鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

新春の京都三社と伊勢三宮(2)

2019-01-18 13:51:50 | 旅行

(1)で詣でた三社のうち、下鴨神社(加茂御祖神社)について、当地の古地名である山城国を冠した『山城国風土記』(逸文)を取り上げて南九州とのかかわりを述べておきたい。ここは南九州の古代を考えるうえで非常に重要な所である。

この風土記には、「可茂社」(かもしゃ)という項立てがあり、それには以下のように書かれている(解釈文)。

〈可茂社(かものやしろ)、可茂と称えるいわれは、日向の曽の峰に天下った神、すなわちカモタケツヌミノミコトが、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の御前に立って、大和国の葛城山の峰に宿り、しばらくしてそこから移って山城国の岡田の賀茂に行き、さらに山代川(木津川)を下って鴨川と桂川の合流地点から北上し、久我国の北の山基に鎮まった。その時からここを可茂と言うのである。〉

カモタケツヌミが曽(南九州)の峰に天下り、その後、神武の東征に先立って大和葛城山に移り、さらに岡田の賀茂(木津川の中流)に移動し、最終的に京都の現在地を含む「久我の国」に到達したという一種の「民族移動」を描いている。

細かく見ていくと「日向の曽の峰への天下り」「神武東征に先立つ大和への移動」など、記紀には無い描写がある。これをどう解釈すべきだろうか?

まず、日向の曽の峰への天下りであるが、これは天孫降臨神話のニニギノミコトの日向高千穂への降臨と重なる書き方だが、降臨したのがカモタケツヌミだったというのである。

(1)でも述べたように、カモタケツヌミは本来カモタケツミミであり、ミミとは南九州(古日向)の異称「投馬国」の王であったから、カモタケツヌミが南九州の曽の国へやって来たこととは符合している。

またカモ(鴨)は鴨族であり、水運を行う航海系種族であるから、九州島から船出して畿内に到る事は可能であったことと符合し、またタケは「武・建」で、国生み神話で南九州の熊曽国を又の名「建日別」としていることとも符合している。

以上からカモタケツヌミが南九州(古日向)に勢力を張っていた人物であったことは認めてよい。

次に、その人物がのちの「神武東征」に先立って南九州を離れて大和国葛城地方に入っていた、という点だが、京都産業大学の学長を務めた古代史の所功教授などはこの部分について「確証はなく受け入れがたい」旨を述べている。

葛城地方には「鴨都波八重事代主神社」(祭神コトシロヌシ)や「高鴨神社」(祭神アジスキタカヒコネ)など出雲系の神々の大社があり、所教授はここからの移動については認めていて、結局、下鴨神社に祭られているカモタケツヌミ(御祖)は出雲(葛城)系だろうとしている。

しかし出雲系の神々であればなにも「鴨」を冠する必要はなく、平安時代に入ってから地名に二字の佳字(漢字)を付ける際に、上賀茂神社は鴨をやめて「賀茂」という佳字に変えているのに、なぜ下鴨神社はそうせずに「鴨」のままだったのかの説明がつかない。

おまけに下鴨神社の脇を流れ京都の中心部を潤す京都のふるさとの川と言える鴨川も「鴨」のままである。京でありながら、より雅な「賀茂川」としなかったのはなぜなのか?

ここに鮮明な「鴨」こだわりがある。その理由はカモタケツヌミは「鴨族」の王であり、しかも南九州の鴨族の王であったという歴史を忘れてはならぬということだろう。

山城国風土記の逸文はそのことをちゃんと書いていてくれた。