には、 イッサイ の もの が ヒカリ と イロ との うつくしい コウサク に おいて ひろげられる。 あたかも すぐれた ガカ が アムステルダム の ユダヤ-ガイ にも つねに カイガテキ な ビ と けだかい イゲン と を みいだし、 その ジュウミン が ギリシアジン で ない こと を うれえなかった よう に、 ジコ の コセイ の リカイ に トウテツ しえた ヒト は もっとも ヘイボン な ニンゲン の アイダ に おいて さえ ソレゾレ の コセイ を ハッケン する こと が できる の で ある。 かよう に して ワタシ は ここ でも コセイ が あたえられた もの では なくて カクトク されねば ならぬ もの で ある こと を しる の で ある。 ワタシ は ただ あいする こと に よって タ の コセイ を リカイ する。 わかちえらぶ リチ を すてて だきかかえる ジョウイ に よって それ を しる。 バアタリ の インショウ や キマグレ な チョッカン を もって では なく、 シンボウ-づよい アイ と しなやか な ドウサツ に よって それ を ハアク する の で ある。 ―― 「ナンジ ココロ を つくし、 セイシン を つくし、 オモイ を つくして シュ なる ナンジ の カミ を あいす べし、 これ は ダイ に して ダイイチ の イマシメ なり、 ダイニ も また これ に ひとし、 オノレ の ごとく ナンジ の トナリ を あいす べし」

 コウキ

 この ショモツ は その セイシツジョウ ジョブン を ヒツヨウ と しない で あろう。 ただ カンタン に その セイリツ に ついて コウキ して おけば たりる。 この ノート は、 「タビ に ついて」 の イッペン を のぞき、 ショウワ 13 ネン 6 ガツ イライ 『ブンガクカイ』 に ケイサイ されて きた もの で ある。 もちろん これ で おわる べき セイシツ の もの で なく、 ただ シュッパンシャ の キボウ に したがって イマ まで の ブン を 1 サツ に まとめた と いう に すぎない。 この キカイ に ワタシ は 『ブンガクカイ』 の イゼン の および ゲンザイ の ヘンシュウシャ、 シキバ シュンゾウ、 ウチダ カツミ、 ショウノ セイイチ の 3 クン に とくに シャイ を ひょうしなければ ならぬ。 ヒトツ の ホン が できる に ついて ヘンシュウシャ の ドリョク の いかに おおきく、 それ が いわば チョシャ と ヘンシュウシャ との キョウドウ セイサク で ある と いった ジジョウ は、 オオク の ドクシャ には まだ それほど リカイ されて いない の では ない か と おもう。 ヘンシュウシャ の シゴト の ブンカテキ イギ が もっと イッパン に ニンシキ され、 それ に ふさわしい ソンケイ の はらわれる こと が のぞましい の で ある。
 フロク と した 「コセイ に ついて」 (1920 ネン 5 ガツ) と いう イッペン は、 ダイガク ソツギョウ の チョクゼン 『テツガク ケンキュウ』 に ケイサイ した もの で あって、 ワタシ が オオヤケ の キカン に モノ を ハッピョウ した サイショ で ある。 20 ネン マエ に かかれた この ヨウチ な ショウロン を ジブン の オモイデ の ため に ここ に シュウロク する と いう ワガママ も、 ホンショ の ごとき セイシツ の もの に おいて は ゆるされる こと で あろう か。

  ショウワ 16 (1941) ネン 6 ガツ フツカ
                                  ミキ キヨシ
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