鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

溝ノ口洞穴

2023-11-12 18:22:45 | おおすみの風景

曽於市財部町の山中に珍しい洞窟がある。その名は溝ノ口洞穴。

最近はパワースポットとして有名になりつつある。

私もその様子を確認しておきたいのと、秋も深まり紅葉が見られるのではないかと思い、家内と出かけてみた。

我が家から一昨年に開通した東九州自動車道の志布志から北上する「志布志都城自動車道」に乗って行くと、都城市の平塚インターから降りて、県道2号線を北西に走り、財部からさらに北西に約5キロほど行くと溝ノ口洞穴への狭い一本道に入る。

田園地帯が途切れて山中に入った頃、小さな川が流れ出すあたりにぽっかりと大きな口を開けた洞穴に至る。

着いた時に一台の車が駐車していたが、その横に停めて歩いて洞穴に向かった。

小さな鳥居をくぐって100mも行くと洞穴の入り口で、洞窟の内容を記す看板によると霧島山系火山の火砕流によってこのあたりが凝灰岩で埋められたが、奥から湧き出る水の流れが洞穴をうがち、現在見るような入り口の幅14m、奥行きが200m余りの洞穴が生まれたという。

たしかに神秘的な洞穴だ。入り口の左手には観音様の石像が祭られている。

鳥居をくぐって洞穴の中に入ったが15mも行ったあたりからは狭い路地のようになっており、それ以上に入って行くことは断念した。

出ようかと思い洞穴入り口に向かっていたところ、先に入り口に達していた家内の写真を撮ろうと構えていたら、誰かが鳥居の方から走って近づいてきた。

何か慌てている様子なので一時ためらっていると、その人物は女性だと認識された。もしかしたら停めた自分の車のライトでもつけっぱなしなのを注進しようと急いでいるのかもしれないと、呆気に取られて見ていた。

ところがその女性は洞穴入り口までやって来ると、入り口の向かって左にある「観音石像」の前に何やら小銭を置くと手を合わせたのだった。

何だ、観音様にお賽銭を上げるのを忘れていたのだ――私はそう思い納得したのだが、それでも慌てて向かって来た様子には腑に落ちないものを感じていた。

するとその女性は私たちの所へやって来て、カメラで私たちを写そうかというように、しきりにカメラ(スマホ)を寄越せというような仕草をするのだった。

あれ、この女性は外国人だ!――と思ったのだが、するがままにさせ、何枚かの写真を撮ってもらったのだ。女性の年齢は40代半ばだろうか、肌がつやつやしており、髪の毛は茶髪に近い。

お礼を言いながら拙い英語で「What countory are you from?」(どこの国から来たの?)と聞いたら、

「Hong Kong! Not chinese!」

と言う。香港は分かったが、Not chinese!を繰り返したのには驚いた。

香港人は大陸の共産中国を強く否定していることが彼女の口ぶりからよく分かった。

しかしもっと強く感じたのは、こんな辺鄙も辺鄙な「パワースポット」としてSNSなどに取り上げられるようになった場所にわざわざ香港から訪れるという世界の狭さであった。

SNSの拡散力には脱帽せざるを得ないことを改めて思った次第である。

 

 

 

 

 

 

 


「右田守男『サツマイモ本土伝来の真相』を読む」への追記

2023-11-10 14:00:07 | 鹿児島古代史の謎

昨日はこの秋に読むべき2冊の歴史本のうち、右田守男氏の『サツマイモ本土伝来の真相』を紹介した。始

右田守男氏の鹿屋市高須郷の有力郷士であった先祖「右田利右衛門」こそがサツマイモを導入した始祖であり、世上に膾炙されている「カライモおんじょ」こと山川郷の漁師「前田利右衛門」ではなかったという説に私は賛同したのだが、右田氏から出版に当たって、私が当時氏に送った書簡をあとがきに載せてよいかとの申し出があった。

私は即座に快諾したのだが、実をいうと右田論文への感想を書いた手紙の細かな点までは記憶に残していなかった。もちろん右田説への賛同がその内容なのだが、コピーしていなかったので今回上梓された書籍を贈呈されて改めて細かな点まで再確認したのであった。

