昨年の9月8日にブログ「伊都国を糸島としちゃあ、お仕舞いよ」を書いた。
そこでは半島の帯方郡から邪馬台国への行程論では通説の「伊都国は福岡県の糸島市である」が誤りであることを、日本書紀の仲哀紀及び筑前風土記(逸文)を取り上げて示した。
糸島は当時「五十迹手(いそとて)」という豪族が支配しており、仲哀天皇にまめまめしく(いそいそと)仕えたので天皇から国名を伊蘇(いそ)国とせよと言われた。そこで国名を「伊蘇国」としたとあり、後世になって「伊覩(いと)国」と呼ばれるようになったが、それは転訛であり、本来の国名ではない――と書かれているのであった。
日本書紀は西暦720年の編纂で、風土記はそれよりやや後に地方から朝廷に上程されているので、どちらも奈良時代の早い頃に完成を見た歴史書としても地歴書としても日本最古の文献である。
これら二書の間に主従関係、つまり時系列から言えば日本書紀がまず存在し、それを参照して筑前風土記が書かれた(パクった)のかと言えば二書の間にダブっている点は多いが、しかし後者の風土記には独自の「五十迹手(いそとて)は高麗国の意呂山に天降り来し日鉾(ひぼこ)の苗裔である」という情報が盛られている。
いずれにしても両書ともに糸島はもともとイソ国であり、そこを支配していたのは「五十迹手(いそとて)」という豪族だった。したがって糸島市を「伊都国」に比定するのは誤りである、というのが先のブログ「伊都国を糸島としちゃあ、お仕舞いよ」の要点である。
ところがこの「五十迹手(いそとて)」について、日本書紀および筑前風土記では「いとて」と読ませて怪しまないのである。この仲哀天皇にとってまめまめしく仕えたがゆえに「お前の国を伊蘇(いそ)国と呼びなさい」と言われた豪族が「五十迹手(いそとて)」でなくて何の意味があるのだろうか?
「五十」は実は第10代崇神天皇と息子で第11代垂仁天皇の和風諡号にくっきりと使われている。
崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこ・いそ・にゑ)」で垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅(いくめいりひこ・いそ・さち」で、どちらにも共通なのが「五十」である。
この「五十」を「い」としか読まないのが書紀の語法であるが、これはおかしい。「い」としか読まないのであればなぜ「五十」としているのか、全く理解不能である。「い」とだけなら「伊」でも「意」でも「以」でも漢字はいくらでもある。「十」を取り去った「五」でも「い」とは読める。
それをなぜわざわざ「五十」としたのか? 答えは簡単である。仲哀天皇の名付けた「伊蘇(いそ)」こそが糸島地方の本来の名称だからである。「五十」という漢字は残しておいて、わざと「い」とだけ読ませたのである。
ではなぜ「五十」と書きながら「いそ」と読ませずに「い」なのか?
それは崇神天皇が朝鮮半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の出自であることをカモフラージュしたかったからである。
古事記も同様に、崇神天皇の和風諡号は「御真木入日子印惠(みまきいりひこ・いにゑ)」とし崇神天皇のそれを「伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこ・いさち)」とこちらの方は「五十」すら消去している。
古事記にしろ日本書紀にしろ日本(倭国)が唐新羅連合軍に朝鮮半島の白村江の戦で完膚なきまでに敗れて半島の権益をすべて失い、日本(倭国)が建国の昔から日本列島だけが勢力圏であった、したがって日本(倭国)の天皇は歴代にわたって列島において自生して来た。半島由来の王権は一切ないというスタンスを貫いたのである。
そうしないと大陸の唐から「お前の国には大陸から半島に渡り、その後半島で勢力を得てから列島に渡って王権を築いた天皇がいるだろう。けっして万世一系ではないはずだ」と見透かされかねない。
奈良時代の直前に律令制度を取り入れて列島を統一王権のもとで再編しようとした天武・持統体制にとって、「日本の天皇制は列島の中で自生して確立したものである」というテーゼは動かせないものだったのである。
そのための記紀(国史)編纂である以上、崇神王権が半島由来の王権であったことは隠しておかなければならなかった。それが現れているのが「五十(いそ)」を「い」としか読まない方策であった。
以上から崇神・垂仁王権こそが糸島を支配した「五十(いそ)」王権であり、「五十迹手(いそとて)」はその末裔であったことになる。
さてこの糸島は日本書紀の仲哀紀と筑前風土記逸文に記載された「伊蘇(いそ)国」でこそあれけっして「イト国」ではないし、魏志倭人伝の一国「伊都国」であることはない(私は伊都国をイツ国と読み、佐賀県唐津市から東南の山間の町・厳木に比定している)。
私は糸島がもとは「五十(イソ)国」だったことを示すものとして糸島の東に聳える高祖(たかす)山ふもとに鎮座する「高祖神社」を取り上げてみたい。
高祖神社の祭神は現在はヒコホホデミであるが、『日本三代実録』(790年頃完成)の記述によると祭神は「高礒比咩(タカイソヒメ)」である。
「高礒比咩(タカイソヒメ)」とは直訳すると「高貴なイソの姫」であり、礒(イソ)はまさに「伊蘇(五十)」を表している。
この神社は今でこそ春秋に開催される「高祖神楽」で著名だが、その伝統は戦国時代からと言われ、タカイソヒメの祭られた奈良時代以前のものではない。著名な神楽と現在祭られている皇祖のヒコホホデミの前に見失われてはならないのがタカイソヒメの存在である。
※この神社の祭神が皇祖であるホホデミに取って代わられたのは「高祖」が「コウソ」とも呼ばれることから「皇祖」と転用されたのが真因だと思われる。
