鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

かのやばら園と農業祭

2023-11-22 15:49:08 | おおすみの風景

かのやばら園では今度の日曜日(26日)まで「秋のばら祭り」が開催されている。

最終日の26日は混雑するだろうと、今日午後から出かけてみた。

4月に年間パスポートを購入していたので入園はスムースだ(当日券は大人310円)。

園の中に入るとベンチや顔出し看板などいろいろな仕掛けがしてあるが、これは明日の農業祭に向けてのものらしい。

園内のバラの花はほぼ終了間近で、これと言って足を止めて見るほどの咲き方はしていない。

だが、赤い花の蕎麦が満開だった。

去年は菜の花が咲いていたテリトリーに今年は思いがけない花が咲いていた。

鮮やかな赤ではなくピンクに近いほっこりとする色合いの花だ。

長野県の研究者がヒマラヤに咲いている赤そばを、日本に合うように改良して今の赤い花の蕎麦が生まれたという。

そば粉にして打って食べるのは白蕎麦と変わらないが、腰が強いそうである。

かのやばら園のこの赤蕎麦は収穫後どうするのか聞きそびれたが、粉にして打つのであればぜひ賞味したいものだ。

 <メモ>

かのやばら園の隣りの広場では、明日はかのや農業祭が開催され、9時から格安な牛肉の販売があり、その後10時からは牛・豚など名産品の試食販売がある。出店も盛りだくさんだ。

ばら園と広場のある「霧島が丘公園」へのルートは、8時半から17時半まで高須の「野里入り口」から横山の「横山入り口」への一方通行なので気を付けなければならない。

抽選券は10時から先着2500名に配られるという(14時に抽選開始)。

イベントとしては11時から12時にかけて「芋洗い坂係長」と鹿屋出身の徳永英明の物まね「英明」がエントリーされているという。「英明」の出演は久し振りだ。


幻と化した大隅線

2023-11-19 15:12:50 | おおすみの風景

今朝の新聞に旧国鉄(現在はJR九州)の「肥薩線の開業120周年、指宿枕崎線60周年」という記事があった。

九州でもかなり古参の肥薩線が日露戦争の頃(1904~5年)に開業されたということは知っていたが、指宿枕崎線が1963年(昭和38年)に全線開通を見たというのは知らなかった。

120周年を迎えた肥薩線はもともと鹿児島本線の一部だった。熊本県の八代市から海辺を離れて球磨郡の人吉から南へ峠を越えて鹿児島県に入り、栗野町・湧水町・霧島市を通って錦江湾沿いに鹿児島市へとつながていたのである。

現在の鹿児島本線からしたら随分と山中を遠回りしていたのだが、なぜ山中を迂回したかというと、それは日露戦争が関係しているという。

それはロシアの海軍(バルチック艦隊)は当時世界でも最優秀の性能を持っており、日本近海にまでやって来ることが可能だったことにある。

その艦隊が東シナ海に到達した時、海辺を走る鉄道では「艦砲射撃」の餌食になるという心配があった。そんなことあるものかと思いがちだが、事実、東郷平八郎率いる日本艦隊がバルチック艦隊と衝突したのは、九州北部の対馬海峡だったのだ。

運よく対馬沖のバルチック艦隊はほぼ壊滅したのだが、もし向こうが勝っていたらかの艦隊は九州の沿岸部を砲撃して回ったかもしれない。その際、真っ先に攻撃されるのは都市部(の兵器工場など)だろうが、沿岸部の輸送動脈である鉄道も寸断されていたに違いない。

そのことを考えての人吉周りの鹿児島本線全線開通だったのだそうだ。120年前の明治人は読みが深かったというべきだろうか。

一方で指宿枕崎線は昭和11年(1936)までに指宿市の山川駅まで開通していたのだが、さらに今の終着駅である枕崎駅までの区間を戦後になって延伸し、ついに昭和38年(1963)の10月に開通した。始発の西鹿児島駅(現在は鹿児島中央駅)から枕崎駅まで36駅、87、8キロもある。