ここにその内容を「追記」として載せることにした。ただし全体で約2500字もあり(同書264~269ページ)、挨拶的な部分と内容的に重複する部分は(中略)としてカットした。(※文中の「利右エ門」は「利右衛門」と同じである。)

《 前略 大隅61号への論文投稿、お疲れさまでした。

(中略)大隅第61号の最大の論文は右田さんの「続・カライモおんじょ前田利右エ門説異論」でしょう。

(中略)カライモの伝来の時期・関係人物・経緯については、薩摩半島の半農漁師であった前田利右エ門であるとしてほとんどの人が疑いを容れなかったのですが、翻って見ると私もその一人でして、右田さんの論考によって蒙が開かれた思いがします。

生まれ故郷と言われる山川町の岡児が水には立派な墓があり、また同じ町内には「徳光神社」が建立されて祭神として祭られています。大隅史談会の会長だった時に10名くらいで山川・指宿の史跡巡りをしましたが、私をはじめ誰一人疑いを持つ人はいなかったのが現実です。なにしろ墓があり祭神として祭る立派な神社があるのですから、舞台装置は完璧なのですよ。

(中略)右田さんはたまたま先祖の家系図の中に「利右エ門」がおり、中学生の頃に見たという「朱印状」の存在に後押しされ、また、先祖調べの情熱に促され、ついに「右田利右エ門」説に到達されたのは敬服に値します。この高須を所領に持った右田利右エ門が島津義久(注:島津氏第16代。1533~1611年)から琉球渡航の朱印状を受け取ったらしいことは、論考によって理解するに至りました。

(中略)当時(注:徳川政権の初期)の世相としてキリシタンの急増、それを支える海外宣教師の国内流入に手を焼き始め、ついに海外からも国内からも渡航を禁止する鎖国令、それに伴う大船建造禁止令を矢継ぎ早に出さざるを得なかった時代相の中で、南海に開けた島津氏の動向に幕府は極めて神経質になっていたのです。

(中略)右田利右エ門が右田さんの推論するように、「密使・御庭番」のような存在であったならば、その琉球交易・交渉の担当者(責任者)であった可能性が高く、そうであれば交渉・交易の内容についての「密書」は握りつぶされ、あまつさえ密使であった右田利右エ門の姓名も消されたと考えるのが至当でしょう。

したがって島津方の公文書類からは右田利右エ門関係の記録は削除され、「御公儀」である徳川幕府からの記録開陳を余儀なくされても「知らぬ存ぜぬ」と突っぱねることができたのだと思います。

琉球からのカライモ導入もその流れから見れば、本来は琉球王も他国への持ち出しを禁じていたのではないか、それを言わば戦勝気分で無理矢理に種芋を献上させ、藩内では御説のように1610年代に栽培が始まった。

そして藩主家久(注:島津氏第18代。1576~1638年。妻子を江戸に住まわせる参勤交代を提案した。)が特に珍重していたようですが、この人もおそらくは徳川氏を含めて他国への持ち出しをさせなかったはずで、言わば一種の「専制栽培・特許栽培」で秘密にしておきたかったのではないでしょうか。徳川氏に知れた時に、琉球から持って来たとは言えない時代相が思われます。

(中略)まだまだ御公儀の威令にはびくびくしていなければならなかった時代だったのです。

(中略)末筆になりましたが、右田さんの今後の調査研究に進展があるように願ってやみません。

平成30年8月末日 松下高明拝

右田守男様 》


この秋、2冊の歴史本を読む

2023-11-09 20:27:50 | 鹿児島古代史の謎

今年の秋、神奈川県在住で所属していた大隅史談会に寄稿していただいた右田守男氏と、こちらは直接の関わりは持たないのだが邪馬台国関連の著書を出した天川勝豊氏の上梓した本の2冊を読むことになった。

 1【右田守男『サツマイモの伝来の真相』を読む】

右田守男氏のは「カライモおんじょ」と鹿児島弁で称されている「前田利右衛門」の素性への異論である。

私が会長を務めていた大隅史談会の研究誌「大隅60号」(2017年4月発行)に寄稿したのが最初で、前年の秋、右田氏が拙宅を訪れて氏の実家の系図と共に切々と寄稿文の内容を語って聞かせてくれた。