そこでは半島の帯方郡から邪馬台国への行程論では通説の「伊都国は福岡県の糸島市である」が誤りであることを、日本書紀の仲哀紀及び筑前風土記(逸文)を取り上げて示した。
糸島は当時「五十迹手(いそとて)」という豪族が支配しており、仲哀天皇にまめまめしく(いそいそと)仕えたので天皇から国名を伊蘇(いそ)国とせよと言われた。そこで国名を「伊蘇国」としたとあり、後世になって「伊覩(いと)国」と呼ばれるようになったが、それは転訛であり、本来の国名ではない――と書かれているのであった。
日本書紀は西暦720年の編纂で、風土記はそれよりやや後に地方から朝廷に上程されているので、どちらも奈良時代の早い頃に完成を見た歴史書としても地歴書としても日本最古の文献である。
これら二書の間に主従関係、つまり時系列から言えば日本書紀がまず存在し、それを参照して筑前風土記が書かれた(パクった)のかと言えば二書の間にダブっている点は多いが、しかし後者の風土記には独自の「五十迹手(いそとて)は高麗国の意呂山に天降り来し日鉾(ひぼこ)の苗裔である」という情報が盛られている。
いずれにしても両書ともに糸島はもともとイソ国であり、そこを支配していたのは「五十迹手(いそとて)」という豪族だった。したがって糸島市を「伊都国」に比定するのは誤りである、というのが先のブログ「伊都国を糸島としちゃあ、お仕舞いよ」の要点である。
ところがこの「五十迹手(いそとて)」について、日本書紀および筑前風土記では「いとて」と読ませて怪しまないのである。この仲哀天皇にとってまめまめしく仕えたがゆえに「お前の国を伊蘇(いそ)国と呼びなさい」と言われた豪族が「五十迹手(いそとて)」でなくて何の意味があるのだろうか?
「五十」は実は第10代崇神天皇と息子で第11代垂仁天皇の和風諡号にくっきりと使われている。
崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこ・いそ・にゑ)」で垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅(いくめいりひこ・いそ・さち」で、どちらにも共通なのが「五十」である。
この「五十」を「い」としか読まないのが書紀の語法であるが、これはおかしい。「い」としか読まないのであればなぜ「五十」としているのか、全く理解不能である。「い」とだけなら「伊」でも「意」でも「以」でも漢字はいくらでもある。「十」を取り去った「五」でも「い」とは読める。
それをなぜわざわざ「五十」としたのか? 答えは簡単である。仲哀天皇の名付けた「伊蘇(いそ)」こそが糸島地方の本来の名称だからである。「五十」という漢字は残しておいて、わざと「い」とだけ読ませたのである。
ではなぜ「五十」と書きながら「いそ」と読ませずに「い」なのか?
それは崇神天皇が朝鮮半島南部の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の出自であることをカモフラージュしたかったからである。
古事記も同様に、崇神天皇の和風諡号は「御真木入日子印惠(みまきいりひこ・いにゑ)」とし崇神天皇のそれを「伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこ・いさち)」とこちらの方は「五十」すら消去している。
古事記にしろ日本書紀にしろ日本(倭国)が唐新羅連合軍に朝鮮半島の白村江の戦で完膚なきまでに敗れて半島の権益をすべて失い、日本(倭国)が建国の昔から日本列島だけが勢力圏であった、したがって日本(倭国)の天皇は歴代にわたって列島において自生して来た。半島由来の王権は一切ないというスタンスを貫いたのである。
そうしないと大陸の唐から「お前の国には大陸から半島に渡り、その後半島で勢力を得てから列島に渡って王権を築いた天皇がいるだろう。けっして万世一系ではないはずだ」と見透かされかねない。
奈良時代の直前に律令制度を取り入れて列島を統一王権のもとで再編しようとした天武・持統体制にとって、「日本の天皇制は列島の中で自生して確立したものである」というテーゼは動かせないものだったのである。
そのための記紀(国史)編纂である以上、崇神王権が半島由来の王権であったことは隠しておかなければならなかった。それが現れているのが「五十(いそ)」を「い」としか読まない方策であった。
以上から崇神・垂仁王権こそが糸島を支配した「五十(いそ)」王権であり、「五十迹手(いそとて)」はその末裔であったことになる。
さてこの糸島は日本書紀の仲哀紀と筑前風土記逸文に記載された「伊蘇(いそ)国」でこそあれけっして「イト国」ではないし、魏志倭人伝の一国「伊都国」であることはない(私は伊都国をイツ国と読み、佐賀県唐津市から東南の山間の町・厳木に比定している)。
私は糸島がもとは「五十(イソ)国」だったことを示すものとして糸島の東に聳える高祖(たかす)山ふもとに鎮座する「高祖神社」を取り上げてみたい。
高祖神社の祭神は現在はヒコホホデミであるが、『日本三代実録』(790年頃完成)の記述によると祭神は「高礒比咩(タカイソヒメ)」である。
「高礒比咩(タカイソヒメ)」とは直訳すると「高貴なイソの姫」であり、礒(イソ)はまさに「伊蘇(五十)」を表している。
この神社は今でこそ春秋に開催される「高祖神楽」で著名だが、その伝統は戦国時代からと言われ、タカイソヒメの祭られた奈良時代以前のものではない。著名な神楽と現在祭られている皇祖のヒコホホデミの前に見失われてはならないのがタカイソヒメの存在である。
※この神社の祭神が皇祖であるホホデミに取って代わられたのは「高祖」が「コウソ」とも呼ばれることから「皇祖」と転用されたのが真因だと思われる。