令和5年(2023年)現在、指宿枕崎線は全線が開通してちょうど60周年となる。

その一方で、大隅半島を走っていた旧国鉄「大隅線」は昭和62年の3月に全線が廃止となった。

大隅線の鹿屋市の古江駅から志布志駅までの区間48キロは、先に昭和13年に「古江線」として開通していた。この古江線は、大隅半島を東の外れの志布志港から西の外れの古江港までを走る大隅半島の大動脈と言える存在だった。

古江線は錦江湾沿いに延伸され、昭和36年には垂水市の海潟温泉駅に至り、古江線は「大隅線」と改称された(志布志-海潟間64キロ)。これで大隅半島の主要都市である志布志市・鹿屋市・垂水市が一本の路線でつながり、住民の公益に大いに資することになった。

指宿枕崎線が全線開通したのはその2年後の38年で、枕崎市は県都鹿児島市と直接つながることになったのだが、これを知った大隅の住民の中に「大隅も県都と直接つながるべきだ」と考える向きがあったのだろう、「延伸して国分までつなげよう」との声が大きくなった。

これを受けて海潟温泉駅からの延伸工事が始まったのである。この工事が実に難工事であり、国分駅までの33キロ余りの距離に鉄路を敷くのに9年の歳月を要している。指宿枕崎線では山川駅から枕崎駅までの同じ30キロ程度の工事期間がわずか2年だったのに比べると雲泥の差である。

垂水市から国分市までの区間は鹿児島湾沿いの海に面したカルデラの淵を通ることになり、トンネルの数がわずか33キロの距離にたいして19か所もあったのが工期が長期にわたった最大の要因だろう。

ともあれ昭和47年(1972)には、薩摩半島側でも大隅半島側でも県都鹿児島市への鉄道利用が可能となったわけである。

しかしこの時代頃から、鉄道輸送はトラック輸送にとって代わられつつあったこともあり、もともと大隅の各市から鹿児島市や国分市(現・霧島市)への旅客需要が極めて少ないこともあって、赤字路線になるのに時間はかからなかった(国分方面に延伸した時点で赤字になったとも考えられる)。

15年後の昭和62年(1987)、ついに大隅線(98キロ、33駅)は廃止のやむなきに至った。同時にまた志布志市と都城市を結ぶ志布志線も廃止になった。

大隅半島から鉄路が消滅し、大隅線は幻と化した。あれから36年、いまだに大隅線を惜しむ人たちがいるのは事実である。

旧大隅線「吾平駅」の跡はちょっとした公園になっている。まだ鉄路が敷かれたまま残り、そこに当時の車両(ディーゼルカーと車掌車)が乗っているのは大隅線の駅跡としては珍しい。

車両の左側が旧プラットホーム。駅舎はさらに左手の広場にあったが、駅舎の跡を思わせるものはない。

ただし吾平駅から志布志側(写真では手前)に二駅行った「高山駅」跡には駅舎がそのまま残されている。


時雨か木枯らしか(2023.11.18)

2023-11-18 09:27:44 | おおすみの風景

昨日は一日中、そして今朝も同じような時雨模様の天気が続いている。

昨日は何度も雨が降っては止み、曇ってはまた降るという時雨のパターンが5回程も繰り返された。

北西の風もそれなりに強い。この風の強さが8m毎秒を越えたら、関東などでは「木枯らし1号」と言われるのだろうが、こちらではその名称はない。(※名称が無い理由は、こちらでは平地で木の葉が落ち尽くす木々が少ないからだろう。真冬でも青々した広葉樹が圧倒的に多い。)

今朝は夜中にぱらぱらと音を立てて降った雨は上がっていたが、かなり風が強く、8mには届かないものの5~6mは十分にある。気温の方は9時に玄関前の温度計を見たら10.5℃だった。

体感温度は風速が1m増すごとに1℃下がると言われており、それだと今朝9時での体感温度はほぼ5℃ということになる。晩秋と言うべきか、初冬と言うべきか迷うが、体感的には初冬だろう。

我が家の庭の植生では、夏から初秋までを彩ったポーチュランカや鳳仙花はごく一部を残して終了し、今は冬用の葉ボタンと、来春向けのキンギョソウが花壇の大部分を占めている。