そこで是非とも論文に纏めて大隅60号の出版に間に合うあうように送ってくれないかと慫慂したところ、氏は急ぎ論考を仕立てて寄越したのだった。

その内容はーー山川徳光神社に祭られている人物は決して琉球からサツマイモの苗を持って来て鹿児島に広めた恩人ではなく、鹿屋市高須の郷士であった右田利右衛門こそが琉球から持参して高須を始め大隅地区に広めた先駆者であったことを自分の家に伝来して来た古系図に即して立論したのが氏のまとめた『サツマイモ本土伝来の真相』である。

※『サツマイモの伝来の真相』は東洋出版刊、2023年10月17日発行

右田氏の先祖は代々高須の士族であったが、その先は藤原鎌足であったという。ただし、鎌足を鼻祖とする士族は大変多く、ほとんどは傍系のまた傍系というような繋がりでしかないが、とにかく鼻祖を藤原鎌足としており、源平以降の平安末期からの士族系譜とは一線を画している。

右田家に残されていた系図ではサツマイモ伝来の時期に3人の官途名「利右衛門」がいた。右田利右エ衛門尉秀長・同秀純・同秀門である。親子3代で、秀長は寛永10年(1633)死亡、秀純は慶長11年(1606)誕生、寛文4年(1664)死去、そして秀門は寛永13年(1636)の生まれ。

3代にわたりすべて官途名は「利右衛門」であった。特に祖父の秀長は慶長7年(1602)に当時の薩摩藩主島津義久の御朱印状が下され、「琉球国買整御用物(琉球国での御用物を買い整えた)」という。

この藩主が欲した「御用物」の中身は不明であるが、その中に薩摩芋の苗があったとしてもおかしくはない。事実、1609年に薩摩藩が「琉球征伐」を敢行し、琉球王を従えたとき、薩摩藩士が帰藩する前に薩摩芋の苗を受け取ったかのような記述があるのだ。

一般に言われている薩摩半島山川の漁師「前田利右エ門」が琉球から持ち帰り、故郷に広めた――とする説より約100年も前に右田利右衛門によってすでに高須を起点にして大隅半島に薩摩芋の栽培が始まったと考えた方が説得力がある。

そもそも漁師が「前田」という姓を名乗ることの方がおかしい――というのは私のみならず、多くの識者が感じていたことであった。証明するような古文書もない。

ただ幕末の薩摩藩地歴書『三国名勝図会』の山川郷には「利右衛門甘藷の功」という項立てがあり、

<利右衛門は山川郷大山村岡児ヶ水(おかちょがみず)の漁戸なり。寛永2年(1705)、琉球より携えて帰る。これより甘藷ようやく諸方にひろまり、人民その利益を蒙るといへり。利右エ門、寛永4年(1707)7月死す。(中略)その苗孫いつの頃にか絶えて無し。>(熊本青潮社版、第2巻506ページ)

と記されている。

士族ではなく漁戸すなわち漁民だとしているのだが、「利右衛門」という士族に特有の官途名は有り得ず、例えば「佐吉」とか「弥助」とかいう名なら分かるが、利右衛門まして「前田利右衛門」はもっとあり得ない。

しかも帰郷してからわずか2年後には亡くなっているのだ。新規の栽培を普及するには余りにも短すぎる一生であり、これも不審である。わざとサツマイモの琉球からの伝来の真相をあいまいにするかのような書きぶりである。

このような点から右田氏は「琉球からサツマイモ(の苗)を持参し、領有する高須一円に栽培を試みて成功したのは戦国末期から寛永の中期まで高須を治めていた右田利右衛門尉(じょう)秀長・秀純・秀門の三代で、彼らこそがサツマイモを伝来し普及させたカライモおんじょこと前田利右衛門であった」と結論付けている。

私はこの説に大いに与したいと思う。(※なぜ右田氏の功績を書かなかったのかは、一言でいえば、徳川新政府に対して薩摩藩と琉球との交易上の利益に関しては秘密にしておく必要があったから、だろう。)

