鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「鴨着く島」の冬始め

2022-11-27 21:13:50 | おおすみの風景
10月の下旬くらいから大隅の多くの河川では大陸から飛来する鴨が蝟集し始める。

飛来し始めてちょうど一月、大隅最大の流域を持つ肝属川の河口では、数えきれないほどの鴨が見られる。


肝属川の河口に架かる「波見第二大橋」のすぐ下には、数百羽の鴨が羽を休めていた。

鴨は日本には秋の終わり頃にやって来て、翌年の2月から3月にかけて大陸(シベリア)方面に帰って行く渡り鳥だ。

日本には避寒のために来るのだが、豊富なエサを食べてから大陸までの数千キロをほぼ途中陸地に降りることなく飛んで行くというから、そのエネルギーたるや半端ない。

向こうの夏に、子産み子育てを済ませ、いわば一家総出で渡って来る。鴨に限らず、ツルやハクチョウなども同じような生態で渡って来る。

同じ渡り鳥でもツルは飛ぶことと歩くことはできるが、泳ぐことはできないのだが、鴨にしろ白鳥にしろ泳ぐことは得意である。南からの渡り鳥であるツバメやサシバも泳ぐことはできない。

ハクチョウは別にして、鴨は西日本各地の河川の汽水域にやって来て群れを成す。その水に浮かぶ姿は「ゴンドラ」という舳先と艫(とも)が大きく上に湾曲した船にそっくりである。

ゴンドラは地中海の日用の船だが、古代の日本でも鴨を船に喩えている。

奈良時代、山上憶良(660年~733年)が筑前守として今日の福岡県に赴任した際に詠んだのが「鴨とふ船」(鴨と名付けられた船)を歌に詠み込んだ2首である。これによって当時、鴨を船になぞらえていたことが分かる。その2首とは次の通り。

【沖つ鳥 鴨とふ船の 還り来ば 也良の崎守 早く告げこそ】(万葉集第16巻・3866番)

【沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻(た)みて漕ぎ来と 聞こえ来ぬかも】(同上・3867番)

舳先と艫が湾曲した船は荒波を乗り越えるのに適しており、その姿が水に浮かぶ鴨、遠く大陸(韓半島)からやって来る鴨を連想させるので「鴨とふ船」と呼ばれたのだろう。

上の2首は、筑前守・山上憶良が懇意にしていた舟人が対馬に渡った切り帰って来なかった(遭難した)のを家族が悲しんでいた姿を見かね、代わりに詠んだという。人情家の憶良らしい行為である。

この鴨がとりわけ多いのが、肝属川の河口の汽水域である。この汽水域は弥生時代に志布志から大崎・東串良に掛けて生まれた「砂嘴(さし)」(救仁=クニの松原)によって海から遮られ、広大な河口湖(ラグーン)を形成していた。

肝属ラグーン(河口湖)は格好の船溜まりであり、かつ冬の間、数えきれない鴨の避寒地であった。

この状況を歌にしたのが、ヒコホホデミ(山幸彦)とトヨタマヒメの相聞歌、

【赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり】(トヨタマヒメ)

【沖つ嶋 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに】(ヒコホホデミ)

で、この二人の逢引の地は大隅半島のこのラグーン地帯であったと思われる。

今日の午後、久しぶりに肝属ラグーンが一望できる肝付町波見の権現山(320m)に登ってみた。


正面奥の高隈山を源流とする肝属川が左手から右下へと流れているが、この川の右手の平野部は弥生時代以降江戸時代が始まるまで広大なラグーン(汽水域)であった。


その汽水域を生んだのが、この写真の左下から右上に伸びるグリーンベルト(松原)の砂嘴で、海からの荒波を遮っていた。

肝属ラグーンは弥生時代から近世に至るまで、最上の船溜まりであり、同時に鴨が渡って来て居着く「鴨着く島」であった。

(※そしてこのラグーンという最上の港を守っていたのが、いわゆる「神武東征」には付いて行かなかったタギシミミの弟キスミミであったろう。キスミミ(岐須美美)とは「港(岐)の(須)王(美美)」の意味で、のちの肝付氏(肝衝難波=きもつきのなにわ)にもつながる南九州「投馬国」の首長であった。)

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