また菜園の野菜はほぼすべてが寒さにめっぽう強いアブラナ科の野菜で、大根・ブロッコリー・小松菜・タカナ・ナバナなど。その他の科目の野菜では春菊と小ねぎが育っている。

春から夏の時期だと菜園の野菜たちに競うかのように不用な雑草が旺盛に生えて草取りに難儀をするのだが、この時期になると彼らは撤退し始め、寒い中だが、一度引っこ抜いたらほぼ完全に消滅したのでほっとしている。

寒くなればなるほど自己伸長を果たしていくアブラナ科の緑色野菜たちの畝を眺めるのは、この時期ならではの楽しみの一つだ。

寒さに強いと言えば、西側裏の和室に面した花壇(とうより緑地帯)に一本だけ残ったアジサイが花を枯らさずに頑張っているのには驚かされる。

ここに植えてあったアジサイは5本ばかりあって、その内4本は日当たりの良い表の庭に植え替えたのだが、表庭のアジサイは高さ1m内外に育ち、5月から7月にかけてそれなりに花を付けたあとは真夏を迎えた頃から花は茶色く変色して見る影もない。

植えるところが無くてここに残しておいたこの一本も、たしか同じ頃に青系の花を咲かせたはずだった。直射日光が一日に1時間程度しか当たらないこの場所だから、背丈は50センチ程度と低く、花着きも悪かったのでほとんど鑑賞する気にもならないレベルのアジサイだった。

ところが10月になって「まだ咲いているとは?!」と気になり始めたのである。いつの間にか錆びた赤色に代わっていたのだが、その後は一向に茶色に変色する気配はなく、すでに10℃以下の気温が何度も襲ってきたにもかかわらず、今もこの状態なのだ。

今後氷点下を経験したらどうなるのか、ちょっとした見ものである。

 


無人機は鹿屋から嘉手納基地へ

2023-11-16 15:12:41 | おおすみの風景

海上自衛隊鹿屋航空基地で展開されていた米軍の無人飛行機「MQ-9」9機は、去年の11月から運用されていたが、ちょうど1年の今月14日を以て鹿屋基地からは撤収され、沖縄の米軍嘉手納基地へ移駐された。

9機のうち7機は自力で飛んで行ったらしいが、2機については分解されて運ばれたようだ。

1年前に鹿屋基地に配属された時は全機がこちらで組み立てられたのだが、分解されたもの以外は沖縄へ高飛びしたことになる。

もちろん基地周辺に張り付いていれば、沖縄への移駐に飛び立つのが見られたのだろうが、何時飛び上がるかという情報は当地鹿屋市には知らされていないので、事実上不可能だ。

ことほど左様に「軍事機密」の壁は厚い。

8月に着陸しようとした無人機がオーバーランして何かの突起物にぶつかり破損したのだが、これについてどういう状況だったのか、破損個所はどうなのか、など普通に知りたい情報は米軍からはなしのつぶてだったのだ。

鹿屋基地から南西方面への1年間にわたる情報収集は、台湾を含む南西諸島の安全保障面にかなり貢献したと思うのだが、その点についても情報は全くない。

軍務にやって来たアメリカ軍人は200人ほどもいたらしいが、市民との交流もきわめて限定的で、友好を深めようとしていた市民や団体には肩透かしのようだった。

昨年やって来てさほど日の立たないうちに女子高生の乗ったバイクと米軍用車両が接触したとかで一時的に市民の不安が噴出したが、それ以後は市民を巻き込んでの事故も事件もなく、さほどの騒音を立てない無人機の存在は、結局、市民の関心の外にあったように思われる。

今度移駐先に選ばれた嘉手納基地は沖縄の米軍基地では最大で、今度また無人機の配属が決まったことで基地機能はさらに増加し、東アジアで一番の米国空軍基地になったのではないか。