もう1冊は天川氏の『邪馬台国、それは・・・の地に』(学修院発行。2023年7月7日刊)の紹介は次回に。


すじ雲

2023-11-07 15:32:32 | おおすみの風景

今日は午前中に葉ボタンとキンギョソウの苗をあちこちに定植し、午後になってから何本かの花木の剪定をしたが、2時半の頃、剪定を終えて玄関から空を見上げると、きれいなすじ雲が出ていた。

この秋に見る「初すじ雲」だ。

11月に入ってから例年の10月をもう一度初めからやり直したかに思われた気候も、今朝からは何となく風が秋めいて感じられていたが、それでも最低気温は16℃と高めだった。

だが上空には大陸の高気圧由来の寒気がしのび寄って来ているのだろう。

一昨日の夜は若干の雨が降り、乾燥していた庭にうれしいお湿りがあったのだが、空気中の湿度を高めるほどの降水量ではなかったので、高層の寒気がそのわずかな湿り気を氷に変えたに違いない。

澄んだ青い空の中に上空の風向きに合わせて規則正しく並んだすじ雲は、いよいよこの秋の深まりを感じさせてくれる。

天気予報では今週末にも北海道では平地で雪が降るそうだ。

3か月予報では今年も暖冬だというが、そんな年に限ってとんでもない積雪をもたらすこともあるから油断はできない。

積雪といえばこちらでは標高1200mの高隈山と、標高1100mの桜島の冠雪が冬の間に2,3回は見られるのが普通なのだが、去年は一度もなかったので今年こそはと期待している(切望に近い)。


あいら敬老会は114回目(2023.11.05)

2023-11-05 21:26:44 | おおすみの風景

鹿屋市吾平町の敬老会は今年で114回を迎えた。

今年は吾平振興会館で行われている各種教室や同好会が一年の成果を発表する「文化祭」と同時に行われた。

今回、いつもは別の日に行われる敬老会と文化祭を同時にやることになったわけだが、違う日に改めて開催すると、勢い人と人との接触の回数が増えるからということのようだ。

それは確かに一理がある。しかも最近ではインフルエンザも流行って来ているので、タイムリーな考え方には違いない。

それにしてもこの吾平町で古くから行われている敬老会、その起源は何と明治42年だそうだ。明治42年は西暦では1909年だから間違いなく114回を数える。

国の祭日「敬老の日」は、兵庫県の多可町で戦後まもなく行われるようになった敬老会の日取りが9月15日だったことに倣い、昭和41年(1966年)に制定されたのだが、あいら敬老会は2倍の歴史があることになる。

今日は午前9時から振興会館の体育館(多目的ホール)において約1時間を敬老会に当て、その後10時過ぎから午後3時まで、同好会を中心に歌あり、踊りあり、演奏ありの出し物が催された。

同好会としては最も人数の多い「ウクレレ同好会」の舞台発表の様子。数えてみると指導者を入れて18名が舞台狭しと並んでウクレレを奏でた。

後方の横断幕には「第114回美里(うましさと)あいら敬老会・第45回美里あいら文化祭」とある。

間違いなく敬老会は114回とあり、こんなに古くからある敬老会は世に珍しい。

何でも明治42年当時の村長が「敬老なくして、村民の融和と発展はない」というような理念によって始めたそうである。当時の村長も偉いが、これを絶やさずに続けて来た吾平町民も偉い。

私が所属する「美里(うましさと)うたごえ同好会」も指導者を入れて10名で4曲を合唱した。伴奏は指導者による生ピアノ演奏である。

今回は敬老会と合同ということもあり、私ともう一人がカラオケで舞台に立った。

振興会館にはカラオケの設備が無いのでモニター画面はなく、持参したカラオケCDをセットして曲だけは流れるのだが、フルコーラス(3番まで)の歌詞をそらんじて歌わなければならず、それなりに練習もし緊張もしたが、何とかクリアーできたのでほっとしている。

11月に入ってから10月とは打って変わって連日夏日が続くが、冷え込みが強いよりかは、かえって人の出は多かったように思う。