鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

初詣

2019-01-04 09:15:40 | おおすみの風景

1月3日は相当に冷え込み、庭から何からすべてに真っ白い霜が降りた。今冬初の本格的な霜だ。

これで今冬4回目の降霜である。去年の12月から今頃にかけての1か月間で12回ほどもあったのに比べれば今年ははるかに少ない。

降霜の日は空が晴れ上がっているので、日中の天気はすこぶる良い。ほぼ快晴だ。

午後から初詣に出かけた。ここ何年かは吾平山上陵に行くことが多いが、その前に吾平山上陵に眠るウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメを祭る「鵜戸神社」(吾平町中心部)を参拝した。

このお宮は元々は吾平山上陵のかたわらに鎮座していたのだが、明治になって皇室の皇孫三代の御陵と言われる神代三山陵(可愛山上陵・高屋山上陵・吾平山上陵)が内務省によって治定されたあと、参拝するのに不便な山中にあるということと、水害に遭いやすいという理由から、現在の吾平町中心部に遷された。

鵜戸神社を詣でると、境内は二三の参拝者のみでがらんとしていた。氏子の代表だろうか境内に古いお札(ふだ)を焚いている人いたので、我が家のもお願いしたところ快く引き受けてくれた。

参拝後は社務所で新しいお札と「かごしま暦」をもとめた。この「かごしま歴」(薩摩暦)は藩政時代から作られ続けてきた由緒ある暦で、作成された場所が「天文館」(明時館)で、今は鹿児島随一の繁華街になっている。

鵜戸神社から南へ約5キロが吾平山上陵だが、その前に山上陵からさらに4キロほどの神野という所にある「大川内神社」を訪れた。ここは山上陵に眠るウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメとの間に生まれた神武天皇の妃吾平津媛(アヒラツヒメ=古事記では阿比良毘売)が祀られている。

二本の川に挟まれた神社のある岡はおそらく古墳で、今はその岡の上に大川内神社が鎮座するという構図である。ここは誰も参拝者がいなかったが、3年ほど前に神野町内会が中心になって新しい社殿が造られていて、暮れから元旦にかけては地元の人たちが整備をし詣でていた形跡が残っていた。

すがすがしい大川内神社とその周りを取り囲む神野地区の山々(中心は吾平富士こと中岳)の風景は日本の原点を醸し出している。

さて吾平山上陵へは今来た道を戻る。

山上陵の入り口までくると、三が日の最後、おまけに上天気というわけで人の出は途切れることがない。隣接する大隅広域公園の駐車場に車を入れ、そこからシャトルバスに乗って山上陵の入り口へ。

この山上陵はウガヤフキアエズとタマヨリヒメの御廟であるから「参拝」は使えない。「詣で」は問題ないだろうが、多くの人が洞窟陵の見える賽銭箱の前で、手を叩いていたのは無用である。手を合わせて深く一礼するだけでよい。

神代三山上陵(じんだいさんさんりょう)は正確には「かみよのみつのやまのうえのみささぎ」だが、」ここで不可解なのが吾平山上陵である。吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)は「洞窟陵」なのになぜ「山上陵」なのか?

江戸時代の文献『三国名勝図会』の吾平山上陵についての個所を見ると、確かに洞窟の中に二つのこんもりしたお墓らしきものが見えて木造の祠が設置されており、御陵であることは間違いないのだが、それならなぜ「洞窟陵」としないのだろうか。

明治の初めまで吾平山上陵のかたわらにあった鵜戸(うど)神社の「鵜戸」とは「洞窟・洞穴」のことであるから、山上陵とせずに「鵜戸(洞窟)陵」、総称して「吾平鵜戸陵」でよかったのではないか、と思われる。

薩摩川内市の可愛(えの)山上陵(ニニギノミコト陵)にしても溝辺町の高屋山上陵(ホホデミノミコト陵)にしても文字通り山(岡)の上にあるので名称通りだが、吾平山上陵は形態が違いすぎる。

延喜式には「三山上陵」と一括して「山上陵」なのは、吾平のこの洞窟陵を実地に確かめたわけではないので仕方がないにしても、やはり通常の古墳(高塚)になぞらえようとして、天孫には巨大な円墳が似つかわしいとして、「山上陵」を無理やり当てはめたのだろうか。

だが、ふと思ったのは、天照大神がこもったとされる「天の岩戸」だ。これこそまさに「洞窟」ではないか。貴人が死ぬと「お隠れになった」と言うが、この「隠れる」場所としては洞窟・洞穴が想起される。

天照大神はスサノヲノミコトの乱暴狼藉によって、天の岩戸に隠れてしまったので世界が真っ暗闇になった。これは天照大神の一種の死(太陽の死)で、これをアメノウズメやフトダマノミコトやタヂカラノオなどの活躍で再び岩戸から蘇らせるのであった。

一説によると、岩戸籠りをする前のアマテラスは「オオヒルメムチ」(太陽神)であったが、岩戸から蘇ったあとは「アマテラスオオミカミ」(高天原の最高神)になったという。

吾平山上陵の「洞窟」も、もしかしたらこの「天の岩戸」なのかもしれない。ウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメとが隠れざるを得なかった何か重大な事件・災害(スサノオの乱暴狼藉)があって、それから逃れるために洞窟に隠れた(籠った)のではないか。

とすると、「岩戸隠れ」から「岩戸明け」へという何らかの儀式(祭り)がかってはここで行われていたのかもしれない――そう思うと、ここ吾平が天照岩戸隠れ神話の発祥の地であった可能性も考えられではないか。吾平山上陵吾平山上陵

鳥居の奥が洞窟になっており、そこにウガヤフキアエズノミコトと妃のタマヨリヒメの御廟がある