沖縄の負担がまた増えそうだ。米中もし事(台湾有事)あらば、真っ先に弾道ミサイルの標的になるに違いない。

ウクライナ戦争に加えてパレスチナ紛争が先月勃発したが、今のところアメリカバイデン政権の双方へのコミットメントは限定的だ。一番大きな対中覇権争いが控えているから、むやみに動けないのだろう。

いや、動かないでいて欲しいものだ。「台湾有事は日本の有事だ」と考える保守系の政治家は多い。しかしアメリカが主導して軍事力を行使する前に日本として両者の間に立ってやることは多々ある。

それこそが日中2000年の交流の歴史に立脚し、近年の技術協力・経済発展を支えた外交の力ではないか。


この秋、2冊目の歴史本を読む

2023-11-13 10:57:26 | 邪馬台国関連

先に書いた「この秋、2冊の歴史本を読む」の1冊目は右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』であったが、2冊目は天川勝豊著『邪馬台国それは、、、の地に』だ。

10月半ばにとある人が我が家を訪れ、「実はこんな本を書いた人がいて寄贈された。よかったら1か月くらい貸すので読んでみて」と置いて行った本である。

私の著書『投馬国と神武東征』(2020年10月刊)を購入し、さらに最初の著作『邪馬台国真論』(2003年刊)をと言われたが、こちらはすでに絶版になっており、手元には手つかずの蔵書として1冊があるのみだったのでお断りすると、「それなら貸してください」と、天川氏の著書とバーターでということになった。

この著書のタイトル『邪馬台国それは、、、の地に』には面食らったが、それよりも著者のペンネームと著書の分厚さには驚かされた。

ペンネームは「一一一一一」と漢数字「一」の羅列に過ぎず、それを「みついかずひと」と読ませるのだ。隣りにカッコつきで「天川勝豊」とあるので本名は分かるのだが・・・。

本書のページ数は1冊で700ページに及ぶ。大きさはB5版で、各ページの字数もやや多く配され、普通の単行本である46版に換算すると、約1割は多いから800ページに迫る大部である。

これを著者は出版社に拠らずに自費出版しており、発行所を自分の経営する学習塾になぞらえて「学修院」と名付けている。その発行所の場所は宮城県仙台市である。

そのあたりのことは出版上の経済性の問題であり、著者本人の選択であるからこれ以上は穿鑿を容れない。

※一一一一一著『邪馬台国、それは、、、の地に』(2023年7月刊、(有)学修院発行)

さて、本書の内容を私なりに吟味し、取り上げてみたい。

と言ってもすべてをとなると大変な読後感になってしまうので、主として半島の帯方郡にあった魏の郡治所から使者がどのように九州の倭国に到ったか、つまりいわゆる「行程論」を中心に評価することになる。

【帯方郡から狗邪韓国までの7000里】

朝鮮半島の帯方郡は今日の漢江流域にあり、これは魏によって排除される前の公孫氏によって置かれた植民地である。これを踏襲した魏はここから倭国(九州島)に数回の使者を送った。

この見聞をもとに記録されたのが、帯方郡から半島南岸の狗邪韓国までの7000里行程である。

これを私は水行つまり船による行程と考えるのだが、天川氏は公孫氏の時代から水路をとったり陸路をとったりしており、全部の行程を水行のこともあれば、陸路のこともあり、どちらとも言えないと考えている。

氏はしかし「乍南乍東(東しながら、南しながら)」という語句について曲解してしている。

この「東しながら、南しながら」という表現は、韓国の西海岸のリアス式海岸をうまく表現した語句なのだ。手漕ぎの船の場合、運航は「沿岸航法」であり、陸地が見える範囲の沖合を航行することになる。

朝鮮半島の西海岸はリアス式の規模の大きなもので、日本の三陸のリアス式海岸なら凸凹は規模が小さいので(湾入が浅いので)無視でき、北から南へあるいは南から北へ一直線で水行できようが、向こうのは湾入が極めて大きく、言わば半島に近いため凸凹に従わなければ縹渺とした沖に流される危険がある。

とすれば船は海岸の凹凸の地形に従って進めることになる。

このことを表現したのが「乍東乍南」なのである。半島の沖合を一直線に南下しているかと思えば、半島の湾入部に入って(東して)、湾奥の寄港地に寄って行く――これが「乍東乍南」の意味である。

このことを無視して「海路もあったが陸路もあった」という両論併記はいただけない。第一、陸路では魏の天使から邪馬台国への賜与品として預かった大量の物資を運ぶのは危険極まりないのだ(p239~251)。

【九州島の末盧国と伊都国】

次に大きな行路上の問題点についてだが、多くのというよりかほとんどの研究者が、末盧国(唐津市)から東南ではない糸島市に「伊都国」を比定したことである。

本著ではこの2か国について私と同じく大いなる疑問を投げかけている(p261~280)。

結論から言うと、本書は末盧国こそが多くの論者が「伊都国」に比定している糸島市だとする。そして「伊都国」はさらに九州東南岸の福岡県京都郡(みやこぐん)あたりとしている。今日の刈田町・みやこ町である。

末盧国が糸島市だと、たしかに一大国(壱岐国)から海路1000里の範疇には入っている。

しかし次の「伊都国」を福岡県京都郡に比定したのでは、末盧国(糸島市)で船を捨ててわざわざ陸路をとることになったのか、首を傾げる。刈田町にしろみやこ町にしろ海に面しているのだから、壱岐から直接船で行けばいいだけの話である。

私がかつて出版した『邪馬台国真論』において、「伊都国が糸島市なら、なぜ唐津である末盧国で船を捨てて歩かねばならないのか。壱岐から船で直接行けるのに・・・?」と同じ疑問を感じざるを得ないのだ。

ところが本書の278ページにはこう書いてある(一部に私の補いがある)。

<ところで、末盧国の国都は唐津に比定し、その松浦川沿いを南東に進み、伊都国を有明海沿岸に比定する説があるが、これならある程度、理に適っているとは言えよう。方向も東南だし、各々(末盧国と伊都国)が海に面しているが、別の海だから陸路にするしかないからである。

ではその先の奴国はどこか、肝心の邪馬台国はどこなのかとなると、一人一つの邪馬台国だから、その奴国、邪馬台国の比定で、やはり矛盾が出て来てしまっている。

だが単純な伊都国=前原という説よりは、はるかに合理的であろう。しかしこの場合、多く(の論考で)は狗邪韓国~対馬国間の距離が問題になるし、水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕むことになる。したがって末盧国を松浦半島に比定した場合は、どう説明しようとも、他をどのように比定しても理に合わないことになるのである。>

この引用文の第一段落は私の説に非常に近い。私は末盧国を唐津に比定し、伊都国への「東南陸行500里」を解釈して松浦川に沿って上った所の「厳木町」を伊都国に比定している(ただし私は伊都国を「イツ国)と読む)からだ。

ところが第二段落で「その先の奴国も邪馬台国もどこか、どの説もやはり矛盾している」と述べ、第三段落で「水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕む」と述べているのだが、筆者は「水行20日、水行10日、陸行1月」の解釈に誤りがあるのに気付いていない。

この水行云々は、不彌国からの行程としているのだが、そもそもこれが間違いのもとである。

原文ではその部分が「(奴国から)東行至不彌国百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有2千余家。南至投馬国、水行20日。(中略)南至邪馬台国、女王之所都、水行10日、陸行1月。(後略)」とあるのだが、帯方郡から不彌国までの行程は距離表記であり、次の投馬国及び邪馬台国は日数表記になっている。

この違いを考える必要がある。もし帯方郡から邪馬台国まで連続的につまり郡使がやって来たとおりに記すのであれば、そのまま距離表記で表現すべきであろう。

【距離表記の1万2千里と、日数表記の水行10日・陸行1月は同値である】

それをしていないで日数表記になっているということは、不彌国までの行程を踏襲していないわけだから帯方郡からの距離を距離表記とは別の日数表記で行程を表したということである。

要するに「帯方郡から狗邪韓国を経て(中略)不彌国まで距離表記で1万700里」を記述したあとの投馬国も邪馬台国も、どちらも帯方郡からの所要日数ということである。

そしてもう一つ倭人伝には帯方郡から邪馬台国までの距離を「万2千里」(1万2千里)とした記述があるが、これと日数表記の「水行10日、陸行1月」とは同値であることに気付かなければならない。

水行の10日とは帯方郡から朝鮮半島の西海岸を南下し、対馬海峡(朝鮮海峡)に入ってからは東へ航路を取り、朝鮮半島南岸で倭国に属する狗邪韓国に到り、そこからは対馬・壱岐を通って末盧国(唐津市)までの1万里なのである。

※海峡渡海1000里という距離表記は日数表記では水行1日のことである。

なぜなら、海峡を渡る際は海峡の途中で船を漕ぐのをやめるわけにはいかず、一日のうちにわたる必要があるので、海峡の距離表記1000里を日数表記の1日にしたのだ。したがって朝鮮海峡3000里は日数表記では3日となる。

これを帯方郡から狗邪韓国までの7000里に適用すると日数表記では7日。以上により帯方郡から末盧国まで距離表記では1万里、日数表記では10日となる。

投馬国も同様に帯方郡から水行20日の場所にある国ということになる。

ただしこの日数表記には「悪天候による出航待ち」の日数は含まれない。そんなことをしたら1日待ちもあれば1週間待ちもあるので、日数の書きようがない。あくまでも出航待ちなしの理論値である。※

本書の著者は残念ながら投馬国は「不彌国から南へ水行20日」と考え、また邪馬台国は「投馬国から水行10日、陸行1月」と考えている。

その結果、投馬国は薩摩半島部であり、邪馬台国は宮崎県域であるとしている。邪馬台国を宮崎県とした場合、「水行10日、陸行1月」とあるうちの「陸行1月」を「陸行1日」と改変している。そうせざるを得なかったのだが、ここはやはり首を傾げるところだ。

~(追記)~

著者は「あとがき」(同書700~701ページ)にほとんどの研究者が無視している例として次の箇所を上げて批判している。

<対馬国から一大(壱岐)国に向かう時には、海(対馬海峡の東水道)を渡ることになるのだが、その海のことが魏志倭人伝には「瀚海(カンカイ)」と書かれている。この瀚海とは「広い海」と訳されているが、では何故そこが広い海なのか。物理的には決してそうではない。むしろ朝鮮半島にあった狗邪韓国と対馬の間に広がる海(対馬海峡の西水道)の方が広いのが現実である。だが実際にはそのように、対馬と一大(壱岐)国での間の海で瀚海と書かれているのである。

どうしてそのような記述になっているのか、それを解明し解説した書は無い。>

こう書いているのだが、その部分は原文(読み下し文)では「(対馬島から)また南に一海を渡る、千余里。名付けて瀚海と曰う。」である。

この「名付けて瀚海と曰う」の原文は「名曰瀚海」で、「名を瀚海と曰う」でもよいのだが、この時の「瀚海」は固有名詞であり、決して形容的な意味での「瀚い海」つまり「広い海」ではないのである。

「名曰」(名を~という)を使った漢文は、同じ魏志倭人伝に「其大官曰卑狗」(その大官を彦と曰う)や「官亦曰卑狗」(官はまた彦と曰う)があり、倭人は国の首長を「彦」と言っていたとある。

「彦」は倭人特有の首長を表す固有名詞であり、同様に「名曰瀚海」の「瀚海」も固有名詞であることが分かる。

つまり対馬から壱岐までの海峡を、倭人(の航海者)は「瀚海」と名付けて呼んでいたのであって、決して他を圧倒するような広さの海というような形容ではない。

今日でもさして高い山ではないのに「高取山」とか「高尾山」と名付けているのと同じ類であろう。航海者にとって対馬から壱岐までの海峡は相対的に「広い海」に感じたから「瀚海」と名付けたに過ぎず、客観的な命名ではない。したがってこの部分は特に解釈に困ることはない。

※ただし当時の倭人が「瀚海」という漢字を知っていたとは思われない。おそらく「広い海」「広か海」のように言っていたのを倭人伝の記述の際に魏の史官(陳寿)が「瀚海」と当て字したのだろう。